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第7話

Auteur: 若月 舟
雫は何も言わず、娘の手を固く握りしめて歩き出す。

杏は、そんな母の心中も知らず、振り返って律に小さな手を振っていた。

すれ違いに、同僚の医師がにやにやしながら律の隣に並ぶ。「先生、親戚の子?いやあ、しかしあの子、先生にそっくりじゃないですか。一家揃って美形なんですねえ」

「……似てるか?」律は眉をひそめた。

視線を上げた時には、雫と杏の姿はもう遠ざかっていた。

もし本当に、自分にあんなに大きな娘がいたら。母親の悠美が聞いたら、狂喜乱舞するだろうな。

——あり得ない話だ。

だが、あの子は確かに愛嬌のある顔立ちをしていた。

そう思考を打ち消しながらも、律は杏の姿を思い出し、胸の内に奇妙な温かさが灯るのを感じていた。

-

帰り道。

「ママ、ポテト、まだあの先生の車の中だよ」

「ポテト?」雫は、娘が車道から助け出したあのクリーム色の子犬のことだ、とはっと思い出す。先ほどの危険な光景が脳裏に蘇り、彼女は表情を改めた。「杏ちゃん、もう二度とあんな危ないことはしちゃ駄目よ」

「わかってる。でも、あの先生の車、そんなに速くなかったもん。ぶつかったんじゃなくて、びっくりして自分で転んじゃっただけだもん」

「それでも駄目」

雫は娘の髪を優しく撫でた。手のひらに伝わるこの確かな温もりだけが、先ほどの光景で凍りついた心を、そっと溶かしてくれるようだった。

この子の無事こそが、名前も過去も捨てた今の自分を支える、たった一つの祈りなのだから。

「でもママ、ポテト、パパにそっくりな先生の車の中だよ」

「杏ちゃん、いいこと?あの先生がパパに似てるなんて、他の人に言っちゃ絶対に駄目だからね。そんなこと言われたら……あの先生も、嫌な気持ちになっちゃうでしょ。その……人の気持ちは、ちゃんと考えてあげないと」胸が騒ぎ、自分でも何を言っているのか分からないほど、言葉がしどろもどろになる。幸いにも、杏は素直にこくりと頷いた。

雫は、そっと娘を抱きしめた。

固く結ばれた毛糸玉のように、解こうとすればするほど、嘘は複雑に絡まっていくだけだった。

今さら律の元へ子犬を返してもらいに行くなど、雫にできるはずもなかった。それに、今住んでいるフミさんの家は古い集合住宅だ。犬を飼えば、鳴き声で近所迷惑になるのは目に見えている。

律が犬を嫌っているとは思わないが、かといって、彼がことさら慈悲深い人間でないことも、雫はよく知っていた。

かつて、彼女が凍える野良犬を抱きしめ、冬の間だけでも匿ってほしいと頼んだことがある。

彼は、冷え冷えとした眼差しで、それを一蹴した。

柏木律という男は、ベッドの上では別人になるが、それ以外の場所では、誰に対しても一線を引いていた。時折、その言葉は刃物のように鋭く突き刺さることさえあった。

「杏ちゃん。あなたの手術が終わって、元気になったらね、ママ、もっとお仕事頑張るから。そしたら、私たちだけのおうちを買って、そこでわんちゃんを飼いましょう、ね?」

「……でも、それじゃあ、ポテトじゃない」

娘の小さな呟きが、細く、鋭い棘のように、雫の胸に突き刺さった。

夜九時。

雫は杏に付き合って、しばらくお絵描きをしていた。画用紙に描かれたのは、ふっくらとして愛らしい子犬の絵だ。

やはり、雫は耐えきれずスマートフォンを取り出した。もらった名刺を引っ張り出し、そこに書かれた律の番号を呼び出す。

あの子犬を、律に返してもらうために。

これはきっと、彼の仕事用の番号のはずだ。

この七年間で、雫が彼に電話をかけるのは、これが二度目だった。

一度目は……六年前。大出血を起こし、衰弱しきって病室のベッドに横たわっていた、あの時だ。

深夜にかけた電話の向こうから、彼の低くぶっきらぼうな声が聞こえた。「――もしもし、誰だ?」

その一言を聞いただけで、雫は通話を切ってしまった。

そして今。雫はベランダに立ち、リビングのソファでテレビを見ている六歳の娘を静かに見つめた。そっとガラス戸を閉め、その冷たい扉に華奢な背中を預ける。

スマートフォンの画面に表示された番号をじっと見つめ、何度も逡巡した末に、意を決して発信ボタンを押した。

コールが三度鳴ったところで、電話は繋がった。

けれど、聞こえてきたのは女の声だった。

透き通るような、綺麗な声。「もしもし、柏木律に御用でしょうか」

その瞬間、雫の全身の血が凍りついた。スマートフォンを握りしめる手に力がこもり、喉が引きつって声が出ない。

電話の向こうで、女が不思議そうに「……もしもし?」と何度か呼びかけてくる。

雫は、ようやくかろうじて声を絞り出した。

「……すみません、番号を間違えたようです」

「あら、番号は合ってますよ。律くんに御用でしょう?あいにく今シャワーを浴びてるから、後でこちらからかけ直させますね」

その言葉が終わる前に電話を切ったのは、雫の方だった。

ガラス戸に華奢な背中を預けたまま、雫は糸が切れたようにずるずるとその場にしゃがみ込んだ。

時計は、夜の九時を指している。

電話に出た女は、彼の恋人なのだろうか。

あの容姿に、あの家柄だ。恋人の一人や二人、いて当然だ。

雫は深く息を吸い込む。透き通るように白い顔には、疲労の色が滲んでいた。ドアの前に座り込んだまま、雫はぼんやりと窓の外に浮かぶ、重たい光を放つ月を見上げた。

分かっている。これ以上、律の世界に踏み込んではいけない。

もう、七年もの月日が流れたのだから。

自分と彼の生きる世界は、もはや完全に分かたれてしまった。

おそらく彼は、青木遥という女のことなど、とっくの昔に忘れてしまっている。

いや、あるいは覚えているのかもしれない。かつて自分のような太った女と付き合ったこと自体が、あの完璧な御曹司にとっては、消し去りたい汚点か、屈辱的な記憶でしかないのだろう。

あの時、自分が柏木詩織(かしわぎ しおり)のことをネタに脅したりしなければ、彼が自分と恋人になることなど、万に一つもなかったのだから。

雫は、軽い低血糖の気があった。

立ち上がろうとした拍子に、たまらずドアノブを強く握りしめる。骨が浮き出るほどだ。

くらりとする頭を抑え、目を閉じて呼吸を整えるが、足に力が入らない。

杏を産んでから急激に痩せたせいで、低血糖は雫の持病のようになっていた。

極度の疲労や、不安、緊張を感じた時にだけ、決まってこの症状は現れる。

その時、スマートフォンが手のひらで爆ぜるように震動した。

雫がはっとして画面に目を落とす。

そこには、先ほどかけたばかりの番号が表示されていた。

律が、かけ直してきたのだ。

けたたましい着信音が鳴り響き、振動が手のひらを痺れさせる。雫は画面の上で明滅する番号を、ただ呆然と見つめていた。

深く、ひとつ息を吸い込み、通話ボタンを押す。

柏木家、三階。

シャワーを浴びたばかりの律は、黒いシルクのパジャマを羽織り、濡れたままの髪からぽたぽたと雫を滴らせていた。冷ややかな表情のまま、床でクンクンと鳴きながら夢中でミルクを飲んでいる子犬にちらりと目をやる。

通話中のスマートフォンを耳に当てたまま子犬に歩み寄り、皿に顔を突っ込む勢いのそれの首根っこを、無造作に掴んで持ち上げた。

電話が、繋がった。

律「もしもし、誰だ。何か用か」

静華「ちょっと、律くん!もっと優しくしてあげなさいよ、乱暴なんだから」

そう言うと、静華は律に近づき、その手から子犬をひったくるようにして、自分の腕の中に抱き寄せた。

電話の向こうから聞こえてくる、甘やかな女の声。その声に、雫は言おうとしていた言葉を喉の奥に飲み込んだ。彼は女といちゃつきながら、ベッドの中にでもいるのだろうか。それで片手間に、私に電話を……

雫の顔から、さっと血の気が引いていく。

唇を、強く、強く噛みしめた。

「……用件を言ってくれ」律は電話を切らずに、淡々とした口調で言った。患者からの電話だと思ったのだろう。この番号は二十四時間、いつでも繋がるようにしてあるのだ。

「……私です、柏木先生。娘の……犬が、先生の車にあるのではないかと思いまして」

電話の向こうから聞こえてくる、その柔らかな女性の声に、律は一瞬、思考が止まった。最近、遥のことばかり考えているせいで、頭がおかしくなってしまったのだろうか。気のせいか、その声に聞き覚えがあるような気がした。

「ああ、俺が預かってる」

「あの、柏木先生、明日はご都合よろしいでしょうか。どこかで待ち合わせを……娘が、この子をとても気に入っていて……」

「来週にしてくれ。明日は安流市に行くんでな。こっちから連絡する」

「……はい」雫は唇をきゅっと結んだ。「お忙しいところ、申し訳ありません」

雫が通話を切ろうと、スマートフォンを握った手を下ろしかけた、その時だった。電話の向こうから、律の低い声が聞こえてきた。

「君、名前は?登録しておく」

「……霧島です」

「ギリ?……ギリシマか?」なんて妙な名前だ、と律が訝しんだ。

隣にいた静華が、呆れて弟に白けた視線を送る。「もう、違うわよ!霧!濃い霧の霧!あんた耳どうかしちゃったの」

受話器の向こうから聞こえてくる、甘えたように叱る女の声。雫の脳裏に、育ちの良さそうな令嬢の姿が浮かんだ。たまらず、通話を切る。

逃げるのは、恥ずかしいことじゃない。

少なくとも、今の自分にとっては、それが一番の処方箋だ。

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