「紀香様?」一郎は本当に心配になり、ついにドアを開けた。「失礼します」中にいた紀香は、洗面台の前で自分の手の甲を必死に擦っていた。その姿を見た一郎は慌てて駆け寄り、彼女をバスルームから引っ張り出した。すぐに救急箱を取りに行く。「大丈夫」と紀香は言ったが、一郎は聞かなかった。海人が後で見たら、そして来依が知ったら、きっと氷の海に沈められる羽目になる。紀香もそれ以上は拒まず、まるで魂が抜けたようにぼんやりしていた。「香りん!」春香が駆け込んできて、第一に紀香の様子を確認する。「大丈夫? どこか怪我してない?」彼女の目が紀香の手に留まる。「この手……もしかして、兄ちゃんのせい?」「ちょっと文句言ってくる!」紀香は止めようとしたが、春香の勢いに押されて手が届かなかった。彼女自身の動きも鈍く、追いつけなかった。一郎がそっと声をかける。「紀香様、今回の件はあなたの責任じゃありません。どうか気に病まないで。ご家族が到着すれば、きっと連れて帰ってくれます。そうすれば、またお姉さまと一緒に過ごせますよ」紀香は無言で階段を見上げた。……春香が兄の部屋に着くと、すっかり表情が変わっていた。「兄の容態は?」針谷に尋ねる。針谷の顔は重苦しい。「由樹様を待ってる。医者は、状況が緊迫していて、これ以上の遅れは命取りになると。でも由樹様にはまだ連絡が取れないんです。移動中なのかどうかもわかりません」春香は由樹に電話をかけた。しかし、通じなかった。「こんな時に、なんで繋がらないの?」由樹のスマホは常に電源が入っていて、バッテリーも満タン。彼を必要とする人間があまりにも多いため、一本でも電話を取り損ねれば、最良の救命の機会を逃しかねない。だから彼は電波の悪い場所には決して行かなかった。どうしても行かなければならない時でも、長居はしなかった。さらには、電話がつながらない事態を避けるために、電波強化機まで持ち歩いていた。そんな彼の電話が、今日のように緊急の状況で通じないなんて、あまりにも異常だった。「わざとだと思う」「どうしてです?」「わからないけど……彼には、何か狙いがある気がする」「……彼は来ると思いますか?」「来る。間違いなく何かを求めて」……階下。
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