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第9話

Author: 水無月ねこ
真澄は、手元の仕事を片付け、静かに立ち上がった。

オフィスのドアを出たその先で、彼は玲奈と大翔に鉢合わせた。

大翔は、小さな両手でコーヒーのカップを抱え、よたよたと歩み寄ってくる。

「真澄パパ、ぼく謝りにきたんだ……もう怒らないで?」

その声に、玲奈がすかさず寄り添い、胸を真澄の腕に軽く当てながら微笑んだ。

「大翔はちゃんと反省してるの。今回だけは、許してあげて?」

彼女はあざどくシャツのボタンを一個解け、唇には派手な赤。視線は揺れて、媚びるように彼を見上げる。

「ね、ただの子どもよ。ちょっとしたことで、そんなに怒らないで?」

吐息は濡れた熱を含み、首筋を撫でていく。

真澄は、眉をわずかにしかめた。

この女は——本当に、かつて自分の心を奪ったあの玲奈なのか?

記憶の中の彼女は、もっと静かで、凛とした気高さをまとっていたはずだ。

そして、大翔のしつけも——どうして、こんなにも心羽と違うのだろう。

一体、どこで間違えた?

今日、この親子を見ていると、どうしてこんなにも胸の奥がざわつくんだ?

「『ちょっとしたこと』?会社にどれだけの損害を出したと思ってる?」

真澄の声は低く、乾いていた。

「……ごめんなさい。でもこれ、大翔が自分で淹れたコーヒーなの。ほんとに反省してるのよ」

玲奈は焦るように、大翔をもう一歩前に出す。

ふたりの目が、いっせいに真澄を見上げた。

その「許しを乞う」ような眼差しに、胸がひどく締めつけられた。

見覚えのある、あの目だ。

柚希と心羽も、ずっとこんなふうに、自分を見つめていた。

彼は、吐き出すように言った。

「……もういい。今後は気をつけろ」

言葉はぶっきらぼうで、視線は逸らされたまま。

「それと、会社に子どもは連れてこないでくれ」

「真澄パパにちゃんとお礼言いなさい!」

玲奈の促しで、大翔はコーヒーを掲げた。

「真澄パパ、ぼく、これからはいい子にする!もう怒らせたりしないから!」

「……ああ」

真澄はそのカップを受け取らず、ふたりの横をすり抜けてエレベーターへ向かう。

「真澄、どこ行くの?」

彼の空気に違和感を察した玲奈が追いかける。

「今夜、一緒にご飯にしない?あなたの好きな料理、用意して待ってる」

彼は振り返ることなく、冷たく言い放った。

「今夜は予定がある。それより、勤務
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