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第0009話

Author: 龍之介
綿の心臓が大きく跳ね上がり、瞳孔がわずかに縮まる。

――今、彼はなんて言った?

「彼女の夫だ」と?

信じられなかった。

輝明は、いつだって自分たちの結婚を認めようとしなかったはずだ。

綿の驚いた表情を見た輝明は、心の奥に小さな苛立ちを覚えた。

――彼女の夫だと言っただけで、なぜそんなに驚く?

ジョンが戸惑いながら指をさし、驚いた様子で口を開いた。

「……あなたたち、夫婦だったんですか?」

綿は、すぐにジョンに目を向けた。彼を欺いていたことに、申し訳なさがこみ上げる。ジョンの瞳には、明らかな失望と怒りが滲んでいた。

彼は、この二人に振り回され、適切な敬意を払われていないと感じているのだろう。

しかし、彼の口から出た言葉は、そんな感情とは裏腹に、どこまでも誠実だった。

「綿さん、僕は本当に君のことを尊敬している。君のことを詮索するつもりはない。でも、もし助けが必要なら、いつでも言って」

その言葉に、綿は胸が締め付けられるのを感じた。

家族以外で、こんなにも自分を気にかけてくれる人がいたのは、どれくらいぶりだろう。

感謝の言葉を口にしようとした、その瞬間――

ガシッ。

突然、手首が掴まれた。

振り返るまもなく、冷たい声が響く。

「ジョンさん、ありがとう。でも、俺の妻に他人の助けは必要ない」

輝明が、鋭い目でジョンを一瞥し、そのまま綿の腕を引いた。

「――ッ!」

ジョンは一瞬呆然とし、次に何かを言いかけたが、言葉にならなかった。

綿は眉をひそめ、声を荒げる。

「高杉輝明、放して!何をしているの?」

だが、彼は振り返らず、まるで彼女の抵抗など気にも留めていないかのように、足を速める。

綿は、素足のまま冷たい地面を踏みしめる。硬い石に足をぶつけた瞬間、鋭い痛みが走り、「痛っ!」と息を飲んだ。

その小さな声に、輝明の足が止まる。

ゆっくりと振り返ると、綿の目はわずかに赤くなっていた。

「……輝明、痛い」

声が掠れ、喉の奥で詰まるような、滲んだ音を帯びていた。

彼は一瞬言葉を失い、ふっと視線を落とす。

裸足になった彼女の足元を見つめると、かすかに腫れ始めているのがわかった。

――もし、これが嬌だったら?

彼は、こんなに乱暴に扱うだろうか?

いいや、絶対にそんなことはしない。

ふと胸の奥が、理由もなく強く引き裂かれるような感覚に襲われる。

その違和感を振り払うように、輝明は無言のまま綿に歩み寄り、躊躇なく彼女の体を抱き上げた。

「……っ!」

思わず驚き、彼の服の袖をしっかりと掴む。

――軽い。

細い腰に手を添えると、その柔らかさと華奢さに、彼は思わず眉をひそめる。

こんなにも細かったか?まるで、少しの力で折れてしまいそうなくらい――

輝明は、余計な言葉を発することなく、そのまま彼女を車へと運び、そっとシートに座らせる。ドアを閉め、自分も運転席に回り込んだ。

綿は、ますます彼の意図が分からなくなった。

静かに、車のドアが閉まる。車内に流れるのは、雨の音だけ。二人の間には、沈黙が続いた。

綿の肌は、白く透き通るようだった。濡れた顔や首には水滴がついており、夜の微かな光に照らされている。

その横顔を一瞥し、輝明は昨夜のことを思い出した。

――あのクラブでの、熱いキス。

思い出すと、喉が渇くような感覚が広がる。

彼はポケットから煙草を取り出し、一本に火をつけた。

「お前とジョンは、どういう関係なんだ?」

綿は、彼の問いに驚き、ゆっくりと顔を上げた。

彼は、真剣な目で彼女を見つめていた。

本当に、自分とジョンの関係を気にしているのか?

「……友達よ」

きっぱりと答える。

輝明は、納得がいかないように眉をひそめた。

――じゃあ、なぜ彼はあんな目をしていた?

しかし、それ以上追及しなかった。煙の匂いが車内に漂う中、しばらくの沈黙が続く。

次の瞬間、彼は後部座席から何かを取り出し、綿の方へと投げた。

「……これを使え」

「……?」

綿は、まつ毛を震わせながら、小さな包みを見つめる。それは、消毒綿と包帯だった。

「……何のこと?」

彼は、面倒くさそうに舌を打ち、苛立ちを隠さずに言った。

「手だよ」

綿は、一瞬何のことか分からなかったが、ふと手のひらを開くと、そこに小さな傷があるのに気がついた。

――ああ、ペンで傷つけた時のものだ。

自分でも気づいていなかった傷を、彼が気づいていたことに、わずかな違和感を覚える。

「……大したことじゃない」

そう言って、拳を握り、手を隠そうとした瞬間――

ガシッ。

再び、手首を掴まれる。

輝明は、何も言わずに彼女の手を引き、慣れた手つきで、傷の手当てを始めた。消毒綿でそっと拭いながら、ぽつりと呟くように言った。

「昔は、ちょっとの傷でも大騒ぎして、病院に行くって駄々こねてたくせに」

綿は、その言葉を聞きながら、ぼんやりと過去を思い出す。

結婚したばかりの頃、綿は彼の気を引こうとして、よく病院に通った。

彼が少しでも心配してくれるかもしれないと期待し、わざと小さな怪我をしてみせたこともある。

けれど――

彼の視線は、いつだって自分を素通りしていた。

どんなに試しても無駄なのだと、悟ったのはいつだっただろう。

「……だから、昔の話でしょ」

輝明が無言で手当てを続ける横顔を見つめながら、綿は胸の奥に鈍い痛みを感じた。

――急にこんなに優しくされて、もし私が離婚を後悔したら、どうするつもり?

そんなことを考えた瞬間、苦く笑いたくなる自分がいた。

輝明はふいに顔を上げ、口にはまだタバコをくわえたまま、ぼんやりと煙を吐き出した。

――本当に口が減らないやつだ。

煙の匂いが鼻を刺し、綿は思わず咳き込む。

その様子を見た輝明は、無言のままタバコを消し、窓を全開にする。

「……相変わらずだな、過保護に育てられたお嬢様は」

綿は何も言わず、ただ彼の顔をじっと見つめた。

――タバコの匂いが嫌いだった。

家では誰もタバコを吸わなかったし、結婚前、輝明がタバコをやめたのも、彼女が嫌がると言ったからだと思っていた。

けれど――それは、彼女のためではなかった。

そのことを知ったのは、ある日のことだった。彼を訪ねた時、偶然、嬌が彼の膝の上に座り、甘えた声でこう言っているのを聞いたのだ。

「明くん、タバコやめてって言ったら、本当にすぐやめてくれたんだね。偉い偉い。今日はご褒美に、一緒にご飯でもどう?」

――ああ、そういうことだったのか。 彼がやめたのは、自分のためじゃなかった。

あの日、胸に広がった冷たさを、彼女は今も鮮明に覚えている。

プルルルル――

突然、携帯の着信音が車内に響いた。Bluetoothが自動接続され、ディスプレイに映し出された名前は――「嬌ちゃん」。

綿は思考を切り替え、無言で輝明の反応を見つめる。彼は迷うことなく電話を取った。

「明くん、さっき医者に診てもらったけど、特に問題はなかったわ」

スピーカー越しに、嬌の柔らかい声が響く。

「……そうか」

輝明は平静な声で短く答えた。

嬌は一瞬沈黙し、次に小さく問いかける。

「綿ちゃんに会えた?……離婚の話はした?」

その言葉に、綿はわずかに手を引っ込めた。

彼女は知っていた。分かっていた。輝明が理由もなく優しくするはずがないことも、すべての行動に目的があることも。

彼はBluetoothを切り、携帯を耳に当て直して話を続ける。

「……会ったよ。後でそっちに行く」

車内には、再び沈黙が落ちた。嬌の甘い声が、どこか満足げに響く。

「楽しみにしてるわ、明くん」

綿は、窓の外に視線を移した。胸の奥が、千々に乱れていく。

――もう関係ないはずなのに。

輝明は電話を切る。

綿は深く息を吐き、ゆっくりと口を開いた。

「……言いたいことがあるなら、直接言って」

彼は綿の背中をじっと見つめ、言葉を選ぶように沈黙した。

やがて、低く口を開く。

「おばあさんの誕生日が近い。七十の祝いを盛大にやるらしい。お前も俺と一緒に出てほしいってさ」

声の端に、微かな苛立ちが滲んでいる。それが、彼女に向けられたものなのか、それとも、この状況に対するものなのか、綿には分からなかった。

思わず振り返る。

おばあさんの誕生日?

彼女は携帯を取り出し、カレンダーを開いた。

――その瞬間、息を呑んだ。

最近の出来事に追われ、おばあさんの誕生日が近づいていることすら、すっかり忘れていた。

――窓から吹き込む冷たい雨が、頬を打つ。輝明は、何も言わずに窓を閉めた。

「ドレスは俺が用意する。後で迎えに行く」

そう言いながら、当然のように話を進める。しかし――

綿は彼をじっと見つめ、ゆっくりと、はっきりと言った。

「今年のおばあさんの誕生日会、私は行かない」

その言葉が、夜の車内に静かに落ちる。しとしとと降り続く雨が、余計にその沈黙を際立たせていた。
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    「もし本当に強奪されたら、どうすればいいんですか?」綿は興味津々に尋ねた。男なら抵抗できるかもしれないが、陽菜のようなお嬢様なら一人でも危ないのに、複数相手ならなおさら無理だ。「本当に強奪に遭った場合、一番いい方法は素直に渡すことです。命の方が大事ですからね」和也はそう答えた。「彼らも誰にでも強奪するわけじゃない。まず観察して、この人が本当に金持ちなのかどうかを見極めるんですよ」「なんて怖いの……」綿は首を振り、信じられない様子だった。なんて無秩序な場所なんだろう。どうりで徹が陽菜を同行させたわけだ。一人では確かに心細い。とはいえ、陽菜もそれほど頼りにならないし、こんな状況ならむしろ屈強な男を連れてくるべきだったと綿は思った。綿が食事を続けていると、突然外から女の悲鳴が聞こえた。その声は耳障りで恐怖に満ちている。この声は……「いやあああ!助けて!」その悲鳴を聞いた瞬間、綿はすぐに分かった。陽菜だ!綿は立ち上がり、個室の扉を開けようとした。しかし和也が彼女の手を掴み、首を振った。「今出て行っても彼女を助けられません。彼らが欲しいのは物だけで、危害は加えませんよ」綿は動揺した。どういう意味だろう?陽菜が危険な目に遭っていると分かっていて、何もせずにここで待てというの?陽菜が少々苦手だとしても、何もしないわけにはいかない。「ダメです。陽菜は私が連れてきた人です。彼女を連れて来た以上、ちゃんと連れて帰らないと」もし陽菜に何かあったら、徹にどう説明したらいいか分からない。「桜井さん、相手は複数いますよ」和也は慎重に警告した。綿は和也が本気で彼らを恐れているのを見て取った。「あなたたちは姿を見せないでください。私は何とかしますから、警察を呼んでください」綿は和也に頼んだ。和也は少し躊躇したが、頷いた。しかし、この辺りでは警察に通報しても役に立たない可能性が高い。ここは無法地帯で、毎日何人もの人間が強奪に遭っており、全てを取り締まるのは不可能なのだ。それでも、綿は扉を押し開けた。「桜井さん、どうか気をつけてください!」宗一郎は心配そうに声を掛けたが、助けることはできなかった。彼がこの幻城で身を立てていられるのは、低姿勢を保っているからだった。階段の下で陽菜は男に引きずられていた。「

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0849話

    「この辺りの人って、いつもこんなに乱暴なんですか?」綿は不思議そうに尋ねた。和也は頷き、答えた。「これでもまだマシな方です。中には平気で唾を吐いてくる奴もいますよ」唾を吐くなんて、確かに竜頭のポーズよりもはるかに不快だ。それが自分の汚さや病気を気にせずに行われるというのだから、想像しただけでうんざりする。綿は唇を噛んだ。「ここ、どうしてこんなに荒れているんですか?誰か取り締まらないのですか?」「取り締まってはいますよ。ただ、追いつかないんです。流れ者が多すぎて。街も大きいし、人も多い。全員を一人ずつチェックするなんて無理です」綿は顔を手に支えながら考え込んだ。一部の都市はこういう性質を持っているのだろう。これが幻城に人が溢れている理由なのかもしれない。ただ、綿は信じていた。この街がいつか必ず整えられ、秩序を取り戻す日が来ると。車はやがて比較的高級なレストランの前で停まった。このエリアは静かで、不審者もいないようだった。車を降りると、宗一郎は再びSH2Nや柏花草について自分の考えを熱心に語り始めた。綿は静かに耳を傾け、時折頷いていた。レストランのスタッフが一行を案内し、席に着いたところで、綿のスマホが鳴った。輝明「どこにいる?誰と一緒だ?無事なのか?」綿「うん」彼女は短い返信を送り、スマホを閉じた。和也が尋ねた。「こちらのご当時料理をいくつか注文しておきましたが、お嫌いなものはありませんか?」言いながら、和也はメニューを綿に差し出した。「桜井さん、他に何か追加したいものがあれば、どうぞ」「結構です。ありがとうございます」綿は首を振り、陽菜の方を見た。陽菜はテーブルを拭いていた。ここは高級店ではあるが、環境はやはり雲城ほど整ってはいない。それが不満なのか、陽菜の表情には嫌悪感が浮かんでいた。おそらく幻城への出張など、もう二度と来るつもりはないだろう。和也は陽菜にウェットティッシュを差し出した。「どうぞ」「ありがとう」陽菜はお礼を言ったが、その手首には、いつの間にかまたキラキラと光るアクセサリーが戻っていた。綿が目線を向けると、陽菜は眉をひそめた。「何よ?もう夜なのに、誰が懐中電灯を持って照らしてまで盗むって言うの?」綿は何も言わなかった。「それでは柏花草の件、教授にお任せします。

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0848話

    雲城に足を踏み入れるような人物であれば、この爺さんも間違いなく一流の人だろう。その後も会話が弾み、気がつけば時刻は既に夕方。昼食を取るのも忘れて話し込んでしまった。6時を過ぎた頃、和也がようやく口を挟んだ。「そろそろ夕食に行きませんか?場所はもう予約してあります」綿は時計を見て、驚きと共に宗一郎に微笑みかけた。「教授、私ったらつい夢中になりすぎて、食事の時間をすっかり忘れてしまいました」「話が弾んでいたようだね」宗一郎は私的な場面では寡黙だが、的確な一言を返した。「行きましょう。今日は僕たちがご馳走します。幻城へようこそ!」和也は笑顔で綿たちを招いた。その表情は温かく、どこか優しげだった。綿は彼を少しじっと見つめた。――快活でハンサムな青年だ。外に出て和也たちと一緒に車に乗り込む前、綿のスマホ電話が鳴った。輝明「どこにいる?今日はクリスマスだ。昼間は一切邪魔しなかったけど、夜は一緒に過ごせないか?」綿は眉を上げ、メッセージを打った。綿「出張中」輝明「出張?なぜ一言教えてくれなかった?」綿「アシスタントと一緒。徹さんはあなたの友達だから、もう聞いてると思ってたのに?」綿は心の中でつぶやいた。――私の行動を知りたければ、いくらでも手を回せるくせに……何を今さら。輝明「何時に帰る?もう遅い時間だ」綿「順調なら夜8時の新幹線で戻る予定」輝明「順調じゃない可能性もある?」綿「わからないわ」話が弾んでいることに加え、せっかくの機会なので、あと2日ほど滞在してもっと議論を深めたいと綿は考えていた。だが、今日がクリスマスであり、父が自分のために飾り付けたツリーのことを思うと、心が揺れる。輝明「迎えに行くよ」そのメッセージを見た綿は即座に警戒し、慌てて返した。綿「来なくていい!」――何で彼に迎えに来てもらう必要があるの?自分で新幹線で帰ればいいじゃない。綿「仕事で来てるの。邪魔しないで」輝明「君が心配なんだ」綿「あなたがいなかった3年間も、私はちゃんとやってたわ。あなたの心配なんて必要ない」輝明「それは過去の話。今は違う」綿「何も変わらないわ」輝明「俺に3か月の猶予をくれたじゃないか」綿「猶予を与えたからって、あなたの望むままに付き合わなきゃ

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0847話

    目の前に広がるのは、これ以上ありふれたものはない、普通の店構えだった。外壁には「LK研究所」と書かれた小さな看板が掛けられているが、ぱっと見ただけでは、まるで路上の軽食店のようだった。山下はまたも気まずそうに笑いながら言った。「お恥ずかしい話ですが、僕たちの研究所は予算が少ないんです。でも技術だけは確かですので、どうかご安心を!」「では、どうぞこちらへ」彼は綿たちを中へ案内した。綿は無言のまま、周囲を見渡した。――このベテラン教授が信頼できる人だと知っているからこそついてきたものの。もし彼のことを知らなかったら、こんな場所、絶対に罠だと疑ったに違いない。「腎臓を売られるんじゃないか」とさえ思うほどだった。陽菜もおそらく、さっき目撃した事故の光景が頭に焼き付いているのだろう。妙におどおどしていて、綿のすぐそばから離れようとせず、以前のような口数の多さもすっかり影を潜めていた。綿にとっては、ようやく訪れた静けさだった。二人は山下の後について店の中に入った。外見はみすぼらしいが、内装は意外にも新しさがあり、ここ数年で改装されたようだった。綿はちらりと室内を見渡し、山下の後についてさらに奥へ進んだ。応接間を通り抜けると、そこは研究所の核心部である研究室だった。外観がボロボロなのは、わざと目立たないようにしているのかもしれない。派手に飾ってしまったら、盗みに入られるリスクが高まるからだ。そんなことを考えていたその時、後ろから年配の男性の声が聞こえた。「お待ちしていましたよ」綿と陽菜は声のする方を振り向いた。そこに立っていたのは、70代と思しき白髪の紳士。彼は白い着物を身にまとっていて、威厳が感じられる。山下は彼を見てすぐさま駆け寄った。黒服の山下と白服の紳士――二人の対比はとても目を引いた。しかし、綿はすぐに妙なことに気づいた。この二人、顔つきがあまりにも似ているではないか。それだけでなく、二人の姓も同じ「山下」だった。紳士は名乗りながら言った。「山下宗一郎です」綿は再び山下に目を向けた。すると、老紳士は山下を指差して続けた。「こちらは私の孫、山下和也です」綿は思わず息を飲んだ。――なるほど、親族だったのか……「この研究所にはお二人しかいないんですか

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0846話

    綿はすぐに理解した。「触れてはいけないもの」――だからこそ、あの暗い路地の奥からあのような叫び声が聞こえてきたのだろう。それは、「快楽の後の解放」のようなものだった。一方、陽菜はその意味が分からないようで、首をかしげながら尋ねた。「どういうこと?」綿は陽菜を一瞥し、静かに答えた。「幻城はとても乱れている。叔父さんは教えてくれなかったの?」陽菜は一瞬動揺した様子を見せた。確かに徹は「綿の出張に同行するのは良い学びになる」とだけ言って、それ以外の説明は何もなかった。「陽菜、あなたはこの出張に来るべきじゃなかったわ」綿がはっきりと告げると、陽菜は即座に不満を口にした。「どうして来ちゃダメなの?私が何か邪魔したっていうの?あんたって本当に支配欲が強いのよね!」陽菜の怒りはエスカレートし、口をとがらせて文句を浴びせた。綿はそんな彼女をじっと見つめたが、それ以上何も言わなかった。心の中でこぼれそうだった言葉――「ここは危険だから、あなたじゃ身を守れない」――を飲み込んだ。――陽菜が本当に危険な目に遭ったとしても、それは彼女が自分で招いた結果だ。――これだけ反発的な態度を取られたら、誰が彼女を心配するものか。そんな奴、心配する価値なんてまったくない!綿は静かに自分の指輪とブレスレットを外した。今日は特別に腕時計までつけてきたが、それも不必要だったようだ。彼女は腕時計を外して手の中でじっと見つめた。――この時計は18歳の誕生日に父がくれたものだ。その価値は6000万円以上。他の家庭が娘に贈るのは、バッグや香水、きれいなドレスといったものが多いだろう。だが、天河は違った。彼女に贈ったのは腕時計やスポーツカー、そして限界まで「カッコいい」ものだった。綿はその腕時計をバッグの中にしまった。陽菜はその様子をちらりと見て、呟いた。「そんなに怖がってるの?」綿は眉をひそめた。「地元の習慣を尊重して、余計なトラブルを避けるだけよ。私たちは仕事に来たの。遊びじゃない。あなたも身につけてるものを外しなさい」陽菜は頑なに拒否した。「今日のコーディネートに全部合わせてるんだから」「遊びに来たわけじゃないでしょ?誰があなたのコーディネートを気にするのよ?早く外して。そのネックレス、見るか

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0845話

    綿は陽菜を意味ありげに一瞥した後、何も言わずに出口へ向かった。駅の外に出ると、手にプレートを持った若い男性が立っているのが目に入った。プレートには「LK研究所」と書かれている。綿は眉を上げ、その研究所がベテラン教授のものであることを確認すると、歩み寄った。若者も彼女に気づき、急いで手を振りながら笑顔を向けた。「こんにちは、私は桜井綿です」綿が自己紹介すると、彼はすぐに応じた。「お噂はかねがね伺っております!写真よりもさらにお美しいですね!」彼は照れくさそうに頭を掻いた。確かに綿は目を引く存在だった。――多くの人がいる駅の出口でも、ひときわ目立つのは彼女だった。服装は特に派手でもないのに、その独特の雰囲気が際立っていた。陽菜も美しいが、綿の隣に立つと、どこか見劣りしてしまう。まるで飾り物のようで、存在感が薄い。綿はその場の空気に何か違和感を覚えた。駅の外に出た瞬間、多くの人々が一斉に彼女をじろじろと見てきたのだ。ただ見るだけならまだしも、彼らの視線には好奇心や賞賛の色ではなく、どこか露骨で嫌らしいものが含まれていた。まるで何かを企んでいるかのような視線に、綿は不安を覚えた。若者が話しかけた。「桜井さん、お疲れ様でした。これからお昼を一緒にいかがですか?」綿は視線を戻し、微笑みながら答えた。「ご丁寧にどうも。迎えに来てくださってありがとうございます。実は、幻城に来るのは初めてで……正直、どっちが東でどっちが西かも分からなくて」若者はすぐに首を振った。「僕を山下と呼んでください」綿は軽く頷き、陽菜を指差して紹介した。「この子は私の助手の恩田陽菜です」陽菜は山下を上から下まで値踏みするように眺めた後、心の中で呟いた。――なんて地味な人なんだろう。黒い服をきっちりと着こなし、どこか老けて見えるその姿に、陽菜は興味を失ったようだった。山下はそんなことを気にする様子もなく、にこやかに手を差し出して挨拶した。「初めまして、恩田さん。幻城へようこそ」その場の空気が一瞬凍りついた。綿は陽菜をじっと見つめ、軽く咳払いして彼女に合図を送る。――握手しないの?何をボーッとしてるの?陽菜は綿の無言の圧力を感じ、不機嫌そうに手を差し出した。「どうも」形だけの握手

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0844話

    陽菜はスマホのメッセージを見ただけで、徹が怒っていることを察した。徹は温厚なことで有名だが、今回の文章には明らかに怒りが滲み出ていた。彼が本気で怒っているのだと分かり、陽菜はそれ以上何も言わず、ただ「ごめんなさい」とだけ返信しておとなしく座り直した。一方、綿はグランクラスの静けさを楽しんでいた。彼女はスマホを取り出してツイッターを開いた。今日は「クインナイト」の開催日だ。ツイッターには今夜のイベントに出席する予定のスターたちのリストがすでに掲載されている。玲奈は海外にいるため、今回のイベントには参加していない。その中で恵那の名前はひときわ目立っていた。――クインナイトに加え、今日はクリスマス。特別な一日になるだろう。綿はバッグから紙とペンを取り出し、ふとジュエリーデザインのアイデアが浮かんできた。――彼女にとってクリスマスは一番好きなイベントだ。けれどここ数年、ちゃんとお祝いした記憶がない。玲奈が早朝にわざわざ電話をかけてきて「メリークリスマス」と言ってくれたのは、彼女が綿のことを本当に気にかけてくれている証拠だった。綿は顔を手のひらに乗せ、窓の外を流れる景色を眺めた。――クリスマスとジュエリーが融合したら、どんな化学反応が生まれるのだろうか?彼女はノートにペンを走らせ、思いつくままに線を引いていった。その時、スマホに新しいメッセージが届いた。恵那:「どう?きれいでしょ?」続いて恵那から、カメラマンが撮影した大量の写真が送られてきた。綿は目を細めた。写真の中で、「雪の涙」は数多くのクローズアップショットが撮られており、その美しさが際立っている。恵那は純白のドレスを身にまとい、小さな羽飾りを背につけていた。まるで天から舞い降りた雪の妖精のようで、ジュエリーとの組み合わせが絶妙だった。綿:「きれいだね」恵那:「当然でしょ!」綿:「どうやら今日は、誰もあなたの輝きを超えられないみたいね」恵那:「森川玲奈がいないから、私にチャンスが回ってきたのよ!」綿は思わず笑みを浮かべた。――玲奈は本当に恐ろしい存在だ。どんなイベントに出席しても、彼女がそこにいるだけで視線を集めてしまう。綿はスマホをしまい、再び窓の外を眺めた。この静かな朝を、彼女はとても心地よく感じて

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0843話

    綿は顔を洗い、簡単にメイクを整えた。盛晴が用意してくれた朝食の香りが漂う中、彼女はバッグを手に階段を下りてきた。今日の綿は黒と白をベイスとしたセットアップに、上からコートを羽織っている。髪は上品にまとめ、淡いメイクに赤いリップが映える。どこか優雅で、まるで清らかな白い薔薇のようだ。しかし、その美しさには棘があり、誰も近寄ることを許さないような雰囲気を纏っている。昨夜、天河は酒を飲みすぎたせいで、まだ目を覚ましていなかった。それでも庭に飾られたクリスマスツリーはすでに見事に装飾され、煌めいている。綿はその様子を見て微笑んだ。――残念ながら、今日は出張だ。夜に帰ってきてから、このツリーを楽しもう。「ママ、今日出張に行ってくる。帰りは夜の12時くらいかな」綿はキッチンに向かって声をかけた。「わかったわ。気をつけて行ってらっしゃい。何かあったらすぐに電話して」盛晴が答えた。綿は小さく返事をして、パンをひとつ袋に入れると、そのまま家を出た。盛晴が玄関に出てきた時には、綿の車はすでに遠ざかっていった。……新幹線駅。綿は時計を確認し、ふと顔を上げると、遅れて陽菜がやってくるのが見えた。陽菜は派手な服装をしており、短いスカートに白いフェイクファーのショールを羽織っている。綿は無言で見つめた。――出張だというのに、まるでファッションショーにでも行くかのようだ。こんな格好で仕事ができるのか?「初めての出張?」綿は控えめに尋ねた。陽菜は顔を上げて答えた。「違うよ」「じゃあ、前回もこんな服装だったの?」陽菜はにっこり笑った。「どういう意味?今どき、他人の服装に口出しするつもり?私たち、同じ女性でしょ?さすがに、それはないんじゃない?」綿は呆れたように目を伏せた。「そう。余計なこと言ったわ」綿は微笑みながら答えた。――こう言われてしまっては、それ以上何も言えない。陽菜は軽く鼻を鳴らした。――そもそも、余計な口出しをする方が悪い。ちょうどその時、乗車券のチェックが始まった。綿は今回、必要最低限の荷物しか持っていない。メイク道具と柏花草関連の資料を詰めた少し大きめのバッグだけだ。首枕を持って行こうか迷ったが、結局かさばるのでやめた。本来なら、こういっ

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0842話

    綿は沈黙した。母が言葉にしなかった「その道」が何を指しているのか、彼女にはわかっていた――それは「死」だ。「まあ、それでいいんじゃない?外でまた悪事を働くよりマシでしょ。あんなに心が歪んだ子、少し苦しんで当然よ」盛晴は嬌について語るとき、綿以上に感情をあらわにしていた。――もし嬌がいなければ、娘の結婚生活がこんなにめちゃくちゃになることもなかったはず。これこそ、恩を仇で返されたということだ。綿は窓の外に目を向けた。煌めく街の夜景が、彼女の胸中の空虚さとは対照的だった。後部座席では、天河が半分眠りながら、彼女の名前を呟いていた。「綿ちゃん……」「綿ちゃん、パパの言うことを聞いて……」「やめろ、やめろ……」その声を聞きながら、盛晴は深いため息をついた。「お父さんがこの人生で一番心配しているのは、あなただよ。綿ちゃん、これ以上お父さんを悲しませることはやめなさい」綿は目を上げ、かつて父親と喧嘩をしたあの日々を思い出した。――父はこう言った。「お前がどうしても高杉輝明と一緒になりたいなら、この家には二度と帰ってくるな!」あの時、彼女は振り返ることもなく家を出た。三年間、一度も帰らなかった。その後、遠くから父の姿をそっと見守ることしかできなかった。綿は天河の肩に頭を寄せたまま目を閉じ、一粒の涙が頬を伝った。――自分がどれほど親不孝だったか、彼女にはわかっている。……あっという間にクリスマスが訪れた。朝、綿がまだ眠っていると、スマホの着信音で目を覚ました。ベッドで寝返りを打ち、スマホを手に取ると、画面には玲奈の名前が表示されていた。電話に出ると、玲奈の弾むような声が響いてきた。「メリークリスマス、ベイビー!!」綿は大きなあくびをしながら答えた。「そっちは今何時?」「夜の10時よ!こっちは大盛り上がり中!」綿は目を開け、軽くため息をついた。「私はまだ寝起きだよ。こっちは朝の6時」「知らないわよ!私は楽しむからね!綿ちゃん、メリークリスマス!ずっとあなたを愛してるわ!」そう言い残して、電話は切れた。綿は呆然としながら、スマホを見つめていた。ゆっくりと起き上がり、両手で頭を抱えた。その時、また新しいメッセージが届いた。送信者は徹だった。徹

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