共有

第220話

作者: 花辞樹(かじじゅ)
数秒の沈黙の後、彼はそれに手を伸ばし、受け取った。

……

一方、特別会議室では——

姿月は実験用のゴーグルを外した。たった今、昭野の前で、実験の根幹となる工程の実演を終えたところだ。

「墨田さん。ご指示通り、実演は終わりましたわ」姿月は昭野に視線を向ける。「黒瀬さんはいついらっしゃるのかしら。もう契約書にサインをいただけますの?」

昭野は椅子にふんぞり返り、行儀悪く両足をテーブルに乗せたまま、スマートフォンをいじっている。そのふてぶてしい態度に、姿月は思わず眉をひそめ、嫌悪感を隠せないでいた。

墨田家ほどの旧家が、景舟のような非凡な才を持つ者を育て上げる一方で、どうして昭野のような、表舞台に出すのも恥ずかしい出来損ないをのさばらせておけるのかしら!

「あー、実験終わった?」昭野はゲームのモンスターと戦っていたようで、今ようやく彼女の声に気づいたかのように、投げやりに言った。「あんたの実験、全部撮影して渡さんのスマホに送っといたから。で、向こうがそれで満足するかどうかは、まあ、帰って結果でも待ってなよ」

「……っ」姿月は奥歯を噛みしめた。

どうやら今日は、黒瀬渡本人は西都製薬にすら来ていないということらしい。

それもそうか。西都製薬は業界内でこそ名高いけれど、黒瀬家の事業は世界中に広がり、その資産は計り知れないほど。

渡のような、表立って言えない隠し子ごときが、せっかく本家の跡目を継ぐ好機を得たのだ。今頃は必死に黒瀬家の当主に取り入って、正統な後継者である黒瀬知聿と骨肉の争いを繰り広げている真っ最中でしょうね!

姿月は胸の内に渦巻く怒りを力でねじ伏せ、完璧な微笑みを浮かべた。「ええ、分かりましたわ。では、良いお返事をお待ちしております」

くるりと背を向け、部屋を出ていく。その表情は落ち着き払い、口元には勝利を確信した笑みが浮かんでいた。

穂坂景凪のあの女は、今頃まだトイレに閉じ込められているはず。今日、西都製薬と交渉できるのは、この私だけ!

彼女からすれば、黒瀬渡も所詮は分かったような顔で偉ぶっているだけだ。今回の契約は、絶対に自分のものになる——姿月はそう確信していた。

姿月がエレベーターに乗り込むと、タイミングよく深雲から電話がかかってきた。

姿月はすぐに出た。「社長」

「どうだった」

姿月は笑みを浮かべて答える。「ええ、すべ
この本を無料で読み続ける
コードをスキャンしてアプリをダウンロード
ロックされたチャプター

最新チャプター

  • 鷹野社長、あなたの植物状態だった奥様は子連れで再婚しました   第461話

    源造の書斎は、母屋から少し離れた場所に独立して建てられていた。裏山を背に湖を望む竹林の中にひっそりと佇んでおり、周囲には静謐で落ち着いた空気が流れている。潤一は慣れた足取りで先導し、書斎の扉の前まで来ると、自分は中に入らずに声をかけた。「おじいさん、小林のおじ様と姿月さんがお見えだよ」「おお、早く通しなさい!」中から響いてきたのは、老齢ながらも張り詰めた重厚な声だった。その声には聞く者を正すような威厳があったが、今は明らかに待ちわびていたという期待の色が混じっている。潤一が「どうぞ」と手で促してその場を去ろうとしたが、源造にはお見通しだった。「こら、お前も入れ!」「……」体の向きを半分変えかけていた潤一は、やれやれといった風に眉を上げると、観念したように書斎へと足を踏み入れた。書斎の中は決して豪華絢爛というわけではなかった。しかし、古美術に関わって長い克書の目には、壁際の書棚に並ぶ古びた書物の数々がすべて稀少な孤本や逸品であることが一目でわかった。茶卓にはすでに茶の用意が整えられており、源造はそこで一行を待っていた。膝には薄い毛布が掛けられている。よく見ると、彼が座っているのは椅子ではなく、特注の車椅子だった。克書は一瞬だけ視線を止め、気遣わしげに声をかけた。「源造先生、おみ足が……」源造は鷹揚に手を振った。「昔、戦地で受けた弾丸の破片がいくつか残っていてね。若い頃は無理をして各地を飛び回っていたが、この年になると体が言うことを聞かなくなっていかん。歩くたびに痛むものだから、近頃はもっぱら車椅子生活だよ」「おじい様、おいたわしい……さぞかしお辛いでしょうね」姿月がしおらしく口を開き、同情に満ちた視線を向けた。すでに源造の傍らに立っていた潤一は、その様子を冷ややかな目で見やっていた。源造の鋭くも温かい眼差しが姿月に注がれる。彼は込み上げる感情を抑えきれない様子で、目元をわずかに赤くした。「お前が……」克書は表情ひとつ変えず、淀みない口調で言った。「ええ、源造先生。我が家も私が一人息子ですし、私にとってもこの子がたった一人の娘です。すでに一族の籍に入れ、今では立派に小林の家を継ぐ娘として育てております。姿月、お前も幼い頃に源造おじい様にお会いしたのを覚えているだろう?」名字を変えたという話に、源

  • 鷹野社長、あなたの植物状態だった奥様は子連れで再婚しました   第460話

    視線が交錯する。克書は明らかに動揺を見せたが、それはほんの一瞬のことだった。次の瞬間には、まるで汚いものでも見たかのように冷徹に視線を逸らし、二十年ぶりに会う実の娘を完全に空気として扱ったのだ。それどころか、隣に立つ姿月の髪を慈愛に満ちた手つきで整えてやる始末だった。「元旦那をそんな目で見つめるなんて、穂坂さんはまだ鷹野深雲に未練たっぷりみたいだね」不意に、男のからかうような低い声が響いた。景凪がハッと我に返って顔を上げると、そこには児玉潤一の姿があった。今日は彼の祖父、源造の誕生日パーティーだ。長男の息子である彼がここにいたとしても、何ら不思議ではない。私が深雲を見ていたと思ってるのね……「おや、泣きそうじゃないか」景凪の潤んだ赤くなった目元に気づき、潤一は目を細めた。チッ、泣き顔だと、この女はいっそう綺麗に見えるな。景凪は彼に弁明するつもりなど毛頭なく、ただ礼儀正しく頭を下げた。「児玉さん」そう挨拶だけして立ち去ろうとしたが、潤一は横に一歩踏み出し、彼女の行く手を遮った。「どうした?図星を突かれて逃げたくなったか」彼は景凪を見下ろし、口の端を歪めて意味ありげに失笑した。「十五年も一途に尽くした挙句、最後は無惨に捨てられたっていうのに……まだ諦めきれてないとはね。穂坂さんの執念には驚かされるよ」以前レストランの前で偶然見かけて以来、潤一はこの女に少なからず興味を持っていた。少し調べてみれば、呆れるほどの「尽くし方」だ。男一人にここまで盲目になれるとは、彼にとっては新種の生物を発見したような気分だった。景凪は小さく息を吸い込んだ。ここは児玉家のテリトリーだ。露骨に波風を立てるわけにはいかない。頼みの綱の昭野は、相変わらず人垣に囲まれていて、こちらの状況には気づいていないようだ。「今日はどうやって入り込んだんだ?」潤一は不思議そうに眉を跳ね上げた。「自分の足で歩いて入ってきました」景凪は適当に答え、作り笑いを浮かべると、突然潤一の背後を指差した。「あちらにいらっしゃるのは、お祖父様ではありませんか」潤一は反射的に振り返ったが、そこには祖父の影も形もない。ハッとした。祖父はまだ書房で来客の相手をしているはずだ。一杯食わされたと気づいて振り返ると、景凪はすでに数メートル先まで遠ざかっていた。まるで疫病神か

  • 鷹野社長、あなたの植物状態だった奥様は子連れで再婚しました   第459話

    雪華は閉じていた目を開けず、最後の一節を心の中で唱え終えると、静かに仏前で手を合わせてからゆっくりと身を起こした。「何をそんなに慌てているの。仏様が驚かれるでしょう」彼女は咎めるような視線を娘に向けつつ、部屋を出ようと歩き出した。「今の深雲さんには、どうしてもあなたが必要なのよ。感情面では命の恩人であり、ビジネスの面でもあなたは彼の力になれる。深雲さんは愚か者じゃないわ。どっちを選ぶべきか、ちゃんとわかっているはずよ」「それに、穂坂景凪のことなんて放っておけばいい」雪華は冷ややかな笑みを浮かべた。「あの小娘が真実を知ったところで、何ができるというの?お父さんが対外的に『娘』だと認めているのは、あなた一人だけ。それより今、あなたが注力すべきは児玉源造様のお誕生日会よ」雪華は飾り棚に置かれた豪奢な小箱を手に取り、姿月に手渡した。「これが源造様が最も愛するという古美術品……『鳳凰の舞』と呼ばれる青磁の香炉よ。これで源造様の機嫌を取ることができれば、児玉家との太いパイプができるわ」姿月が箱を開けると、そこには確かに、今にも飛び立ちそうな鳳凰の意匠が施された、美しい香炉が鎮座していた。瞬く間に、児玉源造の誕生日パーティー当日がやってきた。会場となるのは、郊外の静寂な森に囲まれた児玉家の別邸だ。重厚な門の両脇には、威厳ある石灯籠と手入れの行き届いた松が配され、その屋敷の格式の高さを無言のうちに物語っている。エントランス前には高級車がずらりと列をなしていた。見るからに高価なスーパーカーもあれば、一見地味だが、その特殊なナンバープレートや運転手の所作から、持ち主の政財界における強大な権力が透けて見える黒塗りのセダンもある。今日、景凪は昭野のパートナーとしてこの場に足を運んでいた。「墨田さん、今日は連れてきてくれてありがとうございます」実は、ダメもとで昭野に連絡を取ってみたのだった。もし彼に断られていたら、別の手段を使って潜り込むつもりではあったが、彼のエスコートという「正攻法」で堂々と入場するのが、最も手っ取り早く確実なのは間違いない。意外だったのは、昭野が二つ返事で快諾してくれたことだ。今日の彼は珍しく仕立ての良いスーツに身を包んでいる。普段の「ドラ息子」的なチャラついた雰囲気は鳴りを潜め、彼が本来持っている名家の御曹司とし

  • 鷹野社長、あなたの植物状態だった奥様は子連れで再婚しました   第458話

    周作は景凪の剣幕に気圧され、目を白黒させた。「えっ、あ、旦那さんは黒瀬さんじゃないんで?じゃあ、あの黒瀬さんって方は、なんのゆかりもねえのにあんなに一生懸命、穂坂さんのために尽くしてたんか……」周作は困惑し、白髪混じりの頭をカリカリとかいた。これが今時の若いもんの恋愛事情ってやつかねえ?自分も年を取ったものだ、と嘆息する。景凪はゆっくりと手を離した。指先は氷のように冷たく、微かな痺れだけが残っている。「その人の名前は……『渡』ではありませんでしたか」「下の名前までは……ただ、お連れの方が『黒瀬様』と呼んでたのは耳にしました。いやあ、それにしても……本当に美しい男だったなあ。私も半世紀生きてますけどね、あんなにご器量良しの男は見たことがない。まあ、男があそこまで綺麗すぎると、それはそれで色々大変なんでしょうがねえ……」間違いない。渡だ。ただその顔立ちだけで、これほど強烈な印象を残せる男は、彼しかいない。目覚めてからというもの、幾度となく起きた出来事。そのすべてにおいて、彼はまるで計ったかのように、私が最も必要とする瞬間に現れている……だが、なぜ?彼と私の間に、これほどの献身を受けるような理由なんて何一つないはずだわ……私にとって黒瀬渡とは、大学時代、何かと突っかかってくる目障りな同級生に過ぎなかった。疑ったことがないわけじゃない。だからこそ、直接彼の気持ちを問い質したこともある。でも、彼は自分の口ではっきりと言ったのだ。「好きじゃない」と。なら、どうしてここまでするの?理由もなく、人はこれほど他人に尽くしたりはしない。必ず何か目的があるはずよ。帰りの車中、景凪は長いこと躊躇った末に、渡へメッセージを送った。【いつ時間が取れる?少し話したいの】だが、送信されたメッセージは梨の礫のごとく、いつまで経っても返信が来ることはなかった。景凪は初めてと言っていいほど落ち着きを失っていた。痺れを切らして自ら電話をかけてみたが、無情にも電源が入っていないというアナウンスが流れるだけだった。仕方なく、景凪は悠斗に連絡を入れた。だが、返ってきた答えは期待外れのものだった。「社長は海外へ用事を済ませに行っております。海外に出られる際は、別の携帯を使われますので」悠斗は事務的に答えた。「穂坂様、何か急用でしょ

  • 鷹野社長、あなたの植物状態だった奥様は子連れで再婚しました   第457話

    一方、車内で待つ姿月は、纏わりついてくる清音の相手どころではなかった。全神経が、少し離れた場所にいる深雲と景凪に向けられている。二人の距離が縮まり、景凪が手を伸ばすのが見えた。あろうことか、深雲はそれを拒む素振りすら見せない……「いたっ!」清音が可哀想な声を上げた。「姿月ママ、痛いよ」隣で数独に没頭していた辰希が、妹の悲鳴に反応して素早く顔を上げる。「あら、ごめんなさい清音ちゃん。わざとじゃないのよ。痛いの痛いの、飛んでいけ……どう?まだ痛い?」姿月は慌ててご機嫌取りにかかる。「ううん、もう平気」「清音ちゃん、こっちへ来なよ。面白いもの見せてやるから」「ほんと?うん!」清音は姿月の腕の中から抜け出し、兄のそばへと移動した。辰希は鋭い眼光で姿月を睨みつけた。その冷たい眼差しは景凪に瓜二つで、姿月は以前から懐こうとしないこのクソガキに苛立ちを覚えていた。それが今、頂点に達しようとしている。いつか必ず、この生意気なガキを始末してやる……!だが、今はそれを表に出すわけにはいかない。姿月は辰希に向かって作り笑顔を浮かべてみせた。辰希はそれを黙殺し、妹の赤くなった腕を優しくさすった。ふと顔を上げると、深雲が車の方へと戻ってくるのが見えた。姿月は弾かれたようにドアを開け、待ちきれない様子で駆け寄る。「深雲さん、景凪さんは何て?まさかまだ、私のお母さんが家庭を壊したとか、お父さんが穂坂家の財産を乗っ取ったとか、そんな世迷言を言ってたんじゃないでしょうね?」深雲はきょとんとした顔で首を横に振る。「そんな話は一切していない。ただ子供たちのことを少し話しただけだ」姿月の表情が凍りついた。信じられない。何も言わなかった、だと?あの意地悪な景凪が、告げ口の一つもしなかったというの?姿月は疑念を拭えなかった。子供の話をするだけで、あそこまで顔を近づける必要があるだろうか。「深雲さん……」彼女は深雲にしなだれかかり、甘えた声で囁いた。「私、怖いの。景凪さんにあなたを奪われちゃうんじゃないかって……」深雲の瞳がわずかに沈む。彼は姿月の背中を優しく叩き、低い声で宥めた。「馬鹿なことを言うな。俺たちはもう離婚してるんだ」「じゃあ……いつ婚約してくれるの?」姿月は上目遣いで深雲を見つめた。頬を桃色に染め、恥じらうよう

  • 鷹野社長、あなたの植物状態だった奥様は子連れで再婚しました   第456話

    その視線は、明浩の背後に守られている景凪を刺すように射抜いた。深雲の中で苛立ちが炎となって燃え上がり、口元には残酷な笑みが一層濃く浮かぶ。「お前は一体どこの誰だ?二十年前なんざ、まだ洟垂れ小僧だったくせに、何を知っていると言うんだ?」深雲は嘲るように鼻を鳴らした。「そこまで景凪を信じ込むとはな。惚れたのか?はんっ、離婚した途端、随分とモテるようになったじゃないか。俺の『元妻』という肩書きが、女としての価値を底上げしてくれたと見える」「黙りやがれッ!」明浩の拳が、深雲の顔面めがけて唸りを上げた。深雲は間一髪でそれをかわすと、沸騰する怒りに任せて低く罵り声を上げ、拳を握りしめた。二人の男は激しくぶつかり合う。深雲は洗練された武術の心得があるが、対する明浩は我流の喧嘩殺法、しかも急所を狙う容赦のない動きだ。互角の攻防が続き、勝負の行方は見えない。その喧騒をよそに、景凪は静かに母への拝礼を終えた。三本の線香を香炉に立て、ゆっくりと身を起こす。そして、不意に甘く柔らかな声を響かせた。「深雲」その一言が、深雲の意識を一瞬だけ揺らがせた。明浩はその隙を見逃さない。渾身の一撃が深雲の顔面を捉えた。バゴッ!姿月の表情が凍りついた。勝てるはずの喧嘩で、あの女の声一つで深雲が隙を見せたのだ。まさか……深雲、まだあの女に未練が?「明浩、やめなさい!」景凪の鋭い制止の声が飛ぶ。振り上げられた明浩の拳は、空中でピタリと止まった。「ですが、お嬢様!こんな奴、殴り殺させてください!」悔しげに歯を食いしばる明浩に対し、殴られた頬に青あざを作った深雲は、どこか勝ち誇ったような笑みを浮かべた。「景凪に聞いてみろよ。俺を殺すなんて、彼女が許すはずないだろう?」景凪は、いつものように牙を剥いて言い返すことはしなかった。深雲の背後に隠れる姿月へ冷ややかな流し目を送り、不意に艶やかな微笑を浮かべると、自ら深雲へと歩み寄る。姿月は瞬時に警戒心を露わにし、すがりつくように深雲の袖口を掴んだ。「深雲さん、行きましょうよ。清音ちゃんや辰希くんたちが車で待ってるわ……」景凪は深雲を見つめる。演技ならお手の物よ。未練がましい眼差しの一つくらい、造作もないことだわ。彼女は瞳にたっぷりと情を湛え、甘く囁いた。「あなたに、話があるの」姿月の顔

続きを読む
無料で面白い小説を探して読んでみましょう
GoodNovel アプリで人気小説に無料で!お好きな本をダウンロードして、いつでもどこでも読みましょう!
アプリで無料で本を読む
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status