LOGINニュースでは、午後6時ごろ、猛烈な台風が凪浜市に上陸する見込みだと伝えていた。 午後4時になると、同僚たちは次々と帰り支度を始めた。 電車も路線バスも、すでに運休が決まっている。 車で来ていた人たちは、帰る手段のない同僚に声をかけていた。 私、高階結月(たかしな ゆづき)も乗っていかないかと聞かれたが、笑って断った。 「ありがとう。でも大丈夫。彼氏が迎えに来てくれるから」 すると、みんなから「彼氏がいるといいね」とからかわれた。 恋人の鷺坂柊真(さぎさか とうま)からは、1時間前に【もうすぐ着く】とLINEが届いている。 午後5時。 外の風は、さらに強くなっていた。 柊真に電話をかけたが、出なかった。 道路も混んでいるだろうし、遅れるのは仕方がない。 そう思って待ち続けた。 午後5時半を過ぎると、外では激しい雨が降り始めた。 オフィスに残っているのは、もう私一人だけだった。 天井の照明が何度かちらつき、パチンと音を立てて消える。 暗闇の中で、もう一度柊真に電話をかけた。 今度はつながった。 ところが、聞こえてきたのは、柊真の同僚・星名陽葵(ほしな ひまり)の声だった。 「結月さん?」 一瞬、言葉を失う。 「……柊真は?」 「柊真さんなら運転中です。今は電話に出られなくて」
View More同僚は呆れたようにため息をついた。「私に聞かれても困ります。ご自分で考えたらどうですか」そのまま苛立ちを隠さず続ける。「私が知ってるのは、結月が彼氏の迎えをずっと待っていたのに、いつまで経っても来なくて、会社に取り残されたことだけです。オフィスの窓ガラスまで割れて、休憩室に逃げ込んで、1人で朝まで耐えたんですよ。あの夜、どれだけ怖かったと思います?その頃、鷺坂さんは何をしてたんですか?」柊真は首を横に振った。「そんなはずない……結月が会社にいたって、どういうことですか。俺はちゃんとLINEを送った」震える手でスマホを開き、結月とのトーク履歴を遡った。やがて、台風の日に送ったはずのメッセージが見つかった。【結月、急に用事ができた。タクシーで帰って。気をつけてな】そのメッセージの横には、未送信を示すマークが残っていた。柊真の指が止まる。メッセージは、結月に届いていなかった。何も知らない結月は、会社で自分が迎えに来るのを待ち続けていたのだ。それなのに、柊真は最後まで迎えに行かなかった。足元がふらつき、顔からさっと血の気が引いた。翌朝、家へ戻ったとき、リビングの窓が割れていないことを不思議に思った。あの電話で結月が言っていたのは、自宅ではなく会社の窓ガラスだったのだ。柊真はうつむき、喉の奥から押し殺したうめき声を漏らした。同僚は最後まで冷たい口調を崩さなかった。「結月は今、休みを取ってご両親と過ごしてます。Instagramも見ましたけど、隣にいた男性のほうが結月には合ってると思いますよ。もう、邪魔しないであげてください」柊真は信じられないように顔を上げた。すぐに、その男性が食事の個室にいた男だと気づく。慌てて結月のInstagramを開こうとした。けれど、プロフィールは表示されない。そこで初めて、自分がブロックされていることに気づいた。胸が詰まり、しばらく画面から目を離せなかった。結月を本当に失ったのだと、ようやくわかった。……柊真が私を見つけたとき、私は父と母の写真を撮っていた。惟人はそばに立ち、私のコートとバッグを持ってくれていた。柊真はその手元を見つめ、わずかに表情を曇らせた。以前なら、私の荷物を持つのは柊真だった。少しだけ時間をくれな
その場にいた同僚たちも、そろって目を丸くした。柊真が陽葵の頼みを断った。そんなことがあるとは、誰も思っていなかったのだろう。みんなの前で拒まれ、陽葵の頬がみるみる赤くなった。目にはうっすらと涙が浮かび、声にもかすかな鼻声が混じった。「どうしてですか?今日は車で来てますよね……」柊真が振り返り、冷ややかな目を向ける。その視線に、陽葵は思わず息をのんだ。「彼女を迎えに行くんだ。送ってる暇なんてない」苛立ちを隠そうともせず、柊真は言い切った。すると、周囲の同僚たちは一斉に仕事の手を止めた。向かいの席にいた同僚が少しためらったあと、好奇心に負けたように口を開く。「あの、鷺坂さん。前はいつも、『結月さんはしっかりしてるし、1人で帰れるから迎えなんて必要ない』って言ってませんでした?」柊真は目を瞬かせた。「俺、そんなこと言ってたか?」周りの同僚たちが、そろってうなずく。そこへ、1人の女性社員が何かを思い出したように続けた。「去年の結月さんの誕生日も、最初は『いい店を予約した』って話してましたよね。でも結局……」意味ありげな視線が、陽葵へ向けられる。「午後になって星名さんが高熱を出して、鷺坂さんが病院まで連れていくことになった。私たちが『彼女との約束は?』って聞いたら、『食事なら明日でもいい。結月ならわかってくれる』って」女性社員は口元だけで笑った。「そのとき、鷺坂さんの彼女って、本当に理解があるんだなって思いました。私なら、そんな彼氏は絶対に嫌ですけど」言葉の棘には、誰もが気づいた。陽葵は居心地悪そうに顔をこわばらせ、すぐに言い返す。「でも、同じチームなんですから、困ったときに助け合うのは普通ですよね?ね、柊真さん?」陽葵は縋るように柊真を見た。けれど、柊真は何も言い返せなかった。周りはとっくに気づいていた。自分だけが、見ようとしてこなかったのだ。もう仕事を続ける気にはなれなかった。柊真は早退を申し出ると、そのまま車で結月の勤務先へ向かった。運転しながらこれまでを思い返し、結月を迎えに行かなくなってから、すでに2年以上経っていることに気づく。3年前、車を買ったばかりの頃は、得意げに約束した。「結月、これからは雨の日も風の強い日も心配しなくていい。俺
柊真は自分の席に座り、何の通知もないスマホの画面をぼんやり見つめていた。これ以上LINEを送ったらブロックすると結月に言われてから、すでに2日が経っている。まだ怒っているだけだと思っていた。気が済めば、きっと結月のほうから連絡してくる。これまでも、何度もそうだった。どれほど腹を立てても、2日もしないうちに、何事もなかったように笑いかけてきた。けれど今回は、これまでにない焦りが消えなかった。あの日、個室で自分を見つめていた結月の目が、頭から離れない。笑ってもいなければ、怒っても、責めてもいなかった。自分とは何の関係もない他人を見る目だった。以前なら、怒って、泣いて、感情をぶつけてきた。「もう私のこと、好きじゃないの?」そう何度も聞かれるたび、正直、面倒だと思うこともあった。それでも内心では、少しうれしかった。それだけ結月が自分を好きだということだから。何をしても、結月は離れていかない。いつの間にか、そう思い込んでいた。その気持ちに甘え、最後には必ず許してもらえると思っていた。陽葵に何かあれば、結月との予定を後回しにして駆けつけた。陽葵が落ち込んで仕事に支障が出れば、同じチームの自分まで困る。そう言い訳していた。それだけではない感情があることにも、薄々気づいていた。けれど、考えないようにしていた。結月なら、少し機嫌を取れば大丈夫だ。ケーキを買って、ミルクティーを渡して、やさしい言葉をいくつか並べればいい。そうすれば、また許してくれた。7年も続いた関係が、こんなことで壊れるはずがない。7年。その言葉が頭に浮かび、柊真はふと動きを止めた。そうだ。自分たちは、付き合って7年になる。結月は毎年、記念日を楽しみにしていた。記念日をきちんとやり直せば、今回も許してくれる。そう考えると少し気持ちが軽くなり、慌ててスマホのカレンダーを開いた。日付を確認した瞬間、息が止まった。椅子に座ったまま、指一本動かせなくなった。顔色がよほど悪かったのか、向かいに座る同僚が不思議そうにのぞき込んできた。「鷺坂さん、どうしたんすか。顔色、相当やばいですよ。何かあったんですか?」柊真は答えなかった。画面に表示された日付を見つめたまま、血の気が引いてい
惟人と別れたあと、私は両親とホテルへ戻った。その夜、柊真からのLINEは途切れることがなかった。電話には出ないとわかっているのか、ひたすらメッセージを送り続けてくる。【陽葵のために説明してくれって頼んだこと、そんなに腹が立ったのか?結月がそこまで気にするとは思わなかった。投稿はもう消させた。それとも、打ち上げのこと?あれは部署のみんなで決めたんだ。嫌だったなら、今後ああいう集まりには参加しない。怒ってもいい。殴っても、怒鳴ってもいい。でも、別れるなんて言わないでくれないか。今までだって……どれだけ怒っても、別れるとは言わなかっただろ】そうだ。あの頃は、この関係を手放せなかった。私にきちんとしたものを食べさせたいと、手をやけどしながら料理を覚えてくれた柊真を、忘れられなかった。体調を崩して落ち込んでいると、どうにか笑わせようと、あれこれ考えてくれた柊真が好きだった。何気なく「あれが食べたい」と口にすれば、何軒も店を回って買ってきて、背中に隠しながら「何だと思う?」と笑っていた。私が手放せなかったのは、まっすぐで、誠実だった頃の柊真だ。けれど、社会人になって陽葵と出会ってから、柊真は少しずつ変わっていった。私が好きだった、あの頃の柊真の面影は、もう残っていなかった。空が白み始めた頃、目が覚めた。スマホを見ると、通知はすでに99件を超えている。トーク画面を開いたあとも、新しいメッセージが次々と届いた。小さく息を吐き、最後に一通だけ返す。【もう送らないで。決めたことだから。これ以上続けるならブロックする】ようやく通知が止まった。すぐに既読がついた。返信が来るかと何度か画面を見たが、結局、何も届かなかった。大きく伸びをして、窓辺へ向かう。カーテンを開けると、嵐が過ぎ去った空はきれいに晴れていた。会社には数日休みをもらっている。せっかく両親が凪浜市まで来てくれたのだから、ゆっくり街を案内するつもりだった。その話を知った惟人から、よければ自分も一緒に回りたいと連絡が来た。小さな会社を経営していて、時間の融通は利くらしい。少し考えた末、【お願い】と返した。惟人も一緒なら、両親もきっと喜ぶ。柊真のことで、いつまでも気を揉まずに済むはずだ。返事を送ると、すぐに
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