Share

第8話

Author: 若月 舟
リビングに戻ると、杏はもう眠くて目も開けられない様子だった。雫は娘を抱き上げて部屋に運び、その小さな背中を優しく叩いてやる。腕の中に、ピンクのうさぎのぬいぐるみをそっと入れてあげた。

それから娘の通園バッグの準備をしながら、先ほど一緒に描いた画用紙に目をやった。クリーム色の子犬の絵。

雫は、小さくため息をついた。

明日、ペットショップを覗いてみよう。そう、心に決めた。

-

律はスマートフォンをベッドサイドのテーブルに放り投げると、首にかけていたグレーのタオルで、濡れた髪をがしがしと乱暴に拭いた。

隣に立っていた静華が、矢継ぎ早に質問を浴びせてくる。「女の患者さん?声、すっごく若かったわよね。きっと綺麗な人よ、声で分かるもん。独身かしら?もうちょっと優しく話してあげなさいよ。……ねえ、このチビちゃんは、その人の犬なの?」

「……静華。いつからそんなにお喋りになったんだ」律は声を低くし、瞼をわずかに伏せながら、姉の名前を呼んだ。

「あらやだ、あなたのことを心配してあげてるんじゃない」

律の薄い唇の端が、微かに吊り上がる。タオルをソファに投げ捨てると、少し癖のある黒髪がふわりと揺れて、額にかかった。「姉さんの目はレントゲンか?電話越しに声を聞いただけで、相手の顔まで分かるとはな。柏木グループにいるには惜しい人材だ。特殊能力開発センターにでも行ったらどうだ。その『超能力』を活かせるぞ」

「やっぱり、美人だったんでしょ」静華は、待ってましたとばかりに目を輝かせた。

「ブスだ」律は素っ気なく一言だけ吐き捨てると、ソファに腰を下ろし、ノートパソコンを開いてカルテを閲覧し始めた。視線は画面に釘付けのままだ。

「……ドアを閉めていけ」

「ふーん、じゃあ絶対美人ね」静華はこの弟の性格を熟知している。こういう時の言葉は、裏を返せばいいのだ。律の隣に数歩で駆け寄ると、その隣にちょこんと腰を下ろし、根掘り葉掘り聞き始めた。「霧島雫さん、かあ。素敵な名前じゃない。写真ないの?お姉ちゃんに見せてよ」

「静華。いつから母さんみたいに、そんなに口うるさくなった」

律はパソコンから顔を上げず、細く長い指で宙を指した。「娘がいる。もうこれくらいの背丈だ。先天性の心疾患で、俺の外来にかかってる」

「……結婚してるの?」

静華は呆気に取られた。「なーんだ、本当にただの患者さんだったのね。てっきり……」

弟の冷めきった様子を見て、静華は洋治と悠美から言いつけられていた用件を、仕方なく切り出すことにした。「ねえ、篠宮家のお嬢さんの件だけど……一度くらい会ってあげたらどう?相手はあの篠宮参事官のお嬢様なのよ」

「会った」律は自分のスマートフォンを姉に差し出した。「LINEも交換したし、メッセージも送った。母さんには、これで任務完了だと伝えておけ」

静華は、弟の無関心を絵に描いたような態度を見て、一筋縄ではいかないだろうと察した。律のスマートフォンを覗き込み、篠宮詩帆とのトーク履歴を開くと、案の定、目眩がするような内容だった。

詩帆:【律さん、今日はお忙しいですか?実は、音楽フェスのチケットが二枚あるんですけど……】

律:【忙しい】

詩帆:【律さん、友人が心臓のことで少し悩んでいて。簡単な相談だけでも乗っていただけませんか?】

律:【予約取れ。】

詩帆:【律さん、今週の土曜日はお休みだって伺いました。もしよろしければ、映画でも……】

律:【当直だ】

そのあまりにも素っ気ない、数えるほどのやり取り。弟の、一言一句を惜しむかのような冷淡な態度に、静華は頭が痛くなった。

「……もう、あなたって子は。一体どんな子がタイプなのよ。篠宮さんじゃ不満?だったら他の方はどう?矢野院長のお嬢さんとか、水墨画の大家、堂島先生のところのお嬢さんとか」

いつもはのらりくらりとかわすだけの弟に、静華も半ばうんざりしていた。だが、その日、律が本当に、具体的な条件を口にするとは思いもしなかった。

「胸がでかくて、腰が細くて、脚が長い。それから、肌が白いやつ。ああそうだ、痩せすぎは嫌いだ。派手な顔も好みじゃない。背は……低すぎるのもダメだな。168センチくらいが理想だ」

静華は一瞬言葉に詰まった。そして、脳裏に、ある人物の姿がおぼろげに浮かび上がる。

静華は、弟の顔をじっと見つめた。

そして、ためらいがちに、その名前を口にした。「……青木、遥……ちゃん?」

次の瞬間、律の漆黒の瞳が、射抜くような鋭さで静華を捉えた。彼はそれ以上何も答えず、ただノートパソコンをぱたんと閉じると、吐き捨てるように二文字だけを告げた。「……帰れ」

それは、紛れもない退去命令だった。

静華は律より六つ年上で、柏木グループの社長として長年辣腕を振るってきた。だが、この弟だけは、時々どうにも手に負えなくなる。律の気性は、誰よりも父の洋治に似ていた。もし彼が医者の道を選ばず、そして兄との関係をこじらせたくないと思わなければ、柏木グループのトップの座は、間違いなく彼のものだっただろう。

人を圧倒するほどの強烈なオーラと、冷徹なまでの手腕。

彼は、生まれながらにして、人の上に立つ人間だった。

律の部屋を出ると、ドアの前で待ち構えていた悠美が、静華の手を掴んで様子を尋ねてきた。静華が事の顛末をかいつまんで話すと、悠美は呆れたようにため息をついた。「……それは恋人探しじゃなくて、モデル探しじゃないの。身長まで、そんな中途半端な数字で指定してくるなんて……」

悠美は娘にそっと耳打ちする。「ねえ、あの子の理想のタイプとやらは、お父様にはまだ内緒にしておいてちょうだい。あの頭の固い人、『美的感覚が下品だ』なんて、また律を叱りつけるに決まってるから」

「……お母様、覚えてらっしゃいますか。律が大学の頃、付き合っていた彼女のこと……」

「もちろんよ。あの子が原因で、律は詩織ちゃんを留学までさせたんですもの……」悠美が忘れるはずもなかった。あの時はひと悶着あったが、原因を作ったのは間違いなく詩織の方だった。

そう言えば、すっかり忘れていたわ、と悠美は思う。いっそ、あの時の彼女を探し出してみるのもいいかもしれない。もし相手もまだ結婚していないのなら、もう一度、二人の縁が繋がる可能性だってある。

母が何を考えているのか、静華には手に取るように分かった。

だが、自分が彼女の名前を口にした瞬間、律の顔色が一瞬で曇ったのを、静華は見ていた。

母の期待に水を差すようで気が引けたが、その嬉しそうな顔を見ていると、どうしても言葉を飲み込んでしまう。

それに、と静華は思い返す。七年前、弟が留学して間もなく、相手の女性から一方的に別れを告げられ、大きな段ボール箱が送りつけられてきたのだ。

年末に律が一時帰国し、その箱を開けた時……

中には、三年間で彼が贈った全てのプレゼントが詰め込まれていた。綺麗さっぱり関係を断ち切られ、彼女は忽然と姿を消した。

ペットボトルの水一本の代金に至るまで、きっちりと清算されたレシートまで添えられて。

弟のあんなに不機嫌な顔を見たのは、後にも先にも、あの時が初めてだった。

-

一週間は、あっという間に過ぎた。

雫は松崎市で開かれたファッション素材の展示会に参加し、いくつかのデザインのヒントを得た。

オフィスでは、同僚たちがひそひそと噂話に花を咲かせている。

同僚の三上梨奈が、雫の手を引いて声を潜めた。「ねえ、聞いた?篠宮ディレクター、恋人ができたんだって。家同士が決めた縁談らしくて、お相手、松崎市でも一、二を争うすごい家柄らしいわよ」

松崎市で、一、二を争う家柄。雫は普段、そういった上流階級のゴシップには疎いが、名家中の名家と聞いて、ふと柏木家のことを思い浮かべた。松崎市の社交界で、常にトップクラスに君臨する一族だ。

上司である篠宮詩帆の仕事のやり方には、正直、好ましく思えない部分もある。

けれど、彼女のプライベートな恋愛について、自分がとやかく言うことではない。雫はそう思い、曖昧に微笑むだけにとどめた。

「ねえ、雫がその御曹司をゲットしてくれたら、私も安泰なんだけどなあ」梨奈はそう言うと、冗談めかして雫の腕を揺さぶった。「お願い、雫!その美貌でさ、ちょちょいと落としてきてよ!」

雫は苦笑するしかなかった。「もう、私には六つになる娘がいるのよ」

それに、と雫は心の中で付け加える。自分が綺麗だなんて、思ったこともない。

急激に痩せてからというもの、職場の同僚からお世辞を言われたり、街ですれ違う人から好意的な視線を向けられたりすることは増えた。それでも、雫は自分の容姿に自信が持てなかった。

かつて太っていた頃に受けた、数えきれないほどの蔑みの視線。

劣等感と自信のなさは、まるで血に刻み込まれた呪いのように、彼女を縛り付けていた。

「子供がいたって、何よ。今の時代、美貌こそが最強の武器なんだから」梨奈はそう言うと、雫の顎をくいっと持ち上げた。「私が男だったら、雫みたいな、儚げで吸い込まれそうな雰囲気の美人が絶対タイプだわ」ついでとばかりに、梨奈の手が雫の腰に伸びる。「うわ、細っ!なになに、普段どんなトレーニングしてんのよ」

雫は、ふざける彼女の手をぱしりと軽く叩いた。

「もう、やめてよ。……さあ、写真撮って記録しなきゃ。今日のこの生地、明日の会議で検討するんだから」

ポケットの中で、スマートフォンが震えた。

雫はカメラを構えて撮影に集中していた。今日の展示会は人でごった返しており、とても携帯を確認する余裕はない。

ようやく一通りの仕事を終え、梨奈と連れ立ってラーメン屋で遅い夕食をとることになった。

そこで初めて、雫は午後に着信があったことに気づいた。

表示された番号を見た途端、雫は箸が止まった。

――柏木律。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 霧の中、君という雫   第20話

    寝室のベッドサイドランプが、柔らかく暖かな光を落としている。ベッドに横たわる女の顔を、その光が優しく照らし出す。絹のように白い肌はほんのりと潤いを帯び、その表情は慈愛に満ちていた。彼女は、隣で眠る娘の背中を、そっと、規則正しく叩いている。杏が、夢うつつに「ママ」と小さく寝言を漏らした。「うん、ママはここにいるわ」この七年間、杏を産んだことだけは、一度だって後悔したことがない。天から授かった、最高の贈り物だと思っている。もちろん、天は同時に、もうひとつの贈り物を取り上げていったけれど。雫は服のボタンを外し、白く平らな下腹部に目を落とした。帝王切開の痕跡は、もうずいぶんと薄くなっている。それでも、色白の肌の上では、淡くピンクがかった一本の線が、七年経った今でもはっきりと見て取れた。夜が更けて静まり返るたび、彼女は自問する。もしあの時、もう少し早く病院に行っていたら、あの子は死なずに済んだのではないか。あるいは、もし……叔母と口論にならず、突き飛ばされて腹を打ったりしなければ、あんなに出血せずに済んだのなら、あの子は助かったのではないか、と。叔母の加山秋恵(かやま あきえ)は、遥に成り代わって柏木健人と志穂を脅迫し続けていた。従姉を柏木グループに就職させ、海外留学で箔をつけさせることまで要求して。遥は、その間なにも知らなかった。詩織が自分のカバンを漁り、金を盗むあの動画は、とっくに削除していたからだ。叔母がどうやってその動画を手に入れたのかも、そしてこの四年間、それを盾に健人たちを脅し続けていたことも、遥は全く知らなかったのだ。すべてはとっくに終わったことだと思っていた。それなのに、叔父と叔母は、何年もの間、健人夫婦を金のなる木のように扱い続けていた。いつの間にか、被害者であったはずの遥は、血をすする吸血鬼の共犯者に仕立て上げられていた。叔母に問いただすと、秋恵は遥の鼻先を突きつけるような勢いで罵倒した。「どの口が言うのよ!あんただって、この一件をネタに柏木家の四男を脅して、あの醜いデブのあんたと付き合わせたじゃない!で、結局捨てられたんでしょ!私たちがあんたを何年面倒見てやったと思ってんの。少しは恩返ししたっていい頃でしょ。ねえ、亮介、あんたからもなんとか言いなさいよ!」秋恵は、遥の

  • 霧の中、君という雫   第19話

    しかし、入試は目前に迫っている。つい先日、律の祖母が大手術を受けたばかりで、体調も芳しくない。もし詩織が学校で盗みを働いたなどと知れば、衝撃で倒れてしまうかもしれない。それに、詩織はまがりなりにも自分の姪だ。事がここまで大事になるのは、彼としても望んでいなかった。柏木家の家風は厳格だ。先祖代々、政界に身を置いてきたが、父である柏木洋治の代から事業を始めた。律の叔父や伯父たちは、今も政界の重鎮として名を連ねている。母である悠美もまた、名門の出だ。こんな不祥事が祖父の耳にでも入れば、詩織は勘当されるだけでは済まないだろう。「青木、よく考えてほしい。解決策は、他にもいくらでもあるはずだ」六月の陽射しが、遥の視界を白く焼き尽くすようだった。彼女は自分の掌を、爪が食い込むほど強く握りしめる。目の前の少年が纏う、どこかひやりとするような匂いがした。それが、ゆっくりと胸の中にまで染み渡っていく。喉が、からからに乾いていた。声は、断固としているようで、それでいてひどく頼りなかった。「……でも、私は、泥棒じゃない」少年は、そんな彼女に視線を落とした。夏の陽に火照り、薄い皮膚の下の血の色が透けて見えるような顔。伏せられた長い睫毛。彼の声はどこまでも他人行儀だった。「条件を言え。柏木家にできることなら、可能な限り応えよう」「……私の彼氏に、なってくれない……?」「……は?」まるで予想だにしていなかった言葉に、律は虚を突かれたようだった。一瞬息を止め、十数秒の沈黙の後、改めて目の前の少女を値踏みするように見つめた。長い、長い時間。彼は、脅迫されるのが嫌いだった。それが感情を取引材料にするようなことであれば、なおさらだ。それでも、彼は頷いた。冷え冷えとした声で、こう付け加えて。「いいだろう。だが、俺は遠距離恋愛はしない。君がS大に合格できたら、という条件付きだ」遥は三回の模試で、最も良かった成績ですら、S大の合格最低点まであと8点も足りなかった。最悪の時には、26点も差があった。わずか五日間で8点の差を埋めるなど、ほとんど不可能に近い。だが、遥は、それをやってのけたのだ。その年の入試問題は、決して易しくはなかった。そして詩織はといえば、入試が終わるとすぐに海外へと送られた。柏木家のお嬢様は、将

  • 霧の中、君という雫   第18話

    志穂は遥の名前を尋ねた。青木遥です、と答える。その名前を聞いた途端、志穂は表情を奇妙に歪めた。そして遥の顔を、値踏みするようにじっと見つめる。その目には、侮蔑と……それから、どこか嫌悪の色が浮かんでいた。「動画が一本あるだけでしょう?うちの娘がお金を盗む瞬間が、そこに映っているのかしら。娘がこの方の机を漁っていたのは事実でしょう。でも、それがお金を盗むためだったと、誰が証明できるの?女の子同士ですもの。ウェットティッシュか、それとも生理用品でも探していたのかもしれないじゃない」たしかに、一本目の動画に映っているのは、詩織が遥の机の中に手を入れるところまでで、彼女がお金を盗む瞬間は捉えられていなかった。詩織はすぐさま目に涙を浮かべた。「先生、お母さん、私、ちょうど生理になっちゃって……遥のカバンにナプキンが入ってるのを知ってたから、借りようと思っただけなの」「ごめんね、遥。断りもなしにカバンを漁っちゃって。怒らないで。でも、あなたのお金は本当に取ってないわ。あたし、十八万円くらいのお金に困ってないもの。それに、こんなに仲がいいのに、どうしてそんなことするわけないじゃない」志穂は鼻で笑った。「田中先生、もうお分かりでしょう。青木さんの成績が良いから、先生が穏便に済ませたいお気持ちは分かりますわ。でも、この年で、これほど品性に欠けるとは」「学校の奨学金は、かねてより私ども柏木家が支援しておりますのよ。まさか、このような方に給付されるとは思いもしませんでしたわ」だが、遥には二本目の動画があった。それもまた、烈が送ってきたものだ。その動画には、詩織が札束を鞄に詰め込みながら、こそこそと教室を出ていく姿がはっきりと映っていた。遥がその動画を再生した瞬間、職員室は奇妙な静寂に包まれた。詩織はぶるりと体を震わせ、顔を青ざめさせた。職員室には担任の田中先生のほか、学年主任と教頭先生も同席していた。名家の令嬢である詩織が金を盗むなど、誰もが信じがたいことだった。しかし、動かぬ証拠がそこにはあった。志穂は眉間を揉み、押し黙る。詩織は狼狽したように言った。「お母さん、違うの、これは遥とちょっとした冗談のつもりで……」「そうですよ。子供同士の、ただの悪ふざけじゃないですか」遥は信じられないというように教頭を見

  • 霧の中、君という雫   第17話

    「先生は、私のこと信じてくれますか?私がやったんじゃないって。あのお金は、盗んでません」「遥。先生は信じてるよ、君がいい子だってことは。だから余計なプレッシャーは感じずに、目の前の試験に集中しなさい」その時の遥は、先生の言葉にひどく落胆した。けれど、今の雫には分かる。田中先生は、遥を信じていなかったわけではないのだと。嵐の中心にいる時、誰一人として味方がいない状況では、決定的な証拠がない限り、反論すればするほど立場は悪くなる。名家の令嬢である柏木家の娘が、たかだか十八万円のために盗みを働くなどと、誰も信じるはずがないのだ。それは別に、金持ちに媚びへつらっているわけではない。ただ、裕福な家の人間がお金に困るはずがないという、一種の思い込みだ。詩織にとってはTシャツ一枚分の金額でも、貧しい遥にとっては大金に違いない。大衆の認識の中では、より金を必要としている遥こそが、犯人だった。あの時、遥はこのまま事件が風化していくものだと思っていた。歯を食いしばり、一ヶ月後に迫った入試に向けて、がむしゃらに勉強した。もう成功するしか道はないのだと、背水の陣で臨むような悲壮な覚悟で。だが、事態は遥の想像を超えて悪化の一途をたどった。遥が行く先々で、人々は奇異の視線を向け、あからさまに彼女を避けた。陰ではコソコソと、泥棒だと囁かれた。そんな日々が続いていた、ある日のこと。一本のショートメッセージが届いた。【柏木詩織があんたの机を漁ってる動画、持ってるんだけど。あんたの無実、証明できるぜ】【欲しけりゃ、ホテル・サンウエストの202号室まで来な】遥は指定された場所へ向かった。そこにいたのは、隣のクラスの矢野烈(やの れつ)だった。彼は札付きの不良で、毎週月曜の朝礼で名指しで注意を受ける常習犯だ。裕福な家庭環境を盾に、やりたい放題だった。烈は、いやらしい笑みを浮かべ、遥の胸元をねめつけるように見つめた。「青木遥、だっけ。高一の頃から目つけてたんだ。肌、真っ白だよな。なぁ、俺と仲良くしようぜ?そしたらこの動画、すぐに送ってやるからさ」遥は、烈に下心があることを見抜いていた。それでも、自分の無実を証明するその動画が、是が非でも欲しかったのだ。烈が遥に手を出してくることはなかった。そして約束通り、動画は彼女のスマートフォ

  • 霧の中、君という雫   第16話

    幸運の女神が三度目に微笑んだのは、高校三年の秋のことだった。実のところ、高校生活のほとんどで、遥は律と口を利いたことすらなかった。それが、高校三年の秋。二人は、隣の席になったのだ。だからといって、二人の会話が増えたわけではなかった。たまに、言葉を交わす程度。それだけだ。ある時、教科書を取り違えたことがあった。遥はその教科書にびっしりと書き込みをしていたのだが、授業が終わってから、それが律のものだと気づいたのだ。表紙には、柏木律、と彼の名前が記されていた。彼の字は、鋭く、少し癖のある筆跡だった。遥はその文字を、しばらくじっと見つめた。そして遥の文字もまた、彼の教科書の上に残された。その時からだろうか。決して交わることのなかった二本の線が、ほんの少しだけ、近づいたのは。けれど、その席替えもわずか三ヶ月のこと。すぐにまた、二人は離れ離れになった。遥の高校生活は、平穏なようで、平穏ではなかった。律の背中を、必死に追いかけた。もっと良くなりたいと、もがき続けた。自分の人生を、自分の手で掴み取りたかった。叔父夫婦の家から、一日も早く独立したかったのだ。S大を目指したのは、律と同じ大学に行きたいという気持ちだけでなく、自分自身のためでもあった。未来が、欲しかった。だが、今度ばかりは、幸運の女神は微笑んでくれなかった。大学入試を一ヶ月後に控えたある日。受験勉強で張り詰めている生徒たちを気遣った担任が、貴重な週末を利用して、クラス全員での遠足を企画した。費用は一人四千円。不足分は担任が負担し、余ったお金は卒業前のささやかなお別れ会でジュースやお菓子を買う足しにする、という決まりだった。当時のクラスでは、委員長が持ち回り制だった。その日、ちょうど当番だった遥は、全員から集めた会費をまとめ、自分の机の中に入れておいた。だがその日の午後、体育の授業から戻ると、机の中にあったはずの現金が、忽然と姿を消していた。夜の自習の時間。いつもは静まり返っている教室が、今はひそひそと囁き合う声で満ちていた。無数の視線が、遥の全身に突き刺さる。まるで皮膚を一枚一枚、ゆっくりと剥がされていくようだ。手のひらは汗でじっとりと濡れ、呼吸は恐怖に震える。全身が強張り、凍りついたように動けない。どうしていいか

  • 霧の中、君という雫   第15話

    あの頃、遥が着けていたのは、安物の子供っぽいブラジャーで、豊かな胸を支える力などまるでなかった。発達の良かった胸は歩くたびに揺れ、男子生徒だけでなく、女子生徒までもがひそひそと噂しながら見つめてくる。その視線が、遥には耐えがたいほどの屈辱だった。もっと良い下着を買うお金はない。だから夏でも制服の下に、白い木綿のタンクトップを一枚重ねて着るしかなかった。背後に迫る足音に気づき、遥は恐怖に駆られて駆け出した。すると、後ろの足音も速度を上げる。もう、泣き出してしまいそうだった。お腹が引きつるように痛む。背後には、いやらしい目つきの男。叔父の家までは、まだ遠い。律が現れたのは、そんな時だった。あの時、自分が先に彼の背中へ隠れたのか。それとも、彼が先に一歩踏み出し、遥の前に立ちはだかってくれたのか。今の雫には、もう思い出せない。それまでの遥にとって、「タバコ」や「ゲームセンター」なんて言葉は、目の前にいる彼とは最も縁遠いものだった。律は学校中の憧れの的で、松崎第九高校のまさに高嶺の花。そして、成績は常に学年トップという、眩しいほどの存在だったのだ。けれど、彼の喫煙姿は、街でいきがっている若者たちとはまるで違っていた。真っ白な制服の第一ボタンまできっちりと留められ、その身なりは塵ひとつないほどに清潔で整っている。ただ、薄紫の煙だけが、形の良い唇の端からそっと溢れ出す。それは決して単なる格好つけや、ニコチンへの渇望からくるものではない。彼がそうしたいから、しているだけ。そして、いつでも自分の意思でやめることができる。まるで、この世のすべてを意のままに操れるとでも言うように。氷のようにクールな仮面の下に、傲慢なまでの反骨精神を隠しているのだ。誰かに見つかることや、罰を受けることなど、まるで意に介していない様子だった。律はちらりと遥に目をやると、革財布から二千円札を一枚抜き取り、それを彼女に差し出した。「これでタクシー乗れ」結局、遥は歩いて家に帰った。あの二千円札は、使わずに日記帳にそっと挟み込んだ。おとぎ話のようにヒーローが助けてくれる、なんて展開ではなかったけれど、うぶな少女の心をかき乱すには、それだけで十分すぎた。ましてや相手は、誰もが見惚れるほどの美しい容姿の持ち主なのだから。高校二年

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status