All Chapters of 植物人間の社長がパパになった: Chapter 1161 - Chapter 1170

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第1161話

雅彦は拳を固く握りしめ、胸の鼓動がやけに鮮明に響いていた。周囲は不気味なほど静まり返り、意識はただ桃を探すことだけに向かい、ほかの思考は一切なかった。どれほど歩いたのかも分からない。息が詰まりそうな重苦しさに押し潰されそうになったそのとき――雅彦の視界に、少し先で横たわる桃の姿が飛び込んできた。「桃!」見開いた目で名を叫び、我を忘れて駆け出す。転がる石に足を取られかけても、痛みすら感じていない。よろめきながらも必死に桃へと近づいていった。たどり着くと、桃は静かに地面に横たわっていた。血の気を失った顔に小さな傷がいくつも刻まれ、ところどころ血がにじんでいる。衣服は無惨に裂け、乾いた血に覆われ、その姿はあまりに痛ましかった。その光景を目にした瞬間、いつも冷静な雅彦でさえ呼吸が乱れ、胸を締めつけられた。震える指先を伸ばし、彼女の鼻先にそっと手を当て、かすかな息を探る。――生きている。かろうじて感じられる呼吸に、止まりかけていた心臓が再び打ち始める。だがその息づかいはあまりにも弱く、危うい状態であることを物語っていた。雅彦は素早く自分の上着を脱ぎ、桃の身体に掛ける。触れた体は氷のように冷たく、まるで魂を失った殻のようだった。彼は桃をそっと抱き上げた。だがその瞬間、見えない傷口から新たに血がにじみ出す。鼻をつく血の匂いに、彼は凍りついた。無闇に動かせないと悟り、再び桃を地面に横たえる。そこで初めて、後頭部に深い裂傷があるのに気づいた。倒れた際に突き出た石に頭を打ちつけたのだろう。手の震えは止まらない。べっとりとついた血の赤が目に焼きつき、心臓を抉り、息を奪う。このままではいけない。出血が続けば、桃は助からない。彼は自分の服を裂き、頭に応急の包帯を巻きつけた。しかし薬もなく、こんな簡易な処置で血が止まるはずもない。すぐに彼の手は赤く染まった。不用意に動かすこともできない。雅彦は自分の衣服を次々に脱ぎ、桃に掛けていった。せめて体温だけでも守ろうとして。「桃……死んじゃだめだ。耐えてくれ……まだ翔吾や太郎、それにお母さんにも会わなきゃいけないだろ?」そう言いながら、彼自身でも皮肉だと感じた。こんなときでさえ、桃を引き留めるために、彼女が最も大切にする者たちの名を持ち出すほかないとは。なんと卑劣で、情けな
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第1162話

深夜の空気は刺すように冷たかった。とりわけ長く日が差さないこの場所では、底冷えする寒さが骨の髄にまで染み込んでくる。雅彦は体が強張っていくのを感じながらも、それどころではなかった。彼はただ桃を抱きかかえ、息を荒げながら必死に、さっき飛び降りた場所まで走り戻った。どうやって桃を連れて上に戻るか思案していたとき、頭上から救助隊の声が響く。「雅彦さん! どこですか、聞こえますか!」海は雅彦の身に異変があったと知ると、すぐに最も経験豊富な隊員たちを率いて駆けつけていた。隊員たちは腰にロープを巻き、額に灯りをつけて、一人ずつ降下して雅彦を探していた。「ここだ!」雅彦は顔を上げ、呼びかけに応じるように、必死に声を張った。海も心配で自ら降りてきた。雅彦の声を聞いた瞬間、胸を締めつけていた不安がほどけ、急いで近くまで下りて怪我がないか確かめようとした。だが雅彦はそれを遮り、低くきっぱりと言った。「時間を無駄にするな。彼女を先に上げろ!」その腕にぐったりと気を失った桃を抱いているのを見て、海は一瞬驚いたが、すぐに頷いた。海は自分を支えるロープを外し、雅彦に結びつけた。何よりもまず、傷ついた者を救い出すのが最優先だった。雅彦も余計な言葉は省き、桃と自分をしっかりと一つに縛り合わせた。ロープに支えられ、上からも力強く引かれるおかげで、登るのは格段に容易になった。ほかの隊員たちも加勢し、二人がかりで雅彦を支え落下を防ぎ、先頭には道を確認する者が立つ。そうしていくつもの苦しい瞬間を越え、ようやく雅彦は桃を抱えたまま山の上へ戻ることに成功した。そこには、すでに待ちきれない様子の莉子がいた。二人の姿を見つけるや、慌てて駆け寄る。「雅彦!大丈夫?怪我は?」だが今の雅彦に応じる余裕はなかった。「俺は平気だ。海はまだ下にいる。ここを見張れ。全員が上がるまで動くな。――負傷者がいる!」視線の先には救急車が停まっていた。おそらく海が事前に手配していたのだろう。雅彦は桃を抱き直し、急いで駆け寄った。とにかく頭の傷の手当てが先だった。そこでようやく莉子も、雅彦の腕に抱かれているのが桃だと気づいた。その瞳が大きく見開かれ、信じられないものを見るように震えた。桃が……生きている?本来なら、もう死んでいるはずなのに。「も……桃さん?どういう
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第1163話

雅彦は桃を抱えて救急車に乗り込み、そのまま傍らに付き添い、医師が彼女の傷を手当てするのを見守っていた。桃の体は傷だらけだったが、命に関わらない擦り傷や打撲にかまっている余裕はなく、医師は後頭部の処置に全力を注いでいた。血で真っ赤に染まったガーゼが次々と取り替えられ、床に落ちていく。その鮮やかな赤は目をそむけたくなるほどだった。雅彦は横に座り、何ひとつ手助けできないまま、ただ押し寄せる無力感に胸を締めつけられていた。これほど自分が無力だと感じたことはなかった。すべてが指の間をすり抜けていくようで、自分はただ事の成り行きを見ているしかない。もし桃がこのまま永遠に自分のもとから去ってしまったら――考えるだけで手が震え、恐怖が全身を覆った。不吉な想像を頭から振り払い、彼は昏睡したままの桃をじっと見つめていた。まばたきすら惜しむように。今にも目の前から消えてしまいそうで怖かった。やがて救急車は病院に到着した。医療スタッフはすでに待ち構えていて、車が止まるや否や、桃は担ぎ込まれ、手術室へと押し運ばれていった。雅彦は必死に後を追ったが、冷たい手術室の扉が前に立ちはだかり、そこで足を止めざるを得なかった。ほんの一枚の扉を隔てただけなのに、その向こうはまるで別世界のように遠かった。少しして、莉子もやって来た。彼女はこの状況に直面して、改めて自分の車椅子を憎んだ。何をするにも誰かの助けが要り、思うように動けない。扉の前で魂の抜けたように立ち尽くす雅彦を見て、桃の容体が決して良くないことを悟り、胸の奥で「どうか手術台から降りられませんように」とひそかに願った。だが顔に出たのは沈痛な色で、彼のもとへゆっくり近づき、声をかけた。「雅彦……桃さんは、どうなの?」雅彦は我に返り、傷だらけの莉子の姿を見た。だが気を遣う余裕などなく、苛立ちをにじませて言った。「まだ手術中だ。どうしてここまで来たんだ。海のそばで待っていろと伝えたはずだろう」彼の心はいま桃の安否だけでいっぱいだった。莉子には海が付き添っているし、ここにいても足手まといになるだけだった。「わ、私……ただ雅彦が心配で」莉子は涙ぐみ、今にも泣き出しそうな顔で言った。「焦りすぎて、もし何かあったらと思うと……それに桃さんの容体も気になって。邪魔したいわけじゃないの……」「……」以前な
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第1164話

莉子は本当は帰りたくなかった。けれども、この場で自分の足に問題がないことを明かすわけにもいかず、しぶしぶ車椅子で押し出されていった。莉子が去ると、ようやく雅彦の周りに静けさが戻った。彼はその場に立ち尽くし、ただひたすら待ち続けた。どれほど時間が過ぎたのか分からない。桃が手術室から出てくる気配はなく、代わりに姿を見せたのは海だった。海はついさきほど山のふもとから救い出されたばかりだったが、それでも雅彦を放ってはおけず、急いで駆けつけてきたのだ。彼の姿を目にした瞬間、海の胸は締めつけられる。このまま声をかけなければ、雅彦はいつまでも立ち尽くしたまま動かない――そんな気がしてならなかった。少し考えたのち、海はスマホを差し出した。「雅彦様、お子さんたちが桃さんをとても心配していました。さっきからずっと雅彦様に電話をかけていたようですが、繋がらなくて……最後には私の番号をどうにか探し出したんです。少し話してあげませんか?」雅彦はようやく我に返った。俯き、混乱した頭でしばらく考え込んだあと、そのスマホを受け取った。発信すると、呼び出し音が数度鳴っただけで、すぐに電話がつながった。「おじさん!ママを見つけた?無事なの?」受話口から翔吾の切羽詰まった声が響く。夜も更けているというのに、ふたりは母の安否が気がかりで眠れず、誰にも連絡がつかない不安に押しつぶされそうになっていた。海からの電話は、まるで救いの手のように思えたのだ。「君たちのママは……」雅彦は「無事だ」と言いかけて、言葉を詰まらせる。これまでの出来事が桃だけでなく子どもたちにも深い傷を残していることに、今さらながら気づかされたのだ。「彼女は俺と一緒にいる。大丈夫だ」無理やり声を奮い立たせ、翔吾と太郎を安心させようとする。「本当に?信じられない!ママとビデオつないで!顔を見せてよ!」翔吾の声はいつの間にか泣き声に変わっていた。雅彦から男が泣くのは一番みっともないことだと教えられていたはずなのに、母を失ってしまうかもしれない恐怖が、その理屈を押し流してしまったのだ。雅彦はしばらく黙り、低く答えた。「今はママとビデオはできない。けれど、すぐに会える。君たちのママは絶対に、君たちを置いていったりはしない」その最後の言葉には、本人ですら拭いきれない迷いが混じっていた。子
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第1165話

看護師は雅彦の様子を一目見るだけで、ただ者ではないと直感した。ケガしているにもかかわらず、その放つ圧倒的な気配は少しも損なわれていなかった。少し考えたあと、看護師は恐る恐る口を開いた。「ここで処置するのは不便ですし……もしよければ病室に移動して包帯を巻きましょうか?」「いい、ここで簡単に処置してくれれば十分だ」雅彦は即座に首を振った。今は手術室の前を一歩も離れたくなかった。桃が無事に手術室から出てくるのを確認できなければ、とても落ち着けなかった。その強い意志を前に、看護師も従うしかなく、黙々と大きな傷から細かい擦り傷まで手当をしていった。雅彦の体には土や泥で汚れた傷も多く、まずは清潔にする必要があった。看護師がアルコールで丁寧に拭いていくと、普通なら思わず声が漏れるほどの鋭い痛みが走る。しかし雅彦は、まるで何事もないかのように、声ひとつ漏らさず、眉ひとつ動かさなかった。漆黒の瞳はただ手術室の扉を見つめ、瞬きすら忘れているかのようだった。その姿に、看護師は思わず羨ましくなった。あの中にいる女性は、これほど優れた男性に全身全霊を注がれている。もし自分がその立場なら、命を懸けても後悔はないだろう。気づけば彼女の頬が赤くなっていた。勇気を出して雅彦に話しかけようとした瞬間、手術室の扉が不意に開いた。ベッドに乗せられた桃が、まだ意識のないまま運ばれてきた。額は厚いガーゼで覆われ、整った顔は血の気を失い、全身が壊れそうなほど頼りなかった。まるで触れただけで砕けてしまいそうな陶器の人形のように。その光景は、鋭く雅彦の胸をえぐった。手当の途中など気にも留めず、彼は駆け寄った。「先生……彼女は、どうなんだ?」医師は小さく息をつき、答えた。「不幸中の幸いですね。全身に傷はありますが、ほとんどは外傷で、命に関わるものではありません。ただ……」その一言で、下ろしかけていた雅彦の心は再び緊張に包まれた。「ただ……何だ?」「頭部を強く打っています。現状では大きな異常は見られませんが、今後の経過をよく観察する必要があります。もし意識が戻らなければ、より精密な検査で脳内に血腫がないか確認しなければなりません」雅彦は静かにうなずいた。しかし胸の重苦しさは消えなかった。脳は人の体で最も繊細で複雑な部分だ。小さな衝撃でも、何が起こるかわからない
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第1166話

雅彦はここで桃を見守っていた。その一方で、海は監視カメラの映像を調べ、桃を連れ出したのが心音だったことを突き止めた。ただ、心音は菊池家に長く仕える者で、勝手にそんな大胆な行動をとるはずがない。きっと誰かの指示を受けていたに違いなかった。では、その人物が一体誰なのかを探るため、海は部下に、心音が最近やり取りしていた相手を洗わせた。……雅彦が谷底へ飛び込んだ件は、救助隊を騒がせたこともあり、最終的に美穂の耳にも届いた。知らせを受けた美穂は、ちょうど桃の消息を待っていた最中で、思わず椅子から飛び上がりそうになり、危うく転びかけた。そばにいた使用人が支えてくれなければ、みっともない姿をさらすところだった。「雅彦は今どうしているの?どうしてそんな無茶をしたの!」「雅彦様はご無事です。ただの擦り傷程度で、すでに病院へ向かわれています」雅彦が無事だと知り、美穂は胸を撫で下ろした。だがすぐに病院の場所を聞き出し、慌ただしく駆けつけた。病室に入った彼女の目に映ったのは、全身傷だらけの雅彦だった。美穂は胸が張り裂けそうになり、慌てて駆け寄る。「雅彦、怪我は大丈夫なの?こんな状態なのにどうして休まないの!」けれど雅彦は彼女を顧みず、ただ病床に横たわる桃を見つめていた。魂までもうそこにはないように。その様子に、美穂の怒りが一気にこみ上げた。「雅彦……本当に、あなたには失望したわ」こんな女のために命まで投げ出すなんて――桃のどこに、そこまでの価値があるというのか。「……」ようやく我に返った雅彦は、怒りに染まった美穂の顔を見たが、何も言い訳はしなかった。今の彼にとって唯一の関心は、桃が目を覚ましてくれるかどうか。それだけだった。ほかのことなど、どうでもよかった。「お母さんには、もう何度も失望させてきたでしょう。なら、いっそ気に入る後継者を探せばいい」絶望に沈んだ声に、美穂は言葉を失った。彼をひっぱたいてでも目を覚まさせたい衝動に駆られたが、結局、手を振り上げても打つことはできなかった。彼女は怒りをあらわにして病室を飛び出した。だが扉を出た途端、雅彦のスマホが鳴った。一度は出る気になれなかったが、画面に海の名を見て通話を繋いだ。「海、何か分かったか?」「桃を連れ出した心音が最近誰と連絡を取っていたのか
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第1167話

美乃梨は、ひどい無力感にとらわれていた。自分の力には限りがある。だから仕方なく、こちらの探偵に頼んで佐俊の行方を探してもらったのだ。かなりの時間と労力をかけた末、ようやく居場所を突き止めた美乃梨は、桃の信頼を裏切りたくなくて、自ら現地へ向かい、見張ることにした。ところが現地でさらに調べてみると、佐俊はすでに何日も姿を見せていないと知らされた。あの日、雅彦が桃を連れて立ち去ったあと、雅彦は人を遣って佐俊を「手厚く」もてなした。これまで佐俊を大目に見ていたのは、父の永名に顔を立てていただけにすぎない。だが、この男は懲りもせず桃に絡み続け、まるで「死」という言葉を知らないかのように振る舞った。それは雅彦へのあからさまな挑発にしか見えなかった。そこで雅彦は、海に命じて彼を徹底的に「世話」させた。海自身も佐俊への不満を抱えていたうえ、佐俊にはもともと菊池グループに太刀打ちできる力などなかった。ほんの少し手を回しただけで、彼の生活はあっという間に行き詰まった。病院からは追い出され、職を失い、業界内での評判も地に落ち、再就職の道は完全に断たれた。佐俊も何が起きたのか察してはいたが、抗う力など持ち合わせていなかった。しかも、自分の行いで桃を傷つけたのは事実だ。だから彼は観念し、匿名でできる外注仕事を細々とこなし、なんとか生活をつないでいた。貧しいながらも、その暮らしは彼の罪悪感を少し和らげ、久しぶりに心の安らぎを与えてくれていた。だが数日前、安売りの食料を買って帰る途中、闇夜に紛れて何者かにさらわれてしまった。彼は越してきて間もなく、人付き合いもせず、ほとんど家に籠もってパソコンに向かってコードを書く毎日を送っていた。だから何日も姿を消しても、近所の誰一人気づかなかった。もし美乃梨が探していなければ、佐俊はそのまま跡形もなく消え、誰に知られることもなかっただろう。美乃梨が聞き込みをすると、失踪は数日前だと分かり、胸に危機感が込み上げた。彼女はすぐ警察に通報するしかなかった。警察の調べに立ち会いながら、美乃梨は佐俊の恋人を装って事情を説明し、無事に彼の部屋に入ることができた。中を見渡すと、買い置きの食料は腐ったまま放置され、パソコンは電源がついたまま、画面にはコードを書いていた痕跡が残っていた。――自分から出ていったのではなく、何者かに
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第1168話

清墨が電話を受けたのは、斎藤家の本宅で祖母と話していたときだった。着信音が鳴り、画面に映ったのが美乃梨の名前だったので、少し驚いた。今では二人の関係も、表向きは適度な距離感を保っていた。美乃梨の方から連絡してくることなどほとんどない。突然の電話に、一体何の用かと清墨は訝しんだ。一瞬ぼんやりしていた彼に気づき、祖母は画面をのぞき込み、発信者が美乃梨だと分かると慌てて孫を促した。清墨が帰ってきたのに、美乃梨を連れてこなかったせいで、祖母はしばらく機嫌を損ねていたのだ。清墨が応答すると、電話口の向こうから切迫した美乃梨の声が飛び込んできた。「清墨、お願いがあるの。どうしても頼みたいことがあって……力を貸してもらえない?」彼女は決して弱い性格ではない。人に頭を下げるのは苦手なはずだ。安易に頼ることなどない。きっと桃のために、事態が悪化するのを恐れてのことだろう。そうでなければ、美乃梨が自らこんな電話をしてくるはずがなかった。祖母は耳をそばだて、孫と孫嫁の内緒話でも聞けるかと思っていた。だが、美乃梨が助けを求めていると知るや否や、何も考えずにスマホを奪い取った。「美乃梨、何を言ってるの。あなたは清墨の妻なのよ。彼が助けなくて誰が助けるっていうの。遠慮なんていらないわ」美乃梨は一瞬きょとんとした。まさか祖母の声が返ってくるとは思っていなかったのだ。だが、祖母がそう口にした以上、清墨が拒むはずもない。彼はすぐにスマホを取り返した。「そうだな。俺たちの間でよそよそしくする必要はない。で、何があった?」美乃梨はまだ驚いていたが、彼の問いかけで我に返り、急いで事情を説明した。探してほしい人がいる、と。人探しなど大したことではない。だが、美乃梨が口にした名が佐俊だった瞬間、清墨の顔色は変わった。誰もがその名前を口にするのを避けていたが、清墨は知っていた。佐俊はかつて桃の不倫相手であり、雅彦にとっては目の上のたんこぶでもあった。そんな人物をいまさら探してどうするつもりなのか?まさか桃がまだ未練を抱き、この男とよりを戻したいのでは?清墨の声は冷たく沈んだ。「君……まさか桃とあいつを会わせようとしてるんじゃないだろうな」「違うわ!桃ちゃんと彼の間には何の関係もないの。あれは他人が仕組んだ罠にすぎないのよ。私は真犯人を突き止めて、桃ちゃ
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第1169話

美乃梨は深く考える間もなく、すぐに承諾した。清墨は電話を切ると、佐俊の行方を探すよう人に指示しようとした。斎藤家の情報網は菊池家ほど強力ではなかったが、人ひとりの居場所を突き止めるくらいなら、そう難しいことではない。美乃梨はこの件を託したあと、黙ってスマホを握りしめた。佐俊に少しの好感も抱いてはいなかったが、それでも、あまりにもあっさりと命を落とさないでほしいと思った。たとえ死ぬにしても、せめて真相を明らかにしてからであってほしい――そう願っていた。……電話を切った直後、不意に祖母がそっと近づいてきた。「どうだった?美乃梨に頼まれたこと、ちゃんと気を配ってやらないと駄目だよ」美乃梨は嫁いで以来、折に触れて斎藤家の年長者に顔を見せ、本分を尽くしていた。その誠実な姿が好ましく、祖母も彼女を気に入っていた。だからこそ、こういう場面では孫の清墨がきちんとやり取りしているかどうか、どうしても気になって仕方がなかったのだ。こんな素直で気立てのいい嫁を逃したら、清墨はきっと後悔するに違いない。「もちろん、手伝ってるよ。言うまでもないだろ」清墨は慌てて答えた。「それにしても、あんたと美乃梨の話し方、なんでそんなによそよそしいのさ?夫婦でそんなことあるかね」突然の指摘に、清墨は冷や汗をかいた。まさか結婚が形だけだと見抜かれたのか?しかし祖母の頭には、そんな大げさな考えは一切なかった。「この前、けんかでもしたんだろ?まだ彼女、拗ねてるんじゃないの?あんたは男なんだから、もっと我慢してやらなきゃ。いつまでもお坊ちゃまぶってないで、わかったね?」「うん、わかったよ」結婚そのものを疑われていないと知り、清墨はすぐ頷いた。普段の冷徹な医者の面影はどこへやら、必死に機嫌を取る姿は、まるで腰巾着のようだった。祖母が部屋を出ると、清墨はようやく息を吐き、首を振った。そもそも偽装結婚など、すべきではなかったのではないか――ふと、そんな考えが頭をよぎる。どうせいつかは別れるのだから、そのとき真実を知れば祖母はきっと怒るだろう。どうせ一人でいるなら、それはそれで退屈だし。美乃梨は空気の読める人で、同じ屋根の下にいても一線を越えるようなことはなく、地位を狙うそぶりも見せない。もしそうなら、このまま共に過ごしていくのも悪くないのでは?清墨はしばら
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第1170話

雅彦は、もう一度医師を呼んで桃の容体を確かめるべきかどうか迷っていた。どうしてまだ目を覚まさないのか、不安で胸が締めつけられる。そんなとき、海が慌てて駆け込んできた。病院にいれば安全なのは分かっている。だが海は、雅彦が休むことなく、飲まず食わずで桃のそばにいるのではないかと心配し、急いでやって来たのだ。それに、彼は確かにいくつか手がかりを掴んでいた。ただ、それは雅彦にとって耳を塞ぎたくなるような内容に違いなかった。病室に入ると、雅彦の目の下には濃いくまが浮かんでいた。昨夜ろくに眠れていないのが一目で分かり、海は胸が痛んだ。「雅彦様、昨日、桃さんを連れて出た心音ですが、すでに海外に出ています。到着後すぐに誰かに迎えられ、行方をくらませています。見つけるには少し手間がかかりそうです」雅彦は眉をひそめた。だが、海が成果もなくここへ来るような男ではないことは分かっていた。「ほかにも何か掴んだのか?」「はい。昨日、別荘を徹底的に調べたんですが、ベッドのマットレスの下からこれを見つけました」海は一枚の紙切れを差し出した。雅彦は受け取り、開いて目を通す。そこには短い言葉がいくつか並んでいた。【桃、心配するな。今夜、私の仲間と一緒にここを出るんだ】力強い筆跡。明らかに男性の字だ。雅彦は拳をぎゅっと握った。「この字、確認したのか?」「はい……佐俊の字と一致しました」その瞬間、雅彦の顔は険しくなった。またしても佐俊か。桃があんな大胆に逃げようとしたのは、やはりあの男のせいだったのか。雅彦は言葉にならない疲れに押し潰されそうになる。桃に聞きたい――佐俊のどこがそこまで特別なのか。母の安否さえ顧みず、逃げ出そうとしたのか?だが、桃は昏睡したまま、答えられるはずもなかった。「……出てくれ。一人で冷静になりたい」雅彦は手を振り、海を下がらせた。海は心配そうに見ていたが、逆らえない雰囲気を察し、静かに病室を後にした。雅彦はベッドのそばに腰を下ろし、桃の顔を見つめる。「そんなにあの男が好きなのか?ただ佐和に似ているってだけで、そこまで命を懸けられるのか。蛾が火に飛び込むみたいに」声に出して言うと、自分への皮肉にしか思えなかった。――ただの代わりなのに、彼女は命を懸けるほど愛している。では佐和本人なら……?桃は以
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