目を覚ますと、景凪は近くの病院のベッドで横たわっていた。一方、深雲はすでに家族のヘリで専用病院へ搬送され、最高の外科医の手厚いケアを受けているそうだ。医者が入ってきて診察しながら、「命が助かって本当に運が良かったですね」と安堵の表情を浮かべた。「右太ももの傷、後もう少し深ければ神経まで届いて、最悪の場合は下半身不随になっていたかもしれませんよ!」医者も半ば呆れたような顔で、「こんなに痛いはずなのに、よく耐えてましたね……」と感心していた。……八年という歳月が流れていた。景凪は服の上から、右太ももの外側をそっと撫でた。そこには今も十数センチの長い傷跡が残っている。命がけで愛した証が、まざまざと残っている。あの晩、深雲が背中に覆いかぶさってきたとき、耳元で何か囁いていた気がする。記憶がふっと揺れる。二十歳の深雲が、耳元で優しく語りかけてくるような気がする。「景凪はどうしてこんなに優しいんだ?」嗚咽混じりの声で、「絶対に裏切らないから」と誓ってくれた。……あの頃、深雲はいつも「景凪は本当に優しい」と言ってくれた。だからこそ、景凪は気づかずにいた。「愛してる」とは一度も言われていなかったことに。景凪はさっと荷物をまとめ、会社のフロントに配車用の専用車キーを取りに行く。昨日、確認したときは「今日用意できる」と言われていたから。受付スタッフは端末を確認して、申し訳なさそうな顔をした。「すみません、穂坂部長。小林部長が今日の午後に人を寄越して、鍵を持っていかれました。もし必要なら、鷹野社長にもう一台申請してみてはいかがでしょうか。これまで開発部長は穂坂部長だけだったので、車も一台だけ割り当てられていたんです」自分に与えられていた待遇も、すべて姿月に譲られてしまった。受付スタッフでさえ、気の毒そうな目で景凪を見ている。景凪は淡々と「ご苦労様です」とだけ言い、会社を出てタクシーを拾うことにした。だがこの時間、夜の帰宅ラッシュでなかなか車がつかまらない。配車アプリを見ると、17人も前に並んでいる。ため息が出る。しかも、空模様は悪化し、小雨が降り始める始末。景凪は空を仰ぎ、灰色の雲の渦に目を細める。そんな時、ホーム画面にLINEの通知がポンと現れた。送信者は千代のサブアカウント――自渡だった。【も
電話をかけてきたのは暮翔だった。「なんで出ないんだよ?三回も四回もかけたんだぞ。出なかったら警察に通報するところだったからな」「スマホがどうしたのか知らないけど、マナーモードになってて気づかなかったんだ」深雲は眉をひそめた。「それより、なんで仕事用の番号にかけなかった?」「この前半月くらい前に番号変えただろ?俺、まだ登録してなかったんだよ」「……」深雲は、ようやく思い出した。仕事用の番号を変えたのは、景凪が意識を取り戻す二日前のことだった。あの頃は本当に忙しくて、番号の手続きも姿月に頼んだっけ。「それで、何か用?」深雲はスマホの未読メッセージを流し見しながら尋ねる。指先がふと止まる。そこに、景凪からの着信履歴があった。時間は、今朝の仕事始めの頃。着信音は一分以上鳴っていたようだ。深雲は僅かに眉をしかめ、立ち上がって部屋を出る。ソファに腰掛け、仕事用のスマホを手に取って履歴を確かめると、姿月からの電話も景凪とほぼ同じタイミングだった。つまり、あのとき景凪が姿月にわざと嫌がらせをして研究室の機器を運ばせなかったのは、自分の電話が繋がらなかったからなのか?深雲は、こめかみに手を当てて軽く頭を押さえる。「今夜、研時がパーティーを開くって。界隈の有力者の二世たちも集まるから、たまには遊びに行こうぜ」暮翔の声が耳元で響く。深雲は断らなかった。「わかった。時間と場所は?」ちょうど気分転換したいと思っている。それに、研時が自分からパーティーを開くなんて珍しい。研時の家柄に免じて、名のある二世たちも顔を出す。「夜八時、場所は夜響(やきょう)だ」……開発部のオフィス。景凪は仕事を終えてふと顔を上げると、外はすっかり夜の帳が下りていた。凝り固まった首を回し、関節がコキコキと鳴る。スマホを手に取ると、深雲からの不在着信が二件。どちらも二十秒と鳴らずに切れていた。彼女がすぐに出なかったから、深雲はすぐに諦めて切ったのだろう。それきり、再び電話が鳴ることはなかった。実のところ、景凪はずっと開発部にいる。深雲が本当に自分を探したいなら、上の階から降りてくれば十分快適に会えるはずだ。景凪はスマホを握りしめ、ふと昔のことを思い出す。あの頃、深雲が暮翔や友人たちと山登りに行くと言い出し、三日で戻る約
詩由は、周囲で手のひらを返して媚びへつらう社員たちを見て、今にも爆発しそうだった。昨日まで、あいつら一人一人がまるで借りてきた猫みたいに、景凪の前では縮こまってたくせに!「お前ら、いい大人が恥ずかしくないの?リーダーが今やってるプロジェクトは……」「詩由!」景凪がタイミングよく詩由の袖を引き、口をつぐませる。姿月の瞳に、ほんの一瞬、鋭い光が浮かぶ。彼女は冷ややかに景凪の美しい横顔を見つめながら、ゆっくりと前に出て、「善意」を装って声をかけた。「景凪さん、安心して。私はこの研究室のスーパーコンピューターを二週間だけ借りるだけ。他のものには手を付けないから」その言葉に、景凪は眉をひそめた。さっき抑えていた怒りが、詩由の胸に再び湧き上がる。「ダメだ!絶対にダメ!」詩由は即座に拒否する。このコンピューターには、景凪のプロジェクトの最高機密がすべて詰まっているのだ!姿月は何も言わず、隣にいた真菜をチラリと見るだけだった。すると、真菜はすぐさま察して、甲高い声で叫ぶ。「なにボサッとしてるのよ!さっさと中に入って、パソコン持ってきなさいよ!私たち開発二部の午後の仕事の邪魔なんだから!」さっきの深雲の一言もあり、数人の警備員は遠慮なく詩由を押しのけてコンピューターを運び出し始める。もし景凪が咄嗟に手を伸ばして支えなければ、詩由は壁に頭をぶつけていたかもしれない。詩由はもう一度止めようとするが、景凪に腕を掴まれて動けなくなる。「リーダー!」景凪は首を横に振った。今の自分たちには、もうどうすることもできない。深雲の盲目的な寵愛のせいで、社内の空気はすでにすべて姿月の味方になってしまっている。結局、景凪はただ呆然と、彼らが研究室のコンピューターを姿月の元へ運んでいくのを見ているしかなかった。「リーダー、どうすればいいの?」詩由は泣きそうな声で言う。「なんでこんなに酷い目に遭わなきゃいけないの?あの姿月、絶対わざとだよ!」あのスーパーコンピューターは、彼女たちにとって命より大切なものだった。「もう、泣かないで」景凪は優しく涙を拭い、詩由の手を引いてオフィスの奥へ連れて行く。ドアを閉めてから、景凪は声をひそめて言う。「ちょっと、いいもの見せてあげる」景凪が取り出したのは、一見ごく普通のノートパ
昨夜、深雲は慌ただしく姿月の家へ駆けつけた。すると、彼女はバスルームで倒れていたのだった。幸いにも、長風呂して低血糖になったせいで、慌てて立ち上がったときに気を失っただけで、命に別状はなかった。深雲は姿月をベッドに運び、人中を少し押すと、姿月もようやく目を覚ました。彼女は涙ながらに、まるで春の雨に濡れる桜のように儚げに訴えた。「その……スタッフの人が私にLINEを教えてほしいって言ってきて、断ったんだ。でも、一歩引いてちょっとだけスマホを貸してって頼まれて、つい警戒せずに貸しちゃって……そしたら、私の知らない間にアルバムの写真を盗まれてて……私、その人にはちゃんと説明したの。私たちは夫婦じゃないって。深雲、私のこと信じて……今すぐ公開で動画を撮って、誤解を解くから!」そう言って必死にスマホで動画を撮ろうとする姿月を、深雲はそっと制した。涙で濡れた彼女の顔に、深雲も少しばかり心を痛めた。「もういいよ、この件は海舟に任せてある。姿月がわざとじゃなかったのなら、もう水に流そう」そう言って、深雲は姿月の無事を確かめると、帰る準備をし始めた。出がけに、典子の件はもう解決したこと、そして彼女を第二開発部の部長に推薦することも伝えた。姿月はとても嬉しそうに、今まさに進めようとしているプロジェクトの話を自ら切り出した。深雲はしばらく、その新薬開発プロジェクトの話に耳を傾けた。確かに将来有望な内容だった。そんな中、姿月が飲み物を注いで深雲に渡そうとしたとき、うっかり彼の服にこぼしてしまった。「あ、ごめんなさい。シャワー浴びてきて。服、持ってくるね」深雲は以前から仕事が忙しく、辰希や清音がたまに姿月の家に泊まることもあった。伊雲が子供たちを迎えに来るついでにシャワーを使うことも多く、だからこそ、姿月の家には深雲の着替えも常備されていた。シャワーを終え、着替えてリビングに戻ると、姿月はもう夜食を用意してくれていた。時刻はもう午前二時を回っていた。深雲はもう帰るのも面倒になり、結局その晩はソファで夜を明かすことにした。もちろん、ちゃんと一線は守って。翌朝、出社する道すがら、姿月が研究室でどうしても使いたい機器があると話していたことを、深雲はしっかり覚えていた。今の景凪のプロジェクトは、西都薬品との提携にも関わる大切なも
二週間……あの日、深雲が彼女に与えた猶予は一週間だった。二週間も経てば、もうとうに時効というものだ。「もし私が渡さないって言ったら?」景凪は一歩も引かない毅然とした態度で言い放つ。「姿月、もうこんな奴に構う必要ないわ!」真菜が警備員を呼ぼうとする。姿月はそんな彼女をたしなめるように睨む。「真菜、景凪さんは社長夫人よ。いくらなんでも、それは失礼じゃない?」景凪は、二人の茶番を無表情で見つめている。彼女はスマホを取り出すと、「深雲に電話するわ。本人の口から聞きたいから」と言い放つ。姿月はにこやかに微笑む。「景凪さん、ご自由にどうぞ」ちょうどその時、開発二部から戻ってきた社員たちが野次馬のように集まり始める。彼らの視線は一斉に景凪に向けられ、皆それぞれ思惑を秘めている。騒ぎ見たさもあるが、何より本妻である景凪に対して、鷹野社長がどんな態度を取るのか、確かめたかったのだ。この数年、姿月は会社で深雲に寵愛されているが、所詮は秘書にすぎない。景凪こそが法的に守られた、正真正銘の社長夫人なのだから。もし社長の心の中で、景凪という本妻にまだ居場所があるのなら、彼らも姿月と景凪のどちらにつくか、再考せねばならない……景凪は深雲の番号を押し、通話が始まると場の空気は一層静まり返った。誰もが、着信音が繰り返されるのを固唾をのんで見守っている。だが、一分ほど待っても、深雲は電話に出なかった。最後にスマホから流れたのは、無機質な音声案内だった。「おかけになった電話は、現在おつなぎできません。しばらく経ってからおかけ直しください……」真菜がクスクスとあざ笑う。「おやおや、穂坂部長、社長は奥様の電話も無視しちゃうんですか?」「真菜、やめなさい」姿月は口元をわずかにほころばせながらも、さも気遣わしげに言った。「景凪さん、きっと社長は忙しかったんだよ。私からかけてみるね」そう言って姿月は自分のスマホを取り出し、深雲の番号を押した。耳に当てて、皆が固唾をのんで見守る。景凪自身も、思わずその様子を見つめてしまう。思わずスマホを強く握りしめている。深雲に期待しているわけではない。でも、七年も夫婦でいたのだ。少なくとも会社でまで、こんな仕打ちはしないはずだ……しかし、次の瞬間。姿月のスマホから、聞き馴染みのある低
詩由は、怒りを滲ませながらも焦った声で叫ぶ。「リーダー、早く来てください!今朝、会社に来たら、向かいに新しく開発二課ができてた!姿月がそこの部長になってて、それだけじゃなく、うちの開発部の人たちを引き抜いた上に、研究室の備品まで持っていこうとしてる!」景凪の表情がわずかに翳り、低い声で答える。「五分で着く」景凪は足早に開発部へ戻る。エレベーターを出ると、向かい側のかつて空き部屋だったオフィスが既に片付けられ、開発二部のプレートが掛かっているのが目に入った。社員たちがバタバタと荷物を運び込んでいる。窓際にいた何人かが景凪に気づいたが、気まずそうに目を逸らして知らん顔をする。景凪の目が冷たく光る。深雲は、姿月には本当に目がないらしい。たった一晩で、彼女のために開発二部を立ち上げてしまったのだ。視線を戻し、景凪は研究室へ向かう。ドアの前にたどり着く前に、真菜の高圧的で嫌味な声が耳に飛び込んでくる。「詩由、あんた本当に景凪の忠犬だよね!一人で止められると思ってんの?さっさとどきなよ。今はもう、うちとあんたらの部門で研究室を共用することになったんだから!二人しかいないくせに、こんなにたくさんの機材を独り占めして、うちら二部は何を使えばいいわけ?」詩由は悔しさで目を真っ赤にして叫ぶ。「ひどすぎるよ!うちのリーダーが今、大事なプロジェクトやってるの知ってるでしょ?機材を持っていかれたら、研究なんてできないじゃん!」詩由は必死にドア枠にしがみついている。小柄な彼女の前には、数人の警備員を従えた真菜が立ちはだかっている。真菜は鼻で笑う。「何してんのよ、さっさとこいつを引き剥がしな!」警備員が動こうとしたその瞬間、女性の冷静で凛とした声が響く。「やめなさい」振り返った真菜は、そこに歩み寄る景凪の姿を見て怯んだ。以前、彼女に平手打ちされた頬が、まだ痛くような気がする。景凪の鋭い視線に、真菜はさらに怯え、警備員の陰に慌てて身を隠す。「穂坂部長、これは鷹野社長のご指示なんですよ?私たち下っ端を困らせないでくださいね」警備員の陰から顔を出し、真菜は嫌味たっぷりに付け加えた。「まったく、鷹野社長は本当に姿月だけには特別なんですから!」深雲の指示だって?景凪は冷ややかな声で問い返す。「社長が、私の実験機材を運び出せと?」「