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第2話

Author: 若月 舟
娘がそんなことを言いだすなんて、思ってもみなかった。

その真っ直ぐで、透き通った瞳を見つめる。

雫は、言葉を失った。

長年の闘病生活のせいで、娘の身体は同年代の子よりもずっと小さい。けれど、杏はもう六歳なのだと、雫は不意に思い知らされた。

父親がいないという現実に、杏は人一倍敏感だった。「パパは遠い所へ行っちゃったの」という雫の優しい嘘が、娘の成長と共に、もう通用しなくなりつつある。

雫の部屋の引き出しには、律と一緒に撮った写真がしまってある。

杏は、それを見たことがあったのだ。

それにしても、あんなに小さかった娘が、今でもその写真を覚えているなんて。

あれは高校時代、律と一緒に撮った写真。

クラスで三位以内に入った生徒の記念写真で、雫はもう一人を切り取ってしまっていた。

この街で、娘を連れて、律と再会する未来が来るなんて、あの頃の雫は想像すらしていなかった。

不意に、バスが急ブレーキをかける。

前のめりになった雫は、とっさに腕の中の娘を庇い、数秒間呆然とした後、かろうじて言葉を絞り出した。「……違うわ」

「でも、あのお医者さん、写真のパパにそっくりだったよ」

雫は一瞬言葉に詰まり、そして呟いた。「……ただ、似てるだけよ」

家に着く。

雫は階下に住む佐藤フミ(さとう ふみ)さんの部屋のドアを叩いた。フミさんはこの界隈ではちょっとした有名人で、少し風変わりな一人暮らしのお婆さんだ。

事の始まりは二年前。雫が娘の杏を幼稚園に入れようとしたものの、手続きがうまくいかずに困り果てていた時、偶然にもフミさんの一人息子である佐藤昭彦(さとう あきひこ)と知り合ったのだ。

当時、昭彦の父親は重病で、もう先は長くない状態だった。彼は父に「息子の嫁」を一目見せてやりたいという最後の願いを叶えるため、形だけの結婚をして、すぐに離婚してくれる相手を探していた。

会社の人事異動で海外赴任が決まっていた昭彦と、娘の就学のために戸籍が必要だった雫。二人の利害は一致した。

昭彦の父親に会うと、お爺さんはその日の夜、安らかに息を引き取った。

フミさんは、息子がそんな性急な結婚と離婚をしたことにカンカンだったが、それもまた亡き夫を思っての息子の親孝行だと理解はしていた。離婚届を出すとすぐに昭彦は海外へ発ち、この家にはフミさんが一人残された。

女手一つで娘を育てる雫を見かねて、フミさんは家の二階を使わせてくれることになったのだ。

もちろん家賃はきちんと払っている。だが、ある日フミさんがナッツを喉に詰まらせて苦しんでいたのを、雫が助けたことがあった。

それ以来、二人の間の壁はすっかりなくなり、ぐっと距離が縮まった。

フミさんの住むこの家は、エレベーターもない古いメゾネットタイプのアパートで、管理費も格安だ。フミさんは一階に住んでいる。

二階には小さなテラス付きの部屋が二つあり、雫と杏はそこを借りて暮らしている。

玄関も別々になっている。

雫は昼食の準備をするためにキッチンへ向かう。冷蔵庫に冷凍しておいた水餃子があったので、手早く茹で上げた。そこへ、フミさんがひょっこりと顔を出す。「杏ちゃんももう大きいんだ。早く手術させてやりな。金がないなら、あたしが貸してやるからさ。出世払いでいいよ」

フミさんに多少の蓄えがあることは、雫も知っている。

だが、それはお婆さんにとって、もしもの時のための大切なお金だ。それを全部借りて娘の手術に使ってしまったら、この歳のお婆さんにもしものことがあった時、どうするのか。

雫はフミさんの心遣いに深く感謝しながらも、その申し出を丁重に断った。

-

午後、雫はパシフィック・セントラルタワーの15階にある、L&Mデザインスタジオへと向かった。

中に入ると、同僚の三上梨奈(みかみ りな)が駆け寄ってきた。「雫さん、篠宮ディレクターがお呼びです。オフィスに」

篠宮詩帆(しのみや しほ)はデザインディレクターであり、雫の直属の上司でもある。

雫がドアをノックしてオフィスに入ると、詩帆は電話の最中だった。雫に目で待つよう合図する。雫は俯き、腕時計に目を落とした。

そこからさらに13分が経って、ようやく詩帆は電話を切った。

「霧島さん、この前デザイン部が提出したデザイン画、クライアントから突き返されたわ。やり直し。来週までに必ず提出して。あなたたちのデザイン、守りに入りすぎてて全然目立たないの。もっと奇抜なテーマを取り入れて。水玉とか、ダークな刺繍とかね」

「篠宮ディレクター。『綾衣-AYAGINU-』のブランドコンセプトは、あくまでも気品と優雅さです。三十代以上の女性をターゲットにしたもので、マーケティング部や営業部からのフィードバックも反映させています」

「あなたと私、どっちがディレクターなのかしら」詩帆は冷たく言い放ち、雫の言葉を遮った。

雫は自分のデスクに戻った。

修正の方向性をチームのメンバーに伝えると、たちまち深いため息がそこかしこから漏れる。雫の向かいの席に座る如月薫(きさらぎ かおる)が、眉をひそめてこっそり話しかけてきた。「大丈夫?あのディレクター、どういうセンスしてるのかしらね。上品な刺繍ドレスに水玉ですって?しかもダークな刺繍って……ブランドコンセプトは『優雅な佇まい、竹のようなしなやかさ』でしょ。美的感覚、毒されてるとしか思えないわ」

「結局、尻拭いさせられるのはこっちなんだから、たまんないわよね」

「でも聞いた?松崎ファッションプレスがもう彼女の取材を決めたらしいわよ。今度の土曜日ですって。『第一線で輝く若きデザイナー、その軌跡』……なんて、華々しいサクセスストーリーってわけね」

「そりゃそうでしょ。お父様が政界の大物らしいじゃない。いわゆるお嬢様よ。L&Mのデザインディレクターなんて、遊びでやってるようなものよ。ここの共同経営者の藤堂さんだって、彼女の遊び仲間の一人なんでしょ」

「しーっ、声が大きいわよ」

雫は遅くまで仕事に追われていた。杏がフミさんのLINEでビデオ通話をかけてきて、もう晩ごはんは食べたと報告してくれる。

通りかかった梨奈が、ビデオ通話の画面に映る杏ににこやかに手を振る。そして内心ではたいそう驚いていた。雫と一緒に働き始めてもう三年になるが、彼女に六歳になる娘がいるという事実は、それを知る誰もが未だに衝撃を受けるほどだった。

コラーゲンたっぷりのその綺麗な顔は、まるで剥きたてのライチのように瑞々しい。

若々しくて、目鼻立ちも整っていて、儚げで綺麗。

まるで大学を卒業したばかりのようで、六歳の子供がいる母親には到底見えない……

梨奈は雫の肩をぽんと叩いた。

「もういいから、早く帰って娘さんといてあげなよ。私たちもあと三十分くらいで切り上げるから」

再び携帯が震えた時、雫はすでに地下鉄に乗っていた。

娘からのメッセージだと思ったが、そうではなく、高校の同級生からだった。雫のLINEには、昔の同級生はほとんど登録されていない。過去のすべてとは、もうとっくに関係を断ち切ったのだ。

高校時代の友人といえば、もう彼女一人しかいない。

水沢万理華(みずさわ まりか)から長いボイスメッセージが届き、雫はそれをテキストに変換した。

「高校の同窓会の件で、委員長の拓也があなたと連絡つかないからって、私にまで連絡してきたのよ。知らないって言っといたけど。でも、今どんな噂が流れてるか知ってる?あなた、死んだことになってるんだけど……やだ、縁起でもない!まあ、今のあなたがみんなの前に現れたって、誰も気づかないでしょうけどね。すっかり痩せて綺麗になっちゃって」

青木遥という人間は、まるで七年前にこの世から消えてしまったかのようだった。

何の音沙汰もなく。

雫は数秒間黙り込んだ。

そして、一言だけ返す。「じゃあ、青木遥はもう死んだってことにしといて」

誰も青木遥を好きじゃなかった。雫自身でさえ、昔の自分が嫌いだった。名前を変えたのは、過去の自分と決別したかったからだ。

万理華から、追伸のようなメッセージが届いた。「聞いた話だけど……あくまで噂だけどね、柏木律も来るらしいわよ。彼、帰国したみたい。あなた、どうする……?まあ、今のあなたじゃ、彼も気づかないとは思うけど」

万理華とは高校時代、隣のクラスで、それ以来途切れ途切れながらも連絡を取り合ってきた。彼女の結婚式に雫が出席した時、万理華は最初、雫だと気づかずにひどく驚いていた。

かつての、あの太った少女の面影などどこにもない。まるで磨き上げられた白磁のように、美しく変貌を遂げていたのだ。

雫の指が、ぴたりと止まる。画面に表示されたその名前を、じっと見つめた。

本当は、もう会ってしまったのだと、万理華に伝えたかった。

返信したのは、たった四文字。

「行かない」

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