FAZER LOGIN毎週火曜日、同じ質問が繰り返される。 「先生、窓を開けていいですか?」 小学校教師の橋本陽菜は、完璧すぎる日常に違和感を覚え始める。デジャヴ、記憶の空白、誰も近づかない工業地帯――積み重なる謎の先に待っていたのは、驚くべき真実だった……。
Ver maisモニターに表示された情報を、陽菜は震える目で読む。「緑ヶ丘プロジェクト 正式名称:分散型意識演算システム開発計画 目的:脳死患者の残存意識を利用した新世代量子コンピューティング基盤の構築 被験者数:128名 成功率:73% 副産物:被験者の主観的幸福度向上」 陽菜は息ができなくなる。 分散型意識演算システム? 量子コンピューティング?「これは……どういう意味?」 モニターの女性は、表情を変えずに答える。「あなたが今まで信じていた『意識再生プログラム』は、本当の目的を隠すための名目でした」「本当の目的?」「人間の脳は、驚くべき演算装置です。特に、意識の量子的性質は、従来のコンピューターでは再現不可能な並列処理能力を持っています」 女性は続ける。「私たちは、脳死状態にある患者の残存する神経ネットワークを利用し、それを分散型の演算装置として機能させる技術を開発しました」 陽菜は理解し始める。恐ろしい真実を。「つまり、私は……コンピューターとして使われている?」「正確には、あなたの意識は計算処理の一部として機能しています。あなたが『幸福な日常』を経験している間、あなたの脳は膨大な量子計算を実行しているのです」「そんな……」 陽菜は壁に手をつく。立っていられない。「田中君の『窓を開けていいですか』という質問は、実は演算熱を制御するためのプロセスでした。あなたの答えによって、システムの冷却サイクルが調整されます」「記憶クリニックの『調整』は?」「演算効率を最適化するためのメモリ管理です。不要な疑問や矛盾を取り除き、あなたの意識を安定した状態に保つ。それによって、計算精度が向上します」 陽菜は吐き気を覚える。「私の人生は……私の幸福は……すべて、あなたたちの実験のため?」「実験ではあり
その日の放課後、陽菜は予約なしで記憶クリニックを訪れた。 受付のスタッフは、いつもの笑顔で対応する。「橋本様、今日は予約外ですが、何かございましたか?」「はい、少し相談したいことがあって」「かしこまりました。少々お待ちください」 待合室で待つ間、陽菜は周囲を観察する。 他の患者たちは、皆リラックスした様子だ。雑誌を読んだり、スマートフォンを見たり。誰も不安そうな表情をしていない。 それが逆に不自然だった。病院やクリニックには、通常ある種の緊張感がある。しかし、ここにはそれがない。まるで、スパに来ているかのような雰囲気だ。「橋本様、お待たせしました。こちらへどうぞ」 陽菜は個室に案内される。今日の担当医は、いつもの医師ではなかった。若い女性の医師だ。「初めまして。今日は緊急のご相談ということですが」「はい、最近少し……記憶に違和感があって」「違和感、ですか?」 女性医師は興味深そうに陽菜を見る。「具体的には?」「デジャヴが頻繁に起きるんです。同じ出来事が繰り返されているような感覚」 女性医師はタブレットに何かを入力する。「それは興味深いですね。他には?」「それと、自分の記憶が曖昧になることがあります。昨夜何をしていたか、はっきり思い出せないこともあります」 女性医師は頷く。「ストレスによる一時的な症状かもしれません。少し詳しく調べてみましょう」 陽菜はリクライニングチェアに座る。女性医師がセンサーを額につける。「リラックスしてください。今から脳波を測定します」 陽菜は目を閉じる。しかし、リラックスはできない。心臓が速く打っている。 機械の音が聞こえる。ビープ音が規則的に鳴っている。 そして、女性医師の声。「橋本さん、あなたは今どこにいますか?」「記憶クリニックです」「今日は何曜日ですか?」
その夜、陽菜は眠れなかった。 ベッドに横になっても、意識は冴えている。工業地帯での出来事が、繰り返し頭の中で再生される。 あの頭痛。あの声。 ――警告。境界線を越えないでください。 それは確かに聞こえた。幻聴ではない。陽菜はそう確信していた。 彼女はベッドから起き上がり、パソコンを開く。緑ヶ丘町について調べてみる。 検索結果には、町の公式サイトや観光案内が表示される。どれも、町の良い面だけを紹介している。AI統合管理システムの成功例、住民満足度の高さ、犯罪率の低さ。 しかし、工業地帯についての情報はほとんどない。 唯一見つかったのは、古い新聞記事だった。二十年前の記事。「緑ヶ丘町南部工業地帯、再開発計画を発表」 記事によれば、当時の工業地帯は老朽化した工場が立ち並び、再開発が検討されていたという。しかし、その後の記事が見つからない。計画がどうなったのか、情報がない。 陽菜は別の角度から調べる。記憶クリニックについて。「緑ヶ丘メモリーケアセンター」を検索すると、クリニックの公式サイトが表示される。 サービス内容、料金、予約方法。すべて明確に記載されている。しかし、具体的な治療方法については、あいまいな記述しかない。「最新の神経科学技術を用いた、記憶の最適化とストレス軽減」 記憶の最適化? その言葉が引っかかる。最適化とは、具体的に何をするのか? 陽菜はクリニックで受けた「調整」を思い出す。センサーを額につけられ、簡単な質問に答えるだけ。それで何が行われているのか? 彼女は不安を感じる。もしかして、自分の記憶が―― その思考を遮るように、激しい眠気が襲ってきた。 不自然なほど、急激な眠気。 陽菜は抵抗しようとするが、意識はすぐに闇に沈んでいく。 翌朝、陽菜は目を覚ました。 しかし、昨夜の記憶が曖昧だった。 パソコンで何かを調べていたような気がする。しかし、何を調べていたの
水曜日の朝、陽菜は同じ時刻に目を覚ました。 しかし、何かが違う。 窓から差し込む光の角度が、わずかに異なるような気がする。いや、気のせいかもしれない。陽菜は起き上がり、いつものようにカーテンを開ける。 空は曇っていた。 それは珍しいことだった。緑ヶ丘町の天気は、驚くほど安定している。晴れの日が多く、雨が降るのは月に数日程度だ。曇りの日は、さらに少ない。 陽菜は窓の外を見つめる。灰色の空。雲の層は厚く、太陽の光は完全に遮られている。「今日は雨が降るのかしら」 彼女は独り言を言う。 準備を済ませ、家を出る。外の空気は少しひんやりしている。歩き始めると、いつもと違う感覚があった。 道行く人々の表情が、わずかに硬い。 いつもなら挨拶を交わす人々が、今日は視線を合わせない。花屋の田村さんも、今日は店の外にいない。店は開いているが、中で何かをしているようだ。 陽菜は少し不安を感じる。しかし、それは些細なことだ。天気が悪い日は、誰でも気分が沈むものだ。 学校に着くと、生徒たちは普段通り元気だった。それを見て、陽菜は少し安心する。子どもたちは天気に左右されない。 授業は順調に進む。しかし、三時間目の休み時間、またあの瞬間が訪れた。 田中健太が窓に近づいてくる。「先生、窓開けていいですか?」 陽菜は動きを止める。 この質問。この光景。 昨日も同じことがあった。いや、昨日だけではない。もっと前にも。何度も。 デジャヴではない。これは確実に繰り返されている。「田中君」 陽菜は田中君を見つめる。「あなた、いつも同じ質問をするわね」 田中君は不思議そうな顔をする。「え? そうですか?」「ええ。いつも三時間目の休み時間に、窓を開けていいか聞くでしょう?」 田中君は首を傾げる。「そうでしたっけ? 覚えてないです」 他の生徒たちも、陽菜の言葉に反応していない。まるで、何も異常を感じていないように。 陽菜は混乱する。自分の記憶が間違っているのか? それとも、他の人々が気づいていないだけなのか?「先生、開けていいですか?」 田中君がもう一度聞く。 陽菜は頷く。「ええ、どうぞ」 窓が開く。空気が流れ込む。 しかし、今日の空気は冷たく、少し湿っている。昨日の爽やかさとは違う。 陽菜は窓の外を見る。校庭の向こうに、町の風景が広がって