夜の大都会――。 十二月の終わりの冷気は、まるで新しい季節の幕開けを知らせるかのように、頬をかすめて通り過ぎていく。 街路樹にはイルミネーションが揺れ、金と白の光が風に合わせて瞬き、車のヘッドライトが宝石のようにきらめきながら流れていく。 都会の喧騒が街全体を包み込み、あちこちから笑い声や音楽が漏れ出し、空気そのものが少し浮ついている――そんな夜だった。 その中を、ひとり歩く男がいる。 柊 蓮――二十六歳。 若くして大企業の副社長に就いた男は、黒いコートの襟を立て、ゆっくりと歩いていた。 普段の蓮ならこの時間、会食相手や父である会長に呼び出され、高級レストランの個室か、重役専用のクラブにいるはずだった。 だが今夜は珍しく、そのどこにも行かず、車を途中で降りて“ただの一市民”として夜の街を流れていた。 ――この時間に、ひとりで夜の街を歩くなんて、何年ぶりだろう。 そんな呟きが胸に浮かぶ。 街を歩きながら聞こえてくる笑い声やカップルのささやき、ふいに風に乗って流れてくる甘い香り。そのどれもが、自分にとっては遠ざけてきたものだった。 息苦しくなるほど忙しい日々。 責任と期待に押しつぶされる毎日。 それでも立ち止まることは許されず、蓮は常に前へ前へと歩くしかなかった。 そんな彼の足が今夜だけ、ほんの気まぐれのように自由を求めていた。「……少し、飲むか」 ぽつりと零れたその一言は、まるで誰かに許しを乞うような弱さを含んでいた。 蓮はふと見上げた。 ビルの外壁に取り付けられたガラスが、街の光を反射して淡く輝いている。その二階――特にひときわ美しい金色の光が目に飛び込んできた。 ――CRYSTAL ROSE。 柔らかく灯る薔薇のロゴが、夜の闇の中で優しく鼓動しているかのようだった。 その看板は、今夜の蓮にとって何かを告げる“合図”のように見えた。 入るべきか、引き返すべきか。 一瞬だけ迷った。 だが次の瞬間、なぜか心がそっと背中を押す。 まるで運命に導かれるかのように、蓮はエレベーターへ歩き出し、十二階のボタンを押した。 静かに閉まる扉。 上昇する機械音が、いつもよりもずっと胸の奥に響いた。 ――何かが変わるかもしれない。 そんな予感だけが、わずかに胸をざわつかせた。 十二階。 扉が開くと、重厚感のある木製のドアが
Last Updated : 2025-11-23 Read more