誰にも知られることなく続いてきた、六年の結婚生活。その今夜、橘真澄(たちばな ますみ)は、初めて娘と「高い高い」をした。五歳になる心羽(こはね)は無邪気に笑いながら、手を振って篠原柚希(しのはら ゆずき)に声をかけた。「ママ、叔父さんがね、空に飛ばしてくれたよ!」その光景を見つめながら、柚希の胸の奥には、やり場のない切なさが広がっていた。それでも、母として微笑みを作る。せめて、この瞬間だけでも、娘の笑顔を壊したくなかった。真澄は、酔っていた。何をしているのか、自分でもわかっていないのだろう。彼は心羽を愛していない。柚希のことも。今夜、彼が機嫌が良い理由はただ一つ―彼の「本当に愛した人」水原玲奈(みずはら れいな)が、帰ってきたからだった。六年前、真澄と玲奈は情熱的に愛し合っていた。だが、ある日彼女は何の前触れもなく姿を消し、彼は彼女を追う途中事故に遭い、下半身不随となった。柚希は彼の専属秘書として、昼夜を問わず彼の傍に付き添い、怒りも絶望も黙った受け止め、励まし続け、リハビリにも付き合っていた。そして、ある日。彼が奇跡のように立ち上がれたその夜、酒に酔った真澄は彼女を玲奈と勘違いし、狂おしいほど何度も求めた。その夜、柚希は身ごもった。真澄は責任を取るように、結婚に同意した。だが、後になってすべてを知った。彼が結婚を決めたのは、責任感でもなく、愛情でもなかった。彼はただ、海外で玲奈が海外で他の男と交際しているというニュースを見たから、柚希と結婚したのだった。結婚後の彼は、まるで存在しないかのように、柚希と娘の生活には一切関わろうとしなかった。心羽が生まれた日、彼はわざと出張を入れ、病院には現れなかった。娘が言葉を覚え始めた頃、「パパ」と呼ぶことすら禁じた。心羽がスケートボードでバランスを崩したとき、ただ一度「パパ」と呼んだだけで、彼は冷たい目を向け、彼女が頭を打って血を流す姿を、ただ、見ていた。……だが、今夜の彼は、まるで父親そのものだった。娘を抱っこした後、ソファにそっと下ろし、柔らかな笑みを浮かべた。「俺、いいパパになるよ」「うん、心羽はパパを信じてる!」彼はその言葉を聞いたのか聞いていないのか、微笑みを残したまま背を向け、口元からぽつりと名をこぼした。
Read more