「絢斗、どういう顔するかなぁ。転勤になってからいきなり突撃なんてしたことないしなぁ……。パーマもかけたって言ってたけど、おばちゃんみたいになったって言ってたし、一体どんなことになってるやら……」
しかし、こんなに早く帰ってきてるなら、電話ぐらいくれてもいいじゃんと私は思った。 ピンポンも押さずにいきなり驚かしてやれ! 私は405号室の絢斗の家の鍵穴に合鍵を刺して、静かに回した。 そーっと、ドアを開けて中の様子を覗くと、確かにテレビの音がした。 私は忍び足でリビングに向かったが、テレビがつけっぱなしで絢斗の姿はなかった。 あ、あれ? トイレかな? 深くは考えてなかった。 その時、絢斗が寝室にしている部屋から嬌声が微かに聞こえた。 え? なに、いまの……。 途端に心臓が早くなり、息をうまく吸えなくなってきた。 そんなわけない、そんなわけないじゃん。そんなわけ……。 私は震える手でドアノブを回して、中を恐る恐る覗いた。 そこには明るい部屋の中で知らない女のひとと、裸で絡み合う絢斗の姿があった。 「……ど、どういうこと?」 かすれて声にならない声で私は言った。 二人が弾かれたように、私に視線を向けた。二人とも完全に固まっている。 しばらくして女が口を開いた。 「……あなた、だぁれ? 絢斗くん、このひと、なに? うまくいってないって話してた彼女さん?」 巻き髪で細くて、いかにも男受けしそうな女がそこにはいた。あざと可愛い話し方が癪《しゃく》に障《さわ》る。 「雪音《ゆきね》、お、おお前、なんで来たんだよ……」 絢斗は自分の頭をグシャと掴み、顔をしかめていた。 「……もう、いいや。明日話すつもりだったんだけど、俺、お前と別れてこいつと結婚するから」 そう言った絢斗の首筋にはキスマークがいくつも付いていた。 ああ……。絢斗は明日このキスマークを見せつけながら、私と別れ話をするつもりだったんだな。 最低な別れだ。 高校時代から交際は絢斗で四人目だが、これほど酷い別れはないだろうな、と涙を流した。 息苦しくなった。過呼吸だ。 鈴山雪音《すずやまゆきね》、二十一歳。最低な夜の始まりです。 「日菜《ひな》、悪いけど、近くのファミレス行っといて。あ、危ないから絶対、車で行けよ」 絢斗が優しく日菜と呼んだ巻き髪の女性は「え~。もぉ~、面倒くさ~い」と言いながらも、花柄のワンピースに着替えて出て行った。 この近くのファミレスって五百メートルもないよね……。以前、待ち合わせた時、私には深夜歩かせたじゃん。 「……そういうことだから」 絢斗が渇いた目で私を見てきた。 「そういうことって? ど、どういうこと」 私は軽い過呼吸を起こしていた。 「だってお前、重いじゃん? お前のその結婚願望も。お前の家族も。いつになったらまともに働くんだよ、お前の親父」 驚くほど、冷たい声に私の心が凍っていく—— そう、私は自分の家族からも逃げたかった。 母が正社員で働き、家では焼酎や、アルコールを朝から浴びるように飲んでいた父。 大工だったが、人間関係で揉め、会社を退職。筋金入りの職人の父は腕は確かだが、協調性がない。 おまけに弟はまだ高校生だ。弟も深夜までアルバイトをしている。 私の交際が続かないのは、いつもこれ。みんな重いという。きっと私の逃げたい思いと、重いが相手に伝わってしまう。 幸せになりたい。ただそれだけなのに。 「極めつけはあれな。お前、毎朝、電話で俺を起こすはずだったじゃん。あれぐらいなんでできないの? 俺、何回か遅刻したじゃん?」 「そ、それは私も働いてるし、夜勤もあったりで無理だったっていうか……」 社会人なんだから自分で起きて欲しい、ってずっと思ってた。私はお母さんじゃないって。 「なんだよ、それ。お前たいした仕事してないじゃん。俺はね、この県の道路を作ったり、業者に発注したり、お前とはやってるスケールが違うわけ」 出た。絢斗の職業自慢。 いつもそう。公務員な俺はすごい。 「俺は公務員だからな、業者のおじさんたちが仕事もらおうと、こんな若造の俺にペコペコしてくんだぜ?」 これが最近聞いた中で、一番ドン引きした会話内容だった。 これを聞いていた友達が「さすがにそれはやばいって」と止めていたが、とにかく公務員であること、いや、公務員しか自分の見せ場がないのだ。 現に絢斗のSNSは全部『〇〇県庁職員』が入っていた。 リビングで突っ立ったまま、私たちは会話していた。 いくつか写真が飾られているが、私は納得した。会えないって言った週、あれは別な女の子が来てたんだ。日菜ではない。 絢斗を好きだって言ってた女の子の写真が飾られていた。背景が絢斗の部屋だった。 絢斗と一緒にイベントに参加した時に、ジッと私を観察していた子だ。あんなに不躾に遠慮のない視線を向けられて、覚えていないわけがない。 どうなってんの? 次から次に。女の子にそこまでしてモテたいか……。引き止めていたいか……。 「それにお前、俺と結婚するって言ってたけど、くだらない矯正下着、友達と買ってたじゃん? あれいくらすんの?」 「さ、三十万……」 「三十万⁉︎ お前、ふざけんなよ。たいした体でもないくせに、友達と浮かれて高額な買い物してんじゃねえぞ」 ただ綺麗になりたかった。 自分のコンプレックス、太ももの張り。 でもなんで、そこまで言われなきゃいけないの? 自分のお金で買っただけじゃん。自分へのご褒美も許されないの? 「……もういい。帰る。別れたいなら、こんなことしなくてもいいじゃん」 私の目から、大粒の涙が出た。 転勤するまではあんなに、あんなに優しかったのに……。 でも言いたいことも言えない自分に腹が立つ……。 私は弱虫だ。 「なんだよ、それ。いつもだな。相手の顔色うかがって、おどおどして。イライラする! 俺を殴れよ、最後に!」 絢斗、頭、おかしいよ。 なんでそんなに怒ってるの? 別れるなら、それでもういいよ。 「殴れって!!」 絢斗がにらみつけてきた。 もぉ、なんなのよ!! なによ、最低男!! 私は絢斗の左頬を思い切り殴った。 パァン——!! 手が、心が痛いよ……。 「こ、こんな別れ方、最低だよ」 「お前が悪いんだろ。俺を邪険に扱って……」 「さよなら……」 私は涙でグチャグチャの顔で絢斗の部屋を後にした。『え~、そんなことがあったの⁉︎ 大変だったね、雪音さん』 「そうなんですよ〜。今、やっと落ち着いたところです」 係長から少し前に着信が入っていたので、私は今、病院の外で係長と電話で話をしている。 龍太郎はというと、産婦人科の先生と話をしている。日菜の赤ちゃんの状態を聞いているのだろう。 絢斗は今、日菜の病室にいるはずだ。お腹の赤ちゃんの無事と、彼らがうまくいくことを願っている。 私は係長に絢斗に襲われた経緯はぼかして、『元彼が家に来て困ったから、龍太郎の家に行った』とだけ話した。 係長は電話先での私の様子がおかしいから、気になっていたらしい。 そりゃあ、そうだろうね、おかしいだろうね……。 係長との電話の時、龍太郎にあれだけ色々な場所にキスされて、変な気分になって話していたのだから。 ……だめだ。思い出すと、身体が変に熱くなるから、考えるのをやめよ……。 『でも、僕だったら元カノの家にまで行こうとは思わないね。すごい執念だね』 「はぁ……」 なんて答えたらいいか、わからない。絢斗が結局なにをしたかったのか理解不能だ。 『でもそれだけ、君がいい女だってことか』 係長の納得したような声が電話越しに伝わる。 い、いい女……?? か、係長~!! 係長だけですよ~! そんな言い方してくれるのは~!!! でも……、自分の気持ちに嘘はつけないから、私は係長に告げた。 「係長、私……、あ、あの龍太郎が好きなんです。なので係長の気持ちはありがたいんですが、ごめんなさい」 言えた……。 たとえ、付き合うことは無理でも、今は自分の気持ちに素直でいたい……。 『それはわかってたよ、雪音さん。……だけどせめて、僕に好きなひとができるまで、君を好きでいていいかな……?』 え? そんなこと言われて、ダメですとは言えないよ……。 『それに僕は僕なりに、君を守りたい。剣堂さんとはお付き合いはしていないんだよね?』 「あ、はい。付き合ってはいませんが、相変わらず、変な関係です……」 龍太郎本人は婚約者だと言い張っている。 龍太郎のことは好きだよ。 でも私は彼の隣に立てるような、釣り合うような女性じゃないんだよ……。 龍太郎は自分がいかにすごいか、次元が違うか、まるでわかっていない……。それが苦しい。
龍太郎に視線を注いだまま、絢斗が唇を噛んだ。 「そうか、そうだよな。だからおまえといた思い出は、こんなに後になってからも、ずっと心に残っているのか……。なるほどなぁ、悔しいな……。雪音、おまえはおれのこと、少しでも好きでいてくれたか?」 絢斗の目のふちは赤い。 「……好きだったよ。でなきゃ、こんなに長く一緒にはいなかったよ……」 「そうだよな。身体の相性も良かったもんな。……おれとのこと、忘れないでくれよ」 絢斗がふっと片方の口角をあげて笑う、龍太郎への当てつけらしい。 「やめてよ! こんなところでバッカじゃないの!!」 「ふ、歪んだ愛だな。見苦しいぞ、絢斗!! おれは雪音を何度も昇天させているからな、貴様はおれには勝てん!!」 おぉぉい!!! なに言い出したんだ、龍太郎は。 昇天させられたことなんかないよっ!! てか、そういうこと、してないじゃん、まだ。 あ、まだって言っちゃった!! とにかくこの話題、もうやめてよ……。 「雪音、顔が赤いぞ……。そうか、おまえ、このひとと、やっぱりもうそういう関係なんだな。そりゃそうだよな、泊まってる時点で、そうか……」 絢斗の視線が|彷徨《さまよ》う。 ち、違う。……がここはもう|敢《あ》えて否定しない。する必要もない。 「さぁ、雪音、行こうか?」 龍太郎の背景にピンクの薔薇が咲き誇る。 「……雪音を幸せにしてやってください」 絢斗が龍太郎を正視しながら、大きな声で叫んだ。 「ふん、おまえに言われるまでもない。雪音はおれが一生涯かけて幸せにするから安心しろ。おまえはきちんと結婚して子育てをしろ。いいか? 子供にだけは悲しい思いをさせるなよ!」 最後の言葉は母子家庭だった龍太郎の思いが、詰まっていたように感じた。 突然、周りから拍手喝采された。気がつくと噴水の周りにたくさんのひとが集まっていた。 「なんだ。ドラマの撮影じゃなかったのか。すごいな、俳優かと思ったぞ」 「兄ちゃん達、幸せになれよ」 「あんた、父親になるのかい? 若いけど、きっとやっていけるさ」 「フラれたお兄ちゃんも頑張れよ~」 あちこちから声援が聞こえる。 二人の声が大きいので、ひとが集まったのと、龍太郎が目立ち過ぎだ。 ぎゃあ!! いつからこんなにひとが……!! 恥ずかし
「……雪音……」 絢斗は悲痛な面持ちだった。 「……いいお父さんになってね」 これだけのことが言えるようになったのは、きっと恋のチカラだ。 どこからか湧き上がってくる、強い感情、強さ。これがきっと本当の恋だ。 「絢斗とやら、もういいか?」 龍太郎が時計を見ながら、口にした。 時刻は午後三時だった。 絢斗はなにも言わない。うつむいて拳を握り締めている。 「どれだけそうしてようが、おまえになんかやらない。コイツはおれのもんだからな」 龍太郎が私の肩を、いきなり抱き寄せた。 絢斗が顔をあげて、龍太郎と私を見つめる。そして露骨に顔をしかめた。 「こんな面白いヤツ、逃したおまえが悪い」 龍太郎が絢斗に喧嘩を売り出した。 「ちょ、ちょっと……」 私は小声で龍太郎に抗議する。絢斗を興奮させて大丈夫か? 「フハハハハ。コイツを幸せにするのは、おれなんだよ! 残念だったなぁ? こんな面白い女を逃して……」 龍太郎は絢斗を|煽《あお》っている。なにか目的があるのか? 「……そうッスよね。そんな面白い女を手放した、おれが悪いんスよ」 絢斗がしんみりした声で返した。 え? このひと達、さっきから私を『面白い女』としか言ってないんだけど……? 普通、こんな可愛い女性とか、こんないい女とか、そういう言い方しない? まぁきっとどちらにも、自分は該当しないんだろうけど……。 うっ、言ってて悲しい。 「だが、おまえは父親にはなれたんだ。それは感謝しろよ。一度はコイツと別れて、別な女を愛したんだ。その結果だ。きちんと良い父親になれ」 龍太郎が絢斗を諭す。 「……おれが父親? ……ふふ。なれますかね? 実は結婚もまだ自信がなくて、戸惑ったまんま進んじゃったんスよね……。まぁ、半分は思い通りにならない雪音への当てつけっスよ。はは」 絢斗が乾ききった笑いを浮かべた。 はぁ? なにそれ? 結婚ってそういう気持ちでするものなの?? 「ふ、ははは。思い通りにならない?」 龍太郎が突然、笑い出した。 「だからこそ、いいんだろうが。雪音が簡単にいいなりになる女なら、おれはこんなに好きにはならない。つまらない。コイツは自分がないようで、きちんと自分を持っている。今までそれをただ出してこなかっただけ、それだけだ」
「知らねーよ。見てねぇもん」 絢斗の口から、信じられない言葉が飛び出した。 「け、結婚するんじゃないの? 日菜さんと」 「結婚? ああ、それな、どうしようかなぁ。最近、あいつといてもつまんねーんだよ。なんつーか、損得勘定のかたまりみたいな女でよ。幻滅したわ」 ……なにそれ……? なに言ってるの? 「……日菜さん、妊娠してるよ?」 自分のことじゃないのに、なぜか胸が痛い。 日菜は今も、お腹の赤ちゃんのことでいっぱいいっぱいだろう。 それに日菜は図々しいが、そこまで憎めない相手だったようにも思う。 「……な⁉︎ に、にに妊娠? う、嘘だろ?」 「嘘じゃないよ。さっきいた総合病院に切迫流産で緊急入院してる。絢斗、お父さんになるんだよ? 早く行ってあげて」 「……なんでだよ。おれは、おれは雪音、おまえのことが忘れられずに、こうして会いにきたのに……。なんでだよ!!! なんでこんな現実なんだよぉ!!」 「自分の行動にはきちんと責任を持て。それが大人だ」 落ち着いた口調で話したのは龍太郎だった。 「な、なんで、おれはおまえの存在のありがたさにようやく気づいたのに、こんなことってあるのかよ!!!!」 絢斗が力なく、その場にしゃがみこんだ。 意味がわからない。絢斗と別れた時、絶望したのは私だよ……。 ボロボロになって、ようやく立ち直って……、どこまでふざけてるの? 「なんか主導権が絢斗にあるみたいな言い方だね……。私はあなたとやりおなす気なんて、さらさらなかったよ?」 ずっと思ってた。 平等に付き合い出したはずなのに、いつからか相手の都合に合わせて、それで上下関係ができて、その中で生きるようになっていたって……。 それはただの依存に過ぎない。捨てられるのが怖くて、自分に自信がなくて、言いたいことも言えないような、弱虫な自分……。 でも少しずつでいいから、きちんと自分の人生を生きていきたい、自分の足で……!! 「なんかおまえ、短期間で変わり過ぎじゃねぇ? その男のせいか?」 絢斗が龍太郎を見た。龍太郎のメガネが光っていて、その表情は読めない。 「……そうかもしれない」 私は淡々と答えた。龍太郎のことは好きだ。 絢斗なんかどうでもよくなるぐらい、彼が好きだ。 だから、私は変わりたい……!!
「で? おまえはなにが望みだ? こんなことをしてなんになる?」 龍太郎が苛立ちを隠さずに訊ねた。 「……おれはずっと、思いどおりにならない雪音にイライラしていました。雪音は遠距離になってから、ますます笑わなくなって、全然可愛くなくて、おれの言ったことを守らないし」 「おれの言ったことってなんだ?」 私を差し置いて、二人で話をしている。 「たとえば、一人暮らしになって、朝起きる自信がないから、毎朝起こしてほしいって頼んだら、それすらも毎朝できないっていうんですよ? 普通、彼氏が頼んだら、それぐらいしてくれてもいいじゃないですか? 彼女なんだから。その点、日菜はおれのいうことをぜ~んぶ聞く女でした」 「|莫迦《ばか》が。雪音はおまえの母親じゃないぞ。それにおまえ社会人じゃないのか? 自分のことは自分でしろよ。雪音も夜勤があったりで大変だったはずだ」 龍太郎が心底呆れた声を出し、続けて口にした。 「おまえは、自分のことばっかりだな……」 龍太郎の声は底冷えがした。 「だっておれ、まだ二十二歳っスよ。おれはあんたみたいな大人とは違う。彼女に甘えて、なにが悪いんですか?」 開き直った絢斗が下唇を噛んだ。 「……絢斗は変わらないね。私も付き合い出した頃はそれでよかったよ。でも二十歳を過ぎたあたりから、これでいいのか、ずっと疑問だった」 私はずっと胸の中に溜め込んできたものを吐き出す。 「……なんだ、それ。おまえ、ずいぶんと偉そうだな」 絢斗が眉間に|皺《しわ》を寄せた。 「そうやって女性を下に見てるとこも、女性に順位をつけることも、ずっと嫌だった。きちんと私も嫌だって言うべきだった。それは反省してる」 絢斗は明るいが、そうした話題で男性陣とふざけ合って、笑いをとることもあった。 「……おれさ、おまえとやり直してやろうと思って、散々探したけど、今ので、もう冷めたわ」 絢斗が盛大なため息をついた。 やり直してやる? なに? その上から目線……。 「あのさ、日菜さんの今の状態、……知ってる?」 私は絢斗に訊ねた。日菜は入院にしてからも絢斗に一応連絡したと言っていた。
「明日から彼女も仕事なんだ。こういう不安になるようなことはやめろと、忠告したはずだがな」 話を切り出したのは龍太郎だった。 龍太郎はそれだけいうと、ベンチに腰掛けた。そして腕組みをしながら、長い足を組んだ。 私と絢斗は距離を空けて、向き合うように立っている。 「……ごめん。雪音。上の人間に賄賂のことをチクったの、おまえじゃないよな……」 絢斗のか細い声が聞こえた。声が震えている。 「違うよ。どうして私がそんなことしなきゃならないの?」 声にしてみると、案外自分は冷静だということに気がついた。 そばに龍太郎がいるからかもしれない。 「……実はさっき上司から連絡が来て、訊ねたら、不正行為のこと報告してきたのは男性だったっていうんだ。ごめんな。おまえがこんなことするわけがないよな。まっ、よく考えたら、おまえにそんな度胸あるわけないもんな」 絢斗が半笑いをする。どこまでも|癪《しゃく》に触る男だ。 「賄賂ってさ、ビール券とか、お酒のことだよね? まさかお金とかもらっていないよね……?」 私は絢斗に確認する。 「そ、そんなことするかよ! さすがにお金はやべぇだろ! だから今回だけは、上司も見逃してくれたんだよ!」 「……そうなんだ」 どうやら上司も大袈裟にはしたくなかったらしい。上の人間も監督不行き届きを問われるからだろう。 「まぁ、それも立派な賄賂だし、癒着を疑われて、場合によっては|収賄罪《しゅうわいざい》に問われてもおかしくはないがな。おまえは認識が甘いんじゃないか?」 龍太郎が長いまつげを伏せ、険のある言葉を絢斗に投げつけた。 続けて、 「おれはみかんのひとつも受けとらんぞ」 ふっ、と鼻で笑い、絢斗に軽蔑の眼差しを向けた。 「あ、あの、俺、雪音と二人で話しをしたいんです」 絢斗が眉をひそめて、龍太郎を見た。その目は怯えているようにしか見えない。 「ダメだ。おまえはなにをするかわからんし。雪音はもうおれの婚約者なんだからな。二人きりになどさせない」 龍太郎がきっぱりと言い切った。 「は? 婚約者?」 絢斗が心底、驚いた顔をして私の方を見た。絢斗の瞳は三白眼で獣のようだった。 私は目を逸らす。話をするとは言ったが、絢斗の瞳を正視するのは無理だ。 襲われ、怖い思いをしたのだ。