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霧の中、君という雫
霧の中、君という雫
Author: 若月 舟

第1話

Author: 若月 舟
まさか、柏木律(かしわぎ りつ)と再会するなんて、夢にも思っていなかった。

その日、霧島雫(きりしま しずく)は六歳になる娘を連れて、病院へ診察に訪れていた。

娘は心臓に先天性の疾患を抱えており、定期的な検診が欠かせなかったのだ。

だが、診察室のドアを押し開けた瞬間、雫はその場で凍りついた。

デスクの向こうに、男が腰かけている。パソコンの画面を見つめるそのすっと通った鼻筋には、フレームレスの眼鏡がかかっていた。

雪のように真っ白な白衣も相まって、その佇まいはどこか冷ややで、近寄りがたい空気を放っている。

品格と、理知的な冷やかさを感じさせる男。

雫の顔から、さっと血の気が引いていく。

今日予約していたのは、専門医である堂島主任のはずだった。しかし、主任が急患の対応で不在となり、看護師の案内に従って別の医師に診てもらうことになったのだ。

「代わりの柏木先生は海外で博士号を取得したエリートで、堂島主任の一番弟子なんですよ。心臓外科の第八診察室です」

看護師の説明が、頭の中で木霊する。

今、雫は入口に立ち尽くしたまま、硬直している。細い指がドアノブを強く握りしめ、慌てて俯きながらマスクを深くつけ直した。

頭をよぎったのは、たった一つの考え。

――娘を連れて、今すぐここから立ち去りたい。

七年。

彼は、いったいいつの間に東和国へ……?

雫の日常は、穏やかだった。律と再会する日が来るなんて、想像すらしたことがなかった。

まるで全身が砕け散ってしまいそうな衝撃に、どう反応すればいいのか、まったく分からない。

雫は、本能的に隣に立つ娘の手を握っていた。

じっとりと汗ばむ手のひらとは裏腹に、緊張で背筋が微かに震える。

その時、低く、しかし明瞭な男の声が響いた。

「どうぞ」

声と共に、律が顔を上げる。その視線が、入口に立つ雫へと向けられた。

レンズの奥の瞳には、淡い隔意が宿っている。

視線が絡んだ瞬間、雫の呼吸が乱れた。

二十八歳になった彼の姿に、白いシャツを着ていた二十一歳の頃の面影が重なっては、また剥がれていく。かつてS大学の「高嶺の花」と謳われた青年――

――その彼が、九十キロ近くもある冴えない女と、人目を忍んで付き合っていたのだ。

雫は平静を装って律の視線を受け止め、ぎり、と奥歯を噛みしめる。娘の手を引いて踵を返そうとした身体は、その場に縫い付けられたように動かなかった。

律の漆黒の瞳は静かで、感情を読み取らせない。指先が、とん、とデスクを軽く叩いた。

「霧島杏(きりしま あん)さんですね。カルテを拝見します」

雫はなんとか平静を装ったものの、顔色は青白いままだ。思わず触れたマスクの感触が、辛うじて彼女の理性を繋ぎとめていた。

束の間の、偽りの平穏。

彼は、自分に気づいていない。

今の自分は霧島雫。七年前の青木遥(あおき はるか)ではないのだから。

かつての、あの太った少女ではない。今の自分は身長170センチで、体重は50キロそこそこ。まるで別人なのだ。

娘の杏が椅子にちょこんと座り、律に聴診器をあてられる。

距離が縮まり、雫の目に彼の姿が映った。ふわりと漂う、ひんやりとした彼の匂い。それは懐かしいようで、ひどく知らないものでもあるようで――胸の奥に広がるそれに、雫は思わず娘の華奢な肩をぐっと押さえた。

視線の端に、律の横顔が映る。

フレームレスの眼鏡。彼が纏う冷たい空気。

白衣の下に着た白いシャツは、一目で上質だとわかるものだった。彼は杏の胸に聴診器をあてながら、真剣な表情で時おり眉をひそめる。やがて、雫に向かって口を開いた。

「日常生活でも注意を払ってください。可能であれば、この二、三年以内には手術の準備を。費用については、ご存知かと思いますが」

律は目の前の女に視線を移した。腕にかけられた黒いレザーのバッグは、持ち手の部分が擦れて剥げかけている。足元は白いキャンバス地のスニーカー、そして色褪せたジーンズ。質素な身なりを見るに、高額な手術費用を捻出するのは容易ではないだろう。

病院では、ありふれた光景だ。

だが今日、律はなぜかこの女から目が離せなかった。

痩せていて、背が高い。肌は透けるように白い。マスクで顔のほとんどは隠れているが、低めに結んだポニーテールから、若々しい印象を受ける。しかし、娘はもう六歳だという。

すっと伸びた首筋に、数本の黒髪が柔らかくかかっている様は、どこか儚げだ。

女は伏し目がちで、律と視線を合わせようとはしない。

娘の後ろに、まるで彫像のように、あるいは守護者のように、ただ静かに佇んでいる。

大きなマスクが顔の半分以上を覆い、見えるのは憂いを帯びた瞳だけだった。

入室してからというもの、女はほとんど口を開かなかった。律はわずかに眉をひそめる。堂島主任の予約だったのに、自分のような若い医師が出てきて不満なのだろうか。そう思い至り、彼は言った。

「もし私の診断にご不満でしたら、小児科に回すことも可能ですが。今なら小児科の香坂先生もいらっしゃるはずです。あるいは、そちらでセカンドオピニオンを聞いてみますか」

女は黙ってこくりと頷いた。前髪が、その目元にかかって表情を隠している。

「……失礼します」

そう小さく呟くと、デスクの上に広げていたファイルを素早くまとめ、女の子の手を引いて診察室を出ていった。

律は去っていく彼女の後ろ姿を見つめ、眉間の皺をわずかに深くした。雫が完全に立ち去ったのを見届けると、彼は鼻筋の眼鏡をくいと押し上げ、仕事に戻った。

続けて二人ほど患者を診察する。

律は数分間の短い休憩を取り、ポットでお湯を沸かしていると、高校時代のクラス委員長だった長谷川拓也(はせがわ たくや)から電話がかかってきた。

「今月の二十日、三組のクラス会があるんだ。クラスのグループLINEで連絡したんだけど、松崎市にいる奴は全員参加だってさ。お前、ここ数年海外だったろ。今年せっかく帰国したんだから、絶対に来いよな」

「ああ」律は応える。「その時になってみないと分からんな。まだシフト表も出てないし」

「相変わらず忙しい奴だなあ。うちのクラス会、毎回毎回欠席してるのお前と青木遥だけだぞ」拓也は遥の名前を出すと、堰を切ったように話し始めた。「青木遥、覚えてるか。ほら、クラスで一番太ってた女子だよ。大学卒業してから、マジで蒸発したみたいに連絡つかなくてさ。なあ、お前覚えてるか」

「おい、おい、柏木、聞いてるか。

あれ、なんで黙ってんだよ。

電波悪いのかな。声が聞こえないぞ」

デスクの上の電気ポットが、ぐつぐつと沸騰する音を立てている。やがて熱湯が注ぎ口から溢れ出し、そばに置いてあった数枚の書類をじわりと濡らした。

椅子に腰かけたまま、律は身じろぎ一つしない。電話を耳にあてた姿勢のまま、その整った顔は静謐を保っている。だが、レンズの奥の瞳だけが、激しく揺れ動いていた。

廊下を通りかかった看護師が、慌てて診察室に入ってくる。「きゃっ、お湯がこぼれてますよ。柏木先生、大丈夫ですか」

律ははっと我に返った。

彼は立ち上がったが、看護師の言葉には応えず、数歩で窓辺まで歩み寄る。携帯を握る指の関節が、白く強張っていた。

「……彼女、一度もクラス会に参加してないのか」

その声は平坦だったが、瞳の色は一層深みを増している。

「誰だよ。そっち、やっぱ電波悪いのか」と拓也が重ねて尋ねる。「ああ、青木遥のことか。彼女なら一度も来てないよ。連絡がつかないんだ」

その後も拓也が何か話していたが、律の耳にはもう入っていなかった。

若い看護師は顔を赤らめながら彼のデスクを片付け、何か話しかけようとしたが、律が心ここにあらずといった様子で、会話どころではないのを察し、静かに診察室を後にした。

律は、まるで自分の世界に閉じこもっているかのようだった。

午前中の予約はあと三人残っていたが、とても仕事に集中できる状態ではない。なんとか無理やり意識を切り替え、ようやく午前の仕事を終えた。

彼はデスクの引き出しを開ける。中には、青いビロードの細長い箱がひとつ。蓋を開けると、黒い万年筆が収められていた。

先日落としてしまった一本だ。もう六、七年は使っているせいで使用感は顕著で、黒い軸の塗装もところどころ剥げている。

落とした衝撃でインク漏れがひどくなり、修理に出したばかりだった。今はもう使わず、引き出しの奥に大切にしまってある。

律は眉間を強く揉んだ。ひどい疲労感と倦怠感が、ずしりと身体にのしかかる。

-

雫は娘を連れて、バスに揺られていた。

頭の中では、様々な思いが駆け巡る。七年前の、あのパーティーの夜が、不意に蘇ってきた。

あれは、律の誕生日だった。

あの頃の遥も、今と同じように、高鳴る胸をおさえて個室のドアの前に立っていた。

中から聞こえてくる、耳障りな馬鹿騒ぎ。

「うわ、律の首元なんだよそれ!キスマークじゃねえか!まさか、あのデブとヤったのかよ」

「マジかよ律、あの太った子が本当に彼女なのか」

「何言ってんだよ、電気消しゃ同じだろ、がははは」

「律、お前本気なのかよ。大学の掲示板でその噂見たとき、マジでびびったんだけど。本当に付き合ってんのか」

「どうせあのデブが、詩織の件で脅したんだろ。じゃなきゃ律が、あんな豚みてえな女と付き合うわけねえよな」

そして聞こえてきたのは、律の声。

あの年の遥は、彼の声を一生忘れることはないだろう。

男の声があまりに魅力的で、特別だったせいか、騒がしいカラオケの音楽も、自分を嘲笑う声も、彼の言葉をかき消すことはできなかった。

「ああ、遊びだよ。どうせ来月には留学するし」

個室のドアの外で、遥は立ち尽くしていた。瞳がじわりと赤く染まり、心臓が窒息しそうなほど痛んだ。

律は誰もが知る名家の生まれで、その家柄はあまりに別世界だった。雫も、彼との未来など一度も望んだことはなかった。彼がいずれ留学することも知っていたし、二十一歳の誕生日を祝ったら、この関係には終止符を打つと、そう決めていたのだ。

ちゃんとした終わりもないまま、淡い恋は、冷たい言葉の中で儚く灰と化した。

彼に贈るはずだったプレゼント。一本の黒い万年筆。

二ヶ月間、必死にアルバイトをして貯めた四万円で買った、大切な贈り物。

それが、彼の友人たちの嘲笑に晒される。

「どこで拾ってきたんだよ、この安物。まさかあのデブからか。律、お前こんな万年筆使うのかよ」

「律がこんな三流ブランド持ったら、格が下がるぜ」

「ママ――」

ふいに、娘の杏が雫の手を掴んで、軽く揺さぶった。

雫は息の詰まるような記憶の中から、はっと我に返る。そして、ぎゅっと娘を抱きしめた。

腕の中にいる、律にどこか似たこの顔。杏が成長するにつれて、その目元はますます彼に似てきている気がする。

「ママ、今日、わたしを診てくれたお医者さん……パパなの?」
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