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第四章:偽りの真実

Author: 佐薙真琴
last update Last Updated: 2025-12-02 15:24:01

 上海の新聞は、銀行強盗事件を「反帝国主義運動の英雄的行為」として報じ続けた。中国語の新聞は特に、犯人を「抑圧された民衆の代弁者」として称賛する論調を展開した。

 王福生は、自宅で新聞を読みながら、複雑な思いに駆られていた。あの男——張偉が、英雄? だが、彼が見たのは、ただの強盗だった。銃を持ち、脅し、逃げた男。

「父さん、新聞に何が書いてあるの?」

 娘の美玲が隣に座った。

「大人の話だ。お前には関係ない」

「でも、学校の先生が言ってたわ。銀行強盗は、中国人の誇りを守った英雄だって」

 王は新聞を置いた。

「美玲、人を判断するときは、自分の目で見たものを信じなさい。新聞に書いてあることが、いつも真実とは限らない」

「でも、先生が——」

「先生も、時には間違える」

 美玲は不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。

 王は窓の外を見た。狭い路地、洗濯物が干された物干し竿、煉瓦造りの古い建物。これが自分の世界だ。

 だが、新聞が作り上げた「英雄」の物語と、自分が見た現実との間には、深い溝がある。

 その溝を埋めることが、果たして自分にできるのだろうか?

 一方、ハリソンは署内で孤立していた。張偉の捜査を中止するよう命じられた後、彼は同僚たちから距離を置かれるようになった。

「ハリソンは理想主義すぎる」「この街のルールを理解していない」——そんな囁きが、彼の耳に届いた。

 昼休み、ハリソンは一人で署の外に出た。近くの中国人経営の麺屋に入り、簡素な昼食を注文した。

 店内には、中国人の労働者たちが座っている。彼らはハリソンの制服を見て、会話を止めた。

 ハリソンは麺をすすりながら、自分がこの街でどれほど異質な存在かを改めて感じた。

 店を出ようとしたとき、老人が声をかけてきた。

「あんたは、いい警察官だな」

「え?」

「王福生のことだ。あいつを逮捕しなかった。感謝している」

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     王福生は、外灘の石畳の上で人力車を止め、深呼吸をした。一日中走り回り、体は疲労困憊していた。だが、それ以上に心が重かった。 家に帰れば、警察が来たことを妻から聞かされるだろう。そうなれば、もう逃げられない。 彼は黄浦江を見つめた。濁った水が、ゆっくりと流れている。この川は、上海のあらゆる汚れを飲み込んで、海へと運んでいく。 もし自分が川に飛び込めば、全てが終わる。家族は苦しむだろうが、少なくとも犯罪者の家族という烙印は押されない。 だが、王の頭に浮かんだのは、娘の顔だった。今朝、学校に行く前に見せてくれた笑顔。「父さん、今日英語のテストがあるの。頑張ってくるね」 王は首を振った。死ぬわけにはいかない。少なくとも、娘が成長するまでは。 彼は人力車を引いて、家路についた。 家に着くと、予想通り妻が待っていた。「福生、警察が来たわ」 王は黙って頷いた。「明日、警察署に行く。全てを話す」「でも、あなたは何も悪いことをしていないわ!」「それを証明するには、真実を話すしかない」 その夜、王は娘の寝顔を見つめた。無垢な寝息、小さな手。この子のために、彼は何でもする。 翌朝、王はイギリス租界警察署を訪れた。受付で名前を告げると、すぐにハリソンが現れた。「王福生さんですね。来ていただいてありがとうございます。こちらへどうぞ」 取調室に案内された王は、固い椅子に座った。ハリソンは向かいに座り、手帳を開いた。「一昨日の午前、あなたは南京路付近で黒いコートの男性を人力車に乗せましたね」 王は頷いた。「はい」「その男性の顔を覚えていますか?」「いいえ。お客様の顔をいちいち覚えていません」「本当に? その男性は、あなたに銃を突きつけませんでしたか?」 王の体が硬直した。「銃? そんなこと——」「王さん、嘘をつく必要はありません。あなたは被害者です。脅迫さ

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     翌朝、上海の新聞各紙は銀行強盗事件を一面で報じた。『申報』は「中国銀行襲撃——反帝国主義運動の一環か」という見出しを掲げ、『字林西報』は「租界の治安悪化——警察の対応に疑問」と批判的な論調を展開した。 ハリソンは警察署の自分の机で、それらの新聞を読み比べていた。中国語の新聞と英語の新聞では、まるで違う事件を報じているかのようだった。「ハリソン、署長が呼んでいる」 同僚のウィリアムズが声をかけた。ハリソンは立ち上がり、署長室に向かった。 ロバート・スミス署長は、六十歳を過ぎた老練な警察官だった。上海に三十年以上勤務し、この街のあらゆる裏も表も知り尽くしている。「座りたまえ、ハリソン。昨日の事件だが、進展はあるか?」「目撃証言を整理していますが、矛盾が多く、まだ犯人の特定には至っていません」「そうか。ところで、君はこの事件をどう見ている?」 ハリソンは慎重に言葉を選んだ。「被害額から見て、計画的な犯行です。だが、中国銀行を狙ったという点が引っかかります。もし金が目的なら、外国系の銀行の方が警備が手薄です」「つまり、政治的動機があると?」「可能性は否定できません」 署長は窓の外を見た。外灘の景色が広がっている。「ハリソン、君は理想主義者だ。それは悪いことではない。だが、この街で生き残るには、現実を見る目も必要だ」「どういう意味ですか?」「この事件には、深入りしない方がいい。すでに上からの圧力がある。穏便に処理しろ、とね」 ハリソンは眉をひそめた。「それは捜査を打ち切れということですか?」「そうは言っていない。だが、あまり熱心にやりすぎるな。この街には、我々が触れてはいけない領域がある」 ハリソンは立ち上がった。「署長、私は法の執行者です。犯罪者を捕まえることが私の職務です」「その法が、誰のための法なのか、よく考えることだ」 ハリソンは部屋を出た。廊下を歩きながら、彼は拳を握りしめた。 正義とは何だ? 法とは何だ? この街では、それさえも金と権力で買えるものなのか? その日の午後、ハリソンは現場付近の聞き込みを続けた。カフェ、商店、路地——犯人の逃走経路を追う。 そして、パラダイス・カフェに辿り着いた。「事件当時、二階の窓際に座っていた女性客はいましたか?」 ウェイターは少し考えて答えた。「ああ、リン・シュウメイさ

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     1932年1月、上海。 黄浦江から立ち上る朝霧が、租界の西洋建築群を白いヴェールで包んでいた。外灘の石畳を踏む靴音、人力車の鈴の音、複数の言語が飛び交う喧騒——この街は、世界中のあらゆるものが混ざり合い、ぶつかり合い、溶け合う坩堝だった。 リン・シュウメイは、南京路のカフェ「パラダイス」の二階の窓際に座り、通りを眺めていた。二十五歳の彼女は、上海でも指折りの美貌を持つ歌手として知られていた。だが、その美しさは夜の舞台でのみ輝き、昼間の彼女は疲労と罪悪感に侵された一人の女に過ぎなかった。 彼女の前には冷めかけた珈琲。フランス製の磁器カップに注がれた黒い液体は、租界での生活の象徴だった——贅沢で、苦く、そして同胞たちには手の届かないもの。「シュウメイ、また一人で考え込んでいるのか」 声の主は、彼女の愛人である日本人実業家、田中誠一郎だった。四十代半ばの彼は、上海で綿花貿易を営み、莫大な富を築いていた。「いいえ、ただ街を見ていただけです」 リンは微笑んだ。完璧な微笑み。夜の舞台で何千回も繰り返した、感情を隠すための仮面。「今夜のショーの準備はできているか? 今晩は重要な客が来る。イギリス租界の警察署長だ」「ええ、準備万端です」 田中は満足そうに頷き、テーブルに札束を置いた。「新しいドレスを買いなさい。君には最高のものが似合う」 彼が去った後、リンは窓の外に視線を戻した。通りの向こう側、路地の入り口で、ぼろをまとった中国人の子供たちが物乞いをしていた。彼女と同じ言葉を話し、同じ血を持つ子供たち。だが、彼女は租界の華やかな世界にいて、彼らは泥の中にいる。 リンは珈琲を一口飲んだ。苦味が喉を焼いた。 同じ頃、イギリス租界警察署では、ジョン・ハリソン警部補が朝の報告書に目を通していた。三十二歳の彼は、ケンブリッジ大学で法学を学び、理想に燃えて上海に赴任してきた。正義と法の支配——それが彼の信条だった。 だが、この街で五年間勤務する中で、彼はその信念が揺らぎ始めていることを自覚していた。「ハリソン、また中国人地区での喧嘩だ。処理を頼む」 同僚のトンプソンが書類を投げてよこした。「被害者は?」「中国人同士だ。放っておけばいい」「それは職務怠慢だ、トンプソン。我々は——」「法を守る? ハリソン、ここは中国だ。だが我々の法が適用されるのはイギ

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