LOGIN静寂というものには色がある。
たとえば、本堂に満ちる静寂には、青墨のような色があった。冷たく、深く、ひとたび沈んだら戻れないような底を持つ。灯明の揺らぎが、僧衣の裾にかすかに影を落とす。読経のリズムは正確に、息の乱れひとつなく続いていた。隣に並ぶ脇僧の読経も、導師である父の声も、誤差なく響き、整った音の川を形成している。音と呼吸と意識がひとつの流れに乗る時、人の身体は無で満たされる。それは、僧としての理想的な状態だった。
……けれど。
その「無」のただなかで、|隆寛《りゅうかん》は自分の心の奥に、濁った渦が生まれつつあるのを感じていた。
視界の端。
そこに、彼がいる。浩人。
まさか、今日ここで再会するとは思っていなかった。いや、再会など――望んでなど、いなかった。
だが、知ってしまった以上、もう戻れない。
なぜ来たのか。どういう縁で、この葬儀に。なぜ今になって姿を現すのか。
いくつもの問いが胸に去来するたび、呼吸が浅くなる。 読経の最中でなければ、背中を丸めて立っていられなかったかもしれない。視線を前に固定する。
何も見ない。何も聞かない。ただ、唱える。けれど、どうしても……逸れた。
それは一瞬だった。ほんの数呼吸の間、前方からわずかにずれた視線の軌道に、黒いスーツ姿の男が映った。
浩人だった。
五年ぶり。なのに、昨日会ったような顔をして、そこにいた。記憶の中の彼よりも少し大人びていた。頬の線は鋭くなり、背中には貫禄が滲んでいた。けれど、あの目だけは同じだった。
何もかも見透かすような、強く、時に脆さすら含んだ眼差し。その目に、今の自分が映っている。
剃髪した頭、僧衣、肩から下がる袈裟。
すべてを捨てた後の自分が、彼の目の中にいた。その瞬間、耳の奥で、鼓膜が震えた。
自分の声が一瞬だけ、わずかに遅れた。音の流れが、ほんの一拍だけ、揺らいだ。隆寛の身体がわずかに硬直する。
足の裏が畳の感触を強く捉え、喉に詰まった読経の続きを無理やり押し出す。 誰も気づかない。隣の僧も、導師も、参列者たちも。けれど、きっと、彼だけは気づいた。
背筋を伸ばしたまま、再び読経に集中しようとする。だが、もう遅い。意識は乱れた水面のように揺れている。
呼吸が深くなりすぎる。肩がわずかに上下する。数珠を持つ指が冷たくなっていく。(……ここで、乱れるな。自分を律しろ。もう僧侶なんだ)
心の中で何度も唱える。
けれど、皮膚が熱を持つ。
彼の視線を思うたび、耳の奥が疼いた。透明ピアスを通していたあの夜。寮の静けさのなか、僧としてあるまじき記憶を、どうしても捨てきれなかったあの夜。
あの孔は、今も残っている。
自ら穿ったその場所を、浩人の唇がなぞった記憶も。隆寛は、手にかけた数珠を強く握りしめた。
そうして、また視線を戻す。ただ前を見る。ただ唱える。ただ、流れに身を預ける。
……なのに、心はもはや、過去という名の濁流に呑まれていた。そのとき、壇上の灯明がふっと揺れた。
気温ではない。人の心に起こる波が、空気に反映されたような、小さな揺らぎだった。読経は終盤に入っていた。
終わりが近づいている。隆寛は、再び視界の端に浩人を映した。
こんどは目を逸らさなかった。瞬きもせずに、ほんの数秒。 浩人は、こちらを見ていた。真っ直ぐに、迷いなく。その目が語っていた。
「お前は、まだ、俺を忘れていない」
「俺も、何ひとつ終わらせていない」隆寛の心臓が、一度、大きく脈を打った。
喉が鳴りそうになるのを、必死に抑える。誰かの死を悼む場で、自分は、何を思っているのか。
声を出すことが、こんなにも苦しいとは思わなかった。
けれど、いま、この声だけが、自分と彼を繋ぐ唯一の接点だった。
言葉では交わせない想いを、唱える経のなかに、少しだけ忍ばせた。
どうか、届いてほしくはない。
だが、伝わってしまっても、もう…仕方がない。そんな矛盾した祈りを抱えたまま、隆寛は、読経の最後の一節へと、声を重ねていった。
最初の再訪から、一週間も経たないうちに、寺の玄関でまたスーツ姿を見ることになるとは思っていなかった。「四葉商事の野上様がお見えですよ」本堂から戻る途中、母にそう声をかけられたとき、隆寛は一瞬、自分の足が止まるのを自覚した。だが、次の瞬間には、僧衣の裾を整え、何事もない顔を作る。「分かりました。応接間ですね」「ええ。お父さん、今は檀家さんの相談中だから、少し遅れるそうよ。先にお話、伺っておいてもらえる?」さらりと言う母の口調には、特別な含みはない。少なくとも本人は、そう信じているだろう。寺にとっては大口の仕事を持ってきてくれた施主。好印象を持つのは当然のことだ。「…承知しました」声を整え、廊下を応接間に向かって歩く。板張りの床が、足裏に冷たさとわずかな湿り気を伝える。初冬の空気は、建物の中にもじわじわと入り込んでいる。応接間の襖の前で一度立ち止まり、深く息を吸う。それから、手を襖にかけた。「失礼いたします」声をかけて襖を開けると、座卓の向こう側に、やはりスーツ姿の背筋の良い男が座っていた。「お忙しいところ、申し訳ありません」浩人が立ち上がりかけ、軽く頭を下げる。濃紺のスーツにグレーのネクタイ。前回とは違う色合いだが、全体の印象は変わらない。仕事の装い。寺の木の匂いの中で、その布の匂いだけが異物のように感じられる。「いえ。住職が少し遅れると聞いております。よろしければ、それまでの間、こちらで承れる範囲でお伺いいたします」自然と口から出たのは、僧侶としての、そして「副住職」としての言葉だった。浩人は、薄く笑う。「助かります。…実は、一周忌の当日の流れについて、社内で少し意見が出まして」座布団に座り直しながら、黒いビジネスバッグからファイルを取り出す。紙の擦れる音。インクと紙の匂いが、畳の上でふわりと広がる。「故人のご家族と相談した結果、会社側の挨拶のタイミングや、弔辞の順番など、いくつか調整が必要になりまして…」内容は、確かに
一周忌という言葉を、今年に入って何度耳にしただろうと、隆寛はふと思った。檀家の誰それ、遠縁の誰それ。寺に生まれ育った以上、年忌法要は日常の一部であり、特別な響きを持たないはずだった。それでも「そういえば、四葉商事か。あの会社の部長さんの一周忌でね」と父が口にしたとき、胸の奥で何かが小さく跳ねた。「去年のお葬式に来てくれた、あの野上さん。また来られるそうだ。会社としてのご相談だと」寺務所で帳簿を見ていた手が、紙の上で止まる。「…そうですか」自分でも驚くほど、声は平板に出た。抑揚を削ったのは、意識的な操作というより、身体の防衛反応に近い。父・泰然は、息子の内側に起こった反応など知る由もなく、いつもの穏やかな口調で続ける。「応接間の方、整えておいてくれ。母さんは台所で手一杯だろうし、茶はお前に頼む」「分かりました」いつもどおりに返事をすると、泰然は満足げに頷き、別の用事に向かった。季節は初冬。山門から見える山肌の木々は、赤や黄をとうに手放していて、枝先だけが細く空に伸びている。風はもう冬の冷たさを含んでいるが、まだ刺すほどではない。昼下がりの陽射しは弱く、しかし、障子を透かすと部屋の中に柔らかな光の帯を落とした。応接間に入ると、紙と畳と古い木の匂いが鼻に満ちる。低い座卓の位置を少し整え、座布団を四枚、きちんと並べる。来客用の座布団は、新しい藍のカバーがかかっており、自分が普段使うものよりもいくぶんふかふかしている。隆寛は、窓際の障子を半分だけ開けた。西日の角度が、ちょうど座卓の端にかかるくらいになる。眩しすぎず、暗すぎず。客の顔がよく見えるようにという、寺の応接間で自然に身についた癖だった。「…会社としてのご相談、か」口の中で繰り返してみる。現実味のない言葉に、少しずつ輪郭が与えられていく。野上浩人。その名前を、意図的に思い浮かべないようにしてきた時間は長い。六年前、大学を卒業する前夜に別れてから、意識の表層に上がってくるたび、座禅の呼吸で押し戻してきた。それなのに、去年
護摩堂の戸が閉じられたとき、外の空気がこんなにも冷たいものだったかと、隆寛は思った。さっきまで肌を刺していた火の熱が、急激に奪われていく。頬に当たる夜風は鋭くはないが、火照った皮膚には十分すぎるほど冷たく感じられた。吐いた息が白くなり、すぐに闇に溶けて消える。足元は暗い。石畳の上に落ちた影が、ぼやけて揺れている。護摩行を終えた修行僧たちは、皆、言葉少なに寮へと戻っていく。袂が擦れる音と、草履が石を踏む音だけが、小さく続いた。隆寛は、列の少し後ろを歩いていた。頭の芯がまだ熱い。額には薄く汗が浮かんでいるのに、首筋には冷たい風が入り込み、ぞくりと身震いさせる。火の熱が身体の外側を焼き、今は冷気がその上を撫でている。温度だけで言えば、体は疲れきっているのに、胸のあたりは異様に冴えていた。護摩壇の前で見ていた炎の残像が、まだ目の奥にこびりついている。まぶたを閉じても、赤い光がちらつく。開けても、暗い境内の隅に、揺らめく影が見える気がした。「…寒」隣で誰かが小さく呟いた。声の主は慈遠だった。彼もまた護摩行に参加していた一人だ。息を白くしながら、肩をすくめている。「焚き火ってさ、離れた瞬間が一番寒いよな」ぽつりと落とされた言葉は、冗談のようでいて、どこか自分の今の状態を言い当てられたようにも感じられた。隆寛は、返事をしなかった。声を出す余裕が、うまく見つからない。ただ、少しだけ顎を引き、前を歩く背中を追う。寮の灯りが見えてきた。窓から漏れる柔らかな光が、雪も霜もない夜の庭をぼんやりと照らしている。建物の輪郭が浮かび上がると、不思議と肩が重くなった。ここに戻れば、今日一日は終わる。終わるはずなのに、終わりがどこにも見えない。玄関で草履を脱ぎ、板張りの廊下に足を乗せる。火照った足裏に、冷たい木の感触が伝わってきた。さきほどまで炎の前で感じていた熱を、木の床がすうっと吸い取っていくようだった。廊下も静かだ。護摩行を終えた他の僧たちが、それぞれの部屋に戻っていく足音が、遠くでしている。どこかの扉が開いて閉じる音。水の流れる音。短い咳払い。
護摩堂の中は、まだひんやりとしていた。外は冬の夕暮れで、日もすでに落ちている。堂の扉をくぐると、空気は外気よりわずかに暖かいが、それはまだ「火の熱」ではなく、人と木の匂いが溜まった温度だった。薄暗い空間の中央に、黒々とした護摩壇がある。四角く積まれた薪の上に、まだ火はない。油を含ませた薪の表面が、うっすらと照りを帯びている。その周りを囲むように、修行僧たちの座る位置が決められていた。隆寛は、定められた場所に膝をついた。僧衣の裾が畳に落ちる。膝に伝わる感覚は冷たくもあり、どこか湿り気も含んでいる。堂の中は、どこかしっとりとした空気に満ちていた。天井の梁には、過去の護摩行でついた煤がうっすらと残っている。薄暗がりのなかで、黒い影の筋が幾重にも重なって見えた。そこに、何度も何度も積み重ねられてきた炎の歴史が刻まれているようだった。正面に座る桂木俊心の姿は、炎のない壇の前でも、なぜか光をまとっているように見えた。彼は膝をつき、ゆっくりと合掌する。その動きに合わせて、堂の空気までもが静まり返る。導師の読経が始まり、小さな火が点された。油を含んだ薪に火が移されると、最初は細く頼りない炎が、薪の表面を舐めるように揺れた。ぱち、と小さな音がした。火種は、最初はただの赤い点に見える。その点が、呼吸をするようにじわりと膨らみ、やがて細い舌となって立ち上がる。読経の声が、それに重なる。低い声、高い声、複数の声が重なって、堂の壁を震わせる。木と土でできた空間は、音を吸い込むのではなく、柔らかく反響させていた。経文の言葉は、意味を持つ前に、塊になって胸にぶつかってくる。隆寛も、その一部として声を出していた。口が経をなぞるたび、昨日まで何度も唱えてきた言葉が唇から零れ落ちていく。今日だけ特別な文句ではないはずなのに、音のひとつひとつが、普段よりも深く身体に残る。火は、少しずつ大きくなる。細い舌が数本に増え、薪の隙間から顔を出す。黄色と橙のグラデーション。時折、青い芯のような色が一瞬だけ浮かんでは消える。空気の流れに合わせて、炎は揺れ、形を変え続ける。熱が、顔に届き始めた。
消灯の合図が鳴ってから、どれくらい時間が経ったのか分からなかった。寮の天井は、明かりを落とすとすぐにただの暗がりになる。昼間は木目や小さな傷まで見えていた白い天井板も、今は輪郭だけがぼんやりと浮かんでいる。窓の外から差し込む月の光が、薄い四角い影を床に落としていた。部屋には、布団が二枚。壁際に一枚、自分の布団。真ん中寄りに、慈遠の布団。横になっているはずの彼の姿は、暗闇に溶けて見えない。ただ、規則正しい寝息だけが、一定のリズムで空気を揺らしていた。すう…はあ…と静かに繰り返される音は、耳を澄ませばすぐにでも数えられるほど穏やかだ。それがかえって、自分の呼吸がどれだけ乱れているかを意識させる。胸の奥で、細かく震えるような息が、喉を行き来している。目を閉じても、眠りは全く近づいてこない。まぶたの裏に浮かんでくるのは、今日一日の断片ばかりだった。朝の座禅での、痺れる足の痛み。講義で桂木の言葉を聞いたときの、胸の奥を刺されたような感覚。作務で雑巾を握りしめた手の、赤くなった指の節。それらがばらばらに浮かんでは消え、消えてはまた戻ってくる。その隙間を埋めるように、別の記憶が滑り込んでくるのを、必死で押し返していた。ここに来てから、ずっと同じことを繰り返している気がする。座禅のときも、授業のときも、作務のときも。何かに集中しようとするほど、別の何かが顔を出す。忘れたい。忘れなくてはいけない。そう言い聞かせれば言い聞かせるほど、その輪郭は鮮明になっていく。隆寛は、布団の中で静かに息を吸った。鼻の奥に、古い木と布団の微かな匂いがしみ込んでくる。昼間に干された布団の、残り香のような日なたの匂いと、床板から立ち上る乾いた木の香り。それらが混じり合って、独特の寮の匂いになっている。耳を澄ますと、隣の部屋からも、かすかな寝息が重なって聞こえた。誰かが寝返りを打ったのか、板張りの床がきし、と小さく鳴る。その音がひとつひとつ、この場所が「修行の場」であり、「生活の場」でもあるのだと告げている。こんな静かな夜に、自分だけが眠れずにいる。目を開けると、天井と暗
午後の光は、講義室の窓から斜めに差し込んでいた。冬の陽射しは弱いくせに、木枠に沿って伸びるその帯だけはやけに鮮明で、埃の粒をひとつひとつ浮かび上がらせている。静かな空間の中で、その小さな埃が、ゆっくりと舞いながら落ちていく様子だけが時間の流れを教えていた。蒼蓮学院の講義室は、寺の一角を改装した古い建物だ。壁は白く塗られているが、ところどころ木材の色がにじみ出ている。机と椅子は簡素で、並び方はきっちりと揃っていた。床は磨き込まれた板張りで、歩くたびに軽く軋む音がする。隆寛は、その一番後ろの列の端に座っていた。机の上には、筆記用具とノート、経典。正面の黒板の前には、桂木俊心が立っている。四十代前半、僧衣の襟元は乱れひとつなく、立っているだけで姿勢の良さが分かる。背筋がまっすぐに伸びているのに、どこか柔らかい。その背中が、板張りの床と同じくらい、この部屋に馴染んでいた。「ここ、よく見なさい」白墨が黒板を滑る音がする。桂木は、すらすらと漢字とひらがなを組み合わせて書いていく。文字の線は太すぎず細すぎず、癖も少ない。書かれた一文を見て、隆寛は手元のノートに同じものを書き写した。筆圧は、意識しないとすぐ強くなってしまう。肩から指先にかけて、妙な力が入り続けているのが分かる。「ここで言う『煩悩』とは、嫌うべきもの…悪として切り捨てるべきものではない」桂木の声は、静かだがよく通る。読経のときと変わらない、深く落ち着いた音色。しかし今は、経文ではない日常の言葉で話している。そのギャップが、かえって耳に残りやすかった。「人を苦しめる原因であることは確かだが、同時に、生きている証でもある。怒り、憎しみ、嫉妬、欲望…そういったものがあるからこそ、喜びや慈しみもまた、はっきりと感じられる」黒板の前で、桂木は振り返る。視線は教室全体をゆっくりと横切っていく。誰か一人に刺すような鋭さはない。だが、どの顔も見逃さないように、均等に見ているのが分かる目だった。「では、どうすればいいか」そう言って、黒板に書かれた文字の一部を白墨で軽く叩いた。「切り







