Masukそして二日後。 玲と麻美はマルタ島の空港に降り立った。灼けつくような光がガラス越しに差し込み、空港の床に金色の影を落とす。 マルタは地中海に浮かぶ諸島で、シチリア島と北アフリカ沿岸の間にある。古代から多くの民族に支配されてきたため、その歴史を物語る遺跡が島中に点在している。 空港のゲートを抜けた瞬間、玲は思わず目を細めた。眩しすぎる太陽。濃く塗りつぶしたような青空。乾いた風とともに運ばれてくる潮の香り。そのすべてが、日常の延長線から突然切り離されたようで、玲の胸を一瞬で掴んだ。「うわ……きれい……」 ため息のように漏れたその声を、麻美は横で聞きながら、満足げに肩をすくめた。 マルタ島の街並みは、まるで絵本の挿絵が立体になったようだった。クリーム色の石造りの建物が山肌の斜面にぎっしりと並び、その隙間を縫うように細い路地が続いている。遠くには光を跳ね返しながら揺れる海。 地中海特有の乾いた風が頬をそっと撫で、髪をふわりと浮かせた。「ここにいるとね、人がちょっと優しくなれるのよ。」 麻美がそう言って笑った。肩にかかった日差しが、彼女の横顔を柔らかく照らしている。 ふたりが宿泊するホテルは海沿いの高台にあり、テラスはどこまでも続く水平線を望めた。 チェックインを済ませ、ひと息ついたころ、玲はテラスの椅子に腰を下ろし、紅茶のカップをそっと持ち上げた。琥珀色の液面が光を受けて淡く揺れる。 青い波が海面でゆるくうねり、太陽を反射して煌めいている。 その穏やかな景色を見つめながら、玲の心は静かにほどけていくようだった。だが、胸の奥底に沈んでいるひとつの想いだけは、どうしても消えてくれなかった。「……蓮、今何してるんだろう。」 ぽつりと呟くと、すぐに麻美がカップを置いて言った。迷いのない声だった。「きっと、あんたを探してる。」 玲は反射的にカップを見下ろした。紅茶の表面が、海のきらめきを鏡のように映し込んでいる。 その光が揺れるたび、胸の奥に小さな痛みが走った。「会いたいな……」 その小さな呟きは、確かに声になっていたはずなのに、海風にさらわれてすぐに消えた。 麻美はその声を聞いたが、あえて言葉を重ねなかった。親友の心がどれほど蓮を求めているか、痛いほどわかっていたからだ。 ――そのとき。 静かだった石畳
「玲、お祝いにどこか海のきれいなところに行こうよ。」 蓮と再会した翌日、玲はいつものカフェで麻美と向かい合って座っていた。 けれどその「いつも」は、もう過去には戻らない。 蓮と再会したことで、玲の中でいくつもの時計が動き出していた。 麻美は、報告を聞いた瞬間、文字どおり跳びはねた。 玲の手を取り、ぴょんぴょんと弾むように喜んでくれた。 「やっとよ! やっと元に戻れたのよ玲!」 「もう、麻美……落ち着いて……」 蓮も麻美に報告したとき、同じように大喜びされたらしい。 “蓮もさ、あのとき、泣きそうな顔してたんだよ?”と麻美は誇らしげに言った。 玲はそんな友人の様子に苦笑しながら、カップを持ち上げた。 紅茶の香りがふわりと立ち上り、緊張した心を少しだけほどいてくれる。 「また行くの……? もう大地くんは誘えないわよ。」 その名前に、麻美は一瞬だけ目を伏せた。 玲が父と兄の部下であり、桐嶋コンツェルンの社員だった大地のことを話したとき、麻美は驚き、そして少しだけ切なそうに笑った。 「もう大地くんはいいんだってば。」 麻美は軽く言ってみせる。 「あの子、絶対に私なんかじゃなくて、玲を守るために来てただけだし。」 玲が何か言いかけたとき、麻美はわざと明るく話題を変えた。 「それより……ねぇ、マルタって国、知ってる?」 「……マルタ……?」 「地中海の真ん中。透き通る青い海と、白い街並み。観光客も少なくて、静かでいいところ。」 玲は、ふっと息を止めた。 (地中海……青い海……蓮と私を祝ってくれる場所……?) 胸の奥で何かがきらりと光った。 麻美は玲の瞳の変化を読み取って、少し微笑んだ。 「海がね、私たちを祝ってくれるのよ。」 しばらく沈黙があった。 その沈黙は、迷いと、希望と、少しの恐れが混じった静かな時間だった。 そして玲は、ゆっくりと頷いた。 「……行ってみたい。」 麻美の瞳がぱっと輝いた。 「決まりね!」 その瞬間、すべては動き出した。 翌日、柊 蓮は部下を呼び出した。 「一週間、休みを取る。」 部下は驚いた。 蓮が休みをとるなど、ほとんどなかったからだ。 「……休暇、ですか?」 「ああ。航空券を頼む。目的地は—マルタだ。」 部下が手を止める。 「……マ
重たい空気を震わせながら、スイートルームのドアが勢いよく開いた。 その瞬間、部屋の温度が一段低くなったような錯覚すら覚える。 ドアの外から、まるで物のように放り込まれた男──東条圭吾が床に転がり込んだ。 受け身すら取れず、硬いフローリングに体を打ちつけ、鈍い音が響く。 抵抗したのだろう。 その顔は腫れあがり、片方の頬には殴られた跡。 唇の端から乾いた血がにじみ、手首と足首には縄で擦れた赤いミミズ腫れが見える。 乱れた呼吸を引きずりながら、圭吾は何とか顔を上げようとした。「圭吾!」 利衣子が叫び、我を忘れたように駆け寄り、震える手で圭吾の肩を抱き起こす。「一体、何が目的なの!?」 利衣子は圭吾を抱きしめたまま、振り返り、ソファの中央に腰掛ける男──桐嶋龍一をにらみつけた。 その声は震えていたが、恐怖と怒りが混じり、鋭く張りつめていた。 だが龍一は、利衣子に向けられた怒りなどまるで意に介さない。 ソファに深く腰を沈め、足を組み替えながら、静かに、しかし絶対的な冷たさで彼女を見下ろす。「あなたたち二人には、もう柊の前に現れて欲しくないんですよ」 その声音は柔らかく、どこか礼儀正しさすらあった。 だが言葉の裏に潜むのは、氷の刃にも似た威圧。 利衣子も圭吾も、その視線に身体を強張らせ、息すら忘れてしまう。 龍一は利衣子から目を離さないまま、ゆっくりとソファから立ち上がった。 長い影が床に落ち、利衣子の足元まで伸びる。「利衣子さん、今回のことでよくわかったでしょう」 龍一の声は低く、静かだが、逃げ場のない圧があった。「”危うきに近寄るべからず”。 もう二度と、ああいった連中に乗せられて、あさはかな行動を起こさないことです」 利衣子の肩がびくりと震えた。 龍一が言う “ああいった連中”──それは裏で暗躍し、柊蓮を貶めようと企んでいた鷲尾や黒澤のような者たちだ。 利衣子はその片棒を担いだ。その結果が、この部屋だ。 龍一は最後に軽く顎を動かし、背後の部下へ小さく頷いた。 その合図は短く、だが絶対である。 部下二人がすぐに圭吾の両腕を掴み、乱暴に立たせる。 利衣子も腕を取られ、強引に引き上げられた。「やめて! 圭吾に乱暴しないで!」 必死に抵抗するが、部下たちの腕力は強く、利衣子の細い腕で
羽田空港・到着ロビー。黒のコートを羽織った利衣子が、携帯を耳に当てながら歩いていた。 「はい、今着きました。……蓮には私から連絡を取ってみるわ」 声には焦りも迷いもない。 彼女は“まだ狙われている”と思っていた。黒澤の部下に追いかけられ、隼人に逃がしてもらってから、利衣子はずっと隠れて暮らしていた。黒澤が原因不明の死を遂げたことも、ネットのニュースで目にしていた。だが、まだ天城壮真がいる。自分が知っていた情報を流せば、必ず天城に狙われる。利衣子は危機感に駆られ、蓮の部下だった“東条圭吾”に連絡を取り、この何週間かを共に行動していた。しかし、東条圭吾も、利衣子と一緒に蓮を陥れる計画を仕組んだことで、蓮からは“二度と俺の前に顔を出すな”と言われてしまった。しかしもうこんな隠れて過ごすのび、圭吾も利衣子もうんざりしていた。そして、東京へ行って蓮に会い、助けてもらおうと利衣子が言い出した。飛行機から降りてから、まずは利衣子が蓮と話すと言って、圭吾と別行動を取ることにした。だが、空港の出口を出た瞬間――。 人波の向こうで、ひとりの男が彼女の前に立った。 無表情、黒いスーツ、冷たい視線。 その男の手がわずかに動く。 利衣子の背筋に、理由のない寒気が走った。(……誰?) 小さく呟いたそのとき、黒いスーツの男が二人、音もなく近づいてきた。 「桐嶋様がお待ちです。こちらへ」 低い声。 利衣子の心臓がどくりと跳ねる。 「……桐嶋? 誰のこと?」 「こちらへ」 男の表情は一切変わらない。 利衣子は拒もうとした。 「待って、私、用事が――」 だが、男は一歩も引かない。 目の奥に、わずかに光る冷たい意思。 人通りが多い場所だったが、異様な圧に抗う気力が削がれた。 ――下手に逆らえば、本当に消される。 利衣子は小さく息を呑み、観念したように頷いた。 黒い車が滑るように止まり、彼女を後部座席に促す。 ドアが閉まった瞬間、車内の空気が変わった。 香水の香りも、会話も、何もない。 ただ、沈黙だけが支配していた。 数十分後、車は都内の高級ホテルの前で停まった。 フロントも特別階。 エレベーターを上がる途中、利衣子は自分の手のひらに汗が滲むのを感じていた。 「ここ……どこ?」 「すぐにわか
スイートルームの外。 静まり返った最上階の廊下には、ホテル特有の柔らかな照明が落ち、床のカーペットが足音を吸い込むようにしんと沈んでいた。 その廊下の中央に、瑛斗は背筋を真っ直ぐに伸ばして立っていた。 まるで“柱”のように微動だにせず、外側からの雑音を一切寄せつけない、職務に徹した護衛の姿だった。 しかし静寂とは裏腹に、瑛斗の胸の内では荒れた海のような波が何度も押し寄せていた。 表情は平静を保っていても、その心の奥では、言いようのないざわめきが広がっていた。(……やっと会えたんだな、玲ちゃん) 胸の深いところで小さく息を吐き、瑛斗はそっと天井を見上げた。 広がる天井の白い光が、わずかに滲んだように見える。 それは決して涙ではない。 だが、胸の奥から何かがこぼれ落ちそうになる感覚に、瑛斗は喉を固く閉ざした。 あのバリの海沿いの夜。 天城の刺客から生き延びたこと。 バーベキューをした夜。 そのすべてが今、胸の奥で静かに疼き始める。 瑛斗は玲華を守るためにバリへ向かった。 それは職務であり、桐嶋家の人間として当然の任務だった。 だがその裏に、ほんのわずか──本当に、かすかな希望があった。(もし……玲華様が蓮を忘れて、俺を見てくれたら——) そんな都合のいい期待を、心のどこかで抱いてしまっていた。 自分でもわかっている。 叶うはずのない淡い想いだと。 しかし、あの孤独な夜、彼女の涙を受け止めるたび、その気持ちは否応なしに胸の奥で膨らんでいった。 だが現実は——。 扉の向こうで二人は再び向き合い、抱き合い、泣き合っている。 飛行機の中で「好きだよ」と伝えられたこと。それだけで20年の瑛斗の想いは伝えられた。それだけでよかった。先ほどの、蓮を見つめる玲華の瞳。それを目の当たりにした瞬間、自分の想いは泡となって消えた。(……でも、それでいいんだ。彼女がしあわせなら……それで) 自分に言い聞かせるように、瑛斗はゆっくり目を閉じ、深く呼吸を整えた。 護衛として、弟分として、そして家族として育ててもらった恩を思い返す。 玲華は、守るべき存在。それは変わらない。「瑛斗」 低く、しかし確かな響きを持つ声が、静かな廊下に落ちた。 龍一だった。 少し離れた場所で腕を組み、目を閉じてい
扉が閉まった瞬間、蓮の呼吸が浅くなった。 静寂が落ちる。その音さえ吸い込まれてしまうほど、この部屋は外界から切り離された世界だった。 これまで何百回も、いや何千回も想像した“再会の瞬間”が、ついに現実として自分の目の前にある。 しかし実際その瞬間に立ち会うと、胸がきゅっと苦しく締めつけられ、言葉がどこかへ消えてしまっていた。 玲華もまた、同じだった。 ただ立ち尽くし、蓮を見つめたまま、唇を震わせるだけで声にならない。 会いたかった。 だけど、どう言葉にしていいのかわからない。 距離はわずか二歩。 指を伸ばせば届くはずなのに、その二歩があまりにも長く、深い谷のように感じられた。「玲……」 蓮が小さく呼んだ。 たった一度の名呼び。 その声だけで、玲華の瞳から涙が一気に溢れた。 耐えていた緊張がほどけ、感情が堰を切ったように胸から溢れ出す。 蓮が一歩近づく。 その足音が、重く、確かに玲華の心に響く。 玲華もまた無意識のうちに一歩前へ。 まるで見えない糸に引き寄せられるように、二人の距離は埋まっていった。 そして— 次の瞬間、二人は声もなく抱き合った。 どちらが先に腕を伸ばしたのかはわからない。 言葉より先に、身体が動いた。 心と心が互いの温度を確かめ合うように、必死で抱きしめ合った。「……会いたかった……蓮……!」 玲華の涙まじりの声が、蓮の胸元に震えながら落ちる。 その小さな震えに、蓮の胸が焼けるほど熱くなる。 蓮は目を閉じ、玲華の背へそっと手を回し、そして離すまいと強く抱き寄せた。「俺もだ。ずっと……ずっと会いたかった」 どれほど努力しても忘れられなかった。 どれほど離れようとしても、心は勝手に玲華を探し続けた。 会いたい気持ちが、毎日胸のどこかに棘のように刺さり続けていた。 その棘が今ようやく抜け落ち、蓮は安堵と痛みが混ざった息を深く吐き出す。 離れたくなかった。 本能がそう叫んでいた。 抱きしめた腕が勝手に強くなる。 玲華もまた同じ力で蓮の背中を掴み、指先に力を込めて離そうとしなかった。 どれだけの時間がそのまま過ぎたのだろう。 数秒か、数分か。 二人にとってはどちらでもよかった。 ただ、確かな温もりを感じていられることが何より







