LOGIN聴力を取り戻したその日、紗寧は、自分が恋人に裏切られていたことを知った。 浮気男とその愛人に平手打ちを食らわせたあと、彼女は逃げ出した姉の代わりに、噂の「八角家の次男」へ嫁ぐことをあっさり承諾する。 世間では皆こう囁いていた。 蒼士は重病を患い、気性も荒く冷酷非情―― 嫁いだところで、生き地獄のような結婚生活になる、と。 だが新婚初夜。 男は彼女の細い腰を掴み、床まで届く窓へ押しつけながら低く囁いた。 「俺が『ダメ』って、誰に聞いた?」 その後の三日間。 脚が震えて立てなくなるほど甘く翻弄されて、紗寧はようやく理解した。 ――噂ほど当てにならないものはないのだと。 後日、パーティー会場では元カレが目を赤くしながら復縁を迫ってきた。 蒼士は悠然と錠剤を口へ放り込み、奥歯でバキバキと噛み砕く。 「横川、ナイフを。ちょうど発作が来た。今なら人を殺しても罪にならないだろ?」 ――誰もが彼を狂気じみた危険な男だと恐れていた。 けれど彼女だけは知っている。 その凶暴な激情の奥にあるのが、自分だけへ向けられた灼けつくような愛だということを。
View More「奥さん......」男は少しかすれた声で、どこか気だるげな笑みを含ませながら言った。「そんな誘いを真っ昼間からしてしまっていいのか?」紗寧はきょとんと目を瞬かせる。――え?何かおかしかっただろうか。「君の誘いなら、俺はいつだって時間を空ける」「......」紗寧は思わず耳まで赤くなった。――この人、どうしてこうなの。できないくせに、こうやってすぐからかうんだから......「せ、先生と約束したんです」また何か口説くようなことを言われるのが怖くて、慌てて続けた。「今日の夕方六時に、この前連れて行っていただいた隠れ家の料亭です......いいですね?」「お望みのままに」「......じゃあ、そういうことで」......その料亭は静かな路地裏にあった。外観は目立たないが、一歩中へ入ると別世界が広がっていた。彫刻が施された木製の衝立を回り込むと、視界がぱっと開ける。青石が敷き詰められた中庭の片隅には青々とした竹が植えられ、石造りの水鉢では数匹の鯉がゆったりと尾を揺らしている。ほのかな白檀の香りが静かに漂っていた。案内係に回廊を通され、一番奥の個室へ入る。部屋は広くない。丸テーブルに椅子が数脚、壁には絵が掛けられ、隅には蘭の鉢が置かれ、部屋全体に上品で落ち着いた趣が漂っていた。「今週の土曜日は空いてるか?」席に着くなり、蒼士が不意に尋ねた。紗寧はメニューを見ていた手を止め、顔を上げる。「土曜日ですか?たぶん予定はないですけど......どうしたんですか?」「駿人の兄の彰馬が今週戻ってくるらしい。せっかくだから、俺たちも来て一緒に食事でもしないかって」紗寧は一瞬きょとんとしたが、すぐに思い当たった。「彰馬さんって......この前八角さんが私に渡してくださった電話番号の、あの方ですか?」蒼士は口元をわずかに緩め、漆黒の瞳に淡い笑みを宿した。「ああ、そうだ」あの日、その番号を見せた瞬間に祐輔の顔色が変わったことを思い出す。あれほど祐輔を怯えさせる人物とは、一体どんな人なのか、彼女もずっと気になっていた。「いいですよ」蒼士は低く笑い、何か言いかけたその時、扉の外から軽いノックが聞こえ、続いて扉が開いた。一組の男女が中へ入ってくる。「天
二人はしばらく軽口を叩き合い、やがて話題は別の方向へ移った。駿人は手にしていた煙草を揉み消し、ソファの背にもたれながら足を組む。「そういえば聞いたか?豊水さんが昨日ケガしたって」謙吾はグラスを持つ手を止めた。「ケガ?どうやって?」駿人は肩をすくめる。「さあな。ニュースじゃ大騒ぎだよ。八角家の長男坊が襲われて、手の甲を刃物で貫かれたとか。今も病院に入院中らしい」「まったく、相変わらず演じるのがうまいな。ニュースを揉み消すどころか、わざと大々的に報じさせてやがる」蒼士はまぶたを上げ、淡々と駿人を一瞥した。その視線に駿人はぞくりとして身を縮める。「え、なに......蒼士さん?俺がやってないよ?」蒼士はさらりと言った。「刺したのは俺だ」部屋が一瞬、静まり返る。駿人は口をあんぐり開けたまま呆然とし、咥えていた煙草がズボンの裾に落ちて焦げ穴を開けて初めて我に返り、慌てて飛び上がって払い落とした。「はぁ!?」謙吾も固まっていた。グラスを持ち上げたまま空中で止まり、酒が手の甲にこぼれても気づかない。「......本当に、蒼士さんが?」蒼士は答えず、ただ目を伏せ、ライターを指先でゆっくり弄んでいた。金属製の蓋が開いては閉じる。カチッ、カチッ。静まり返った個室に、その乾いた音だけがやけに響いた。駿人と謙吾は思わず顔を見合わせる。ニュースを見た時は、誰が豊水を刺したのかと二人で推測しながら、内心ではよくやったと喝采していた。まさか刃を振るった本人が目の前にいるとは。「これはきっと何かの策だ。あの野郎」最初に我に返った駿人が眉をひそめ、吐き捨てるように言う。「蒼士さんに刺された途端、自分を被害者に仕立て上げて、ニュースを大々的に流させたんだ。事情を知らない奴が見たら、とんでもない被害を受けたようにしか思わない」謙吾も眉を寄せた。「確かに陰湿なやり方だ。先手を打って世論を味方につけるつもりなんだろう。八角家の年寄り連中はもともとあいつ寄りだからな。これでますます口実を与えた」蒼士はライターをローテーブルへ放り投げた。金属が大理石に当たり、澄んだ音を立てる。「好きに芝居をさせておけ。別に構わない」低い声は感情を感じさせなかった。「だが、また俺の人間に手を
慎也は目を伏せ、唇の端をわずかに持ち上げた。だが、その笑みは目には届いていなかった。「港江で建材業を営んでいる貝原家か?」斉藤は慌てて何度も頷く。「あ、はい、そうです。その貝原家です」慎也はそれ以上何も言わなかった。視線を再びガラスの向こうの華奢な人影へと向ける。瞳の奥で暗い感情が幾度か揺れたものの、やがて静かに沈んでいった。――なるほど。昨日あそこで彼女に出くわしたのも、そういうことか。八角蒼士の婚約者だったとは......斉藤は傍らで立ち尽くし、足が痺れてきても声ひとつ上げられず、ただ待つことしかできなかった。しばらくしてから、慎也はようやく視線を引き戻し、テーブルのティーカップを手に取ってゆっくりと一口含む。「これでいい」斉藤は大赦を受けたような気分になり、慌てて答えた。「は、はい!すぐ制作に回します」そう言って部屋を出ようとし、ドアの前で思わず振り返る。慎也は依然としてソファに腰掛けたまま、指先でティーカップを弄びながら窓の外を眺めていた。何を考えているのかは分からない。斉藤は視線を引っ込め、静かにドアを閉めると、大きく息を吐いた。――この御方は、本当に扱いづらい。......リハーサルは昼まで続いた。昼休みになると、紗寧は静かな場所を見つけてスマホを取り出し、一本の電話をかけた。ほどなくして電話が繋がる。「もしもし、天川先生?こんにちは、貝原です」「貝原さん?どうした?」「あの、ひとつお願いしてもいいですか?」その頃の天川は、ちょうど蒼士の屋敷で犬たちに餌をやっていた。「お願い」という言葉を聞いた瞬間、すぐに立ち上がる。「もちろん。何でしょう?」「港江で、腕のいい精神科医か心理カウンセラーをご存じでしょうか?」天川の目がぱっと輝いた。ちょうど彼は八角さんの指示で紗寧のために心理医を探したばかりで、どうやって紹介しようか悩んでいたところだった。「もちろんだとも」天川は待ってましたとばかりに言った。「ちょうど私も港江に戻ってきている。日時と場所を決めて。その友人を連れて行くよ」「本当ですか?よかったです。ありがとうございます、天川先生」「そんなにかしこまらなくていいよ」「では後で、詳しい時間と場所をメッセージで
紗寧はスマホをしまい、淡々とした口調で答えた。「そういうことになりますね」そういうことになる?祐輔は思わず口元を引きつらせた。その言い方は何だ。絶対音感がどういうものか分かっているのか?それは何万人に一人というレベルの才能であり、音楽界でも絶対音感を持つ歌手は片手で数えられるほどしかいない。しかも、絶対音感があるからといって、ここまで正確に聴き分けられるとは限らない。この精度は、生まれ持った才能だけでは説明がつかない。後天的な、極めて厳しい訓練を積んで初めて到達できる領域だ。そんな人物が、わざわざスターエンタメでマネージャーをやっている?祐輔はもう一度紗寧を見た。――もしかして、兄貴が手配したのか?まあ、いい。今週末には兄貴が彼女を連れて戻ってくる。その時に直接聞けばいい。......一方その頃、二階のVIP観覧室では、一面に設けられたマジックミラー越しに、一階のスタジオが隅々まで見渡せた。中からはステージも客席も隅々まで見えるが、外から見ればただの鏡にしか見えない。ここはスポンサーや特別招待客専用のプライベートルームで、防音設備も万全だった。室内は落ち着いた高級感のある造りで、ダークカラーのレザーソファに大理石のローテーブル、隅には観葉植物が置かれ、ほのかな茶の香りが漂っている。斉藤はローテーブルの脇で腰を低くし、作り笑いを浮かべながら額に薄く汗を滲ませていた。その正面の本革ソファには、一人の男が腰を下ろしている。濃いグレーのジャケットは上質な生地で仕立ても美しく、広い肩幅と引き締まった体躯を際立たせていた。端正な顔立ちは無駄がなく洗練され、何も言わずとも人を圧するような冷厳さを漂わせている。北城・諸富家の、諸富慎也だ。「スーパー・ニュー・ボイス」最大のスポンサーであり、番組の一社提供スポンサーとして一度に数億円を投じた人物だった。斉藤はこの業界で20年揉まれてきた。数え切れないほどのスポンサーを相手にしてきたが、目の前のこの人物だけは、息をするのさえ気を遣う。理由は金ではない。その圧倒的な存在感だった。この男はそこに座っているだけで、何も語らずとも部屋全体を支配し、人を息苦しくさせるほどの威圧感を放っている。「諸富様、CM挿入の企画書は
紗寧は蒼士に続いて市役所を後にした。午後の港江の陽射しは目が眩むほど白く、湿った熱気が空気の中に揺らめいている。冷房の効いた室内とはまるで別世界だ。黒いマイバッハが木陰に静かに停まっている。蒼士は後部座席のドアを開け、そのまま彼女を待った。木漏れ日が枝の隙間から差し込み、彼の眉目に細かな影を落とす。そこに立つ姿は、まるで鞘に収まった刃のようだった。静かで内に秘めているのに、いつでも抜き放たれ人を傷つけられる――そんな危うさを纏っている。紗寧が身をかがめて車に乗り込むと、彼の視線が自分に向けられているのを感じた。重くはない。が、強烈な存在感があった。「先に本家
胸の内で不安が膨らむ中、蒼士は視線を引き、革張りのシートにゆったりと背を預けた。動きに合わせて喉仏がわずかに上下する。「乗れ」その一言に、紗寧はほっと息をつきながら車内へ身を滑り込ませた。ドアが閉まると、港江特有の蒸し暑い空気は完全に遮断される。黒いマイバッハは静かに走り出し、空港高速へと合流した。窓の外では標識が次々と流れていく。だが、進んでいる方向は貝原家への道でもなければ、八角家の屋敷へ向かう道でもない。2年間港江を離れていたとはいえ、主要道路の位置くらいは覚えている。紗寧は隣の男へ視線を向けた。蒼士は目を閉じていた。眠っているようにも見えるが、そ
その頃の紗寧は、ちょうど北城空港に到着したところだった。スマホが震える。「もしもし、先輩?」電話の向こうから聞こえてきたのは、中岡の穏やかな声だった。どこか苦笑混じりの響きがある。「紗寧、さっき柏グループ傘下のワールド・エンターテインメントから連絡があってな。総支配人の人選が松田に決まったそうだ」紗寧は足を止めかけたが、すぐにスーツケースを引いて歩き続けた。「そうなんですか」あまりに淡々とした反応だったせいか、中岡は一瞬言葉を失った。「なんだ、その反応は。少しくらい俺のために怒ってくれてもいいだろう?」冗談めかした口調で続ける。「一応、俺は君が推薦し
2日後。紗寧の傷はほとんど癒え、嗄れていた喉も元通りになっていた。その間、真洋が見舞いに来ることは一度もなかった。代わりに届いたのは、港江から母親が送ってきた小包だった。中には、貝原咲良の免許証が入っていた。病室の窓辺に立ち、眼下を流れる車列を見下ろしながら、紗寧はかすかに口元を歪める。それは嘲りにも、諦めにも見えた。その時、ドアが開いた。入ってきたのは天川だった。今日は白衣ではなく、ダークグレーのシャツに袖を肘まで捲っている。いつもの冷ややかさが少し和らぎ、どこか人間味が感じられた。「退院手続きは終わった」彼は書類を差し出す。「もう出られるよ」
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