Share

第6話

Author: 最上慎
響介がそう尋ねたのには理由がある。彼は蒼真の宿敵だ。

もし彼がこの件を大々的に揉み消そうと動けば、間違いなく蒼真の警戒を招き、注目を集めてしまう。

そうなれば、琴音の逃亡計画が露呈する恐れがある。

そのリスクは琴音も響介も重々承知していた。

琴音は肺いっぱいに空気を吸い込むと、震える唇を引き結び、喉に詰まる熱い塊をぐっと飲み下した。

「自分で解決できるわ」

解決する唯一の方法、それは示談書にサインすることだとわかっていた。

結局、彼女は屈するしかなかった。

このまま意地を張り続ければ、蒼真が次に何を使って脅してくるかわからない。

植物状態の母がまだ黒崎系列の病院に入院しているのだ。

琴音は七年間自分を幽閉し続けた、あの忌まわしくも煌びやかな「黄金の鳥籠」へと舞い戻った。

書斎で、琴音は震える手で示談書にサインをした。

ペン先が紙を走るたび、身をナイフで切り刻まれるような激痛が走った。サインがまるで彼女の魂が流した血涙そのものだった。

「琴音、最初からこうしていれば、こんなことにはならなかったんだ」

満足のいく答えを得て、蒼真は唇を吊り上げた。まるで何事もなかったかのように。

蒼真は慈しむような声で琴音の名を呼び、愛おしげに抱き寄せようと手を伸ばした。

だが彼女は反射的に後ずさった。充血した瞳の奥は粉々に砕け散り、顔に残る傷跡が彼女の危ういほどの脆さを残酷なまでに際立たせていた。

「サインしたわ。写真と動画を消して」

蒼真は軽く笑い、秘書に指示を出した。

仕事は早かった。数分後、秘書が戻ってきて報告した。

「社長、全て削除しました。全プラットフォームにおいて二度と流出しないよう手配済みです」

琴音が立ち上がり、部屋を出ようとすると、蒼真がそれを引き止めた。

「明日は摩耶の誕生日パーティーだ。これを機に仲直りしてこい。これから同じ屋根の下で暮らすことになるんだからな」

その言葉に、彼女は勢いよく顔を上げた。蒼白な顔に驚愕が広がった。

蒼真は悠然と書類を手に取った。その声は淡々としていたが、そこには有無を言わせぬ絶対的な威圧が込められていた。

「知っての通り、植物状態の人間の生命維持には毎年莫大な費用がかかる」

琴音は馬鹿ではない。蒼真の言いたいことは理解できた。

だが、まさか蒼真が彼女の母を人質に取るとは思わなかった。

実家が破産した日、彼女の父はビルから飛び降りて即死した。母も後を追って自殺を図ったが、発見が早く一命を取り留めた。

その時、大金を投じて最高の専門医と医療チームを呼んでくれたのは蒼真だった。

彼は琴音の手を握り、必ず彼女の母を助けると約束してくれた。

その後、彼女の母の命は繋がったが、植物状態となった。治療の継続を主張したのは蒼真だった。

彼は琴音にとって母がどれほど大切な存在かを知っていた。

琴音は再び妥協した。響介が彼女の母を移送するにしても、時間が必要だ。

母の命は今、蒼真の一存にかかっている。

琴音はふらつく足取りで部屋に戻った。

その夜をどう過ごしたのか、彼女自身も覚えていなかった。

翌日、彼女は操り人形のように連れ出された。

豪華なクルーザーの中は、どこもかしこも退廃的な空気に満ちていた。蒼真は眩いばかりに着飾った摩耶の手を引き、人々の前に現れた。

琴音はうつむいたまま、黙ってその後ろに従った。

その姿はあまりに場違いだった。

みんなが摩耶のご機嫌を取る中、誰かが琴音に気づいた。

瞬く間に、矛先は彼女に向けられた。

「あらあら、あんな無惨な顔でよく愛人が務まるわね。おぞましい。宝生様がお優しいから、没落した実家に免じて置いてくださってるだけでしょうに」

「日陰者の愛人がよくこんな晴れの舞台に顔を出せるわね。その厚顔無恥さには呆れるわ。私だったら、恥ずかしくて今すぐこの海に身を投げるわよ。生きてて何が楽しいのかしら」

琴音は沈黙を貫き、自分の存在感を消そうと努めた。早くこの場が終わり、母を連れて去ることだけを考えていた。

だが、摩耶は彼女を放っておくつもりはなかった。

摩耶は偽善的な笑みを浮かべて近づき、親しげに、そして寛大さを装って彼女の腕を組んだ。

「本来なら、私がお礼を言わなくちゃね。順番で言えば、あなたが先だったものね。長年、私の代わりに蒼真の世話をしてくれてご苦労様」

その言葉が落ちた瞬間、周囲から浴びせられる蔑みの視線がまるで煮え滾る熱湯のように、琴音の肌をじりじりと焼き焦がした。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 骨まで蝕む愛、その正体は嘘   第28話

    摩耶のせいで琴音は子供を産めない体になったが、響介は全く気にしていなかった。彼が求めたのは琴音という人間であり、彼女を子供を産む道具だとは微塵も思っていなかったからだ。琴音がそばにいてくれるだけで、彼は満ち足りていた。響介と琴音は長い時間墓前に佇んでいた。だが、墓地の片隅で、一組の濁った瞳がじっと二人を見つめていた。焼け爛れた顔にかつての美貌はなく、あるのはケロイド状にひきつれた醜い火傷痕だけだ。蒼真は帽子のつばを目深に下ろした。だが、その視線は磁石に吸い寄せられるように、遠くの華奢な人影を追ってしまった。濁った双眸は飢えた獣のように、貪るように彼女を見つめ続けた。琴音が帰国すると聞き、彼はすぐに墓地へと駆けつけた。ただ、もう一度彼女を見たかった。遠くからこっそり盗み見るだけでいい。それだけで十分だった。この数年、彼は軟禁状態にあったが、琴音の動向はずっと追い続けていた。一年目、琴音は斬新なデザインで国際的な賞を受賞し、盛大な個展を開いた。二年目、琴音はビションフリーゼを飼い始めた。名前は「モモ」。彼らの間に生まれるはずだった子供の愛称だ。三年目、琴音は再び国際的なチーフデザイナーとして返り咲いた。……蒼真の脳裏に思い出が走馬灯のように駆け巡った。だがそのすべての場面で、琴音の隣にいるのは響介だった。そうだ。この五年の彼女の重要な瞬間には、いつも響介がいたのだ。一方自分は、何千キロも離れた場所から、彼女の幸せな生活を覗き見ることしかできなかった。視線が熱すぎたのか、琴音がふと気配を感じて振り返った。目が合いそうになった瞬間、蒼真は我に返り、慌てて頭を下げた。無様に車椅子の車輪を回し、逃げるように去っていった。実のところ、琴音はとっくに遠くの人影に気づいていた。それが蒼真であることもわかっていた。だが、もう彼と関わるつもりはなかった。二人は五年前に完全に終わったのだ。だが、母の墓の後ろに手向けられた真新しい白菊を見て、違和感を覚えた。すぐに、琴音の予感は的中した。墓地のそばにある唯一の花屋で。「車椅子の男性ですね。五十歳くらいに見えましたが……顔は見たことがありません。いつもマスクと帽子をしていましたから。手には酷い火傷の痕がありました。毎月注文に来て、三十六番

  • 骨まで蝕む愛、その正体は嘘   第27話

    次の瞬間、ドアが開いた。蒼真だ。彼は笑っていたが、眼底には狂気が走っていた。「気に入った?琴音。特注で作らせたんだ。俺たちの家とそっくりだろう?こうすれば、俺たちは永遠に一緒にいられる。誰にも邪魔されずにね」琴音は必死に冷静さを保とうとした。目の前の狂った男を信じられない思いで見つめた。蒼真の隙を突き、彼女は枕元のペティーナイフを掴んだ。そして、切っ先を自分の首に押し当てた。「今すぐここから出して!さもないと死んでやる!」琴音は賭けた。彼が自分を死なせるはずがないと。賭けには勝ったが、同時に負けでもあった。確かに蒼真は彼女を死なせはしなかった。彼は琴音の手からペティーナイフを奪い取ると、迷わず自分の心臓へと突き立てた。鮮血が噴き出し、白いシャツを赤く染めた。「琴音、俺の心臓をえぐり出して、君に見せてやりたいくらいだよ」琴音は言葉を失った。蒼真は部屋から鋭利な物をすべて撤去し、ベッドの脚さえ厳重に梱包した。琴音は軟禁された。今はただ、響介が早く見つけてくれることを祈るしかなかった。彼女はハンガーストライキを始めた。蒼真はかつて彼女が好きだったラーメンを運び、ベッドサイドに跪いて、一口でいいから食べてくれと哀願した。琴音は力なく、しかし嫌悪を込めて言った。「あなたの顔を見ると、吐き気がするの」その言葉に、蒼真はラーメンを置き、無言で部屋を出て行った。だが、再び現れた時、蒼真の顔は無数の傷で覆われた。彼は凄惨な笑みを浮かべていた。「琴音、見て……これで俺たちは正真正銘の『お揃い』だね」琴音は戦慄した。蒼真がこれほど極端な人間だったとは気づいたことがなかった。時間が過ぎていった。監禁されてから丸五日が経過した。断食で瀕死の状態になり、意識が途切れかけた時。パトカーのサイレンが聞こえた。助けを呼ぶ力もなく、彼女の視界は暗転し、完全に意識を失った。再び目を覚ましたのは、病院のベッドの上だった。響介が警察を連れて踏み込んだ際、事態の露見を悟った蒼真は完全に自暴自棄になったらしい。家に火を放ち、琴音と無理心中を図ろうとしたのだ。幸い、響介が間一髪で飛び込み、琴音を救出した。火も消し止められ、蒼真は一命を取り留めた。だが全身に大火傷を

  • 骨まで蝕む愛、その正体は嘘   第26話

    だが、この「嫌いじゃない」という言葉は響介にとって「好きだ」と言われたに等しかった。琴音は独り言のように続けた。隣で響介が驚きと喜びに震えていることにも気づいていなかった。「それに、契約書にサインしたじゃない。期間は三年。約束を反故にするわけにはいかないわ。もしかしたら、私たち、うまくやっていけるかもしれない。本当の夫婦みたいに。ずっと演じ続けるのは少し疲れちゃった」この数日間の生活で、琴音も響介の想いに薄々気づいていた。そして彼女自身、響介からの好意や気遣いを不快だとは思わなくなっていたのだ。それどころか、先日彼が出張した際、少し寂しいとさえ感じていた。その言葉を聞いた響介は心臓が破裂しそうだった。帰路はずっと無言だった。帰宅するや否や、彼は書斎に閉じこもった。琴音は彼を怒らせたのかと思った。彼はビジネスマンだ。顔に傷があり、他の男と七年も付き合い、子供も産めない女など本気で相手にするはずがない。書斎の前でノックしようか迷っていたその時、ドアが勢いよく開いた。書類の束を抱えた響介と鉢合わせた。彼は怒っていたわけではなかった。この数年間の全資産を整理していたのだ。「そうだ、今すぐ名義変更だ。全部、妻に生前贈与する」響介はその晩のうちに電話で手配を済ませた。琴音が呆気にとられている間に、彼は全ての手続きを指示し終えていた。響介は琴音の手を取り、輝く瞳で真摯に、そして敬虔に見つめた。「俺のすべてを、君に捧げる」あの日以来、二人の絆は深まっていった。響介は琴音に完璧な思い出を作ってあげるんだと言い張り、告白のやり直しから始め、すべてのことを丹念に準備した。琴音も徐々に過去を清算し、新しい生活へと歩み出した。だが、予想外のことが起きた。蒼真がまだ諦めていなかったのだ。保釈された後、彼は毎日花束を抱え、琴音の会社のビルの下に立ち尽くしていた。切なげな表情で、琴音のオフィスを見上げていた。琴音は無視を決め込んだが、その様子を通りがかりの人に撮られ、ネットにアップされてしまった。再び世間が騒ぎ出した。響介は激怒し、また武力行使に出ようとした。だが琴音はそれを止めた。彼女はわかっていた。自分が直接引導を渡さなければ、蒼真は永遠に諦めないだろうと。カフェのテーブルに

  • 骨まで蝕む愛、その正体は嘘   第25話

    琴音がただ冷ややかに見つめ、一言も発さないのを見て、蒼真は焦り、手を挙げて誓おうとした。だがその瞬間、琴音の背後からある人影が飛び出した。蒼真が反応する間もなく、鉄拳がその顔面に炸裂した。響介だ。蒼真の体は元々弱っていたため、この一撃で吹き飛んだ。響介は圧倒的な力で彼を制圧し、地面に押さえつけて殴り続けた。雨霰と降り注ぐ拳が蒼真の痩せ細った身体を無慈悲に打ち据えていった。響介は信じられなかった。よくものこのこと現れたものだ。どの面下げて琴音の前に立てるというのか。琴音は警察に通報し、蒼真が先に手を出そうとしたと証言した。警察署で、響介は間に合ったことを神に感謝した。もし遅れていたらと思うと、ぞっとした。やがて、琴音が取調室から出てきた。琴音を見た蒼真は慌てて立ち上がろうとしたが、手錠で椅子に繋がれていることを忘れ、よろめいて椅子ごと倒れそうになった。「琴音、あいつのせいなのか?もし君が望むなら、今すぐ君を連れて帰る……」蒼真の瞳に期待の色が走った。彼は琴音から望む言葉が聞けると信じていた。しかし、琴音は冷酷な目で彼を見下ろし、嫌悪感を隠そうともせずに言った。「私は結婚したの。迷惑だから二度と来ないで。私たちはもう終わったのよ。これ以上付きまとうなら、容赦しないわ」彼女は決然と言い放ち、蒼真に微塵の希望も与えなかった。「違う、そんなはずはない!君はあいつを愛してなんかいない!琴音、無理やり結婚させられたんだろう!今すぐ連れて逃げてやる!」蒼真は支離滅裂な弁解を叫び、手を伸ばして彼女に触れようとした。だが琴音は素早く避けた。その拒絶の動作が蒼真の心を深く抉った。「誰も強要なんてしてないわ。もう一度言うけど、私は響介を愛してる。響介は私の夫よ。私たちは終わったの。いい加減にして」そう言うと、琴音は迷わず背を向け、わざとらしく響介の手を取って歩き出した。突然の温もりに、傍観していた響介は驚いた。だがすぐに状況を理解し、まんざらでもない表情を浮かべた。口元に得意げな笑みが浮かんだ。琴音の動きに合わせて彼女に寄り添い、腰に手を回して抱き寄せた。その光景を見た蒼真の精神は完全に崩壊し、狂ったように叫んだ。「琴音!俺は諦めないぞ!あいつにできることなら、俺は倍にし

  • 骨まで蝕む愛、その正体は嘘   第24話

    だが、蒼真は予想に反して大声で笑い出した。「響介、こんなことで琴音を繋ぎ止められるとでも思っているのか?彼女は七年以上も俺を愛していたんだ。お前なんか一日たりとも愛されたことはないだろう。俺が謝れば、彼女はきっと……」響介は最後まで言わせなかった。冷酷に彼の指を踏み砕いた。美しい指が無残にねじ曲がり、青紫色に変色した。蒼真はついに耐えきれず、苦悶の叫びを上げた。そうだ、琴音は長年俺を愛していた。だが、俺はそれと同じ年月、彼女を騙し続けてきた。蒼真のあまりに身勝手な妄言に、響介は怒りを通り越して、フンと鼻で笑い飛ばした。「ここはA国だ。お前ら黒崎家が幅を利かせているところじゃない」これほど恥知らずな人間に会ったのは初めてだ。響介は手を拭いたハンカチを侮蔑を込めて蒼真の無残な顔に投げつけた。「汚らわしい」その声には軽蔑と嘲笑が満ちていた。「こいつを黒崎家の本家へ送りつけろ。全メディアに通知しろ」蒼真は有名になるのが好きだったな?情報操作が得意だったな?なら今回は思う存分味わわせてやる。黒崎家の本宅前。蒼真は黒塗りのベントレーからゴミのように放り出された。その瞬間、待ち構えていた記者とメディアが一斉に群がった。シャッター音が鳴り止まなかった。無数のフラッシュが瀕死の蒼真を照らし出した。夜だというのに、本宅前は昼間のような明るさだった。すぐに【黒崎蒼真、仇敵による報復か】というニュースがトレンド入りした。傷だらけの蒼真の写真がネット上で拡散され、黒崎家はパニックに陥り、あらゆる権力を使って揉み消そうと躍起になった。一方、仕事をしていた琴音も携帯でそのニュースを目にした。裁判が終わってから、彼女は完全に新しい生活を始めていた。葛城会社の分社でチーフデザイナーとして働きながら、自身のアトリエも開設した。当初、響介は本社への入社を勧めたが、琴音は丁重に断った。「コネ入社だと思われたくないから」と。携帯に映る蒼真の無残な姿を見ても、琴音の心はわずかに驚いただけだった。感情の波は凪いでいた。蒼真に対して、愛はとうに枯れ果て、残っているのは骨に刻まれた恨みだけだ。琴音は淡々と携帯を閉じた。これが響介の仕業であることは察しがついた。だが、この件について、琴音は深

  • 骨まで蝕む愛、その正体は嘘   第23話

    実のところ、響介は蒼真よりもずっと早くから琴音に恋していた。だが当時、葛城家は黒崎家に抑え込まれており、琴音に安定した未来を保証できる力はなかった。その後、葛城家は一家を挙げてA国へ移住した。二人が結婚さえしなければ、まだチャンスはあると信じていた。響介は死に物狂いで己を磨き上げ、虎視眈々と爪を研ぎ続けた。だが、ようやく黒崎家に対抗できる力を得た時、届いたのは琴音の結婚の知らせだった。響介に迷いはなかった。彼は即座に、式場へ乗り込んで彼女を奪い去る「花嫁強奪」を決意した。失敗するとわかっていても、行かずにはいられなかった。案の定、琴音は彼を拒絶した。あの日以来、響介は蒼真を心の底から憎んだ。理解できなかった。蒼真のどこがいいのか。蒼真が与えられるものなら、自分だって全部与えられるのに。自分の命さえ差し出せるのに。響介はその鬱憤をすべて蒼真への敵対心に変えた。二人は周知の宿敵となり、顔を合わせれば殺し合いのような争いを繰り広げた。「社長、阻止しますか?」秘書が静かに尋ねた。響介は現実へと引き戻された。「止めろ。空港から一歩も出すな」響介は歯ぎしりするように言った。琴音と結婚したとはいえ、それは名ばかりの夫婦に過ぎなかった。互いに敬意を払い合うような関係ですらなく、実態は一つ屋根の下に暮らす赤の他人だった。彼は恐れていた。蒼真が謝罪する姿を見れば、琴音の心が揺らぐのではないかと。ようやく手に入れた愛しい人を再び奪われるのが怖かった。琴音を縛り付けたくはない。だが、彼女があの地獄へ戻るのを黙って見ているわけにはいかない。響介は賭けるしかなかった。琴音がとっくに蒼真に愛想を尽かしていることに。そして、自分が彼女を助けた恩義を感じて、三年間穏やかに過ごしてくれることに。たとえ三年の契約でも、たとえ他人行儀でも、毎日彼女の姿が見られるなら、それだけで十分だった。秘書の動きは早かった。蒼真は飛行機を降りるや否や、空港のロビーに出る間もなく、響介の手の者によって拉致された。薄暗く湿った廃倉庫。天井の隙間から一筋の光が差し込み、蒼真の顔を照らしていた。蒼真は中吊りにされ、まだ意識を失っていた。響介の合図で、ボディーガードが高圧洗浄機を構え、容赦なく蒼真の顔に噴射した

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status