そこに保存されていたのは、これまでの綿と輝明とのさまざまな思い出の記録だった。綿はそれを見て、胸が痛んだ。特に、今日離婚届を受け取ったことを思い出すと、無力感が一層押し寄せてきた。彼女はふと、一枚の写真を開いた。それは綿がこっそり撮った輝明の写真だ。高校時代の写真では、二人の関係はまだ良好に見え、どの写真もどこか親しげだった。綿が輝明を見つめると、彼も時折彼女に目を向けていたことがわかる。しかし、大学に進むにつれ、彼女が彼を追いかけると、徐々に変化が現れた。写真の中で輝明が綿を見つめる視線は、高校時代の冗談めかしたものや気だるげなものから、冷淡で敵意すら感じさせるものに変わっていった。綿はその変化に心が乱され、写真を閉じた。そして、ためらうことなく、すべての写真をゴミ箱に入れて削除した。パソコンの中はすっきりときれいになった。まるでそれで輝明との記憶もすべて消し去ることができるかのように。綿は机に突っ伏し、目を閉じて、雨が窓に打ちつける音を静かに聞いていた。どれくらいの時間が経ったか分からないが、綿はそのまま眠りに落ちた。そして、また夢を見た。夢の中で、輝明が彼女の目の前で血まみれになり、いくら彼の名を叫んでも、彼は目を覚まさなかった。綿はパニックになり、目を覚ました。時計を見ると、時間は朝の10時を指していた。スマホには桑原看護師からのメッセージが届いていた。「桜井先生、遅刻だよ!」「桜井先生、今日は大事な会議があるのに、どうしてまだ来ないの!電話に出てください!」綿「……」綿はマナーモードにしていたスマホを手に取り、夢の中でぐっすり眠っていたため、まったく気づかなかったことに気がついた。慌てて身支度を整え、服を着替えて階下に降りた。リビングはすでに誰もおらず、テーブルの上には離婚届だけが残されていた。綿はそれを手に取った。再び離婚届を見ると、心が少し揺れたが、すぐに気を取り直し、それを丁寧にしまい込んだ。病院に到着したのはすでに11時半を過ぎており、昼食の時間になっていた。綿は小栗先生の後を追いかけ、何度も身体が不調だったと謝罪した。小栗先生が少しは怒るかと思っていたが、彼女はただ「身体を大事にしなさい」と優しく言っただけだ。綿は一人で屋上に行き、景色を眺
「何ですって、やめるの?」小栗先生は、綿から渡された辞表を見て、驚きを隠せなかった。ちょうどその時、須田先生が仕事の報告に来たが、綿が辞めるという話を聞いて、彼女も少し驚いた様子だった。特に問題もなく順調だったはずなのに、どうして急に辞職なんて?「ええ、小栗主任、私は辞めたいと思っています」綿は静かに答えた。小栗先生は眉をひそめ、辞表を手にとって、じっと見つめながら複雑な表情を浮かべていた。辞職の理由については何も記されておらず、ただ、もう病院にいたくないという気持ちだけが伝わってきた。「本当にそれでいいの?」小栗先生は念を押すように、何度も確認した。綿は、何度も頷いた。小栗先生はしばらく黙り込んだ。綿は、辞職が承認されることを望んでいた。一方で、須田先生は眉をひそめ、何か言いたげだったが、結局何も言わずにその場を離れていった。小栗先生は綿に、一旦外に出るように言い、院長と相談する必要があると告げた。綿はそのまま須田先生を追いかけた。須田先生は立ち止まり、階段の安全通路で二人は顔を向き合わせた。「私のせいなの?」須田先生はため息をつきながら言った。「須田先生、何をおっしゃってるの?」綿は微笑みながら、彼女の美しさがさらに際立っていた。須田先生はその姿に少し圧倒された。綿は本当に美しい。それも、ただの美しさではなく、際立った個性と鋭さを持っている。その美しさに多くの人が心を揺さぶられるだろう。「最近、科内で話題になってるんだけど、小栗主任があなたにポストを譲るつもりなんじゃないかって噂されてるの」須田先生は壁にもたれかかり、淡々と語った。綿は、須田先生に安定感を感じた。年齢もあるし、母親でもある彼女は、何をしても落ち着いていて、冷静さが感じられた。「そうじゃないよ。私はただ、この仕事が合ってないと思っただけ。もともと病院に入ったのは、祖母の希望だったんだから」綿は軽く笑いながら続けた。「私は桜井綿、桜家の長女よ。こんな仕事をする必要なんてないの」須田先生は少し驚いたように眉を上げた。綿は真剣に頷いた。「本当よ。お金には困ってないし、正直、人の世話をするのは面倒なんだから」須田先生は何も言わなかった。「須田先生、これからもお元気で」綿は彼女にそう言った。須田先生は何も返さ
綿は呆れた。輝明との離婚について、彼女は少しも悲しんでいなかった。もし本当に悲しかったら、離婚などしなかったんだろう。ここまで来たということは、彼女が完全に吹っ切れたという証拠だ。「綿ちゃん、ママに教えて。留学はずっと海外に住むつもりなの?それとも、数ヶ月だけ気分転換しに行くつもり?」盛晴は、この点がとても重要だと考え、真剣に尋ねた。「ずっと海外に住むつもりよ」綿はしっかりと答えた。その言葉を聞くと、盛晴はその場に崩れ落ちるようにソファに座り込んだ。涙ぐんだ目で綿を見つめ、「綿ちゃん、帰ってきたばかりなのに、またすぐに海外に行って、私たちを置いていくの?娘として、そんなに自分勝手なことをしていいの?」と泣きながら訴えた。「ママ……」綿は一歩前に出た。盛晴は涙をこっそりと拭い、そのまま何も言わずに2階へ上がっていった。綿は盛晴の姿を見つめ、心が痛んだ。娘として、こんなに自分勝手ではいけない――と。その言葉が、彼女の胸に深く刺さった。確かに、ここ数年、自分勝手な行動が増えていたかもしれない。綿はうつむいた。「まずはクルーズパーティーに参加してから考えよう」綿はついに折れて、提案を受け入れた。その言葉に、天河は驚いた様子を見せた。明日はクルーズパーティーだ。もし娘がそこでいい相手に出会えれば、留学の話もなくなるかもしれない。「よし、まずはクルーズパーティーに行こう!」天河はすぐにこの提案に賛成した。これが娘を引き止める最善の方法だと感じたからだ。何しろ、綿は非常に頑固だ。父親として、彼女がどんな人物かは十分に理解している。もしもう少し素直であったなら、あんなに頑なに輝明と結婚しようとはしなかっただろうに。綿は家族が自分を引き止めたい気持ちを感じ取っていた。部屋に戻ると、彼女はすぐに書斎にこもった。誰かと話がしたくて、玲奈にメッセージを送ったが、返信はなかった。綿は彼女のスケジュールを確認し、玲奈が撮影中で連絡が取れないことを知った。机に突っ伏し、綿はしばらくゲームをして時間を潰した。「ピン——」突然、スマホが鳴った。彼女が画面を確認すると、また匿名の番号からメッセージが届いていた。「レースに来ないか?俺はここにいる」と地図の位置情報が送られてきた。場所は龍山
綿は数秒黙り込んだ。誰を探していたんだっけ?彼女はスマホを確認し、キーワードを見つけ、そして顔を上げ、静かな口調で言った。「K」係員は綿を一瞥し、「ああ」と答えて、電話をかけようとした。すると、綿の背後から、気だるげだが心地よい男性の声が聞こえてきた。「俺がKだよ」綿はすぐに振り返った。そこには、黒と緑のレーシングスーツを着た男が立っていた。彼は黒いヘルメットをかぶっており、顔は見えなかった。だが、その声に綿は微かな既視感を覚えた。ヘルメットの下で、男の鋭い眼差しが綿をじっくりと観察していた。彼は口元を少し上げた――変装しているのか?綿、なかなかやるんじゃないか。輝明は、本当に盲目だ。嬌なんかに執着して、綿を捨てるなんて。「俺はKだ」男は綿に手を差し出し、声には少しばかりの楽しみが込められていた。彼はずっと綿をレースに誘い続けて、やっと彼女を引き出すことができた。もっとも、彼が綿を誘ったのは彼女が綿だからではない。彼女が「神秘7」だからだ!彼がレーシングを始めたのも、神秘7のレースを見たからだった。「こんにちは、段田綿です」綿は手を差し出し、平然と答えた。「私は神秘7じゃないよ」男は眉を上げたが、ヘルメットの下でその表情は隠されていた。彼女が神秘7かどうかは自分で分かっている。綿が否定したからといって、それで終わりにはしない。「一周、勝負しないか?」Kが提案した。綿は下を見て、「連勝しているのはあなたか?」「そうだ」彼は隠す気はなかった。綿は彼をじっと見つめ、「ヘルメットを脱いで」Kは目を細めた。「は?」何だ?こんな無茶な要求、あり得るか?「何を考えてるんだ?俺はただレースで勝負したいだけで、身体は売らないぞ」彼は自分の体を抱きしめるような仕草をした。綿は目を転がし、「何を勘違いしてるの?あなたには興味ないわ」ただ、その声が少し耳に馴染みがあったから、誰なのか確かめたかっただけだ。Kは咳払いをし、「お前が俺に勝ったら、顔を見せてやるよ」綿は眉をひそめ、そして冷たく笑った。「いいわ、それなら私があなたに興味があるなんて思われたくないし」「もしお前が負けたら……」彼が言いかけた。「その時は秘密を教えてあげる」と、綿はレーシングエリアへ向かいながら答えた。
「さっき車に乗ったの、女だったよな。前に琥珀通りで勝ったあの女じゃないか?同じ人っぽいぞ?」「うるさい、ちゃんとレースを見ろよ!」綿の車は、安定感がありながらも非常に速かった。真一はまだ本気を出さず、綿の後ろをついて走っていた。彼は、綿がカーブをどう処理するのかを近距離で観察し、彼女が本当に神秘7かどうか確かめたかったのだ。綿も、相手が自分の正体を疑っていることはわかっていた。そのため、今回はカーブで加速して飛ばすつもりはなかった。綿は口元に微笑を浮かべ、後ろをちらっと見た。Kが自分の動きを観察していることはお見通しだ。綿は意図的に戦術を変え、他のレーサーが使う技術を使うことにした。カーブで密かに加速しつつ、派手にテクニックを披露し、華麗にドリフトを決めた。タイヤが地面に痕を残し、火花が散ってタイヤのロゴを照らした。観客たちは一斉に驚きの声を上げた。真一は眉をひそめた。戦術を変えたのか?綿はカーブを抜けた瞬間、あっという間に真一を引き離した。真一は仕方なく追いかけた。だが、綿のスピードは凄まじかった。彼女はアクセルを思い切り踏み込み、その速度は見る者の背筋を凍らせるほどだ。ここは山道だぞ。いくらレースだとしても、そんなに飛ばす必要があるのか?真一は、綿が車を使って何かを発散しているように見えた。彼女は機嫌が悪いのか?もしかして、輝明との離婚が原因か?だが、考えている暇もなく、真一は綿を追うことに集中した。さもなければ、惨敗してしまう。彼は必死に追いかけたが、神秘7はやはり神秘7。一度チャンスを与えると、そこから挽回するのは難しい。結果、レースは綿の圧勝だった。真一にとって、これで二連敗。彼自身も予想外の結果だった。彼はいつも神秘7とレースをしたいと思っていた。自分が憧れたレーサーを、いつか打ち負かせると信じていたのだ。綿が車から降りると、最初に彼に向かって指をくいっと曲げて呼びかけた。「ヘルメット、脱いで」ヘルメットを脱いで、その顔を見せてほしいのだ。真一は軽く咳をした。「人の少ないところで、な」彼は言った。「恥ずかしいの?」綿は笑った。男がそんなことで恥ずかしがる理由があるのか?真一はヘルメットに手をやり、綿の方へ歩み寄った。彼女はじっと彼を見つめて
「俺たち、もっと親しくなれるさ」と彼は返答した。綿は笑いながら言った。「でも、私はあなたと親しくなりたくないの」「桜井綿さん」彼は突然、彼女の名前を口にした。その瞬間、綿はますます不快感を覚えた。せっかく変装して来たのに、彼はなおも自分が綿であり、神秘7だと確信しているようだ。この男はいったい何者で、何を目指して近づいてくるのか?「私は桜井綿じゃないよ」綿は、自分の正体を守ろうとした。しかし、彼はただ薄笑いを浮かべ、ビールを開けて大きくひと口飲んだ。喉が上下に動き、彼は低い声で「君は桜井綿じゃない」と言った。真一のその言葉に、綿はますます不快になった。彼女はもう一度レースをすることにした。せっかくここまで来たのだから、思い切り楽しむことにしたのだ。「もう一戦、やる?」綿は真一に問いかけた。真一は肩をすくめ、綿がもう一周走りたいと言ったことに少し驚きつつ、「酒を飲んじゃったからな」と答えた。綿は冷笑し、手を振って一人でレース場へ向かった。真一はビールを飲みながら、綿のレースを見守っていた。どうやら綿は自分のことを覚えていないらしい。だが、真一は彼女と初めて会った日のことを一生忘れることはないだろう。桜井綿……俺はお前の秘密を知っているんだ。真一は目を伏せ、無力感の笑みを浮かべた。なんて愚かな女だ。綿は夜遅くまで遊び、それから帰途についた。帰り道、24時間営業のコンビニを見つけ、ちょうどお腹が空いていたので、おでんを買うことにした。綿はおでんを抱えて店を出た後、ベンチに座った。目の前には小さな広場があり、静けさが漂っていた。綿は温かいおでんのスープを一口飲み、体がじんわりと温まった。彼女は頬杖をついて、遠くを見つめながら、ゆっくりと食べ物を噛みしめた。時折、数台の車が通り過ぎたが、スピードは速かった。すでに深夜2時半を過ぎており、空は真っ暗で夜明けの気配もなかった。綿は再びスープをすすり、ベンチに寄りかかった。その時、周囲から足音が聞こえてきた。誰かが怒鳴り声を上げ、もう一人がそれをなだめていた。「俺に離婚を突きつけるなんて、このクソ女、ぶっ殺してやる!」「まあまあ、夫婦ってのは何かといろいろあるもんだ。お互いを解放してやるのも悪くないさ」「俺が誰
綿は帰り道でメイクを落としていた。だが、こんなに遅い時間にもかかわらず、まさか認識されるとは思ってもみなかった。「お前が桜井綿じゃないなんて、嘘だろ。高杉輝明に捨てられたんだろ、ハハハハ……」男は突然大声で笑い出した。その言葉に、綿の表情は一瞬で険しくなった。「捨てられたって?どうして高杉輝明が私を捨てたって決めつけるの?もしかしたら、私が彼を捨てたんじゃない?」綿は冷ややかに笑った。男は顎を上げて言った。「女なんて、男の付属品だろう。高杉輝明みたいな大物が、何年もお前を愛し続けると思うか?「今は陸川嬌に夢中だが、明日には山田嬌か佐藤嬌か、次々と変わるもんさ。わかるか?」彼は酒に酔いながらも、妙に冷静に話していた。だが、綿はこの男と口論するつもりはなかった。彼はただの酔っ払いだし、無駄な時間を使いたくなかった。彼女は男の手を振り払おうとした。「おい、一夜限りの遊びでもしないか?」男は笑いながら尋ねた。その瞬間、綿もついに笑い、そして無精ひげを生やした男をじっと見つめた。チェッ。綿の目には、嫌悪と嘲りがはっきりと浮かんでいた。その目つきはまるで「お前が?冗談でしょ?」とでも言っているかのようだった。男はその侮蔑の眼差しに恥じらいを感じた。彼は綿の目に、あからさまな軽蔑があることに気づいた。「なんだよ、俺のどこが悪いってんだ?」男は苛立ちながら歩み寄った。綿は微笑み、「家に帰って鏡でも見たら?」と冷たく返した。男の顔色が変わり、彼は怒りをあらわにして手を振り上げ、綿の顔を叩こうとした。しかし、綿は素早く彼の腕を掴み、後ろに押し返して冷たく言った。「消えろ」こんな奴に手を出されるなんて、汚らわしい。「このアマ!」男は袖をまくり、怒りに任せて挑みかかろうとした。綿はもともとイライラしていた。この男が絡んできたことで、もう我慢する気はなくなった。彼女は、どうせならこの男をサンドバッグ代わりにして、ぶん殴ってやろうと考えた。そう思った途端、力が湧いてきた。男が蹴りを入れようとしたその瞬間、綿は素早く拳を振り上げ、男に一撃を浴びせた。男はよろめき、二歩後退した。彼は驚いた表情で綿を見つめた。まさか、彼女がこんなにも力強いとは思っていなかったのだ。綿は眉を上げ、挑発するように
「どうしてそんなにイライラしてるんだ?夜中に誰かを殴りたいのか?」輝明が問いかけた。彼がさらに何か言おうとしたとき、綿がすでにベンチに座って食事をしているのを見て、言葉を止めた。輝明は彼女を見つめ、複雑な表情を浮かべた。綿は痩せていて、その背中は一層小さく見えた。彼女の姿には、どこか孤独な雰囲気が漂い、輝明の胸にわずかな痛みを残した。彼は唇を軽く引き締め、ため息をつくと、綿の隣に腰を下ろした。綿はちらっと彼を見て、「こんな時間まで帰らずに、ここで何してるの?」と聞いた。「君がここにいるから、俺もいるだけだ」輝明は腕を組み、夜空を見上げた。墨色の空には満月がかかり、いくつかの星が周囲を彩っていた。珍しく美しい夜空が広がっている。「高杉さん、風流ですね」綿は熱いスープを飲みながら、体がポカポカと温まっていくのを感じた。輝明は黙って空を見つめていた。綿は食べ終わったが、その場から動かず、同じように空を見上げた。「明日のクルーズパーティー、行く?」輝明が突然尋ねた。「行くよ」綿は軽く返事をした。「他人からもらった酒は飲むなよ」彼は淡々と忠告した。綿は笑いながら、「むしろ、ちょっとした刺激を期待してるのに……」と言いかけたが、そこで言葉を止めた。輝明はじっと綿を見つめ、眉を寄せた。「期待してるって、何を?」一夜限りの関係でも求めてるのか?この女、どうかしてるんじゃないか?彼の露骨な嫌悪感を感じ取った綿は、苦笑して言った。「まさか、私を気にしてるの?「高杉さん、あなたはもう私の元夫でしかないのよ。もし私が何かを望んだとしても、誰にも止められないわ」綿は我が道を行く性格だ。彼女が何かを決めたとき、それを止めることは誰にもできない。輝明は何も言わなかった。彼女を説得しようとも思わなかった。「自分を堕落させたいなら、好きにしろ」彼は冷ややかに言った。「堕落?私はただ刺激を求めてるだけ。あなたは外で自分の『女神』を囲ってるけど、それが当然で、私が楽しむのは悪いこと?」綿は肩をすくめた。なぜ結婚している女性は、いつもこんなにも卑屈な立場に立たされるのだろう?綿はため息をついた。この世界は本当に不公平だ。「俺を責めているのか?」輝明の声は静かだった。綿はすぐに首を横に振った。「責めて
綿はすぐに理解した。「触れてはいけないもの」――だからこそ、あの暗い路地の奥からあのような叫び声が聞こえてきたのだろう。それは、「快楽の後の解放」のようなものだった。一方、陽菜はその意味が分からないようで、首をかしげながら尋ねた。「どういうこと?」綿は陽菜を一瞥し、静かに答えた。「幻城はとても乱れている。叔父さんは教えてくれなかったの?」陽菜は一瞬動揺した様子を見せた。確かに徹は「綿の出張に同行するのは良い学びになる」とだけ言って、それ以外の説明は何もなかった。「陽菜、あなたはこの出張に来るべきじゃなかったわ」綿がはっきりと告げると、陽菜は即座に不満を口にした。「どうして来ちゃダメなの?私が何か邪魔したっていうの?あんたって本当に支配欲が強いのよね!」陽菜の怒りはエスカレートし、口をとがらせて文句を浴びせた。綿はそんな彼女をじっと見つめたが、それ以上何も言わなかった。心の中でこぼれそうだった言葉――「ここは危険だから、あなたじゃ身を守れない」――を飲み込んだ。――陽菜が本当に危険な目に遭ったとしても、それは彼女が自分で招いた結果だ。――これだけ反発的な態度を取られたら、誰が彼女を心配するものか。そんな奴、心配する価値なんてまったくない!綿は静かに自分の指輪とブレスレットを外した。今日は特別に腕時計までつけてきたが、それも不必要だったようだ。彼女は腕時計を外して手の中でじっと見つめた。――この時計は18歳の誕生日に父がくれたものだ。その価値は6000万円以上。他の家庭が娘に贈るのは、バッグや香水、きれいなドレスといったものが多いだろう。だが、天河は違った。彼女に贈ったのは腕時計やスポーツカー、そして限界まで「カッコいい」ものだった。綿はその腕時計をバッグの中にしまった。陽菜はその様子をちらりと見て、呟いた。「そんなに怖がってるの?」綿は眉をひそめた。「地元の習慣を尊重して、余計なトラブルを避けるだけよ。私たちは仕事に来たの。遊びじゃない。あなたも身につけてるものを外しなさい」陽菜は頑なに拒否した。「今日のコーディネートに全部合わせてるんだから」「遊びに来たわけじゃないでしょ?誰があなたのコーディネートを気にするのよ?早く外して。そのネックレス、見るか
綿は陽菜を意味ありげに一瞥した後、何も言わずに出口へ向かった。駅の外に出ると、手にプレートを持った若い男性が立っているのが目に入った。プレートには「LK研究所」と書かれている。綿は眉を上げ、その研究所がベテラン教授のものであることを確認すると、歩み寄った。若者も彼女に気づき、急いで手を振りながら笑顔を向けた。「こんにちは、私は桜井綿です」綿が自己紹介すると、彼はすぐに応じた。「お噂はかねがね伺っております!写真よりもさらにお美しいですね!」彼は照れくさそうに頭を掻いた。確かに綿は目を引く存在だった。――多くの人がいる駅の出口でも、ひときわ目立つのは彼女だった。服装は特に派手でもないのに、その独特の雰囲気が際立っていた。陽菜も美しいが、綿の隣に立つと、どこか見劣りしてしまう。まるで飾り物のようで、存在感が薄い。綿はその場の空気に何か違和感を覚えた。駅の外に出た瞬間、多くの人々が一斉に彼女をじろじろと見てきたのだ。ただ見るだけならまだしも、彼らの視線には好奇心や賞賛の色ではなく、どこか露骨で嫌らしいものが含まれていた。まるで何かを企んでいるかのような視線に、綿は不安を覚えた。若者が話しかけた。「桜井さん、お疲れ様でした。これからお昼を一緒にいかがですか?」綿は視線を戻し、微笑みながら答えた。「ご丁寧にどうも。迎えに来てくださってありがとうございます。実は、幻城に来るのは初めてで……正直、どっちが東でどっちが西かも分からなくて」若者はすぐに首を振った。「僕を山下と呼んでください」綿は軽く頷き、陽菜を指差して紹介した。「この子は私の助手の恩田陽菜です」陽菜は山下を上から下まで値踏みするように眺めた後、心の中で呟いた。――なんて地味な人なんだろう。黒い服をきっちりと着こなし、どこか老けて見えるその姿に、陽菜は興味を失ったようだった。山下はそんなことを気にする様子もなく、にこやかに手を差し出して挨拶した。「初めまして、恩田さん。幻城へようこそ」その場の空気が一瞬凍りついた。綿は陽菜をじっと見つめ、軽く咳払いして彼女に合図を送る。――握手しないの?何をボーッとしてるの?陽菜は綿の無言の圧力を感じ、不機嫌そうに手を差し出した。「どうも」形だけの握手
陽菜はスマホのメッセージを見ただけで、徹が怒っていることを察した。徹は温厚なことで有名だが、今回の文章には明らかに怒りが滲み出ていた。彼が本気で怒っているのだと分かり、陽菜はそれ以上何も言わず、ただ「ごめんなさい」とだけ返信しておとなしく座り直した。一方、綿はグランクラスの静けさを楽しんでいた。彼女はスマホを取り出してツイッターを開いた。今日は「クインナイト」の開催日だ。ツイッターには今夜のイベントに出席する予定のスターたちのリストがすでに掲載されている。玲奈は海外にいるため、今回のイベントには参加していない。その中で恵那の名前はひときわ目立っていた。――クインナイトに加え、今日はクリスマス。特別な一日になるだろう。綿はバッグから紙とペンを取り出し、ふとジュエリーデザインのアイデアが浮かんできた。――彼女にとってクリスマスは一番好きなイベントだ。けれどここ数年、ちゃんとお祝いした記憶がない。玲奈が早朝にわざわざ電話をかけてきて「メリークリスマス」と言ってくれたのは、彼女が綿のことを本当に気にかけてくれている証拠だった。綿は顔を手のひらに乗せ、窓の外を流れる景色を眺めた。――クリスマスとジュエリーが融合したら、どんな化学反応が生まれるのだろうか?彼女はノートにペンを走らせ、思いつくままに線を引いていった。その時、スマホに新しいメッセージが届いた。恵那:「どう?きれいでしょ?」続いて恵那から、カメラマンが撮影した大量の写真が送られてきた。綿は目を細めた。写真の中で、「雪の涙」は数多くのクローズアップショットが撮られており、その美しさが際立っている。恵那は純白のドレスを身にまとい、小さな羽飾りを背につけていた。まるで天から舞い降りた雪の妖精のようで、ジュエリーとの組み合わせが絶妙だった。綿:「きれいだね」恵那:「当然でしょ!」綿:「どうやら今日は、誰もあなたの輝きを超えられないみたいね」恵那:「森川玲奈がいないから、私にチャンスが回ってきたのよ!」綿は思わず笑みを浮かべた。――玲奈は本当に恐ろしい存在だ。どんなイベントに出席しても、彼女がそこにいるだけで視線を集めてしまう。綿はスマホをしまい、再び窓の外を眺めた。この静かな朝を、彼女はとても心地よく感じて
綿は顔を洗い、簡単にメイクを整えた。盛晴が用意してくれた朝食の香りが漂う中、彼女はバッグを手に階段を下りてきた。今日の綿は黒と白をベイスとしたセットアップに、上からコートを羽織っている。髪は上品にまとめ、淡いメイクに赤いリップが映える。どこか優雅で、まるで清らかな白い薔薇のようだ。しかし、その美しさには棘があり、誰も近寄ることを許さないような雰囲気を纏っている。昨夜、天河は酒を飲みすぎたせいで、まだ目を覚ましていなかった。それでも庭に飾られたクリスマスツリーはすでに見事に装飾され、煌めいている。綿はその様子を見て微笑んだ。――残念ながら、今日は出張だ。夜に帰ってきてから、このツリーを楽しもう。「ママ、今日出張に行ってくる。帰りは夜の12時くらいかな」綿はキッチンに向かって声をかけた。「わかったわ。気をつけて行ってらっしゃい。何かあったらすぐに電話して」盛晴が答えた。綿は小さく返事をして、パンをひとつ袋に入れると、そのまま家を出た。盛晴が玄関に出てきた時には、綿の車はすでに遠ざかっていった。……新幹線駅。綿は時計を確認し、ふと顔を上げると、遅れて陽菜がやってくるのが見えた。陽菜は派手な服装をしており、短いスカートに白いフェイクファーのショールを羽織っている。綿は無言で見つめた。――出張だというのに、まるでファッションショーにでも行くかのようだ。こんな格好で仕事ができるのか?「初めての出張?」綿は控えめに尋ねた。陽菜は顔を上げて答えた。「違うよ」「じゃあ、前回もこんな服装だったの?」陽菜はにっこり笑った。「どういう意味?今どき、他人の服装に口出しするつもり?私たち、同じ女性でしょ?さすがに、それはないんじゃない?」綿は呆れたように目を伏せた。「そう。余計なこと言ったわ」綿は微笑みながら答えた。――こう言われてしまっては、それ以上何も言えない。陽菜は軽く鼻を鳴らした。――そもそも、余計な口出しをする方が悪い。ちょうどその時、乗車券のチェックが始まった。綿は今回、必要最低限の荷物しか持っていない。メイク道具と柏花草関連の資料を詰めた少し大きめのバッグだけだ。首枕を持って行こうか迷ったが、結局かさばるのでやめた。本来なら、こういっ
綿は沈黙した。母が言葉にしなかった「その道」が何を指しているのか、彼女にはわかっていた――それは「死」だ。「まあ、それでいいんじゃない?外でまた悪事を働くよりマシでしょ。あんなに心が歪んだ子、少し苦しんで当然よ」盛晴は嬌について語るとき、綿以上に感情をあらわにしていた。――もし嬌がいなければ、娘の結婚生活がこんなにめちゃくちゃになることもなかったはず。これこそ、恩を仇で返されたということだ。綿は窓の外に目を向けた。煌めく街の夜景が、彼女の胸中の空虚さとは対照的だった。後部座席では、天河が半分眠りながら、彼女の名前を呟いていた。「綿ちゃん……」「綿ちゃん、パパの言うことを聞いて……」「やめろ、やめろ……」その声を聞きながら、盛晴は深いため息をついた。「お父さんがこの人生で一番心配しているのは、あなただよ。綿ちゃん、これ以上お父さんを悲しませることはやめなさい」綿は目を上げ、かつて父親と喧嘩をしたあの日々を思い出した。――父はこう言った。「お前がどうしても高杉輝明と一緒になりたいなら、この家には二度と帰ってくるな!」あの時、彼女は振り返ることもなく家を出た。三年間、一度も帰らなかった。その後、遠くから父の姿をそっと見守ることしかできなかった。綿は天河の肩に頭を寄せたまま目を閉じ、一粒の涙が頬を伝った。――自分がどれほど親不孝だったか、彼女にはわかっている。……あっという間にクリスマスが訪れた。朝、綿がまだ眠っていると、スマホの着信音で目を覚ました。ベッドで寝返りを打ち、スマホを手に取ると、画面には玲奈の名前が表示されていた。電話に出ると、玲奈の弾むような声が響いてきた。「メリークリスマス、ベイビー!!」綿は大きなあくびをしながら答えた。「そっちは今何時?」「夜の10時よ!こっちは大盛り上がり中!」綿は目を開け、軽くため息をついた。「私はまだ寝起きだよ。こっちは朝の6時」「知らないわよ!私は楽しむからね!綿ちゃん、メリークリスマス!ずっとあなたを愛してるわ!」そう言い残して、電話は切れた。綿は呆然としながら、スマホを見つめていた。ゆっくりと起き上がり、両手で頭を抱えた。その時、また新しいメッセージが届いた。送信者は徹だった。徹
「まあ、幸いなことに、今のところ復縁するつもりはないけどね」綿は肩をすくめながらさらりと言った。恵那はグラスに口をつけ、微笑みを浮かべた。その表情は、まるで未来を予測しているかのようだった。「ここまで来るのに本当に大変だったんだよ。一度あの泥沼から抜け出したのに、またすぐに戻るなんてあり得ないでしょ」綿は食事をしながら、どこか気だるげな声で続けた。「分かってるよ。お姉ちゃんはすごく冷静だ。ただ、ときどきボケるだけ」恵那は笑いながら返した。「いいえ、私はただ、輝明に関してはよくボケるだけなの」綿は正直に認めた。かつて自分がいかに恋愛ボケだったかを。――だから、傷つけられたのも自業自得。でも、今は違う。――今の彼女にとって、自分自身と家族以上に大事なものなんてない。20歳の綿は、狂ったように輝明との結婚を望んだ。21歳の綿は、彼のために命さえ捧げる覚悟だった。けれど、もうすぐ25歳になる綿は、もうそんなことはしたくない。「次はどんなイベントに参加するの?」話題を変えたくて、綿は軽く尋ねた。「『クインナイト』よ」恵那が答えた。「さっき電話で、ずっと誰かにライバル視されてるって言ってたけど、どういうこと?助けが必要なら言って」綿は眉を上げ、少し真剣な口調になった。その言葉に、恵那は思わず笑い出した。綿の言い方が、まるで「姉ちゃんがその相手をやっつけてやろうか」とでも言っているように聞こえたからだ。「同じタイプの女優で、最近ネットドラマで大ヒットした人がいてさ。その勢いで私を押さえつけようとしてるの。正直、面倒くさい」恵那はため息をつきながら続けた。「でも、大丈夫。今は『雪の涙』があるからね。『クインナイト』の話題は、絶対に私が持っていく!」「それは楽しみだね。トレンドで恵那の名前を見るのが待ち遠しい」綿は軽く微笑んだ。「ありがとう、お姉ちゃん」恵那は頷き、感謝を伝えた。「いいのよ。家族だから」綿は恵那の肩を軽く叩いた。彼女は恵那を完全に自分の妹として接してきた。ただ、もっとこういう温かい瞬間が増えればいいのにと願っている。夕食後、時間はすでに夜10時を過ぎていた。天河は上機嫌で天揚と何杯か飲み交わした後、車に乗り込んだ。車が走り
天揚もすぐに状況を理解したようだった。――やっぱり輝明が話を通したんだな。輝明の言葉は、まるで古代の皇帝のような絶対的な力を持っている。彼と友好関係を築きたい人間は山ほどいるだろう。「桜井グループはやっぱり権威があるよな。今日の入札に参加していた森川グループなんて、少し頼りない感じだった」天河は満足げに胸を張り、成功を自分たちの実力だと信じて疑っていなかった。天揚は微笑みながら黙っていた。誰もその場で真実を指摘する者はいなかった。「さあ、今日はいいこと尽くしだ!みんなで乾杯しよう!」天河が立ち上がり、楽しそうに提案した。綿も茶を手に立ち上がった。昨夜に飲みすぎたせいで、今日は酒を飲む気分ではなかった。「もうすぐ年末だし、無事に新年を迎えられるよう願おう!」天揚も軽く挨拶を述べた。全員が笑顔で杯を上げ、一口で飲み干した。その後も賑やかな雰囲気の中、食事が進んでいった。食事中、綿のスマホが何度も鳴った。メッセージの中に、輝明からのものが二通あった。輝明:「家にいると退屈だ」輝明:「綿」綿はその名前をじっと見つめ、少しの間動きを止めた。彼女の頭に、2年前のある記憶が蘇った。その日は輝明の誕生日だった。彼の誕生日を祝ってあげたかった。でも――彼は、嬌のもとへ行った。綿はそのとき、ただ二通のメッセージを彼に送っただけだった。「輝明」「誕生日おめでとう」しかし彼からの返信はなかった。彼女が電話をかけると、出たのは嬌だった。嬌が発した最初の言葉を、彼女は今でも鮮明に覚えている。「明くんの誕生日を祝ってるところだけど、綿、何か用?」その時の気持ちは、今思い出しても滑稽だと思う。――自分は彼の妻だった。なのに、妻が夫に電話するのに、他人の許可を得る必要があるなんて。綿は静かにスマホを閉じた。しかし、またもや画面が点灯し、輝明からのメッセージが表示された。輝明:「綿、俺は少しずつ君になっている」――綿、俺は少しずつ君になっている。彼女はそのメッセージを見つめ、返事をどうすればいいか分からなかった。「また彼から?」耳元で恵那の声が聞こえた。綿が顔を上げると、恵那が彼女のスマホ画面を覗き込んでいた。「うん」綿は軽く答えた。「ただ
綿はスマホを握りしめながら、再び輝明にメッセージを送った。綿「幻城、予定はまだ未定」輝明「幻城?一人で?」綿「多分、助手と一緒」輝明「幻城は危険だ」綿「もう子供じゃないから大丈夫」輝明「俺も一緒に行けるよ」そのメッセージを見て、綿は目を細めた。彼女は一口水を飲み、ゆっくりと返信した。綿「高杉社長には自分の仕事がないの?」輝明「綿、こういうチャンスは大事にしたいんだ」綿「無理。私は一人で行くから」輝明「俺は研究院の投資者だよ。不便なんてあり得ない。スケジュールが決まったら教えてくれ。一緒に行く」綿は言葉を詰まらせた。――やっぱり、研究院に投資した肩書を、こういう時に容赦なく使ってくるんだ。彼女はもう返信しなかった。その頃、父親と伯父が食事の準備が整ったと呼びに来た。ダイニングには、桜井家の全員が揃っていた。祖父は祖母の袖を直してあげ、箸を渡した。最近の祖母は調子が良く、祖父の顔にも笑みが戻っていた。恵那は今日、特に上機嫌だった。何と言っても「雪の涙」を手に入れたからだ。彼女のツイッターのコメント欄やDMはすでに大騒ぎとなっており、「雪の涙」のおかげで彼女の名前は一気にトレンドのトップに躍り出ていた。しかもツイート数もかなり多く、注目を集めていた。食事中、天揚は会社からのメッセージを受け取った。内容は恵那がトレンドに入ったというものだった。最初、彼はまた恵那がわがままを言ったか何かで問題を起こしたのだと思い、怒る準備をしていた。場合によっては会社の面倒を見て後始末をしなければならないと覚悟していたのだ。しかしトレンドを開いてみると、そこには意外にもポジティブな話題が載っていた。「どこから手に入れたんだ、この『雪の涙』?」天揚は驚きを隠せなかった。「お姉ちゃんがくれたの」恵那は食事をしながらさらりと答えた。天揚は驚きの目で綿を見た。――綿?綿は軽く頷いた。天揚は何か言いたそうに口を開いたが、考え直してそのまま閉じた。そして最終的に親指を立てた。すごい。――「バタフライ」の復帰作が発表されて以来、会社では誰もが「雪の涙」を手に入れようと躍起になっていた。――まさか綿が手に入れるとは。しかも。「お前、それを玲奈に渡さなかったのか?」天揚は感心
綿はツイッターを見て、口を尖らせながらつぶやいた。「ディスるのはもう終わり?」「それとこれとは別!」恵那はそう言いながらも、礼儀正しく感謝の意を伝えた。「とにかく、ありがとう。ちゃんと大事に保管するよ。レッドカーペットが終わったら、ちゃんと返す」「返す必要はないよ。必要になったら展示用に貸してくれればいいだけ。普段は使って構わない」綿はソファに腰を下ろし、無造作に柿の種をつまみ始めた。恵那は目をぱちぱちさせた。「お姉ちゃん。これ、『バタフライ』の『雪の涙』だよ?なんでそんな軽い感じで言えるの?」「何か問題でも?」「こんな貴重なジュエリー、普段からつけるなんてあり得ないでしょ!壊したり、無くしたりしたらどうするのよ!?」恵那は持ち帰ったとしても、きっと大事にしまい込むつもりだった。綿はしばらく黙り込んだ後、軽く肩をすくめた。「好きにすれば」それだけ言うと、再び柿の種を手に取り、スマホに目を落とした。……キッチンでは、天揚と天河が何か話しながら笑い合っている。「そういえば、お祖母ちゃんはどこにいるの?」綿は立ち上がりながら尋ねた。「二階で休んでるよ。さっき体調が悪いって言ってたけど、食事の時には降りてくるって」恵那が答えた。綿は二階に上がり、祖母の様子を見に行くことにした。扉をノックしようとしたその時、中から祖父母の会話が聞こえてきた。山助「痛い時はちゃんと言わなきゃ。無理して我慢するな」千恵子「だから痛くないって言ってるでしょ!それに、子供たちの前では黙ってて。心配させたくないから」山助「はあ……お前は本当に、人生を全部捧げてきたな」千恵子「誰かが捧げなきゃいけないなら、それが私でいいじゃない」山助「お前、そんな状態でも他人のことばかり考えて……馬鹿だな」綿は黙って視線を落とした。中が静かになったのを確認し、ノックした。「どうぞ」祖父の山助が声をかけた。綿はドアを開け、明るい笑顔を浮かべて部屋に入った。「おばあちゃん、おじいちゃん」「綿ちゃんか」山助は微笑んで、手招きした。「さあ、座りなさい」「立たせときな!」千恵子が、綿が腰を下ろそうとしたところで声を上げた。綿は動きを止め、驚いたように尋ねた。「おばあちゃん、私何か悪いことした?」「よく言うわ