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2.読経のはじまり、呼吸の終わり

Penulis: 中岡 始
last update Terakhir Diperbarui: 2025-11-20 16:00:56

斎場の空気が、音もなく張りつめた。参列者が一斉に立ち上がるその刹那、静寂の底から、重く深い鐘の音が響いた。

ごぉん……と低く、空間を震わせるようなその音は、祭壇の奥から放たれたものだった。響きは、木と畳と布で囲まれた空間に反響し、目に見えない波紋となって全体に広がっていく。

浩人は椅子に背をつけたまま、思わず息を飲んだ。

扉が、開く。

一瞬、冬の冷気が薄く流れ込み、花と線香の香りがわずかに乱れた。静かに足音が重なり、黒い僧衣に身を包んだ数人の僧侶が、慎重に、等間隔で入堂してくる。彼らは皆、剃髪の頭を伏せ、手に数珠を持ち、歩みに一切の無駄がない。丁寧な儀礼の所作。これが宗教的営みであることを強く印象づける、静かな威圧だった。

その列の、二人目に。

浩人の瞳が、かすかに揺れた。

脳が、反応を拒否した。

言葉にするよりも早く、身体がかたまる。

――あれは、誰だ?

その問いが、次の瞬間、完全に粉々に砕けた。

隆寛だった。

隆寛が、いた。

だが、浩人の記憶にある男ではなかった。

彼の前に現れたのは、剃髪し、真っ白な肌をさらけ出した、まるで彫刻のように凛とした僧侶だった。顔の骨格は変わっていない。頬の線も、鼻の高さも、唇の形も、まるでそのままだ。だが、すべての輪郭が、髪という柔らかな縁取りを失ったことで、異様なまでに鋭く見えた。

隆寛は、前髪をよく指で払っていた。長めの黒髪が目にかかるたび、無意識にかき上げていた。あの癖を、浩人は何度も見ていた。

だが今、その髪はない。

肌の色と同じ頭皮が露出し、僧衣の襟元からは、しんとした気配だけが滲み出ていた。

――あいつが、なんでここに?

そんな単純な疑問が、浮かんだかと思う間もなく、視線は否応なく彼の耳元に釘付けになった。

左耳に、空いたままのピアスホール。

淡い影のようにぽつりと残る、わずかな痕跡。それは、かつて浩人が開けたものだった。

あの夜、手を添えて、穴を穿たせた。爪の先で、耳朶をそっとなぞったのは自分だった。あの場所に、小さなシルバーのリングを通して笑った彼の顔を、今もはっきり覚えている。

その孔が、今も残っている。

髪のない耳に、何も飾られないまま、その痕跡だけがくっきりと露わになっている。

何も変わっていないようで、すべてが違う。

読経が始まった。

導師を務める年配の僧が、低い声で唱え始めると、それに続いて、脇僧の声が幾重にも重なっていく。

そして、聞こえてきた。

隆寛の声。

その声が、浩人の胸を貫いた。

低く、透きとおったような響き。震えひとつない安定した読経。澄んだ水が深い器の底を流れるような、静謐で、揺るがない声だった。

だが、浩人にはそれがまるで、別の何かに聞こえてしまう。

耳の奥で、その声が過去の音と重なる。

かつて、狭いベッドの中で、髪の間から囁かれた声。抱かれながら名前を呼ばれた、濡れた吐息。鼓膜を撫でた舌先の熱。それらすべてが、この静かな読経の声に宿っていた。

違う。これは、そんなはずはない。だが、否応なく浮かび上がってしまう。浩人の五感は、僧侶としての彼の姿と、記憶の中で裸になった彼の姿を、同時に重ね合わせてしまっていた。

喉が、渇く。

手が、微かに震えている。

まるで、夢の中にいるような感覚。身体の外側だけが斎場の椅子に存在し、心は、過去の夜へと引き戻されていく。

あの夜、隆寛の髪は濡れていた。汗と唾液で肌に張りついた前髪を、浩人は指ですくい上げた。何度も、目を見たくて、髪を掻き分けた。白い喉を舐めて、耳に触れた。唇を耳朶に這わせたとき、彼はかすかに声を洩らした。

その声と、今、読経の声が重なる。

「…野上さん、大丈夫ですか?」

右隣の社員が小声で尋ねた。浩人は、咄嗟に表情を整え、小さく頷いた。

「ちょっと、寝不足で。」

それだけを言い、前を向いた。嘘ではない。だが、眠れていない理由を説明するには、言葉が何百あっても足りない。

隆寛の姿は、視界の端にありながら、妙に鮮明だった。黒い僧衣の裾が、彼の歩みと共に波打つたび、空気が一段階冷えるように感じられる。あまりにも整っている。所作も、声も、態度も、何ひとつ乱れていない。

けれども。

浩人には、わかった。

ほんの一瞬だけ。

読経の途中、僅かにリズムが乱れた瞬間があった。文言が途切れたわけでも、声が掠れたわけでもない。それでも、そこにわずかな躊躇が滲んでいた。まるで何かを見て、心が揺れたような。

隆寛は、気づいている。

浩人がここにいることに。

気づいた上で、読経を続けている。

触れようとしない。見ようとしない。語ろうとしない。だが、それでも。

間違いなく、彼は、見た。

浩人は、唇をきつく噛みしめた。胸の奥で、何かが震えている。触れられない場所にいる彼に、何を思えばいいのか分からない。

――あいつは、もう、俺の知ってる隆寛じゃない。

だが、剃髪した頭の後ろ姿を見た瞬間、心が叫んだ。

その肌に、触れたい、と。

その耳に、また口づけたい、と。

その声で、もう一度、自分の名を呼んでほしい、と。

そんな感情が、灼けるような熱となって、胸の奥をかき乱す。

彼は僧侶で、自分はビジネスマン。道も、時間も、言葉すらも違う世界にいる。

それでも、たった一人を、忘れられなかった。

その事実だけが、いま、葬儀という清浄の空間の中で、どこまでも穢れて、どこまでも切実だった。

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