「明日から彼女も仕事なんだ。こういう不安になるようなことはやめろと、忠告したはずだがな」 話を切り出したのは龍太郎だった。 龍太郎はそれだけいうと、ベンチに腰掛けた。そして腕組みをしながら、長い足を組んだ。 私と絢斗は距離を空けて、向き合うように立っている。 「……ごめん。雪音。上の人間に賄賂のことをチクったの、おまえじゃないよな……」 絢斗のか細い声が聞こえた。声が震えている。 「違うよ。どうして私がそんなことしなきゃならないの?」 声にしてみると、案外自分は冷静だということに気がついた。 そばに龍太郎がいるからかもしれない。 「……実はさっき上司から連絡が来て、訊ねたら、不正行為のこと報告してきたのは男性だったっていうんだ。ごめんな。おまえがこんなことするわけがないよな。まっ、よく考えたら、おまえにそんな度胸あるわけないもんな」 絢斗が半笑いをする。どこまでも|癪《しゃく》に触る男だ。 「賄賂ってさ、ビール券とか、お酒のことだよね? まさかお金とかもらっていないよね……?」 私は絢斗に確認する。 「そ、そんなことするかよ! さすがにお金はやべぇだろ! だから今回だけは、上司も見逃してくれたんだよ!」 「……そうなんだ」 どうやら上司も大袈裟にはしたくなかったらしい。上の人間も監督不行き届きを問われるからだろう。 「まぁ、それも立派な賄賂だし、癒着を疑われて、場合によっては|収賄罪《しゅうわいざい》に問われてもおかしくはないがな。おまえは認識が甘いんじゃないか?」 龍太郎が長いまつげを伏せ、険のある言葉を絢斗に投げつけた。 続けて、 「おれはみかんのひとつも受けとらんぞ」 ふっ、と鼻で笑い、絢斗に軽蔑の眼差しを向けた。 「あ、あの、俺、雪音と二人で話しをしたいんです」 絢斗が眉をひそめて、龍太郎を見た。その目は怯えているようにしか見えない。 「ダメだ。おまえはなにをするかわからんし。雪音はもうおれの婚約者なんだからな。二人きりになどさせない」 龍太郎がきっぱりと言い切った。 「は? 婚約者?」 絢斗が心底、驚いた顔をして私の方を見た。絢斗の瞳は三白眼で獣のようだった。 私は目を逸らす。話をするとは言ったが、絢斗の瞳を正視するのは無理だ。 襲われ、怖い思いをしたのだ。
「……で、おまえはその元彼の女をここに連れてきたのか? しかも浮気相手だった女をか?」 龍太郎と私は病院の相談室で話をしていた。 ここまできたら、すべてを正直に話すしかなかった。 「……まぁ、ほらなんというか、成り行きってあんじゃん、それかなぁ……? はは」 私は必死に弁明する。 龍太郎は呆れを通り越して、もはや表情すらない。 彼は無言だった……。 「あ、いや、ほんと、馬鹿だよね、私。ははは……」 私は乾いた笑いでごまかす。 自分のことは本当に大馬鹿者だと思っている。いや、お人好しもここまで来ると愚鈍だ。 私は目の前に置かれた紙コップのソーダカルピスを一口飲んだ。 緊張が続き、ひどく喉が渇いていた。 「まぁ、普通の人間ならしないだろうな……」 龍太郎の声とともに、私の頭に彼の手が優しく乗った。 「おまえがしたのは人助けだ。お腹の赤ちゃん、あと少し遅かったら、やばかったそうだな……、よく頑張ったな」 私の頭を撫でる龍太郎の手も、穏やかな口調も、どれも私を涙ぐませるには、十分なものだった。 「龍太郎……」 私は彼の目を見つめた。そこには暖かい色が宿っていた。 龍太郎だけは、なんだかんだ言っても、いっつも私を理解してくれている気がした……。 「赤ちゃん、助かるといいな……」 「……うん」 「しかし、おまえというヤツはおれと初めて会った時も、馬鹿みたいに親切だったが……」 龍太郎が咳払いする。顔がなぜか赤い。 「親切? え? トイレの案内をしただけでしょ?」 「覚えていないのか? おまえ、たかだかトイレの案内だけで『右に曲がってすぐのところに段差があります。足元に気をつけてください。あと男性用トイレの一番前は水の流れが悪いらしいです。一番奥は扉の建て付けが悪く、鍵が閉まらないらしいです』って言ったんだぞ。トイレの案内で、ここまで詳しく言われたことはないな」 「へ、へぇ……。覚えてないや」 「ほんと、無愛想で可愛げがない」 龍太郎が淡々と言い、私の頭から手を離した。 「わ、わかってるよ。言われなくても、どうせ可愛くないですよ」 「だけど馬鹿がつくほど親切で、おまえはめちゃくちゃ優しいヤツだ……」 龍太郎の瞳に宿った光は、驚くほど柔らかかった。 な、なんなの? え? は、恥ずかし
こうして、寝取られた女と寝とった女は絶対にありえない異色のコンビで、総合病院に向かった。 着いたのは『剣堂総合病院』だった。確か龍太郎の父親が院長をしている大病院である。 私もここに来るのは初めてだ。 病院にはあらかじめ連絡を入れておいたので、タクシーまで看護師が車椅子で日菜を迎えにきてくれた。 結局、日菜は切迫流産とのことで緊急入院になった。 産婦人科は六階だった。日菜はそこの個室に入院した。 「あなたのおかげで助かったわ。まぁ、この子は助かるかわからないけど……」 日菜の出血はまだ続いているらしく、絶対安静だった。 バルーン(膀胱留置カテーテル)まで入れられ、トイレも不可だ。 「……必要なもの、今だったら売店で買ってきますけど?」 ぶっきらぼうに私は言った。日菜が弱気だが、私はひとを上手く励ませるようなタイプではない。 それに日菜のしたことを許せるわけがない、でも、もう責めても仕方がない。 「……ありがとう。さっき母親に連絡したの。今、急いでこっちに向かっているらしいわ。だから大丈夫よ」 日菜が静かな声で言った。 「それはよかったです。では私はこれで……」 私はカバンを手に取った。 「ねぇ、あなたに絢斗が執着するのがよくわかったわ。あなたさ、馬鹿みたいに親切なのよ。愛想のかけらもないくせに、親切の塊」 日菜が宙を見ながら口にした。その目はどこか儚げで悲しみの色が見えた。 「愛想がないのは生まれつきです。それにこれは仕方がなく、やったことです。本意ではないです」 私は尖った言い方をする。親切でやったわけではない。 「なら、断ればいいわ。あたしなら、彼氏を寝とった女なんか絶対に助けない」 「私はあなたを助けたわけじゃないです。お腹の子供を助けたかったんです。それだけのことですよ」 「……なるほどね。素直じゃないところも魅力なのかしら。ふふっ。でもあなた、すごく優しいわよ、顔は怒ってるのにね。変なひと」 「……あの、もう帰りますんで」 帰ってコロッケを作らないといけないんだ。 「ほんと、あなた面白いわ。悔しいほどに……。一部の男性にはウケそうな、そんな個性があるわ。多分、心の中では言いたいこと溜め込んでるタイプ。それが時々、顔に出ちゃう、そんなタイプね。愉快なひと」 「……帰ってコロッ
「行方不明⁉︎」 なんて物騒な言葉だ。 「ん~、行方不明っていうかぁ、有給届けをまとめて出したっきり、連絡がつかないの」 きっとこういう女を、あざと可愛いというんだろうなと思った。 日菜は首を少しかしげて、長いまつ毛を伏せて、ストローを握る指はか細く、淡いピンクのマニキュアが奇麗に塗られ、それは派手すぎず、家事もできるような控えめなネイルだ。男女ともに好かれるようなネイル。 それに加え、長い髪が肩からおぼれ落ち、それは思わず可愛いなと思わせるような女らしい仕草だった。何より彼女の周りは花のような甘い香りに包まれていた。 「はぁ、そうなんですか……」 正直どうでもいい話だ。 龍太郎に危害が及ぶような言い方をしたから、こうして話をしているだけで、自分を物としか扱っていない男の話など、聞きたくもない。 「……あなたなにか、知らない?」 日菜が含んだ言い方をした。その物言いに心臓がドクンと跳ねた。 先日、自分が襲われたことは龍太郎しか知らないはずだ。 「……知りません。彼と私はもう他人ですので。お話はそれだけですか?」 私はカバンを持ち、帰る準備をする。これ以上、なにも詮索されたくはないし、思い出したくもない。 ……いい思い出も、あの別れ方ですべてが変わった。 「ねぇ、あなたさ、本当に絢斗から聞いてたひとと違うね。なんていうか、きちんと自分を持っているじゃない」 「……どういう意味ですか?」 「そのまんまの意味よ? 男に依存をして、結婚してくれるのを待ってる重たい女、彼からはそう聞いてるわ」 「……そうですか。確かに絢斗と付き合っていた頃の自分はそうだったのかもしれませんね」 否定はしない。彼と結婚するつもりで生きていたのだから。 私は椅子から立ちあがろうとした。 「待って。あなた全然、アイスコーヒー飲んでないじゃない?」 「そんな気分じゃないんです。それに絢斗がどこにいようと、私の知ったことじゃないんですよ」 「絢斗もあなたも本当に、生き方が下手ね。当て馬にされたのはあたしのほうなのよ?」 日菜の顔に暗い影ができる。 「は?」 意味がわからない。なにを言ってるんだ? 「あのね、世の中にはとっても器が小さい男性がいて、相手が思うようにならない時や、別れが耐えられなくて、相手を徹底的に破壊しな
私は洗い物をして、洗濯物を干した。それからスーパーが開店する時間まで掃除をする。 一番奥の部屋以外は掃除をしても、かまわないとのことだった。 「絶対に見てはならない部屋か、そう言われると気になるなぁ……」 家の中は静かだった。動物をあの立ち入り禁止の奥の部屋で飼っているわけでもなさそうだ。 なんの音だったんだろう……。 「隠れて筋トレでもしてるのかな……」 私は案外、筋肉質だった彼の身体を思い出す。努力してるのを知られたくないのかな? でも、たしかお風呂に入った後に、隣の部屋でなにかしてたよね……。 お風呂の後に筋トレはしないよね……? 「ま、どうでもいいや」 誰にでも知られたくないことはある。 それに龍太郎のことは好きだが、むやみやたらに飛び込めない怖さがある。 ド変態だが、あんなハイスペックな男が、こんなになんにもない自分のことを好きだなんて、いまだに信じられないのだ。 学なし、これといった特技もなし。美人でもない、ただの童顔だ。 「……今の関係がいいな」 ずるいかもしれないが、このままではいけないのだろうか……。 一階部分はルンバも使い、各部屋に掃除機をかけて、洗面台やトイレなどを掃除した。 驚くほど、物がない……。 正直、前の彼女の痕跡などがあったらどうしようか、など不安だったのだが、龍太郎の部屋は医学書が山積みになっており、立派な音楽機器と、セミダブルのベッドがあるだけだった。 家具にも特にこだわりがないらしく、学生時代から使っていたと思われる、古い机や椅子がそこにはあった。 ただ小説は好きらしく、有名作家のミステリーがズラリと本棚に並んでいた。 ……勉強を本当に頑張っていたんだな、いや、医者は一生勉強か……。 「さて出かけるか……」 私はメイド服を脱ぎ、ハンガーにかけ、アイボリーのブラウスとジーンズという、至ってシンプルな服に着替え、青いハイカットシューズを履いた。 スーパーはすぐそこだ。歩いて五分とかからない。 今日はどんよりとした曇りだった。 イヤな天気だなぁ……。 折り畳み傘を持ってくるのを忘れた。 私はスマホを取り出し、天気予報を確認した。雨は午後から降ると予想されている。 カバンには私物の他に、龍太郎から渡されたカードが入っている。
「|美味《うま》い! 美味い! 美味い!」 ご飯を食べている時の龍太郎は、これしか言わなかった。 「そう、よかった……」 次々にご飯を口に運ぶ龍太郎を見て、私は微笑んだ。 味付けとか好みとか色々あるから、作ってる側はいつだって、大なり小なり不安なのだ。 それがどんなに簡単な料理だったとしても……。 「この鮭、ご飯が進むな。ご飯のおかわりもらってもいいか?」 「ああ、うん。もちろん」 私は立ち上がって、炊飯器からご飯をよそう。 こんなに食べてくれるなら、明日はガス火でご飯を炊いてみようかと思っている。 「おまえ、色が白いからやっぱり黒が似合うな」 龍太郎が私の着用しているメイドワンピを見て、しみじみと口にした。 「え? あ、ありがとう。でもこんな服、着慣れないから恥ずかしいよ」 そう言いながら、私は龍太郎にご飯を渡した。 「おれ以外の男に、その姿を見せるなよ」 またわけのわからん発言が出た。 「見せないよ。恥ずかしい」 いったいどこで誰に、こんな姿を披露することがあるんだ? 普通はこんな服を着ることすらないはずだ。 ご飯を食べながら、どこを掃除すればいいか聞いた。 床はルンバも使ってかまわないとのことだった。 ふと、龍太郎がサラダのブロッコリーを残しているのに気がついた。 「ねぇ、もしかしてブロッコリー、きらいなの?」 「……きらいだ。味といい、見た目といい、木を食べている気がする」 「木って……。ブロッコリーは栄養素も高いから、きちんと食べたほうがいいよ」 「雪音が食べさせてくれるなら、食べてやってもいいが?」 龍太郎が口を開けて、待っていた。 「お断りします。早く支度しないと仕事遅れるよ」 毎回、いろんな手を使ってきて……。ほんと懲りないヤツ……。 彼氏ですらそんなことしたこともないのに、龍太郎になんかできるわけないでしょう。 「遅刻したら、おまえのせいだぞ」 龍太郎はまだ口を開けて待っていた。 「ごちそうさまでした」 私はそんな彼を無視して、食器を流しに運ぶ。 龍太郎はまだ口を開けて待っていた。ひたすら餌を待つ鯉のようだ。 ……コイツ、すごい執念だ。自分を貫く強さも、遅刻をする覚悟も持っている……。 いやいや、遅刻はいかんだろ。 私は龍太郎