Mag-log in聴力を取り戻したその日、紗寧は、自分が恋人に裏切られていたことを知った。 浮気男とその愛人に平手打ちを食らわせたあと、彼女は逃げ出した姉の代わりに、噂の「八角家の次男」へ嫁ぐことをあっさり承諾する。 世間では皆こう囁いていた。 蒼士は重病を患い、気性も荒く冷酷非情―― 嫁いだところで、生き地獄のような結婚生活になる、と。 だが新婚初夜。 男は彼女の細い腰を掴み、床まで届く窓へ押しつけながら低く囁いた。 「俺が『ダメ』って、誰に聞いた?」 その後の三日間。 脚が震えて立てなくなるほど甘く翻弄されて、紗寧はようやく理解した。 ――噂ほど当てにならないものはないのだと。 後日、パーティー会場では元カレが目を赤くしながら復縁を迫ってきた。 蒼士は悠然と錠剤を口へ放り込み、奥歯でバキバキと噛み砕く。 「横川、ナイフを。ちょうど発作が来た。今なら人を殺しても罪にならないだろ?」 ――誰もが彼を狂気じみた危険な男だと恐れていた。 けれど彼女だけは知っている。 その凶暴な激情の奥にあるのが、自分だけへ向けられた灼けつくような愛だということを。
view more真洋の手は、髪をかき分けた姿勢のまま宙に止まっていた。指先がかすかに震えている。――詩帆?どうして彼女が?昨夜の光景が、一場面ずつ脳裏によみがえる。確かに紗寧が見えた。ようやく許してくれたのだと思ったからこそ、この半月余り、胸に溜め込んできた感情を、抑えることなくぶつけてしまった。それなのに......なぜ詩帆なのか。真洋は勢いよく手を引き、布団をはねのけてベッドから下りようとした。大きな動きにマットレスが揺れ、詩帆が目を覚ます。ぼんやりと目を開け、数度まばたきをした。その次の瞬間......「きゃあ......!」甲高い悲鳴が、寝室に響き渡った。詩帆は慌てて布団を引き寄せ、体を包んでベッドの隅へ縮こまった。目を真っ赤にし、唇を震わせ、ぽろぽろと涙をこぼす。「私に......何をしたの......?」真洋はベッドのそばに立っていた。上半身は裸で、ズボンには片脚を通したばかり。まだボタンも留めていない。顔は青ざめ、顎を固く引き締めていた。こめかみが激しく脈打つ。「これは何の芝居だ。昨夜、自分から部屋に入ってきただろう。何を企んでいたか、俺が知らないとでも思うな!」詩帆はさらに激しく涙を流し、泣き声で訴えた。「私......物音がしたから来ただけなのに......真洋さんが具合が悪いんじゃないかって......心配して......」「心配?」真洋は冷ややかに笑い、床のシャツを拾って乱暴に袖を通した。「俺を馬鹿にしているのか?昨夜の飲み物に何を入れたか、自分が一番よく分かっているだろう」詩帆は布団にくるまり、真っ赤な目だけをのぞかせた。唇を震わせ、何も言わなくなる。そのとき、扉の外から慌ただしい足音が聞こえた。「真洋?真洋!どうしたの?何があったの?」浩美の声には、はっきりと緊張と不安がにじんでいた。続いて、康仁の低い声がする。「真洋、ドアを開けなさい」真洋の顔色が、さらに悪くなった。急いでボタンを留め、床に落ちていた衣服を拾って椅子へ放る。それからベッドの足元にあったガウンを引き寄せ、羽織った。扉がまた何度も叩かれた。その力は次第に強くなっていく。「真洋!開けろ!」康仁の声には、すでに怒りがこもっていた。真洋は深く息を吸い、扉へ歩み寄った。ドアノブ
――何かがおかしい。真洋はすぐに枕元のスマホへ手を伸ばした。指先が画面に触れたそのとき、寝室の扉が開いた。「真洋さん、どうしたの?すごい音がしたから......」詩帆が足早に近づいてくる。ミルク色の、ひんやりとなめらかな生地のナイトドレスを着ていた。明かりが、その体の柔らかな輪郭を浮かび上がらせる。それは、紗寧がいつも好んで着ていたナイトドレスだった。形も色も、まったく同じだ。真洋の瞳孔が急に縮まり、視界がぼやけ始めた。体の中の火はますます激しく燃え、意識が少しずつ薄れていく。目の前の人影がかすみ、二重に見えた。「真洋さん?どうしたの......?」詩帆は彼の腕に抱きつき、体をすり寄せた。真洋の呼吸がさらに荒くなる。彼女の顔を見つめていると、ぼやけては鮮明になり、詩帆の顔が、別の顔へと変わって見えた。――紗寧......真洋は頭を振った。そんなあり得ない錯覚を振り払おうとしたが、体を焼く熱は勢いを増し、理性をすべて焼き尽くしていった。「真洋さん......」甘く柔らかな声が、羽毛のように耳をくすぐり、細かな震えを引き起こす。真洋は突然その手をつかんだ。強い力で、彼女を胸に引き寄せる。「紗寧......」声はひどくかすれ、喉の奥から絞り出す嗚咽のようだった。「帰ってきたんだな......やっと、帰ってきてくれたのか......」詩帆は彼の胸に身を預けた。心臓が激しく打つ一方で、口元にはゆっくりと笑みが浮かぶ。「そうよ、帰ってきたの。もうどこにも行かないから」自分の体の一部にしてしまいたいかのように、真洋は彼女をさらに強く抱き締めた。顔を伏せて首筋に埋め、深く息を吸い込む。――紗寧の香りではない。香水が強すぎる。甘ったるく、むせ返るようだった。紗寧は香水を使わない。彼女からするのは、シャンプーとボディソープの清々しい香りだけだ。だが、もうそんなことを考えている余裕はなかった。燃え上がる熱が理性をすべて奪い、頭の中には混沌と、消えることのない名前だけが残っていた。――紗寧。紗寧。紗寧。寝室の扉が内側から施錠された。カーテンが引かれ、部屋が薄暗くなる。ミルク色のナイトドレスが引き裂かれ、床へ投げ捨てられた。続いて、スーツの上着、シャツ、ネク
「それでもだめよ」浩美の口調に、有無を言わせぬ響きがあった。「詩帆は小さい頃からうちで育って、私たちはずっと実の娘だと思ってきたの。たとえ苗字が違ったとしても、あなたと真洋は兄妹なのよ。もう二度と、そんなことを言わないで」詩帆はまだ何か言いたかったが、浩美はすでに立ち上がり、彼女の手を引いて歩き出していた。「さあ、顔を洗っていらっしゃい。あんなに泣いたから、目が腫れているじゃない」詩帆は唇をかみ、その目に悔しさをにじませた。両親があれほど自分をひいきし、紗寧を嫌っていたのは、自分を真洋と結婚させたいからだと思っていた。だが、二人にそんな考えはなかった。ただ、娘だと思っているだけなのだ。けれど、自分は二人の娘になりたいわけではない。真洋と結婚したいだけなのに!詩帆は洗面台の前に立ち、泣き崩れた自分の顔を鏡で見つめた。洗面台の縁をつかむ指に、少しずつ力がこもる。――嫌だ。こんなことで諦めたりしない。何年も彼を待ち続け、彼のためにあれほどのことをしてきたのだ。今さら諦められるはずがない。詩帆は蛇口をひねり、冷たい水をすくって顔に当てた。その冷たさに、乱れていた考えが徐々にまとまっていく。どんな手を使ってでも、真洋を手に入れる。その夜、詩帆は自分のマンションへ帰らなかった。柏家の本邸に泊まり、夜遅くまで浩美の話し相手をした。機嫌を取られた浩美は、終始にこにこしていた。部屋に戻ったときには、もう10時近かった。詩帆は眠らず、バッグから小さな薬瓶を取り出した。透明な瓶の中には、白い錠剤が数粒入っている。ラベルも説明書もなかった。これは人に頼んで、闇市場で手に入れたものだ。効き目は非常に強く、どんなに冷淡な男でも、飲めば獣のようになるという。詩帆は瓶を握り締めた。指がかすかに震えている。――怖いのではない。緊張と興奮のせいだった。この日を、あまりにも長く待ち続けてきたのだ。......深夜、真洋が本邸に帰ってきた。今夜は仕事の付き合いでかなり飲み、足元が少しふらついていた。居間にはまだ明かりがつき、詩帆がソファに座っていた。シャンパンカラーのサテンのロングドレスをまとい、髪を下ろしている。その髪に縁取られた小さな顔は、いっそう華奢に見えた。いつもより柔らかく、どこか
「黙れ」真洋の顔には、恐ろしいほど暗い怒りが浮かんでいた。「言葉がわからないのか?出ていけ」怒鳴られた詩帆は一瞬呆然とし、さらに激しく涙を流した。「あの女のために、私を怒鳴るの?!あの女、もうほかの男と結婚したのよ!あなたのことなんか好きじゃないの!今もそばにいるのは私だけなのに、どうして分かってくれないの?!」真洋は突然腕を振り、机のコーヒーカップを床へ払い落とした。陶器の砕ける音が執務室に響き渡り、コーヒーが床一面に飛び散る。詩帆は怯え、半歩後ずさった。「俺が何も知らないとでも思っているのか?」真洋は彼女の前へ歩み寄り、上から見据えた。その目は血走っている。「あのとき、大和田城介に指図して紗寧を傷つけさせたのは、お前だろう?あの男が勝手に勘違いしたんだと俺に嘘をついて、代わりに1年も刑務所に入らせた......」詩帆の顔から、一瞬で血の気が引いた。「紗寧は、1年間も耳が聞こえなかった。その1年を、彼女がどう過ごしたか知っているのか?」声はひどくかすれていた。「何の音も、音楽も聞こえなかったんだ......お前の嫉妬のせいで、一番好きなものを丸1年、奪われたんだぞ!」「私は――」「黙れ!」真洋は背を向け、窓辺へ戻った。彼女に背中を向けたまま、声を落とす。「以前は、まだ若くて世間知らずなんだから、多少のわがままは仕方ないと思っていた。でも、ようやく分かった。お前のあれはわがままなんじゃない。性根が腐ってるんだ。悪意に満ちて、もう救いようがない」「今さら私を責めるの?!」詩帆は嫉妬で気が狂いそうだった。それでも、どこを突けば彼が一番傷つくかは分かっていた。「私と海外で遊び回っていたときは、そんなこと考えもしなかったくせに!」「今すぐ出ていけ!」......詩帆は怒りに震えながら執務室を出た。どうしてこんなことになったのか、分からなかった。海外にいたときは、真洋と恋人同士になるまで、あと一歩だったのだ。あの頃の彼は、完全に恋人として自分を扱ってくれていた。それなのに、紗寧が去ってから何もかも変わった。真洋は自分を見るたび、仇でも見るような目をする。――だめだ。このまま黙っているわけにはいかない。詩帆は深く息を吸い、タクシーを拾って柏家の本邸へ向
紗寧は蒼士に続いて市役所を後にした。午後の港江の陽射しは目が眩むほど白く、湿った熱気が空気の中に揺らめいている。冷房の効いた室内とはまるで別世界だ。黒いマイバッハが木陰に静かに停まっている。蒼士は後部座席のドアを開け、そのまま彼女を待った。木漏れ日が枝の隙間から差し込み、彼の眉目に細かな影を落とす。そこに立つ姿は、まるで鞘に収まった刃のようだった。静かで内に秘めているのに、いつでも抜き放たれ人を傷つけられる――そんな危うさを纏っている。紗寧が身をかがめて車に乗り込むと、彼の視線が自分に向けられているのを感じた。重くはない。が、強烈な存在感があった。「先に本家
胸の内で不安が膨らむ中、蒼士は視線を引き、革張りのシートにゆったりと背を預けた。動きに合わせて喉仏がわずかに上下する。「乗れ」その一言に、紗寧はほっと息をつきながら車内へ身を滑り込ませた。ドアが閉まると、港江特有の蒸し暑い空気は完全に遮断される。黒いマイバッハは静かに走り出し、空港高速へと合流した。窓の外では標識が次々と流れていく。だが、進んでいる方向は貝原家への道でもなければ、八角家の屋敷へ向かう道でもない。2年間港江を離れていたとはいえ、主要道路の位置くらいは覚えている。紗寧は隣の男へ視線を向けた。蒼士は目を閉じていた。眠っているようにも見えるが、そ
その頃の紗寧は、ちょうど北城空港に到着したところだった。スマホが震える。「もしもし、先輩?」電話の向こうから聞こえてきたのは、中岡の穏やかな声だった。どこか苦笑混じりの響きがある。「紗寧、さっき柏グループ傘下のワールド・エンターテインメントから連絡があってな。総支配人の人選が松田に決まったそうだ」紗寧は足を止めかけたが、すぐにスーツケースを引いて歩き続けた。「そうなんですか」あまりに淡々とした反応だったせいか、中岡は一瞬言葉を失った。「なんだ、その反応は。少しくらい俺のために怒ってくれてもいいだろう?」冗談めかした口調で続ける。「一応、俺は君が推薦し
2日後。紗寧の傷はほとんど癒え、嗄れていた喉も元通りになっていた。その間、真洋が見舞いに来ることは一度もなかった。代わりに届いたのは、港江から母親が送ってきた小包だった。中には、貝原咲良の免許証が入っていた。病室の窓辺に立ち、眼下を流れる車列を見下ろしながら、紗寧はかすかに口元を歪める。それは嘲りにも、諦めにも見えた。その時、ドアが開いた。入ってきたのは天川だった。今日は白衣ではなく、ダークグレーのシャツに袖を肘まで捲っている。いつもの冷ややかさが少し和らぎ、どこか人間味が感じられた。「退院手続きは終わった」彼は書類を差し出す。「もう出られるよ」
Rebyu