綿は顔を少し傾けて輝明を見た。「何?」 輝明は数秒間黙ったまま彼女を見つめ、再び追いかけた。「君、帰るのか?」 綿は「おお」と軽く声を漏らし、淡々と言った。「どうしたの?未練でもあるの?」 輝明は綿を睨むように見つめ、綿も同じように彼を見返した。 二人の視線が交錯し、しばらくの間無言だった。このようにお互いを見つめ合うのは久しぶりだった。 かつての「未練がましい」視線は綿の目にだけあったが、今ではそれが輝明の目にも表れていた。 一方で、以前は輝明の目にだけ見られた「冷ややかで皮肉めいた」表情が、今では綿の目に浮かんでいた。 「もし俺が未練があると言ったら、もう少しここにいてくれるか?」彼は唇を引き締め、エレベーターの上昇する数字を見つめた。 綿は彼をちらりと見て、くすりと笑った。「真心が足りないわね」 輝明は言葉を失った。彼は人に頼ることを知らない人間だった。幼い頃から誰にも頭を下げたことがなかったのだ。 エレベーターが一階に到着した。 輝明が胃を抑えている仕草を、綿は見逃さなかった。彼女はため息をつき、「こっちに来て」と言った。 輝明は目を上げた。「何だ?」 綿がエレベーターを降りると、輝明はまだエレベーターの中にいた。 彼女は振り返り、やや強めの声で言った。「降りて」 輝明は少し戸惑いながらも彼女の指示に従い、エレベーターを降りた。 彼の目にはわずかな寂しさが浮かんでいた。 綿は彼のそんな姿を見るのは初めてで、少しだけ驚いたようだったが、彼女は何も言わず歩き出した。 輝明はその後を急いで追った。何も言わなくても、綿が呼べば、彼はどこへでもついていくつもりだった。 診療所の長い廊下を歩きながら、彼らは通り過ぎる患者たちの疲れた表情や、吸い殻だらけの灰皿を目にした。 綿は時折後ろを振り返り、輝明の歩みが遅いことに気づく。 胃痛のためにゆっくり歩いているのか、それとも彼女ともう少し一緒にいたいから歩みを緩めているのか、定かではなかった。 彼の目はじっと綿の背中を追いかけていた。 かつて自分にくっついていた「小さな影」が、今では自分が追いかける「大きな背中」となったのだ。 「もっと早く歩いて」 綿が催促すると、彼は
輝明は黙ったまま立ち上がり、綿のもとへ向かった。 かつての穏やかな雰囲気とは違い、冷たく、どこか強引だった。 綿は本当に変わった。彼を愛していたその心だけでなく、他の多くの面でも変わってしまった。 医者が輝明を診察し、点滴をつけた後、彼に何度も注意を促した。「一日三食、必ず時間通りに食べてください」 綿は横で話を聞いていただけで何も言わなかった。 「もし医者の言うことを聞いていれば、こんなに何度も胃病を再発して病院に運ばれることもないのに」綿は心の中でため息をついた。 「森下は今忙しいでしょうから、呼んでなかった。看護師さんに点滴を見てもらうよう頼んでたから」 彼女はベッドサイドに熱いお湯を注いだコップを置き、冷たい表情で病床の輝明を見た。「お祖母さんを見に行くから、あなた、一人で大丈夫でしょう?」 輝明は綿を見つめ、唇を少し動かした。 「大丈夫じゃない」と言いたかったが、まだ祖母の容態を知らない。 「俺も一緒に行って、祖母を見たい」彼は言った。 「今は動けないでしょう、いい加減にしなさい」綿は眉をひそめ、少し苛立った表情を浮かべた。 輝明は黙ったまま、綿が続けた。「私が見てくるから、帰ってきたら容態を教えてあげるわ」 病院を出る時も緊急を通るのだから。 彼はそれを聞いてうなずいた。 綿は軽く返事をしてから、点滴の様子を確認した後、立ち去る前に再び看護師に念を押した。「彼には付き添いがいません。点滴が終わるまで、よろしくお願いします」 輝明は綿がすべてを整えてくれる姿を見て、目に罪悪感を浮かべた。 「自分で墓穴を掘る」とはまさにこのことだ。彼は心の中で苦笑いを浮かべた。 ──彼女にどうやって償いをすればいいのだろうか? それは答えの見つからない問題だった。 綿が病室に着くと、秀美がちょうど廊下で電話をしており、祖母の容態を俊安に説明していた。 俊安は会議中で、どうしても抜けられないという。 冷たい天気が人を疲れさせる。 秀美は何晩もよく眠れておらず、顔にはかなり疲労がにじんでいた。 電話を切った秀美は、戻ってきた綿に急いで尋ねた。「綿ちゃん、どうだった?何か分かった?」 綿は首を振り、成果はないと答えた。 ただ、「叔母
病室のドアが押し開けられ、綿が振り向くと、秀美が入ってきた。 秀美は尋ねた。「明くんはどこにいるの?」 「胃の具合が悪くなったので、急診に連れて行き、点滴を受けてもらいました」綿が答えた。 秀美は少し驚いた表情を見せたあと、ため息をついた。「この子、本当に心配ばかりかけて……綿ちゃんがいなくなってから、あの子の生活はまるで破綻してしまったようなもの。綿ちゃん、私は……」 秀美は綿を見つめた。何か言いたげな様子だが、目の前の彼女を見ているうちに、言葉を飲み込み、何も言わず、ただ深いため息をついた。 綿は秀美を見つめ、その姿に心が締めつけられる思いだった。 おばあちゃんが倒れ、輝明が次々と問題に直面し、家のことはすべて秀美が背負わなければならなくなった。 しかし、彼女も仕事を持つ身だ。 大人の世界は本当に厳しく、不条理なものだと感じた。綿は彼女を気遣い、できるだけ力になろうと思った。 「おばさん、もう何も言わないでください」 綿は微笑みながら秀美の肩を軽く叩き、続けてこう言った。「これから毎朝、おばあちゃんの様子を見に来ます」 「分かったわ」 秀美は感激した表情で頷いた。 美香が綿を可愛がったのも納得だ。綿は家族の中でも特に孝行で、秀美にとっては感謝の念でいっぱいだった。 モニターには、おばあちゃんの心拍が徐々に安定していることが表示されていた。 綿は安心して秀美に挨拶をし、部屋を出た。 彼女は小林院長にメッセージを送った。【院長、おばあちゃんに救心薬を飲ませました。状態は落ち着いています。引き続き、病院での見守りをお願いできればと思います】 小林院長からすぐに返信があった。【わかった。桜井先生、こちらも全力でサポートする。一緒に頑張って、お祖母様を必ず元気にしましょう】 彼は綿と連携できることを喜び、いつか彼女が段田綿として病院に来て、さらに多くの人を救うことを願っていた。 綿が緊急室に戻ると、輝明は眠っていた。 きっと相当疲れているのだろう、眠っていてもおかしくない。 彼女は病床のそばに立ち、彼の眉と目を見つめて複雑な感情を抱いた。 看護師が入ってきて点滴を確認し、小声で話しかけてきた。「桜井さん、お帰りなさい」 綿は頷き、看護師
輝明は眉間に皺を寄せ、不快感を隠せなかった。「またか?どこの部門だ?」 「また安全監査部です。上からの指示らしいです……」森下の声は焦りが滲んでいた。「社長、一度会社に戻っていただけませんか?」 輝明は点滴のボトルを見上げた。 綿は彼をじっと見つめ、彼が何をしようとしているのかを察したようだった。「点滴がまだ終わってないわよ」 輝明は唇を引き結び、「終わってからまた打つよ」と言って電話を切った。彼は立ち上がり、自分で点滴の針を抜こうとした。 綿はそれを止めようと一歩踏み出したが、彼のはっきりした動作を目にし、再び手を引っ込めた。 彼女は、これ以上踏み込むべきではないと感じた。 輝明は、差し出されてから引っ込められた彼女の手を見て、意味深な眼差しで彼女を見つめた。「君の言うことを聞くよ。この件が片付いたら、ちゃんと胃を労わる」 そう言い残し、彼は上着を掴んで病室を後にした。 綿はその場に立ち尽くし、空っぽになった病室を見つめながら、静かに笑った。 「私の言うことを聞く?それはないわ」 彼女は苦笑しながら心の中で呟いた。 「聞くのは自分の声だけ」 かつて彼は彼女の言葉など聞いたことがなかった。そして今、離婚してから急に「聞く」と言う。それが滑稽に思えた。 綿は病室を後にした。 廊下で待っていた看護師が声をかけてきた。「桜井さん、また高杉さん、点滴を途中でやめちゃったんですか?」 綿は苦笑いを浮かべた。また?じゃあ初めてじゃないのね。 「まあ、彼の命ですから。私たちがどうこうできるわけじゃない。彼が治療を嫌がるなら、無理やりベッドに縛り付けるわけにもいかないでしょう?」 看護師は困り顔で言った。「高杉さん、本当に誰の言うことも聞かないんですよね」 その言葉に綿の心が少し痛んだ。 誰の言うことも聞かない?違う。かつて彼は嬌の言葉を聞いていた。 …… 夜の11時過ぎ、綿が帰宅すると、すでに疲れていた。 病院から戻った後は、柏花草のエキスを取り出す作業をしていたのだ。 天河はまだ起きており、仕事を片付けながら愛娘を待っていた。 「おや、今日は特別な日か?研究所で寝泊まりしてるんじゃないのかと思ったぞ」 綿は上着を脱ぎながら
天河は手を伸ばし、綿の頭を軽く叩いた。「何を馬鹿なことを言ってるんだ?」綿は怠けたように笑い、天河の腕に抱きついて言った。「パパ、私は本当にパパが大好き」「そうか、本当に愛してるんだな?愛してるなら、なんで父娘の縁を切るなんて言ったんだ?」天河は根に持っている様子だ。綿は唇を尖らせた。「パ〜パ」「パパ?俺が何回も綿って呼んでも、お前は振り向きもしなかったな!最後は人にひどい目に遭わされて戻ってきたんだ!」天河は心底悲しんでいる様子だった。一生懸命家族のことを考えてきたのに、大切な娘は男のために父親との縁を切ると言ったのだ。天河の失望は大きかった。「パパ、昔は私が未熟だったの。これからは本当に迷惑をかけないから」綿は父親の心を傷つけたことを知っていた。だからもう二度とそんなことはしないと心に決めた。「もういい、そんなことを言うな。家族なんてものは、迷惑をかけたり負担をかけたりするためにいるもんだ」天河は娘の手を軽く叩きながら、ため息をついて言った。「老後、俺とお前の母さんを邪魔だなんて思うなよ!」綿は首を横に振った。「そんなことはしないよ。ずっと一緒にいるから」「じゃあ、ちょっと聞くけど」天河は向き直り、真剣な表情で言った。「俺の友人が今日病院でお前を見たって言うんだが、病院で何してたんだ?」綿は一瞬怯んだ。「えっ?」「高杉家のばあさんが倒れたって聞いたぞ。本当のことを言え、病院に行ったのはそのおばあさんを見舞うためか?」天河は、何もかも知っているぞという顔で綿を見た。綿は唇を尖らせた。「友人が見たって言うなら、きっと誰と一緒にいたかも知ってるんでしょ。なんで改めて聞くの?」「その通りだ!俺の友人は、お前が輝明と一緒にいたって言ってたぞ!それだけじゃない、お前が彼の面倒を見ていたって!ああ、腹が立つ!」天河は大げさに太腿を叩きながら叫んだ。「俺の娘がどうしてそんなことをするんだ?あんなクズ男の世話をするなんて、どういうつもりだ!」天河の顔は赤くなっていた。実際、彼は綿が帰宅するのを待ちながら、この話をどう切り出すか考えていたのだ。離婚したのに元夫の世話をするなんて、これはもう自分から求めているようなものじゃないか。「パパ、私……」綿は少し考えて言った。「たしかに離婚したし、感情もないけど。でも、情はあるで
「そうだね」綿は天河と一緒に階段を上がった。 「お前、行く気はあるのか?招待状を用意してやるぞ」天河は、綿がジュエリーを好きなことを覚えている。 「大丈夫よ。玲奈が行けないので、彼女の代わりに行くわ」 「そうかそうか。玲奈は最近も忙しいのか?」 「もちろん。でいうか、パパの誕生日のとき、彼女が特別に帰ってきたんだよ」 「ほう?俺の記憶じゃ、ちょうど休みと重なっただけだったと思うが?」 「パパ……分かってるけど、言わないのが大人の態度ってもんよ」 ……ソウシジュエリーの展示会。 キリナはマスコミのインタビューを受けていた。今日の展示会は非常に盛大で、炎の展示会をも上回るほど人々を驚かせた。 綿は黒いワンピースに身を包み、外には毛皮のコートを羽織っていた。足元はヒール、優雅さと品格を兼ね備えた姿だ。 彼女は今日は玲奈の名義で参加しており、玲奈に恥をかかせないよう完璧に装った。玲奈から「気に入ったジュエリーがあれば写真を撮って、ソウシジュエリーを応援してね」と言われていたのだ。業界ではソウシジュエリーが勢いに乗っていると評判だ。この機会にキリナと顔見知りになっておけば、将来的にジュエリーを求める際に、キリナがあまり意地悪をしないだろう。 「桜井さんがいらっしゃいました!」受付のサインエリアで記者たちが声を上げた。 「久しぶりに桜井さんを拝見しましたが、ますます美しくなられましたね!」 「本当ですね、桜井さんは離婚後、どんどん綺麗になっていらっしゃる。逆に高杉社長の方が少し疲れているようですね」 綿は彼らの言葉を聞き、微笑みながらサインエリアで名前を書いた。 彼女は自分の名前をサインしたが、持っているのは玲奈からもらった招待状だった。記者たちが綿に質問すると、彼女はきっぱりと答えた。 「玲奈は雲城にいませんので、彼女の代わりに来ました」 この言葉を、少し早く会場入りしていた陽菜が聞いていた。 陽菜は驚いた様子で、綿もこの展示会に来るとは思わなかった。前日、ソウシジュエリーの話をしたときの綿の無関心な表情を思い出していたからだ。 「まさか、桜井も招待状を持っているなんて……」陽菜は内心で舌打ちした。ソウシジュエリーの招待状は非常に貴重で、簡単には手に入ら
「黒崎さん、おめでとうございます」綿は丁寧に声をかけた。キリナは微笑みながら、同じく礼儀正しく返した。「ありがとうございます、桜井さん。ご光臨いただけて感謝しております」「玲奈が忙しくて来られないから、代わりに私が来ました。黒崎さんから招待状をいただいていませんので、勝手にお邪魔してしまいました。どうぞご容赦ください」綿は柔らかな微笑みを浮かべながらも、一方で招待状が送られていないことを遠回しに指摘し、もう一方では自分がここに来た理由を伝えた。キリナは少し気まずそうな表情を浮かべる。実際、桜井家に招待状を送るつもりはなかった。一つは、適切ではないと感じたからだ。綿の母親である盛晴はすでにデザイン業界で名の知れた人物だったが、彼女の専門は服飾デザインであり、キリナのジュエリー展覧とは畑違いだ。そしてもう一つ、綿との関係が少々複雑だったためだ。さらに、輝明も招待していたこともあり、様々な事情を考慮した結果、綿への招待は見送った。だが、まさかこんな形で彼女が現れるとは思ってもみなかった。「気まずがらなくても大丈夫ですよ。黒崎さんには黒崎さんのご事情があるのでしょう」綿はキリナのためにわざと場を和らげる言葉を口にする。しかし、かえってそれがキリナの気まずさを深めたようだ。「それでは、桜井さん、中へどうぞ」彼女は奥を指し示した。綿は一声返事をして中に進む。背後でキリナが誰かに話しているのが耳に入った。「バタフライさんから返事は来た?今日、来るのかしら?外にはたくさんのマスコミが待っているのよ。私が大々的に話題にしたからよ。バタフライさんが来るって」「社長、バタフライさんからは返信がありません。おそらく、来ないのではないかと……」「それじゃ、私の面目が丸潰れじゃない!」キリナの隣にいた男性がすぐさまフォローする。「何をおっしゃるんですか。あのバタフライさんですよ?誰にでも簡単に招ける方じゃないんですから、皆さんだって理解してくれますよ。それに、どうしてもなら、バタフライさんが裏切ってきたとか、ギャラの条件が合わず来られなかったとか、適当に言い訳すればいいんですよ!」綿は思わず後ろを振り返った。――ギャラが合わず来られなかった。なんて適当な言い草だ。人を貶めるなんて、それほど簡単なことなのか。綿の顔は冷たくな
「まさか招待状を持っていると思ったら、人の代わりに来たなんてね。可哀そうだわ」陽菜はまたしても綿を嫌味ったらしくなじった。綿は深くため息をつき、呆れたように言った。「陽菜、あなた、私のことどんだけ嫌いなの?」本当に分からない。なぜ陽菜はこんなにも自分に敵対的なのか。この数分の会話だけで、半分以上が自分を貶す言葉だ。「ふん」陽菜は顔をそらした。そのとき、徹がやってきた。「桜井さん、いらしてたんだね」と徹はにこやかに声をかける。「山田さん」綿は軽くうなずき、握手を交わした。陽菜が浮かべる不機嫌そうな顔を見て、徹は二人の会話が不愉快なものだったとすぐに察した。「陽菜は気が強いから、どうか広い心で接してあげてね」彼は陽菜のためにあれこれと気遣ってているようだ。「もちろんです。何といっても山田さんの大事な方ですから」そう言うと、綿は陽菜に視線を向けた。その目には冷ややかな光が宿っていた。まるでこう言いたいかのようだ。「もしあなたが山田さんと関係がなかったら、とっくに追い出していたわ」最後にこんな変な女性と出会ったのは、嬌以来だろう。「何よ、その目つき。言いたいことがあるなら、叔父さんの前で堂々と言えば?」陽菜は顔を高く上げ、尊大な態度を崩さない。「恐れ多いわ」綿は皮肉めいた笑みを浮かべた。徹とはビジネスパートナーの関係だ。彼女がこんなところで失礼な態度を取るわけにはいかない。それにしても、陽菜のようなタイプに言い争いを挑むのは無駄だ。まるで刃向かうたびに返り血を浴びせてくるような相手だからだ。「それじゃ、少し失礼する。電話がかかってきたので」徹が電話を受け取りに席を外した。綿は軽くうなずいた。そのとき、入口の方からざわめきが聞こえてきた。陽菜が目を向けると、誰かが言った。「玲奈は今日は来られないらしいけど、代わりに恵那と南方信が来るんだって!」綿もそちらに目をやる。数日前、恵那がこの件でイライラしていたのを思い出した。彼女がここに現れるとは予想外だ。次の瞬間、美しいドレスに身を包んだ恵那が会場に現れた。女優はやはり格が違う。今日の恵那は控えめで落ち着いたドレスを着ていたが、一目で高価だと分かる代物だった。「ふん、なんだかレベル低い女優ね」陽菜は目を細めて毒づく。「彼女のこと、知らないの?」綿は呆れ
綿はすぐに理解した。「触れてはいけないもの」――だからこそ、あの暗い路地の奥からあのような叫び声が聞こえてきたのだろう。それは、「快楽の後の解放」のようなものだった。一方、陽菜はその意味が分からないようで、首をかしげながら尋ねた。「どういうこと?」綿は陽菜を一瞥し、静かに答えた。「幻城はとても乱れている。叔父さんは教えてくれなかったの?」陽菜は一瞬動揺した様子を見せた。確かに徹は「綿の出張に同行するのは良い学びになる」とだけ言って、それ以外の説明は何もなかった。「陽菜、あなたはこの出張に来るべきじゃなかったわ」綿がはっきりと告げると、陽菜は即座に不満を口にした。「どうして来ちゃダメなの?私が何か邪魔したっていうの?あんたって本当に支配欲が強いのよね!」陽菜の怒りはエスカレートし、口をとがらせて文句を浴びせた。綿はそんな彼女をじっと見つめたが、それ以上何も言わなかった。心の中でこぼれそうだった言葉――「ここは危険だから、あなたじゃ身を守れない」――を飲み込んだ。――陽菜が本当に危険な目に遭ったとしても、それは彼女が自分で招いた結果だ。――これだけ反発的な態度を取られたら、誰が彼女を心配するものか。そんな奴、心配する価値なんてまったくない!綿は静かに自分の指輪とブレスレットを外した。今日は特別に腕時計までつけてきたが、それも不必要だったようだ。彼女は腕時計を外して手の中でじっと見つめた。――この時計は18歳の誕生日に父がくれたものだ。その価値は6000万円以上。他の家庭が娘に贈るのは、バッグや香水、きれいなドレスといったものが多いだろう。だが、天河は違った。彼女に贈ったのは腕時計やスポーツカー、そして限界まで「カッコいい」ものだった。綿はその腕時計をバッグの中にしまった。陽菜はその様子をちらりと見て、呟いた。「そんなに怖がってるの?」綿は眉をひそめた。「地元の習慣を尊重して、余計なトラブルを避けるだけよ。私たちは仕事に来たの。遊びじゃない。あなたも身につけてるものを外しなさい」陽菜は頑なに拒否した。「今日のコーディネートに全部合わせてるんだから」「遊びに来たわけじゃないでしょ?誰があなたのコーディネートを気にするのよ?早く外して。そのネックレス、見るか
綿は陽菜を意味ありげに一瞥した後、何も言わずに出口へ向かった。駅の外に出ると、手にプレートを持った若い男性が立っているのが目に入った。プレートには「LK研究所」と書かれている。綿は眉を上げ、その研究所がベテラン教授のものであることを確認すると、歩み寄った。若者も彼女に気づき、急いで手を振りながら笑顔を向けた。「こんにちは、私は桜井綿です」綿が自己紹介すると、彼はすぐに応じた。「お噂はかねがね伺っております!写真よりもさらにお美しいですね!」彼は照れくさそうに頭を掻いた。確かに綿は目を引く存在だった。――多くの人がいる駅の出口でも、ひときわ目立つのは彼女だった。服装は特に派手でもないのに、その独特の雰囲気が際立っていた。陽菜も美しいが、綿の隣に立つと、どこか見劣りしてしまう。まるで飾り物のようで、存在感が薄い。綿はその場の空気に何か違和感を覚えた。駅の外に出た瞬間、多くの人々が一斉に彼女をじろじろと見てきたのだ。ただ見るだけならまだしも、彼らの視線には好奇心や賞賛の色ではなく、どこか露骨で嫌らしいものが含まれていた。まるで何かを企んでいるかのような視線に、綿は不安を覚えた。若者が話しかけた。「桜井さん、お疲れ様でした。これからお昼を一緒にいかがですか?」綿は視線を戻し、微笑みながら答えた。「ご丁寧にどうも。迎えに来てくださってありがとうございます。実は、幻城に来るのは初めてで……正直、どっちが東でどっちが西かも分からなくて」若者はすぐに首を振った。「僕を山下と呼んでください」綿は軽く頷き、陽菜を指差して紹介した。「この子は私の助手の恩田陽菜です」陽菜は山下を上から下まで値踏みするように眺めた後、心の中で呟いた。――なんて地味な人なんだろう。黒い服をきっちりと着こなし、どこか老けて見えるその姿に、陽菜は興味を失ったようだった。山下はそんなことを気にする様子もなく、にこやかに手を差し出して挨拶した。「初めまして、恩田さん。幻城へようこそ」その場の空気が一瞬凍りついた。綿は陽菜をじっと見つめ、軽く咳払いして彼女に合図を送る。――握手しないの?何をボーッとしてるの?陽菜は綿の無言の圧力を感じ、不機嫌そうに手を差し出した。「どうも」形だけの握手
陽菜はスマホのメッセージを見ただけで、徹が怒っていることを察した。徹は温厚なことで有名だが、今回の文章には明らかに怒りが滲み出ていた。彼が本気で怒っているのだと分かり、陽菜はそれ以上何も言わず、ただ「ごめんなさい」とだけ返信しておとなしく座り直した。一方、綿はグランクラスの静けさを楽しんでいた。彼女はスマホを取り出してツイッターを開いた。今日は「クインナイト」の開催日だ。ツイッターには今夜のイベントに出席する予定のスターたちのリストがすでに掲載されている。玲奈は海外にいるため、今回のイベントには参加していない。その中で恵那の名前はひときわ目立っていた。――クインナイトに加え、今日はクリスマス。特別な一日になるだろう。綿はバッグから紙とペンを取り出し、ふとジュエリーデザインのアイデアが浮かんできた。――彼女にとってクリスマスは一番好きなイベントだ。けれどここ数年、ちゃんとお祝いした記憶がない。玲奈が早朝にわざわざ電話をかけてきて「メリークリスマス」と言ってくれたのは、彼女が綿のことを本当に気にかけてくれている証拠だった。綿は顔を手のひらに乗せ、窓の外を流れる景色を眺めた。――クリスマスとジュエリーが融合したら、どんな化学反応が生まれるのだろうか?彼女はノートにペンを走らせ、思いつくままに線を引いていった。その時、スマホに新しいメッセージが届いた。恵那:「どう?きれいでしょ?」続いて恵那から、カメラマンが撮影した大量の写真が送られてきた。綿は目を細めた。写真の中で、「雪の涙」は数多くのクローズアップショットが撮られており、その美しさが際立っている。恵那は純白のドレスを身にまとい、小さな羽飾りを背につけていた。まるで天から舞い降りた雪の妖精のようで、ジュエリーとの組み合わせが絶妙だった。綿:「きれいだね」恵那:「当然でしょ!」綿:「どうやら今日は、誰もあなたの輝きを超えられないみたいね」恵那:「森川玲奈がいないから、私にチャンスが回ってきたのよ!」綿は思わず笑みを浮かべた。――玲奈は本当に恐ろしい存在だ。どんなイベントに出席しても、彼女がそこにいるだけで視線を集めてしまう。綿はスマホをしまい、再び窓の外を眺めた。この静かな朝を、彼女はとても心地よく感じて
綿は顔を洗い、簡単にメイクを整えた。盛晴が用意してくれた朝食の香りが漂う中、彼女はバッグを手に階段を下りてきた。今日の綿は黒と白をベイスとしたセットアップに、上からコートを羽織っている。髪は上品にまとめ、淡いメイクに赤いリップが映える。どこか優雅で、まるで清らかな白い薔薇のようだ。しかし、その美しさには棘があり、誰も近寄ることを許さないような雰囲気を纏っている。昨夜、天河は酒を飲みすぎたせいで、まだ目を覚ましていなかった。それでも庭に飾られたクリスマスツリーはすでに見事に装飾され、煌めいている。綿はその様子を見て微笑んだ。――残念ながら、今日は出張だ。夜に帰ってきてから、このツリーを楽しもう。「ママ、今日出張に行ってくる。帰りは夜の12時くらいかな」綿はキッチンに向かって声をかけた。「わかったわ。気をつけて行ってらっしゃい。何かあったらすぐに電話して」盛晴が答えた。綿は小さく返事をして、パンをひとつ袋に入れると、そのまま家を出た。盛晴が玄関に出てきた時には、綿の車はすでに遠ざかっていった。……新幹線駅。綿は時計を確認し、ふと顔を上げると、遅れて陽菜がやってくるのが見えた。陽菜は派手な服装をしており、短いスカートに白いフェイクファーのショールを羽織っている。綿は無言で見つめた。――出張だというのに、まるでファッションショーにでも行くかのようだ。こんな格好で仕事ができるのか?「初めての出張?」綿は控えめに尋ねた。陽菜は顔を上げて答えた。「違うよ」「じゃあ、前回もこんな服装だったの?」陽菜はにっこり笑った。「どういう意味?今どき、他人の服装に口出しするつもり?私たち、同じ女性でしょ?さすがに、それはないんじゃない?」綿は呆れたように目を伏せた。「そう。余計なこと言ったわ」綿は微笑みながら答えた。――こう言われてしまっては、それ以上何も言えない。陽菜は軽く鼻を鳴らした。――そもそも、余計な口出しをする方が悪い。ちょうどその時、乗車券のチェックが始まった。綿は今回、必要最低限の荷物しか持っていない。メイク道具と柏花草関連の資料を詰めた少し大きめのバッグだけだ。首枕を持って行こうか迷ったが、結局かさばるのでやめた。本来なら、こういっ
綿は沈黙した。母が言葉にしなかった「その道」が何を指しているのか、彼女にはわかっていた――それは「死」だ。「まあ、それでいいんじゃない?外でまた悪事を働くよりマシでしょ。あんなに心が歪んだ子、少し苦しんで当然よ」盛晴は嬌について語るとき、綿以上に感情をあらわにしていた。――もし嬌がいなければ、娘の結婚生活がこんなにめちゃくちゃになることもなかったはず。これこそ、恩を仇で返されたということだ。綿は窓の外に目を向けた。煌めく街の夜景が、彼女の胸中の空虚さとは対照的だった。後部座席では、天河が半分眠りながら、彼女の名前を呟いていた。「綿ちゃん……」「綿ちゃん、パパの言うことを聞いて……」「やめろ、やめろ……」その声を聞きながら、盛晴は深いため息をついた。「お父さんがこの人生で一番心配しているのは、あなただよ。綿ちゃん、これ以上お父さんを悲しませることはやめなさい」綿は目を上げ、かつて父親と喧嘩をしたあの日々を思い出した。――父はこう言った。「お前がどうしても高杉輝明と一緒になりたいなら、この家には二度と帰ってくるな!」あの時、彼女は振り返ることもなく家を出た。三年間、一度も帰らなかった。その後、遠くから父の姿をそっと見守ることしかできなかった。綿は天河の肩に頭を寄せたまま目を閉じ、一粒の涙が頬を伝った。――自分がどれほど親不孝だったか、彼女にはわかっている。……あっという間にクリスマスが訪れた。朝、綿がまだ眠っていると、スマホの着信音で目を覚ました。ベッドで寝返りを打ち、スマホを手に取ると、画面には玲奈の名前が表示されていた。電話に出ると、玲奈の弾むような声が響いてきた。「メリークリスマス、ベイビー!!」綿は大きなあくびをしながら答えた。「そっちは今何時?」「夜の10時よ!こっちは大盛り上がり中!」綿は目を開け、軽くため息をついた。「私はまだ寝起きだよ。こっちは朝の6時」「知らないわよ!私は楽しむからね!綿ちゃん、メリークリスマス!ずっとあなたを愛してるわ!」そう言い残して、電話は切れた。綿は呆然としながら、スマホを見つめていた。ゆっくりと起き上がり、両手で頭を抱えた。その時、また新しいメッセージが届いた。送信者は徹だった。徹
「まあ、幸いなことに、今のところ復縁するつもりはないけどね」綿は肩をすくめながらさらりと言った。恵那はグラスに口をつけ、微笑みを浮かべた。その表情は、まるで未来を予測しているかのようだった。「ここまで来るのに本当に大変だったんだよ。一度あの泥沼から抜け出したのに、またすぐに戻るなんてあり得ないでしょ」綿は食事をしながら、どこか気だるげな声で続けた。「分かってるよ。お姉ちゃんはすごく冷静だ。ただ、ときどきボケるだけ」恵那は笑いながら返した。「いいえ、私はただ、輝明に関してはよくボケるだけなの」綿は正直に認めた。かつて自分がいかに恋愛ボケだったかを。――だから、傷つけられたのも自業自得。でも、今は違う。――今の彼女にとって、自分自身と家族以上に大事なものなんてない。20歳の綿は、狂ったように輝明との結婚を望んだ。21歳の綿は、彼のために命さえ捧げる覚悟だった。けれど、もうすぐ25歳になる綿は、もうそんなことはしたくない。「次はどんなイベントに参加するの?」話題を変えたくて、綿は軽く尋ねた。「『クインナイト』よ」恵那が答えた。「さっき電話で、ずっと誰かにライバル視されてるって言ってたけど、どういうこと?助けが必要なら言って」綿は眉を上げ、少し真剣な口調になった。その言葉に、恵那は思わず笑い出した。綿の言い方が、まるで「姉ちゃんがその相手をやっつけてやろうか」とでも言っているように聞こえたからだ。「同じタイプの女優で、最近ネットドラマで大ヒットした人がいてさ。その勢いで私を押さえつけようとしてるの。正直、面倒くさい」恵那はため息をつきながら続けた。「でも、大丈夫。今は『雪の涙』があるからね。『クインナイト』の話題は、絶対に私が持っていく!」「それは楽しみだね。トレンドで恵那の名前を見るのが待ち遠しい」綿は軽く微笑んだ。「ありがとう、お姉ちゃん」恵那は頷き、感謝を伝えた。「いいのよ。家族だから」綿は恵那の肩を軽く叩いた。彼女は恵那を完全に自分の妹として接してきた。ただ、もっとこういう温かい瞬間が増えればいいのにと願っている。夕食後、時間はすでに夜10時を過ぎていた。天河は上機嫌で天揚と何杯か飲み交わした後、車に乗り込んだ。車が走り
天揚もすぐに状況を理解したようだった。――やっぱり輝明が話を通したんだな。輝明の言葉は、まるで古代の皇帝のような絶対的な力を持っている。彼と友好関係を築きたい人間は山ほどいるだろう。「桜井グループはやっぱり権威があるよな。今日の入札に参加していた森川グループなんて、少し頼りない感じだった」天河は満足げに胸を張り、成功を自分たちの実力だと信じて疑っていなかった。天揚は微笑みながら黙っていた。誰もその場で真実を指摘する者はいなかった。「さあ、今日はいいこと尽くしだ!みんなで乾杯しよう!」天河が立ち上がり、楽しそうに提案した。綿も茶を手に立ち上がった。昨夜に飲みすぎたせいで、今日は酒を飲む気分ではなかった。「もうすぐ年末だし、無事に新年を迎えられるよう願おう!」天揚も軽く挨拶を述べた。全員が笑顔で杯を上げ、一口で飲み干した。その後も賑やかな雰囲気の中、食事が進んでいった。食事中、綿のスマホが何度も鳴った。メッセージの中に、輝明からのものが二通あった。輝明:「家にいると退屈だ」輝明:「綿」綿はその名前をじっと見つめ、少しの間動きを止めた。彼女の頭に、2年前のある記憶が蘇った。その日は輝明の誕生日だった。彼の誕生日を祝ってあげたかった。でも――彼は、嬌のもとへ行った。綿はそのとき、ただ二通のメッセージを彼に送っただけだった。「輝明」「誕生日おめでとう」しかし彼からの返信はなかった。彼女が電話をかけると、出たのは嬌だった。嬌が発した最初の言葉を、彼女は今でも鮮明に覚えている。「明くんの誕生日を祝ってるところだけど、綿、何か用?」その時の気持ちは、今思い出しても滑稽だと思う。――自分は彼の妻だった。なのに、妻が夫に電話するのに、他人の許可を得る必要があるなんて。綿は静かにスマホを閉じた。しかし、またもや画面が点灯し、輝明からのメッセージが表示された。輝明:「綿、俺は少しずつ君になっている」――綿、俺は少しずつ君になっている。彼女はそのメッセージを見つめ、返事をどうすればいいか分からなかった。「また彼から?」耳元で恵那の声が聞こえた。綿が顔を上げると、恵那が彼女のスマホ画面を覗き込んでいた。「うん」綿は軽く答えた。「ただ
綿はスマホを握りしめながら、再び輝明にメッセージを送った。綿「幻城、予定はまだ未定」輝明「幻城?一人で?」綿「多分、助手と一緒」輝明「幻城は危険だ」綿「もう子供じゃないから大丈夫」輝明「俺も一緒に行けるよ」そのメッセージを見て、綿は目を細めた。彼女は一口水を飲み、ゆっくりと返信した。綿「高杉社長には自分の仕事がないの?」輝明「綿、こういうチャンスは大事にしたいんだ」綿「無理。私は一人で行くから」輝明「俺は研究院の投資者だよ。不便なんてあり得ない。スケジュールが決まったら教えてくれ。一緒に行く」綿は言葉を詰まらせた。――やっぱり、研究院に投資した肩書を、こういう時に容赦なく使ってくるんだ。彼女はもう返信しなかった。その頃、父親と伯父が食事の準備が整ったと呼びに来た。ダイニングには、桜井家の全員が揃っていた。祖父は祖母の袖を直してあげ、箸を渡した。最近の祖母は調子が良く、祖父の顔にも笑みが戻っていた。恵那は今日、特に上機嫌だった。何と言っても「雪の涙」を手に入れたからだ。彼女のツイッターのコメント欄やDMはすでに大騒ぎとなっており、「雪の涙」のおかげで彼女の名前は一気にトレンドのトップに躍り出ていた。しかもツイート数もかなり多く、注目を集めていた。食事中、天揚は会社からのメッセージを受け取った。内容は恵那がトレンドに入ったというものだった。最初、彼はまた恵那がわがままを言ったか何かで問題を起こしたのだと思い、怒る準備をしていた。場合によっては会社の面倒を見て後始末をしなければならないと覚悟していたのだ。しかしトレンドを開いてみると、そこには意外にもポジティブな話題が載っていた。「どこから手に入れたんだ、この『雪の涙』?」天揚は驚きを隠せなかった。「お姉ちゃんがくれたの」恵那は食事をしながらさらりと答えた。天揚は驚きの目で綿を見た。――綿?綿は軽く頷いた。天揚は何か言いたそうに口を開いたが、考え直してそのまま閉じた。そして最終的に親指を立てた。すごい。――「バタフライ」の復帰作が発表されて以来、会社では誰もが「雪の涙」を手に入れようと躍起になっていた。――まさか綿が手に入れるとは。しかも。「お前、それを玲奈に渡さなかったのか?」天揚は感心
綿はツイッターを見て、口を尖らせながらつぶやいた。「ディスるのはもう終わり?」「それとこれとは別!」恵那はそう言いながらも、礼儀正しく感謝の意を伝えた。「とにかく、ありがとう。ちゃんと大事に保管するよ。レッドカーペットが終わったら、ちゃんと返す」「返す必要はないよ。必要になったら展示用に貸してくれればいいだけ。普段は使って構わない」綿はソファに腰を下ろし、無造作に柿の種をつまみ始めた。恵那は目をぱちぱちさせた。「お姉ちゃん。これ、『バタフライ』の『雪の涙』だよ?なんでそんな軽い感じで言えるの?」「何か問題でも?」「こんな貴重なジュエリー、普段からつけるなんてあり得ないでしょ!壊したり、無くしたりしたらどうするのよ!?」恵那は持ち帰ったとしても、きっと大事にしまい込むつもりだった。綿はしばらく黙り込んだ後、軽く肩をすくめた。「好きにすれば」それだけ言うと、再び柿の種を手に取り、スマホに目を落とした。……キッチンでは、天揚と天河が何か話しながら笑い合っている。「そういえば、お祖母ちゃんはどこにいるの?」綿は立ち上がりながら尋ねた。「二階で休んでるよ。さっき体調が悪いって言ってたけど、食事の時には降りてくるって」恵那が答えた。綿は二階に上がり、祖母の様子を見に行くことにした。扉をノックしようとしたその時、中から祖父母の会話が聞こえてきた。山助「痛い時はちゃんと言わなきゃ。無理して我慢するな」千恵子「だから痛くないって言ってるでしょ!それに、子供たちの前では黙ってて。心配させたくないから」山助「はあ……お前は本当に、人生を全部捧げてきたな」千恵子「誰かが捧げなきゃいけないなら、それが私でいいじゃない」山助「お前、そんな状態でも他人のことばかり考えて……馬鹿だな」綿は黙って視線を落とした。中が静かになったのを確認し、ノックした。「どうぞ」祖父の山助が声をかけた。綿はドアを開け、明るい笑顔を浮かべて部屋に入った。「おばあちゃん、おじいちゃん」「綿ちゃんか」山助は微笑んで、手招きした。「さあ、座りなさい」「立たせときな!」千恵子が、綿が腰を下ろそうとしたところで声を上げた。綿は動きを止め、驚いたように尋ねた。「おばあちゃん、私何か悪いことした?」「よく言うわ