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第230話

Auteur: 花辞樹(かじじゅ)
電話を切った千代は、すっかり上機嫌だった。今日は誰にでも優しくしよう。何度もNGを出すコネ入社の二番手俳優にさえ、にっこりと微笑みかけてやったほどだ。

公式のSNSアカウントは事務所に管理されているため、出番を待つ間、千代はプライベートで使っているSNSのタイムラインに、ある歌のリンクを投稿した。曲名は、『素晴らしい日々』。

そして少し考えてから、とうの昔にブロックした深雲のアカウントをわざわざ解除し、この投稿に彼を名指しでタグ付けしてやった。

一方、景凪は、桐谷然に会うため、身支度を整えていた。

家を出る前に、一度、清音の部屋をのぞいてみる。

娘はベッドにうつ伏せになり、小さな足を空中でぱたぱたとさせながら、スマホに向かってボイスメッセージを送っていた。

「姿月ママ、もう大丈夫?まだ痛い……?」

その声は、実の母親である自分には、一度も見せたことのない甘さに満ちていた。

ドアノブに伸ばしかけた景凪の手が、宙で止まる。しばらくして、彼女はその手を力なく下ろすと、音を立てずに背を向け、静かにその場を立ち去った。

階下に降り、玄関の扉を開けると、ちょうど息を切らして駆け込んできた海舟と鉢合わせになった。

景凪は意外な訪問者に、少し驚く。

「海舟?」

「よ、よかったです、奥様!ご在宅で!」ぜえぜえと肩で息をする海舟の額には、汗が滲んでいた。

景凪は、海舟のことを昔から悪い人間だとは思っていなかった。

だから、その声は自然と穏やかになる。「どうかしたの?そんなに慌てて」

「こ、こちらを」海舟は、息を切らしながら、見るからに高級そうな箱を景凪に差し出した。「社長からでございます。必ず、奥様に直接お渡しするようにと……」

景凪は「……」

彼女は箱を受け取ると、ためらいなく蓋を開ける。現れたのは、息をのむほど華やかなダイヤモンドのネックレスだった。ひと粒ひと粒が、まばゆいばかりの輝きを放っている。

姿月に贈った、あのダイヤモンドのブレスレットと同じブランドだ。

値段にすれば、1億円は下らないだろう。

景凪は、皮肉っぽく唇の端を吊り上げると、ふっと乾いた笑い声を漏らした。

なるほど。これが深雲からの、不貞の慰謝料というわけ……

「奥様」海舟は、おそるおそる口を挟んだ。「そ、その贈り物は、社長のお気持ちです。どうか、お納めください」

景凪
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