INICIAR SESIÓN――パサッ。景凪の手から、薬の袋が抜け落ちて床に転がった。ガラス窓に映り込んだ自分の顔から、一瞬にしてすべての血の気が引いていく。景凪はよろめきながら薬局を飛び出した。背後から老薬剤師が驚いて叫ぶ声も、今の彼女には届かない。「お嬢さん!薬が!おーい、危ないから足元に気をつけて……!」転ぶように駆け出していった背中を見送り、老薬剤師は狐につままれたような顔で頭を掻いた。さっきまでの凛として穏やかだった姿とは、まるで別人のようだったからだ。「いったい何があったってんだ、あんなに血相を変えて……」老薬剤師の呟きは、春の風に消えた。景凪はただ夢中で、裏通りのあの古い空き家へと走り続けた。道すがら顔見知りの町民が声をかけてきても、視界にすら入らない。額には玉のような汗が浮き出し、冷たい風が気管に流れ込んで、喉の奥が焼けるようにひりついた。視界が熱い涙で歪む。どうして泣いているのか、自分でも分からなかった。頭の中には、ただ一つの考えしかない。いや――ただ一人の名前だけが、狂おしいほどに反響していた。渡。彼は、生きている。あの痩せこけた黒い人影も、焼け爛れたように掠れた声も。自分が必死に面影を重ねながら、それでも彼だと認めることを恐れたあの男は――本当に、渡だったのだ。その手には、さっきの女の子から無理を言って譲り受けた一粒のミントキャンディが握りしめられていた。あまりに強く握りしめるせいで、硬い包み紙の角が手のひらに食い込み、鋭い痛みを放っている。古い空き家が視界に飛び込んできた途端、胸が締めつけられるように軋んだ。門の前で立ち止まり、荒い息を二度吐き出す。そして小刻みに震える手で、わずかに開いたままの木戸を乱暴に押し開け、中へと駆け込んだ。庭は昨日自分がここを去った時のまま、がらんとして寒々しい静寂に包まれていた。母屋の扉は固く閉ざされ、窓の向こうは真っ暗に沈んでいる。一歩、また一歩と扉へ近づく。唇を開いたが、喉がひりついて引き攣り、最初の一声は音にすらならなかった。もう一度、息を吸い込む。「……渡」返事はない。景凪はさらに前へと踏み出した。声は次第に大きく、激しく震え、魂そのものが泣き叫んでいるかのようだった。「渡っ、あなたなんでしょう!?
「お嬢さん、いったいどこの名医に師事されたんだね?」景凪は柔らかく微笑んで答えた。「実家も医療関係で、小さい頃から見様見真似で学んだだけです」老薬剤師は由緒ある医者の家系なのだと納得し、感嘆の言葉をいくつも並べてから、再び慌ただしく調合へと戻っていった。店の片隅の椅子に腰掛けたまま、潤一は患者たちに囲まれる景凪の姿を静かに見つめていた。窓から差し込む柔らかな陽光が彼女の輪郭を縁取り、そこだけ時間が止まっているかのようにさえ見える。潤一は、一瞬たりとも彼女から目を逸らさなかった。厳格な家で育った彼の教養や礼儀からすれば、異性をこれほどぶしつけに凝視するなど本来ならあり得ない振る舞いだ。けれど今日ばかりは、そんな建前はどうでもよかった。どれほどの時間が過ぎただろうか。手元の湯呑みに入ったお茶は、もうすっかり冷めきっていた。潤一はその冷たい茶を一息に飲み干す。舌の上に、渋くほろ苦い後味が広がった。自嘲するように口の端をわずかに引き上げ、掠れた声でぽつりと呟く。「景凪。……さよならだ」その声すら、苦渋に満ちていた。彼女の心の奥へ踏み込むことなど、自分には到底できそうになかった。そして、無理強いするつもりもない。自分には、渡のような真似はできない。何の見返りも求めず、想いを受け止めてもらうことすら望まず、ただ気の遠くなるような歳月をかけて一人の女を愛し抜くことなど。同時に、景凪のようにもなれない。彼女はこの先も生きていくはずだ。後を追って死ぬような真似はしないだろう。けれど、残りの人生で他の男を愛することも、きっと二度とない。――どうやって競えと言うんだ。この世の誰が、あんな「死人」に勝てるというのか。俺には、俺の人生がある。一通りの手伝いを終えた景凪がふと振り返ると、片隅の席はすでに空っぽになっていた。ただ飲み干された湯呑みだけが、テーブルの上にぽつんと静かに置かれている。景凪は小さく瞬きをし、ポケットからスマートフォンを取り出した。そこには十分前に届いていた潤一からのメッセージが残されていた。【先に行く。あんたの願いが叶うよう祈ってるよ。――時には自分の目じゃなく、自分の心を信じてみろ】最後の一文の意味が、景凪にはよく分からなかった。けれど、潤一という男
彼女がこれ以上この話題に踏み込まれたくないのは、誰の目にも明らかだった。潤一はそれ以上追及せず、からかうような笑みをすっと引っ込めた。「医者を呼んでこよう。一度診てもらった方がいい」「ううん、手を煩わせないで。なんともないから」景凪は彼を呼び止めた。この小さな町の病院は、いつも人手不足で患者が溢れかえっている。そもそも、自分自身が誰よりも腕の立つ医者なのだ。他の患者の診察を遅らせるような真似はしたくなかった。視線を落として自らの手首に指を添え、脈を診る。数秒で体の状態は把握できた。「帰ってから自分で生薬を調合すれば十分よ。ちょっとした擦り傷と打撲だけだから、大したことはないわ」潤一は数秒間じっと彼女を見つめたが、無理強いはしなかった。「分かった。なら、家まで送る」その言葉が終わるか終わらないかのうちに、彼のスマートフォンが着信を告げた。電話の向こうから何かが伝えられ、潤一の眉間に深い皺が刻まれる。「……ああ、分かった」短く応じて通話を切る。潤一が口を開くより早く、景凪が先手を打った。「仕事があるなら行って。私は本当に大丈夫だから、一人で帰れるわ」潤一は何も答えず、ただ無言で彼女を見据えたまま、不意に一歩前へと踏み出した。景凪の体が、反射的にびくりと後ろへ引く。ほんのわずかな距離。けれどその小さな仕草には、無意識の警戒と拒絶が痛いほど表れていた。潤一の胸の奥に、自嘲が込み上げる。――まったく、笑わせる。あの男は本気で、俺がこの女の心に入り込めるとでも思ったのか。だがそれ以上に滑稽なのは、あいつの言葉を真に受けて、一瞬でも期待を抱いてしまった俺自身だ。「送ると言ったら送る」声は静かだったが、有無を言わせぬ響きがあった。普段はどこか気怠げで掴みどころのない男だが、ひとたび表情を引き締めれば、長年裏社会の頂点に君臨してきた支配者特有の威圧感が滲み出る。景凪も、それ以上は拒まなかった。なんだかんだ言っても、彼は大切な友人の一人なのだから。潤一が手配した軽い食事を摂り、少し休んでから退院の手続きを済ませた。病院を出る際、景凪はくれぐれもこの件を他の誰にも――特に二人の子供たち、辰希と清音の耳には入れないでほしいと潤一に頼み込んだ。潤一はふっと口の端を上げ、助手
どれほどの時間が流れただろう。潤一は静かに、けれど躊躇うことなくその手を引き抜いた。握っていた熱をそっと布団の中へと戻し、深く椅子の背もたれに凭れかかる。横顔のまま、まだ白みきらない窓の外をぼんやりと見つめた。景凪が目を覚ました時、世界はすでに眩しい朝の光に満ちていた。重い目蓋を押し上げると、ぼやけていた視界がゆっくりと焦点を結んでいく。微かに首を傾げた先、すぐ側の丸椅子に腰掛けている潤一の姿が目に入った。がっしりとした大柄な体躯には、あまりにも小さすぎる椅子。どう見ても居心地悪そうに身を縮めている。百戦錬磨の傭兵として生きてきた男だ。仮眠を取っていたはずの潤一は、景凪の視線が向けられたその刹那、気配を察知して鋭く目を覚ました。視線を交わしたその瞳には、徹夜の疲労を物語る赤い血走りが滲んでいる。「……目が覚めたか。どこか痛むところは?」景凪は微かに首を横に振った。「あなた……一晩中、ついていてくれたの?」潤一は答えなかった。ただぎしぎしと軋む首筋を回しながら立ち上がると、窓際へ歩み寄り、カーテンをほんのわずかに引き開けた。隙間から差し込んだ朝の光が、真っ白なベッドシーツの上に落ち、眩しそうに揺れていた。「あの、空き家にいた人……」景凪は乾いた唇を引き結び、そこで言葉を濁した。けれど、その瞳の奥には縋るような微かな光――期待の色が滲んでいた。潤一はゆっくりと振り返り、彼女をまっすぐに見つめた。「調べはついた」あらかじめ用意していた偽りの事実を、潤一は淡々と差し出す。「この町の出身で、身寄りのない男だ。昔、出稼ぎ先で工場火災に巻き込まれて、顔と喉に大火傷を負ったらしい。戻ってきてからは人と関わるのを嫌って、あそこに引きこもっていただけだ。町で流れてる奇妙な噂も、全部ただの尾ひれに過ぎない」景凪は黙ってその言葉を聞いていた。「信じられないなら、自分で確かめてもいい」潤一は素っ気なく付け加えた。彼が裏から手を回した以上、彼女が調べたところで同じ答えにしか行き着かないと知っているからだ。「…………」景凪は力なく視線を伏せた。シーツを握りしめる指先に、ぎゅっと力がこもる。沈黙のあと、掠れた声がぽつりとこぼれた。「……私の、勘違いだったみたい」その打ちひ
終わりの見えない、暗く狭い路地の中にいた。空は今にも雨が降り出しそうな鈍色で、どこまでも重苦しく垂れ込めている。どれほど彷徨っただろう。立ち込める薄闇の先、ぽつりと一つの人影が浮かび上がった。黒い服に、黒い髪。痛々しいほど痩せこけた背中を丸め、覚束ない足取りでゆっくりと前へ進んでいく。その姿を視界に捉えた瞬間、景凪の瞳から堰を切ったように涙が溢れ出した。「渡……!」間違いなく、彼だ。心が、魂がそう叫んでいた。呼びかける声に気づいたのか、その人影はわずかに首を傾げた。けれど――決して振り返ろうとはしない。景凪は必死で駆け出した。すぐ目の前にいる。あと少し手を伸ばせば届くはずなのに、いくら走っても距離は一向に縮まらない。「渡――っ!お願い、行かないで……!頼むから、私を置いていかないで!」喉が引き裂けそうになるほど泣き叫び、声が嗄れ果てても。その人は、ただの一度も振り返ってはくれなかった――……しん、と静まり返った病室。気配を忍ばせて扉が開き、潤一が足を踏み入れてきた。ベッドの脇へ静かに椅子を引き寄せ、腰を下ろすと、昏々と眠り続ける景凪を見守る。その目の下には、隠しようもない濃い隈が刻まれていた。病院についてから席を外したのは、命を落とした部下の後始末に追われた一度きりだ。遺族へ支払う手当にも、自分のポケットマネーから相当な額を上乗せして包んできた。護送中の不測の事態とはいえ、尊い部下の命まで失うことになるとは、完全に想定外だった。ここまで事態を悪化させてしまった以上、どんな理由があろうと、指揮官である自分が全責任を背負わなければならない。潤一は深い疲労を滲ませ、指先で眉間を強く揉みほぐした。椅子の背もたれに深く身体を預け、伏せ目がちにベッドの上の女性を見下ろす。思えば、あの虎風島から戻ってきて以来、彼女の姿をこうして間近で見つめることすら避けていたかもしれない。景凪は、相変わらず痛々しいほどに痩せこけていた。折れてしまいそうなほど華奢な体、血の気のない白い肌、薄く色褪せた唇。その全身から、痛切なまでの病的な気配が漂っている。――いや、それも当然だった。渡がこの世を「去った」あの日から、彼女の心も体も、一度たりとも癒えたことなどなかったのだから
ドサッ……!キズの体が、糸の切れた操り人形のように床へと崩れ落ちる。見開かれたままの目は宙を見つめ、全身がガクガクと数度痙攣したのち――完全に動かなくなった。どす黒い血が、古い板張りの床を静かに、じわじわと染め上げていく。絶命だった。景凪は息を呑み、血だまりの向こう――部屋の奥の暗がりを見つめた。そこに、人影が立っていた。全身黒ずくめの服を纏い、まるでこの世の者ではない幽霊のように佇む長身の男。窓の隙間から漏れ出す青白い月明かりが、その痛々しいほど骨ばった肩の輪郭を、細く浮かび上がらせている。……あの時の。胸の奥が激しく軋んだ。母の墓参りに行った帰り道、あの山道で見かけた影だ。心臓が、早鐘のように胸腔を乱打する。あまりの衝撃に、喉の奥がからからに張り付いて呼吸すらままならない。開いた唇を震わせ、数秒ののち――景凪は、全身の力を絞り出すようにしてその名を呼んだ。「……渡」たった一言。それだけを口にしただけで、舌の先まで痺れるような感覚に襲われた。だが、男はぴくりとも動かなかった。景凪が震える足取りで一歩近づこうとすると、男は弾かれたように二歩、後ずさった。「……人違いだ」男が口を開く。その声は酷く掠れ、砂を噛むように乾ききっていた。景凪の記憶にある、あの深く澄んだ美しい声とはまるで違う。けれど――決して、違うはずがない。「嘘……そんなはずないわ」景凪は涙で滲む視界の中、さらに一歩、前へと踏み出した。「絶対に、渡よ……!」彼女が一歩進むと、男はまた一歩、後ずさる。男は壁際の最も濃い影の中へと身を隠し、自らの存在そのものを夜の闇に消し去ろうとするかのように、深く体を縮こまらせた。「もう一度言う。……人違いだ」男は奥歯を噛み締め、一語一語を叩きつけるように吐き捨てた。「今すぐ、俺の家から出ていけ!」景凪の瞳から、大粒の涙がとめどなく溢れ落ちた。これ以上、前に踏み出す勇気はなかった。自分の直感を信じることすら怖かった。渡は死んだのだ。世界中の誰もが知る、残酷な真実。それを受け入れられず、認めたくなくて、ただ自分が亡霊を追いかけていただけなのだと。「……ごめんなさい。取り乱してしまって」景凪は震える指先で口元を押さえた。「ただ……どうし