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3.揺れるまなざし、壊れる均衡

작가: 中岡 始
last update 최신 업데이트: 2025-11-20 16:01:28

静寂というものには色がある。

たとえば、本堂に満ちる静寂には、青墨のような色があった。冷たく、深く、ひとたび沈んだら戻れないような底を持つ。

灯明の揺らぎが、僧衣の裾にかすかに影を落とす。読経のリズムは正確に、息の乱れひとつなく続いていた。隣に並ぶ脇僧の読経も、導師である父の声も、誤差なく響き、整った音の川を形成している。音と呼吸と意識がひとつの流れに乗る時、人の身体は無で満たされる。それは、僧としての理想的な状態だった。

……けれど。

その「無」のただなかで、|隆寛《りゅうかん》は自分の心の奥に、濁った渦が生まれつつあるのを感じていた。

視界の端。

そこに、彼がいる。

浩人。

まさか、今日ここで再会するとは思っていなかった。いや、再会など――望んでなど、いなかった。

だが、知ってしまった以上、もう戻れない。

なぜ来たのか。どういう縁で、この葬儀に。なぜ今になって姿を現すのか。

いくつもの問いが胸に去来するたび、呼吸が浅くなる。

読経の最中でなければ、背中を丸めて立っていられなかったかもしれない。

視線を前に固定する。

何も見ない。何も聞かない。ただ、唱える。

けれど、どうしても……逸れた。

それは一瞬だった。ほんの数呼吸の間、前方からわずかにずれた視線の軌道に、黒いスーツ姿の男が映った。

浩人だった。

五年ぶり。なのに、昨日会ったような顔をして、そこにいた。

記憶の中の彼よりも少し大人びていた。頬の線は鋭くなり、背中には貫禄が滲んでいた。けれど、あの目だけは同じだった。

何もかも見透かすような、強く、時に脆さすら含んだ眼差し。

その目に、今の自分が映っている。

剃髪した頭、僧衣、肩から下がる袈裟。

すべてを捨てた後の自分が、彼の目の中にいた。

その瞬間、耳の奥で、鼓膜が震えた。

自分の声が一瞬だけ、わずかに遅れた。音の流れが、ほんの一拍だけ、揺らいだ。

隆寛の身体がわずかに硬直する。

足の裏が畳の感触を強く捉え、喉に詰まった読経の続きを無理やり押し出す。

誰も気づかない。隣の僧も、導師も、参列者たちも。

けれど、きっと、彼だけは気づいた。

背筋を伸ばしたまま、再び読経に集中しようとする。だが、もう遅い。意識は乱れた水面のように揺れている。

呼吸が深くなりすぎる。肩がわずかに上下する。数珠を持つ指が冷たくなっていく。

(……ここで、乱れるな。自分を律しろ。もう僧侶なんだ)

心の中で何度も唱える。

けれど、皮膚が熱を持つ。

彼の視線を思うたび、耳の奥が疼いた。

透明ピアスを通していたあの夜。寮の静けさのなか、僧としてあるまじき記憶を、どうしても捨てきれなかったあの夜。

あの孔は、今も残っている。

自ら穿ったその場所を、浩人の唇がなぞった記憶も。

隆寛は、手にかけた数珠を強く握りしめた。

そうして、また視線を戻す。

ただ前を見る。ただ唱える。ただ、流れに身を預ける。

……なのに、心はもはや、過去という名の濁流に呑まれていた。

そのとき、壇上の灯明がふっと揺れた。

気温ではない。人の心に起こる波が、空気に反映されたような、小さな揺らぎだった。

読経は終盤に入っていた。

終わりが近づいている。

隆寛は、再び視界の端に浩人を映した。

こんどは目を逸らさなかった。瞬きもせずに、ほんの数秒。

浩人は、こちらを見ていた。真っ直ぐに、迷いなく。

その目が語っていた。

「お前は、まだ、俺を忘れていない」

「俺も、何ひとつ終わらせていない」

隆寛の心臓が、一度、大きく脈を打った。

喉が鳴りそうになるのを、必死に抑える。

誰かの死を悼む場で、自分は、何を思っているのか。

声を出すことが、こんなにも苦しいとは思わなかった。

けれど、いま、この声だけが、自分と彼を繋ぐ唯一の接点だった。

言葉では交わせない想いを、唱える経のなかに、少しだけ忍ばせた。

どうか、届いてほしくはない。

だが、伝わってしまっても、もう…仕方がない。

そんな矛盾した祈りを抱えたまま、隆寛は、読経の最後の一節へと、声を重ねていった。

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