絢斗の部屋を後にした私は、正直、どうやって帰ったのか覚えていない。
深夜の田舎道はあまりにも寂しくて、なんにもなくて、今の私の心情を現しているみたいだな、と思ったのは覚えている。 途中、車の中で泣き叫んだ。獣みたいだった。叫ばずにはいられなかった。 交際三年の中で良い時期もあった、笑ったことも数えきれないほどあった。 でもね、絢斗が私のスマホをチェックするようになってからは、本当はわかってたのかもしれない。 なにもしてないのに、相手のスマホを見る、それは自分がやましいことをしてるから、相手を疑ってしまうのだ、相手もしてるんじゃないかって。 とっくに別れへのカウントダウンが始まっていたって、ほんとは心のどこかで感じていた。気づかないふりをしていたんだ。 絢斗が転勤になって、前みたいになかなか会えなくなって、確かに私は絢斗に冷たい態度で接することも増えた。喧嘩も前より多くなった。 それは素直になれない、会えない淋しさの裏返しでもあったが、不器用な自分が嫌いだった。 それは悪循環を生み出して、留まることを知らなかった。 それでも私は絢斗が必死に買ってくれたお揃いの指輪も、仕事でうまくいかない時、抱きしめてくれたことも。可愛いって褒めてくれたことも、転勤になるまで、毎週会っていたことも、特別だったんだよ。時々、太陽みたいに笑う絢斗が本当は大好きだった。 絢斗には最後まで、素直になれなかったな……。 毒親で貧乏な家庭という、地盤が生まれつきグラグラで不安定な環境で育った私は、恋愛に依存しやすいということは自分でもわかってはいた。 とにかく自分を認めてくれる存在が欲しいのだ。自分の居場所を探して安心したかった。 それにグループで頻繁に遊んでいたのも、悪かった。 うまくいってる時は理想のカップル~と言ってきた女友達も、別れた途端に手のひら返しだった。 「昔から嫌いだったのよ。聞いてもないのに自分の話をするな! 私と絶交してください」 なにこれ……。この人に私はどうやら嫌われていたらしい。自分の話をするなって、どういうこと? この子からは絢斗と付き合えて、羨ましいと散々言われていた。結局、彼女も絢斗を好きだったのかもしれない。 絢斗がその明るさで人を惹きつけるのはわかってはいたが、こうも次から次に……。 女の友情はロースハムより薄いって、誰か言ってたなぁ……。 絢斗が日菜と結婚するって紹介したと、グループの友達から聞いた。 みんなで遊ぶ時、絢斗の隣は私って決まっていたのにな……。自分のポジションを奪われた気がして、また涙があふれた。 ……にしてもいきなり結婚って、二人は前から知り合いだったようで、日菜も同僚らしかった。 完全、私の負けじゃん。てかなにそれ。もうなにも考えたくない—— 「四十七キロ……」 絢斗と別れて一週間で三キロ痩せて、職場ではみんなから痩せたねと言われた。 身長百五十六センチの私は、いわゆる美容体重になった。 仲良しの友達は私の話を聞いてくれたし、また日常は戻りつつあったが、心はとっ散らかってどこか落ち着かなかった。 思い切って、環境を変える必要があるのかもしれなかったが、今の私にはその気力すらなかった。 *** 「ちょっと、鈴山さん? それ箱が違うわよ?」 社員の小山田さんに注意され、私はふと我に返った。なにも考えていなかった。 お菓子の検品をしながら箱に詰める作業をしていたが、製品の箱を間違っている。 そのまま出荷したら大変なことだ。 私は肝を冷やした。 最近飲み過ぎで、朝なかなか起きれないうえに、頭がぼーっとする。毎晩お酒を飲まないと寝れなくなってる。 「鈴山さん、最近変よ? あなた社員だし、最近ここの機械の担当になったんじゃないの? しっかりしなさいよね」 小山田さんから叱られた。自分が悪い。 給料が高いから、この仕事をしてる。別に好きでも嫌いでもないが、できれば少しでも好きな仕事をして生きたいと願うのは欲張りだろうか……。「み、見てたって……、な、なにを?」 私が龍太郎に会うのは、今日が初めてのはず。 いや、間違いなく会ったことなどない。 「おまえを見てた」 「いや、そういうことじゃなくて、仕事も知ってるの?」 「知ってる。おれ、おまえの後をつけたことがある」 ……うわぁぁあ!! 怖っ!! ス、ス、ストーカー? 「あ、あの、け、けけけ、剣堂様はなんで、そのようなことをい、いたしたのですか?」 混乱して、もう日本語がぐちゃぐちゃだ。 「おまえのこと、気になったから。それより剣堂様ってなんだ?」 龍太郎が首をかしげる。 ……こいつ、なんでもないことのように平然と。き、気になったってなに? 後をつけられて、気になってるのは私のほうなんですけど……!! 「おまえの仕事場、あのグリコロ製菓だろ? 山の中にある……」 うぉぉ、こいつ、ガチで知ってる。私のこと!! 「あはは、私、最後にデザート食べようかなぁ……」 私は彼の質問には答えず、現実逃避しようとタッチパネルを手元に引き寄せ、画面に触れる。 こいつとは、これきりだ。二度と関わってはいけない、そういうやばいレベルの男だ。 『デザートを食べ、何事もなく穏便に済まし、無事に帰宅する』 これが今日、最大のミッションだ。疲れ果てた身体に、こんなに色々なことが起こるとは、今日は厄日か? スマホを間違えたために、入れ違いになったために起きたことだ—— ……ぜんぶ、自分が悪い。 いつもなにかしら抜けている自分のせいだ。 「……悪かったな。車で後をつけたりして」 なぜか謝ってきた龍太郎。 「く、く、車で、へ、へぇ……」 あの高級車と、私の軽自動車では最初から勝ち負けは決まっている。逃げることもできないだろう。 「おまえがあまりにも暗い顔して、車に乗ってたから……。いつ見かけても、いつも、つまらなそうだったから、つい気になって……」 …………なにそれ……? 暗い顔? つまらなそうな顔? つい気になって? なに? いったい……、いったいこいつに、なにがわかるの……? 私がこれまでどれだけ一生懸命に働いて生きてきたか、なにがわかるわけ? 女が一人で生きていくのがどれだけ大変か、わからないよね……? 私はタッチパネルに触れる
「お、おまえ、ふざけんなよ~!!」 龍太郎の口調が荒い。 私の案内通りに車を走らせて、とあるお店に着いたのだけど、やっぱりそういう反応になるよね。 「ここなんだよ⁉︎ 回転寿司じゃねぇか! おまえ、せっかくおれがいい店に連れて行ってやろうと思ったのに! チッ!」 龍太郎は舌打ちしたけど、これ以上、お姫様になったら、もう現実世界に戻れなくなっちゃうよ……。 もう、十分だよ……。 「いいじゃないですか。安くて美味い、庶民の味方。剣堂さんもたまには、こういうお店で楽しく食事を楽しみましょうよ」 私は龍太郎をなだめる。 「まったくおまえは《《いつも》》欲がねぇな。もっと、ひとに甘えて生きればいいのに」 龍太郎の言葉に私は戸惑った。 ……え? いつも? 「来たからには、たらふく食うからな。おれは腹が減ってんだ。おまえの奢《おご》りな!!」 龍太郎は私に背中を向けて、お店の方に歩き出したけど、龍太郎の言葉に引っ掛かりを覚えていた。 ——どこかで会ったことあるの? …………まっさか~、こんな目立つヤツと会ってたら、いくら私でも気づくって。 「二名様、ご案内~」 音吐朗々《おんとろうろう》とした店員の声が店内に響き渡った。 龍太郎の後ろをちょこちょこ歩く私は、客と店員の視線を感じずにはいられなかった。 ——みんなが龍太郎を見ている気がする。やっぱり目立つからかなぁ? 龍太郎が歩いて連れてくる、風に乗った香りがふんわりと、私の鼻をくすぐる。 車に乗っている時から気づいていたけど、龍太郎はなんというか、すごくいい匂いがする。 森林みたいな……それでいてとても上品な香りだ。 うまく例えられないけど、大自然に包まれているような安心する香りだ。 龍太郎の後ろ歩くと、その香りに包まれる。 「ふぅ……」 龍太郎が席に座って息を吐いた。 テーブル席に座っても、なおも視線を感じる。私がちらりと見ると女性たちが頬を赤らめて、龍太郎にうっとりとした視線を投げつけて、なにやらヒソヒソと話をしているのが目に入った。 「ずっと、運転してもらってすいません。つ、疲れましたよね?」 龍太郎の形のよい鼻を見ながら、私は口にした。一応、私は私なりに気を使っている。 「別に……」 龍太郎のそっけない返事が耳を通
「あ、あの私は鈴山雪音と言います(もう会うことはないでしょうが)よろしくお願いします(なにを)」 とりあえず、私は挨拶をしておいた。私の顔を見て、小町さんはにこりと微笑んだ。 彼女の背景にオレンジ色の薔薇の花が咲いた。 ……美しい。私はその笑顔に見惚れた。 小町さんはそれなりに年齢を重ねてはいるが、誰もが振り返るほどの美人だ。 「母さん、おれ車を回してきます」 支払いを終えた龍太郎が店から出て行った。 「あ、あの、ぜんぶ、剣堂さんに買っていただいて、ほんとに良かったんでしょうか……?」 龍太郎の母親なら、きっとなにか思ってるはずだ。 なんで龍太郎はこんな娘に、高額な買い物をしたのか? この娘は息子にとって、どんな存在なんだろうって、普通なら思うはず……。 「雪音さん、龍太郎は私に見せたいものがある時にしか、この店に来ないわ。あなたが変身する様《さま》を私に見せたかったんでしょうね。それにあの子があなたに素敵なプレゼントしたい、と思って買い物をしたんなら、それでいいと思うわ。もうあの子も大人よ。ふふ」 余裕のある大人の笑みを浮かべて、小町さんは微笑んだ。 ……へぇ、いいんだ……。雪音さん、名前呼びか、これは完全に勘違いされてるやつだな。 「それに龍太郎、最近、笑わなかったから心配してたのよ。あなたといると、とても楽しそうだった」 小町さんが顎に手をおいて考える仕草をする。 「そ、そうですか?」 ……全然、わからない。あれ、楽しそうに見えたの? 「また来てね。売り上げにも繋がるし……、なぁんてね。ふふ。私はやらなきゃならない仕事があるから、ここで失礼するわね、ごめんなさい」 小町さんはそう言って、店の奥に消えていった。ふんわりと、とろけそうな甘い花の香りだけが残った。 「あのこれ、龍太郎様からです」 瞳がぱっちりと大きく、奇麗なストレートヘアの若い女性店員が紙袋を手渡してきた。女らしいとは彼女のためにある言葉だと思った。 「え? なんですか、これ?」 私は間抜けな声を出した。 「こちらは鈴山様が髪を切っておられた時に、龍太郎様がお選びになった物です」 ……え? あいつ、なにか選んだの? 「い、いや、返しておいてください。返品で」 ……い、いらない! 「で、でも……」
「こ、こ、これが私ですか⁉︎」 私は鏡に映った自分をみて、目を丸くした。 黒のスラリとした長袖のワンピースに、細いベルトが大人っぽい。ヒールは華奢で女らしいデザインだった。 肩下まで伸ばしっぱなしだった髪は先ほど、前下がりのボブに切ってもらった。 ほんのりお化粧もしてもらい、気分はお姫様だった。 「よく、お似合いですよ」 店員さんに褒められると、照れてしまう。 …… こ、これが自分? プロがメイクするとこんなに変わるの? いつもうまく描けない眉も、奇麗なアーチを描いていた。 カサカサの唇も嘘のように潤いを帯びていた。 パールがかった肌も、涙の跡を消してくれている。 「すごい……」 私はもう、それしか言えなかった。 「もうすぐ剣堂様がお戻りだと思うんですけどね。そういえば、着ていたお召し物はいかがなされますか?」 店員さんが私が着ていたトレーナーと、ガウチョパンツを畳んで持ってくれた。 「あ、それ持って帰りま……」 「捨てます」 横から声がした。龍太郎だった。今までどこに行ってたんだろう。 「おかえりなさいませ。剣堂様」「おかえりなさい」 何人かの店員の声が重なった。 「ではこちらは処分してもよろしかったですか?」 店員が龍太郎に尋ねた。 「はい」 龍太郎がなんの迷いもなく即答した。 「ちょ、あれ、私の服ですよ。あなた……ひとの私物を勝手に……」 「ふん、あんな毛玉が付いた服、いらんだろ」 「いやいや要りますって。着やすくて、気に入ってたんですから。あの、すいませんが、袋に入れてください」 私は店員さんに頼むと、店員さんは少し微笑んだ。いやな感じではない笑い方だ。 え? なにか、おかしかった? 「おまえはおしゃれしなさすぎだ。……というか、自分に似合う服をまるで、わかっていない」 龍太郎はふぅ、とため息を吐いた。やれやれといった様子で頭を手で押さえ、かぶりを振っていた。 それから、私をジロジロ見てきた。龍太郎の視線が私にまとわりつく。 「……そのワンピース、悪くないじゃないか。でも童顔なおまえには、少しばかり大人すぎるから……」 龍太郎が店の中をウロウロし始めた。なにやらアクセサリーを探しているようだ。 「よし、これだな」 そう
「あ、あの、なんでスマホ入れ替わったんですかね?」 私は不思議に思っていた。 「おまえが派手に転んだから、おれもびっくりして落としたらしい。本当、おまえ、あれだかんな。おれだったから良かったものの、下手したら、おまえスマホで写真撮られてネットのおもちゃにされてんぞ。気をつけろよ」 「……はい。気をつけます」 確かに今の世の中、なにをされるかわかったもんじゃない。 それにしても、この車、内装もセンスいいなぁ。黒一色じゃなくて、アーモンド? みたいな色とうまく組み合わさってる。 この車の中で不倫してんのかな、ふとそんなことを考えたが、龍太郎の顔立ちを見ると、まぁこんだけいい男なら女に不自由しないだろうな、と思った。 それに不倫してようがしてまいが、私には関係ない。 ……にしても、運転も上手いなぁ……。うちの会社の送迎のおじさんなんて、もう荒いのなんのって。酔うわ、酔うわ。 まぁそれも嫌で、送迎車利用してないんだけどね……。 ……って、んん⁉︎ やばい! 車のバッテリーがあがったまんまなの、すっかり忘れてた! 「あの、用事ってあと何分ぐらいで終わりますか?」 私は車をどうにかしないと、明日も仕事だ。 「……なんだよ。もうすぐ着くよ。忙《せわ》しいやつだなぁ」 龍太郎の苛立つ声が聞こえたけど、周りをふと周りを見ると、まだ桜の上に雪が積もっている。朝はゆっくり見れなかったけど、なんて幻想的なんだろう。 こんな光景を好きなひとと見れたら、どんなに素敵だろう—— 「おい、雪音、着いたぞ」 龍太郎が山の中の駐車場に車を停めた。 「あ、あの、なんで呼び捨て……」 いきなり呼び捨てにされて戸惑った。 「だっておれ、お前の苗字知らねーもん」 あっけらかんとした口調で返された。 「鈴山雪音です。鈴山!」 「あっ、そうなんだ。降りるぞ、雪音」 「え? あれ、結局、呼び捨て?」 あ、あれ、ここって。駅の裏側じゃない? 駅の裏側の山の中にこんな場所があったの、ここって—— 「そう、墓地だ。おれが助けられなかった子のお墓がある場所」 目の前には小さな墓地が広がっていた。 「今日はその子の命日なんだ……」 少し遠い目をして龍太郎は風に言葉を乗せた。 え? このひと、本当に医療
あの医療従事者っぽい口調で話してた銀縁メガネ男は、あれから二時間後、近くのコンビニにまでやってきた。 白い高級国産車でやってきた。私が一番好きなプレミアムブランドだ。 ますます怪しい奴。詐欺師か、なにか、いかがわしい仕事してそう。 「おまえ、帽子にマスクにメガネって誰かわかんなかったぞ。くそダッサ!」 私を見て開口一番の言葉がそれだった。ひどくない? 「しかし、なんでここなんだよ。おまえの住んでるとこまで行くって言ったじゃん」 銀縁メガネが不満そうに口にした。 「知らないひとに家を教えるとか、そ、そんな危険なことできるわけないでしょう?」 「おれとおまえ、もう知らないひとじゃないじゃん」 「はぁ?」 意味がわからない。本当変な奴。 「とにかくそんな顔で出歩くなよ。おまえ、完全不審者だからな」 ひ、ひどい。これでも腫れた顔を必死に隠してるのに。 「あの、これ、スマホ……。ご、ごめんなさい」 私は車から顔を出してる銀縁メガネに、スマホを差し出した。 「あ、ああ」 銀縁メガネはスマホを受け取ると、スマホを確認しながら、呼吸をするのが当たり前であるのと同じような口調で言った。 「早く乗れよ」 はい~? 聞き間違いだろうか? 乗れよ、って聞こえた。 「え? いや。私のスマホは?」 「いいから乗れって。そしたら返す」 いやいや、こいつ、やっぱりおかしい。犯罪の匂いがする。 「い、いやです。とりあえず早くスマホ返してもらえませんか? それでこちらは用はないんで」 早くこいつからスマホを奪還しなければ。危険だ。 「おれがおまえに話があるの」 「私はなにもないんですよ」 「いいから乗れって、おれが変な目で見られるだろ! おまえの格好おかしいし!」 銀縁メガネが降りてきて、私の手を引っ張って無理やり助手席に乗せた。 「ちょ、ゆ、誘拐~、み、みみなさん、助けて。誘拐されそう、ゆっ……!」 「ば、馬鹿! 黙れ!」 銀縁メガネに手で口を塞がれた。 「外では話しにくいんだよ……」 「……なんですか?」 「さっきはその、悪かったなぁって、職業病っていうか、そ、その大人の女性に確認もしないで、|咄嗟《とっさ》に怪我の確認をしようとして悪かった!!」 銀縁メガネ