INICIAR SESIÓN古い雑居ビルの3階。 少し重たいドアには、白い紙が1枚貼られている。 あなたの旦那/彼氏、書き殺します。 その下には、小さな文字で―― ※現実世界への効力はありません 店主は小説家。ここを訪れるのは、旦那や彼氏に言いたいことを溜め込んだ女性たちだ。 「本日は、旦那様ですか? 彼氏様ですか?」 愚痴を聞き終えた店主が差し出すのは、A・B・C、3つのメニュー。 Aは気づかせる。 Bは因果応報。 そしてCは――物語の中で完全に書き殺す。 離婚するほどじゃない。でも、今日だけはちょっと消えてほしい。 そんな女たちのために、今日も店のベルが鳴る。
Ver más「いらっしゃいませ」
私は、目の前の女性に椅子を勧めた。
「本日は、旦那様ですか? 彼氏様ですか?」
女性は一瞬、戸惑ったように瞬きをした。
「……夫です」
「かしこまりました」
私は赤いペンのキャップを外し、受付票を1枚取り出した。
店の名前はない。
正確には、大きな看板を出していない。
古い雑居ビルの3階。
少し重たいドアに、白い紙が1枚貼られているだけだ。
あなたの旦那/彼氏、書き殺します。
その下には、さらに小さな文字で、
※現実世界への効力はありません
とある。
私は小説家だ。
売れているかと聞かれると困る。
ただ、人の旦那を小説の中で懲らしめる仕事だけは、なぜか途切れない。
受付票の右上に番号を書く。
001
「奥様のお名前を伺っても?」
「高橋沙織です。38歳」
「ご主人は?」
「誠。42歳です」
私は順番に記入していった。
受付番号:001
対象:夫
夫:42歳
妻:38歳
結婚歴:9年
子ども:小学2年生の娘1人
本日の罪状:未記入
常習性:確認中
妻の我慢度:★★☆☆☆
本日の殺意:★★☆☆☆
希望コース:未定
私は受付票から顔を上げた。
「ではまず――」
いつもの質問をする。
「今日、何をされました?」
沙織さんは困ったように笑った。
「今日じゃなくて、昨日なんですけど」
「問題ありません」
「こんなことで来てもいいのかなって」
「内容を伺ってから判断します」
「あの……昨日、熱が出たんです」
「何度ですか?」
「39度2分」
赤いペンが止まった。
「高いですね」
「はい」
小学2年生の娘を迎えに行き、夕食を食べさせ、風呂に入れ、自分は薬を飲んでベッドへ倒れ込んだ。
夫は仕事だった。
そこまではいい。
夜8時過ぎ。
玄関のドアが開いた。
「ただいまー」
誠さんは寝室を覗いた。
「大丈夫?」
ここまではいい。
「薬飲んだ?」
これもいい。
問題は、その3秒後だった。
「で、今日の飯どうする?」
私は黙って受付票へ視線を落とした。
本日の罪状:39度2分の妻に夕食の判断を求める
と書く。
沙織さんが私の手元を見た。
「……分かります?」
「もう少し詳しく伺います」
「はい」
「ご主人は『作って』と言ったんですか?」
「それは言ってないんです」
「では?」
「『俺、何か買ってくるよ』って」
「それだけ聞くと、親切ですね」
「そうなんです!」
沙織さんが身を乗り出した。
「そこなんです!」
私は赤いペンを構え直した。
「続けてください」
「『何買えばいい?』って聞くんですよ」
「はい」
「知らないよって思いません?」
「39度2分ですからね」
「だから『何でもいい』って言ったんです」
「すると?」
沙織さんは、少し低い声で夫の真似をした。
「『何でもいいが一番困るんだよね』って」
私は何も言わず、受付票を書き直した。
妻の我慢度:★★☆☆☆ → ★★★☆☆
「あ」
沙織さんが気づいた。
「増えました?」
「こちらの判断です」
彼女が吹き出した。
「でも、これだけじゃないんです」
「でしょうね」
「え?」
「いえ。続けてください」
夫がスーパーへ行けば、
『マヨネーズどれ?』
と写真が送られてくる。
家の中にいるのに、
「俺の靴下どこ?」
テレビのリモコンが見つからなければ、
「最後に使ったの誰?」
旅行の日には、自分のバッグだけ持って玄関に立ち、
「まだ?」
娘を1時間公園へ連れて行った日には、
「今日、俺かなり育児したよな」
私は淡々と書き足していった。
常習性:常習
主な症状:妻を家庭内検索エンジンとして使用
「この前なんて」
沙織さんの声が少し低くなった。
「トイレットペーパーを使い切ったんです」
「はい」
「芯だけ残してありました」
「ご主人が最後に使ったのは確実ですか?」
「間違いありません」
私は追記した。
追加罪状:最後の1ミリを使用した者としての責任を放棄
沙織さんが受付票を覗き込む。
「そこまで書くんですか?」
「記録は正確に残します」
「病院みたいですね」
「似たようなものです」
「どこが?」
「溜めすぎると悪化します」
沙織さんは、また笑った。
けれど、その笑顔はすぐに消えた。
「でも私も分かってるんです」
「何をですか?」
「こんなの、大したことじゃないって」
彼女は指先を見つめた。
「浮気してるわけじゃないし、暴力もない。ギャンブルもしない。ちゃんと働いてるし、娘のことも可愛がってます」
「はい」
「だから、夫は悪い人じゃないんです」
私は赤いペンで、その言葉を丸で囲んだ。
夫は悪い人じゃない。
この店へ来る女性が、よく口にする言葉だ。
「離婚したいわけでもないんです」
「はい」
「ただ……」
彼女はしばらく考えてから、小さな声で言った。
「たまに、1回だけ消えてくれないかなって」
私は受付票を見る。
本日の殺意:★★☆☆☆
少し考えて、
★★★☆☆
にした。
「また増えた」
「妥当かと」
私は受付票を閉じた。
「高橋様」
「はい」
「当店では、離婚理由は必要ありません」
机の下から、黒い革張りのメニューブックを取り出す。
表紙には金色の文字。
WRITING KILL MENU
沙織さんの目が止まった。
私はそれを、彼女の前へ静かに差し出した。
「では、本日のメニューをご案内します」
彼は目を覚ますと、スマートフォンを手に取った。朝7時32分。奈々からメッセージが来ていた。おはよう。今日仕事?彼は画面を開く。既読。返信はしない。あとでいい。まずゲーム。ログインボーナスを受け取る。SNSを見る。昨夜の飲み会の写真を1枚投稿する。それから仕事へ向かった。駅で会社の同僚へメッセージを送る。電車遅れてる。10分くらい遅れる既読。返事なし。「まあいいか」会社に着く。上司へ報告。到着しました。すみません既読。返事なし。昼。同僚をランチに誘う。今日どこ行く?既読。返事なし。「……ん?」仕方なく1人でコンビニへ行く。午後。取引先へメール。明日の打ち合わせ、15時で問題ありませんでしょうか既読。返事なし。夜。友人へ。今週飲まない?既読。返事なし。彼は少しだけイライラした。家へ帰り、宅配アプリで夕食を注文する。注文を受け付けました。その後、何も来ない。1時間。2時間。「遅すぎだろ」問い合わせを送る。注文どうなってますか?既読。返事なし。結局、カップ麺を食べた。翌朝。会社へ行く。昨日の取引先から、まだ返事はない。上司からもない。友人からもない。「何なんだよ」昼。母親にLINE。今度の日曜そっち行くかも既読。返信なし。「母さんまで?」夜。奈々へ送る。今週末どうする?既読。返信なし。10分後。忙しい?既読。返信なし。20分後。寝た?既読。返信なし。彼はスマートフォンを見つめる。「……何だよ」翌日。世界はさらに静かになった。誰も返してくれない。彼が何を送っても、既読。既読。既読。既読。読む。でも、返ってこない。会社の会議時間も分からない。友人との予定も決まらない。宅配も来ない。母親も返さない。奈々も返さない。彼はイライラして、SNSを開いた。投稿する。最近みんな返信遅くない?すぐに閲覧数が増える。見ている。みんな見ている。なのに。コメントはゼロ。「見てんなら返せよ!」彼が叫んだ。その瞬間。スマートフォンが震えた。ようやく上司から返信。3日前に送った、電車遅れてる。10分くらい遅れるへの返事だった。了解彼は画面を見つめる。「今?」続いて母親。3日前
「まず、Aコースです」Aコース『未読不安・24時間体験』彼氏から送られたすべてのメッセージを、彼女側では読んでいる。ただし――一切、返さない。「24時間だけですか?」「はい」「既読は?」「つけます」「つけるんだ」「そこが重要です」朝7時。彼氏。おはよう既読。返信なし。昼12時。今日何してる?既読。返信なし。夕方5時。忙しい?既読。返信なし。夜9時。大丈夫?既読。返信なし。深夜0時。怒ってる?既読。返信なし。奈々さんが笑い始める。「ちょっといいかも」「Aは軽めです」「十分効きそう」「ただし24時間です」「短い」「では、Bへ進みます」私はページをめくった。Bコース『全世界・返信3日後』彼氏が送ったすべての連絡に対し、世界中が3日後に返信します。「世界中?」「はい」会社。友人。家族。宅配業者。飲食店。病院。すべてです。「例えば?」「彼氏が上司に送ります」本日の会議、14時でよろしいでしょうか?上司。既読。3日後。了解「会議終わってる」「そうなります」彼氏がレストランに予約。今夜2名空いてますか?既読。3日後。空いております「遅い」「非常に」「これ好きです」「Bですから」私は最後のページを開いた。「そして、Cコース」奈々さんが少し姿勢を正す。Cコース『完全書き殺し・72時間後に返信します』「……今回はどう死ぬんですか?」「まず確認させてください」「はい」「彼氏は返信をしない間、何をしていると思います?」「ゲームしてます」「確実ですか?」「オンラインになるので」私は赤いペンで書いた。返信不可。ゲーム可。「なるほど」「あとSNSは更新します」「返信不可。SNS更新可」「ストーリーズも上げます」「非常に活動的ですね」「でしょ?」私は原稿用紙を取り出した。一番上に題名を書く。『72時間後に返信します』奈々さんがそれを見る。「嫌なタイトル」「いい意味で?」「最高の意味で」「では」A。B。C。3つのページを彼女へ向けた。「本日は、どのコースになさいますか?」奈々さんはAを指さした。「Aでも十分なんですよ」「はい」「でもBも捨てがたい」「はい」「世界中から3日後って、
「いらっしゃいませ」私は、目の前の女性に椅子を勧めた。「本日は、旦那様ですか? 彼氏様ですか?」「彼氏です」「かしこまりました」私は新しい受付票を1枚取り出した。右上に番号を書く。002女性は29歳。佐々木奈々さん。彼氏は31歳の会社員。交際2年6か月。結婚の話は、まだ出ていない。私は赤いペンのキャップを外した。受付番号:002対象:彼氏彼氏:31歳彼女:29歳交際期間:2年6か月本日の罪状:未記入常習性:確認中彼女の我慢度:★★☆☆☆本日の殺意:★☆☆☆☆希望コース:未定「ではまず――」私はいつもの質問をした。「今日、何をされました?」奈々さんは少し考えた。それから、困ったように言った。「……何もされてないんです」「何も?」「はい」彼女はバッグからスマートフォンを取り出し、テーブルの上に置いた。「何も、返ってこないんです」私は画面を見る。3日前。奈々さんから送られたメッセージ。今週の日曜どうする?その下には、既読の2文字。返信はない。「既読は、つくんです」「はい」「必ずつくんです」「はい」「でも返事が来るのは、だいたい3日後なんです」私は受付票へ書いた。本日の罪状:読む能力あり。返信能力なし。奈々さんが覗き込む。「……そう書くんですか?」「現状、最も正確かと」「でも、仕事が忙しい人なんです」「なるほど」「会ったら普通なんですよ。優しいし」「はい」「デートもします」「はい」「浮気してる感じもないし」「はい」「だから私が細かいのかなって」出た。私は赤いペンで、その言葉に丸をつけた。「ちなみに、3日後には何と返ってきます?」「『ごめん、忙しかった』とか」「日曜日の予定については?」「『どっちでもいいよ』」私は一度、ペンを止めた。「3日待たせて?」「はい」「『どっちでもいいよ』?」「はい」私は受付票の我慢度を書き直した。★★☆☆☆ → ★★★☆☆「あ」奈々さんが言った。「増えました?」「こちらの判断です」「まだあります」「どうぞ」彼女はスマートフォンを操作した。「これ、先月です」メッセージ。今日ちょっと仕事で落ち込んでる。少し話せる?既読。返信なし。翌日。返信なし。翌々日。返信なし。3日後。
夫が目を覚ますと、体が燃えるように熱かった。体温計を脇から抜く。39.2℃「うわ……最悪」妻はいない。娘もいない。テーブルの上にメモが置いてあった。買い物に行ってきます。寝ててね。いい妻だ。夫はそう思った。喉が渇いた。「水……」冷蔵庫まで行くのが面倒だ。いつもなら妻に、「水取って」と言えば済む。だが今日は誰もいない。仕方なく体を起こした。その瞬間。ピンポーン。インターホンが鳴る。宅配便だった。荷物を受け取り、ようやく寝室へ戻ろうとする。今度はスマートフォン。娘の学校からだ。『来週の持ち物について――』知らない。妻に聞けばいい。そう思った瞬間、洗濯機が鳴った。ピー。ピー。ピー。「何だよ……」止めに行く。今度は炊飯器。ピーピー。食洗機。ピピピ。給湯器まで、『お風呂が沸きました』と喋り始めた。「知らねえよ!」夫が叫ぶ。突然、家中が静かになった。リビングの床に、白い紙が1枚落ちている。では、本日の夕飯を決めてください。「……は?」玄関のドアが開いた。見知らぬ男が1人入ってきた。「今日の飯、何?」「誰だよ!」男は答えない。その後ろから、また男。「俺、何でもいいよ」3人目。「何でもいいけど魚は嫌」4人目。「昨日カレーだったから、それ以外」5人目。「簡単なのでいいよ」「ちょっと待て!」男たちは増えていく。10人。20人。50人。100人。全員が夫を見る。「今日の飯どうする?」「何食う?」「俺、何でもいい」「でもそれは嫌」「簡単なのでいい」「腹減った」夫は頭を抱えた。「自分で考えろよ!」その瞬間。100人の男たちが、ぴたりと黙った。全員が同じ角度で首を傾げる。「え?」「……」「それ、誰の仕事?」夫の背中を冷たい汗が流れた。逃げる。キッチンへ飛び込む。冷蔵庫を開ける。食材はある。キャベツ。豚肉。卵。豆腐。人参。冷凍したひき肉。ちゃんとある。でも――何を作ればいいのか分からない。夫はスマートフォンを手に取った。妻へ電話する。プルルル。プルルル。「もしもし!」『どうしたの?』「今日、飯どうする?」沈黙。『あなたが決めて』「俺、熱あるんだけど!」『知ってるよ』「39度2分!」『