Tous les chapitres de : Chapitre 41 - Chapitre 50

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第41話

「うん」そう返事をして、私はそばに腰を下ろした。鋭く澄んだ祖父の視線と真正面から向き合い、ますます落ち着かなくなった。広々とした書斎には、私と祖父、そして横でお茶を淹れている土屋さんだけがいた。案の定、祖父はすべてを見抜いたように口を開いた。「お前たち、本当に離婚するのか?」「……」宙ぶらりんだった心が、ついに沈んだ。もう祖父に見透かされてしまった以上、隠し通すことはできない。「……はい……どうして、それを?」祖父はため息をついたが、騙されていたことに怒る様子はなかった。「お前はな、確かに自立していて、頑固だ。表向きは宏のことをそれほど好きには見えなかった。だが、その目は、いつも彼から離れたことがなかった。「けれど今日は、一度も宏を見なかった」祖父の声には、どこか残念そうな響きがあった。その言葉に、私は喉が詰まり、何も言えなくなった。――そうだ、好きな気持ちは隠せない。口を塞いでも、目からあふれ出てしまうものだ。祖父にすら見抜かれているのに、宏は、私が他の誰かを好きだと思っている。これは当事者だからこそ見えていないのか、それとも、初めから私の気持ちになど関心がなかったのか――。私はそっと俯き、込み上げる苦しさを押し殺した。喉が何度も震えたが、最後に出たのはただ一言だけ。「……お祖父様、ごめんなさい」「謝るのは、わしのほうだ」祖父は土屋さんに茶を勧めるよう合図をした。「もしわしがあの馬鹿孫にお前を嫁がせようなどと思わなければ、こんな深い穴に落とすこともなかったのに……」私は湯呑みを手に取り、そっと一口含んだ。そして首を横に振る。「違います。お祖父様は……ただ、私の夢を叶えてくれただけです。もしお祖父様がいなかったら、私はきっと一生、空の星を手に入れたいと願い続けていたでしょう。でも今は、もう悔いなく前へ進めます」手に入らなかったものは、一生欲し続けた。でも、私は一度は手に入れた。そして、諦めることができた。手にしたことさえなければ、こんなふうに吹っ切れることもなかっただろう。――これで、もう未練を残すことはないはずだ。祖父の目には、ただ諦念だけが浮かんでいた。「本当は、離婚を思いとどまるよう説得するつもりだった。だが、その言葉を聞いた以上、それを言えば宏
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第42話

「お前が見た通りだ」祖父の声には、深い悲しみと疲れがにじんでいた。「江川家が暢子に対して負い目がある……いや、すべてはわしが、自分の息子をきちんと躾けなかったせいだ!」亡くなった義母には、林暢子という、とても美しい名前があった。その名を聞いた私は、言葉にならない衝撃に包まれた。――義母は、ただの難産で亡くなったわけではなかった。彼女は、十月十日お腹で育てた命とともに、誰かに突き落とされ、階段から転落したのだ。しかも――その手を下したのは、宏の「良き継母」だった。宏を我が子同然に育て、果てには彼を助けるために植物人間にまでなった、あの温子だった。頭がぐちゃぐちゃになった。宏にあれほど献身的だった女が、彼の実の母を殺した張本人――?そんなことが、あり得るのか?あまりにも人間性に反している……混乱の中にいる私に、祖父がさらに言葉を投げかけた。「分からないか? なぜあの女が、宏にあれほど尽くしたのか」「……分かりません……」祖父は冷たく笑った。「すべては、利害と打算の上に成り立っているだけだ。宏の母が亡くなった後、お前の愚かな義父は、すぐにでも温子を江川家に迎え入れようと騒ぎ立てた。「温子は手を下す前に監視カメラを壊し、自分の計画は完璧だと思っていた。そしてお前の義父の前では、泣き喚き、時には死ぬと脅してまで、わしに許しを乞うた」――そこまで聞いて、私はすべてを悟った。「……お祖父様は、監視映像を修復させたんですね?」「そうだ」祖父は頷き、奥歯を噛みしめながら言った。「だが、お前の義父はあの女に骨抜きにされ、証拠を突きつけられても、どうしても温子を娶ると言い張った!」怒りが頂点に達したのか、祖父は思い切り茶碗を床に叩きつけた!それほどの年月が経った今でも、これほどの怒りを見せるのなら――当時、祖父がどれほどの憤りを抱えていたか、想像に難くない。土屋さんは慌てて祖父の背をさすり、気を鎮めるように話を引き継いだ。「大旦那様も、当時はどうしようもない状況に追い込まれ、最終的に温子の江川家入りを認めました。ただし、二つの条件を付けたのです。一つ目は、婚前契約を交わし、江川家の財産には一切関与させないこと。「もう一つは、宏ぼっちゃまを無事に成人させること。それが守られな
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第43話

そんな祖父の、初めての願いだった。今さらここまで言われて、私はもう断る理由がなかった。それに、私はすでに宏と別居していた。離婚届に判を押すだけの関係だったが、それが少し延びるだけの話だ。急ぐ必要はない。ましてや、祖父の八十歳の誕生日は、もう一ヶ月後に迫っていた。その後、私を書斎から送り出したのは土屋さんだった。「大旦那様がこうおっしゃるのは、ぼっちゃまと南さんが後で後悔しないように、もう少し時間をかけて考えてほしいからですよ」私は唇を引き結んだ。何かを言おうとした瞬間、スマホが鳴った。――見知らぬ固定電話の番号だった。「もしもし、河崎来依のご家族の方ですか?」「はい、そうですが……」「こちら警察署です。至急、署までお越しください」私は動揺した。「何かあったんですか?」と聞く間もなく、電話は切られた。いてもたってもいられず、急いで階段を駆け下りた。エレベーターを出た瞬間、怒りに満ちたアナの姿が目に飛び込んできた。「よくもここまで好き勝手にできるわね!」叫ぶと同時に、彼女の手が私の頬を打とうと振り上げられる。だが、その手が落ちる前に、私はすばやく腕を掴み、止めた。頭の中は来依のことでいっぱいだった。アナの相手などしている暇はない。「どいて」彼女の手を振り払ったと、そのまま足早に立ち去った。来依に一体何が起こったのか。警察署へ向かった道中、胸のざわつきが止まらなかった。そんな私の車を、黒いマイバッハがぴたりと後ろからついてきていた。――鬱陶しい。宏は、また何を考えている?まさか、さっきアナに頬を叩かせなかったことで、彼女のために私を追ってきた?赤信号で停車した隙に、私は彼へ電話をかけた。「何のつもり?ずっと私の後をつけて」すると、返ってきたのは、冷たい女の笑い声だった。「南、自意識過剰じゃない?」アナの、甘ったるい声。「宏くんは、私が心配だからついてきただけ。あなたには関係ないわ」……私は無意識に手をこぶしに握り締めた。まるで、またアナに平手打ちされたような気分だった。そうだ。彼女の言ったとおり。私はまた、自惚れていたのだ。――過去三年間、ずっと勘違いし続けていた。警察署に到着する前から、私は来依が何をしでかしたのか察して
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第44話

人前に立つ宏の表情は、いつも通り冷ややかだった。黒いロングコートがさらに威圧感を際立たせ、誰も寄せつけない雰囲気を纏っている。彼が一歩、また一歩と近づくにつれ、私は不安を覚えた。この件は、小さな問題にも、大きな問題にもなり得る。金で解決できる程度の話ならいい。だが、もし彼が本気になれば――。宏ほどの権力があれば、来依を刑務所送りにするのも造作もない。そして何より疑う余地もない。彼がアナを守るのは、目に見えていた。予想通り、彼はアナの隣に立ち、目を伏せながら、低く口を開いた。「どうしたい?」その一言に、私は無意識に拳を握りしめた。アナが口を開いたより先に、来依が私の腕を引き、自分の背後へと押しやった。「やったのは私。南ちゃんには関係ない」「来依!」私は焦ったが、彼女は私を見て、わざと皮肉げに笑った。「どうするつもり? 私のために、みんなの前で元夫に泣きつく? それとも、恥知らずにもあんたの結婚生活を壊した浮気相手に許しを乞う?」彼女の言葉が終わると同時に、場の空気が張り詰めた。アナは鼻で笑い、冷ややかに言った。「誰のことを浮気相手って言ったの? 先にいた者勝ちなら、私と宏くんは幼なじみよ。そうなると、浮気相手は私じゃないわね? それとも、愛されない女が浮気相手だっていうなら――やっぱり私じゃないわね」――心をえぐる言葉。彼女の言い分なら、この三年間の結婚生活は、私が盗んだものだということになる。私は宏の漆黒の瞳をまっすぐに見つめ、苦笑を浮かべた。「彼女の言った通りなの? 宏」七年間、ただひたすらに愛した人に、「浮気相手」扱いされるなんて。他の誰に何を言われても構わない。彼の答えだけが、知りたかった。アナは彼の腕に甘え、顎を少し上げながら言った。「そうよね、宏くん?」「もういい」宏は眉をわずかに寄せ、淡々と腕を引き抜いた。「たかが車一台だろう。明日、新しいのを買えば済む話だ」私は目を見開いた。彼は――アナの肩を持たないのか?これほどあっさりと済ませるなんて。当然、アナは納得しなかった。「そんな問題じゃないわ! これはただの車じゃない、私の顔を潰されたのよ!」宏は彼女を一瞥し、冷たく言い放った。「お前も夜で、南の頬を叩いただろ?」
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第45話

「最初にお祖父様が頑なにならなければ、あなたもこんな目に遭わずに済んだのに」……来依は思い切り目を剥いた。もし私が引き止めなければ、また怒鳴り返しに行っていただろう。いつの間にか雨が降り出し、冷たい秋風が吹きつける。気温が急に下がり、寒さに思わず身を縮めた。車に乗り込むと、来依は怒り心頭といった様子で言った。「なんで止めたの? あの女が何言ったか聞いたでしょ? ったく、何様のつもりよ! 人類が進化するとき、あいつはどこかに隠れてたんじゃない?」「聞こえてたよ」私はため息をつきながらエンジンをかけ、車をゆっくりと走らせた。「でも宏は気まぐれな男。できるだけ彼の気が変わる前に、ここを離れたかっただけ」アナとやり合う意味なんて、どこにもない。「……腹立たないの?」「まあね」正確には――もう慣れた。この時間、夜はまだ賑やかだった。街は人でごった返し、道路は渋滞で進んでは止まりを繰り返していた。そんな中、来依がふいに唇を吊り上げ、悪戯っぽく目を瞬かせながら顔を寄せてきた。「……ねえ、ちょっとスッキリしたでしょ?」「……何が?」「アイツの車があんなボロボロになったの見て、スッキリしなかった?」「……」少し考えたあと、自分の正直な気持ちを否定しなかった。「……スッキリした」アナが、まったく同じ車を私の目の前に停めたときから、ずっと胸の奥に何かが引っかかっていた。ただの車じゃない。あれは、彼女の“宣戦布告”のようなものだった。だからあの車が警察署の前で見るも無惨な姿になっていたとき、私は来依のことが心配で、それどころではなかったが――今、こうして改めて思い返すと、ようやく胸のつかえが下りたような気がした。「なら、よかった」来依は満足そうに眉を上げた。私は苦笑し、軽く釘を刺した。「でもね、これ以上、無茶しちゃダメよ」「わかってるって」「絶対にね?」「わかってる、わかってる。私ほどあんたの言ったことを聞く人、いないでしょ?」「……」私は彼女に敵わないと苦笑しながら、車を彼女の家の前に停めた。降りる前、改めて念を押す。「本当に、もう無茶しないで。今日は宏が不問に付したからよかったけど、もしアナのために本気で動いてたら?」「バカにしないでよ」
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第46話

引っ越し?息が詰まった。すぐに、心の中がざわつく。深く息を吸い込み、冷静に言った。「ここに引っ越してくるつもり? 私、許可した覚えないけど」「お祖父様が、君が離婚を少し待つって了承したって言ってたぞ」彼はしれっと言いながら、スマホを差し出した。「納得できないなら、お祖父様に直接聞いてみれば?」「……ずるい」思わず彼を睨みつけた。「離婚を先延ばしにするとは言ったけど、一緒に住むなんて一言も言ってない」江川グループの社長ともあろう人間が、こんなことを言い出したなんて。誰が信じる?「夫婦が一緒に暮らすのは当然だろう」彼はすかさず返してきた。「屁理屈」私は舌打ちし、そのまま扉を開けて家に入った。すると、彼も当然のように後に続いた。おそらく、夜に祖父から聞いた話が頭に残っていたせいだろう。宏に対して、どうしても少し同情してしまい、無理やり追い出した気にはなれなかった。私は主寝室の向かいの部屋を指さした。「そこに住めば?」「うん、わかった」彼は特に抵抗もせず、穏やかに返事をし、そのまま荷物を持って部屋に入っていった。私はコップに水を注ぎ、口を潤してから振り返った――次の瞬間、温かく広い胸にぶつかった。――宏の、懐かしい香り。一瞬、意識がふわりと浮いたが、すぐに後ろへ二歩、距離を取った。「……何か用?」まるで他人同士のようなよそよそしさ。けれど、こうするしかなかった。宏が好きなのは、私じゃない。自分に言い聞かせなければ、また元の場所に戻ってしまう。彼の表情に、一瞬だけ寂しげな色が過ぎった。薄く引き結ばれた唇が、ゆっくりと動いた。「顔、少しは良くなったか?」「……知らない」何の気なしに答えた。鏡を見る暇もなかったし、そもそも気にもしていなかった。彼が手を伸ばしかけた。「ちょっと見せろ」「いい」私は反射的に避けた。「自分で何とかするから」「南……俺たち、もうそんな他人行儀になるのか?」彼は眉を寄せた。「他人行儀じゃない」私は彼とアナが警察署で親しげにしていた姿を思い出し、ふと彼の袖口を見た。「ただ……汚れてるだけ」私は彼を愛している。でも、私が愛したのは、清廉で誠実な宏だ。ほかの女と甘い
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第47話

「……ち、違う」私は咄嗟に誤魔化した。「ちょっと、物を取りに来ただけ」「その物って、あれのことか?」彼は、ダイニングテーブルの上に置かれたデリバリーの袋を指差した。――まるで嘘を見破られた子供のような気分だった。気まずくなり、鼻をかきながら小声で言った。「……配達員にインターホンを鳴らさないように頼んだんだけど」「鳴らしてなかったぞ」「じゃあ、なんで分かったの?」「ドアをノックしてた」「……」言葉に詰まり、心の中で機転の利く配達員に密かに絶望した。私は黙って袋を取りに行き、開けて食べようとした。だが、その前に――宏が、湯気の立つ海鮮入りのお粥を私の前に置いた。香ばしく、温かい匂いが広がる。「お祖父様が、君が今夜あまり食べていなかったって言ってな。家の残りの海鮮を全部持たせてくれた」「……じゃあ、このお粥は?」「俺が作った」宏は私の向かいに腰を下ろし、穏やかに言った。「シャワーも浴びたし、ちゃんと手も洗った。君、体調が悪いんだろ? しばらくデリバリーは控えたほうがいい」――瞬間、私は手を止めた。その意図に気づき、驚きを隠せなかった。彼は、わざわざ伝えようとしている。ちゃんと清潔にしたから、君に出しても大丈夫だと。まるで、私が彼を『汚い』と言ったのを気にしているみたいに。湯気に霞む視界の中、私は無言で何口かお粥を食べた。気持ちを整理するために。「……宏」沈黙の中、ゆっくりと口を開いた。「そんなこと、しなくていいのに」――そんなことをされたら、私は迷ってしまう。私は、曖昧な態度が何より嫌いだった。自分がそうなるのは、もっと嫌だった。すると、不意に手が伸びてきて、そっと私の髪を耳にかけた。ひんやりとした指先が耳の縁を掠める。「夫婦なら、お互いを気遣うのは当然だろう?」彼は静かに言ったあと、促すように続けた。「ほら、早く食べろ」――まるで、昔に戻ったような感覚だった。目の前の彼は、かつての優しい夫と何も変わらない。私はふと顔を上げた。彼の黒い瞳とぶつかる。まっすぐに、どこまでも深く。「……でも、私はお祖父様に『一ヶ月』って約束しただけ」「なら、その一ヶ月だけでいい」彼の声は静かだった。「今まで、君はずっ
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第48話

妊娠してから、これほど眠れなかった夜は初めてだった。何度も「彼はただの元夫」と自分に言い聞かせても、心は思うようにはいかない。翌朝、目の下にクマを作りながら出勤しようとしたと、玄関で宏に呼び止められた。彼は灰色のオーダースーツを身に纏い、完璧に仕立てられたシルエットが、ますます近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。しかし、優れた容姿と体格のせいで、どうしても目を引いてしまう。彼は有無を言わせぬ態度で、保温バッグを私の手に押し付けた。「朝食、持っていけ」「……うん」拒まなかった。わざわざ外で買わずに済んだし、お腹の子供の父親が用意した食事なら、食べても問題ない。その様子を見た彼は、ほんの僅かに口角を上げた。「俺も会社に行く。一緒に行こう」「やめておくわ。余計な誤解を招きたくないし、あなたの想い人がまた私に絡んできたら面倒だから」「……もう、しない」「ふーん。じゃあ、想い人ってことは認めるのね?」わざと皮肉を込めて言い、そのまま玄関を出てエレベーターに乗り込んだ。駐車場に着くと、見慣れた黒いマイバッハが私の車の隣に停まっていた。――完全に無視しよう。そう思いながら運転席に乗り込んだところで、加藤が笑顔で窓をコンコンと叩いた。彼はいつも感じのいい人だったし、宏のことを理由に邪険にするのは違う。私は窓を下げた。「加藤助手、どうした?」「若奥様、おはようございます」加藤はにこやかに挨拶し、少し気まずそうに笑った。「実はさっきタイヤが釘を踏んでしまって……パンクしちゃったんです。朝のラッシュ時にタクシー捕まえるのは大変なので、乗せてもらえませんか?」私はクスッと笑い、「どうぞ」と快く承諾した。「それなら、運転は俺がしますよ。前の晩、足を怪我されたんでしょう? できるだけ休んでください」「……まあ、いいけど」私は素直に運転席を譲り、後部座席に移動した。シートベルトを締めながら、ふと疑問に思った。「……どうして私が前の晩に怪我したって知ってるの?」「それは……その日、社長と一緒に……ゴホン!」加藤は言いかけて、突然咳き込んだ。視線の先には――ちょうどマンションから出てきた宏の姿だった。彼の顔が一気に強張る。そして、私に助けを求めるような目を向けながら言った。
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第49話

「あなたが見てなきゃ、私が見てるって気づけないでしょ?」「自分の嫁を見るのは、当然だろ」彼は図々しく、さらりと言い放った。本当は聞きたいことがあったのに、この一言で完全に気を削がれた。江川グループの本社ビルは、高くそびえ立ち、無数のガラスが朝陽に反射してまるでダイヤモンドのように輝いていた。加藤が車をエントランスに停めると、私はすぐにドアを開け、逃げるように車を降りた。「南さん、おはようございます!」突然、元気いっぱいの声が響き、小林が駆け寄ってきた。「おはよう」私は軽く笑い、彼女の腕を引いて建物の中へ向かった。「早く入ろう。気温が下がって寒いから」「南、朝食忘れてるぞ」背後から、宏の声が聞こえた。彼は車のドアを押し開け、私を呼び止める。私は深く息を吸い込み、振り返って朝食の袋を受け取った。そして、できるだけ距離を置くように、形式的に言った。「ありがとうございます、社長」「南さん、もしかして……」小林が私の腕にしがみつき、いたずらっぽく目を瞬かせた。「お二人って、いつから付き合ってたんですか? もしかして、社長の『隠れ妻』って南さんのこと?」「違……」私は即座に否定しようとした。まだ離婚前とはいえ、余計な噂がアナの耳に入れば、また厄介なことになりかねない。だが、そんな私の言葉を遮るように――宏が、長身を活かしてさっさと私たちを追い越していった。小林の声がはっきりと届いたはずなのに、彼は一切訂正しなかった。彼の背中が専用エレベーターの扉に消えたあと、小林は目を丸くして私を見た。そして、驚愕の表情のまま、確信に満ちた声で言った。「南さん、もう否定しても無駄ですよ! 社長が認めました!」「……いつ認めたの?」「沈黙は肯定の証拠ですよ!」「……」私は呆れ、今どきの若い子には敵わないと痛感した。とはいえ、彼女も場をわきまえているのか、エレベーターに乗ると口をつぐんだ。そして、私のオフィスに入った途端――「南さん、まさか私、入社早々に社長夫人の下で働いていたなんて!本当に三年前に結婚してたんですか? お子さんは?「そういえば、社長っていつも南さんのオフィスに来ると、窓のブラインドを下ろしてましたよね? あの時から何かあると思ってたんですよ!
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第50話

この出来事が引っかかり、午前中は何度も気が散った。頭の中では、小さな二人の自分が言い争っていた。――ほら見ろ、彼だってちゃんと気にしてる。初めて会った日まで覚えてるんだわ。――でもさ、少し前までお前が鹿児島大学出身だってことすら忘れてたんだよ? 記念日を覚えてるなんてあり得ない。どうせ伊賀か誰かに聞いたんだろ。恋愛ボケになるなよ。昼休みになり、余計な考えを振り払うように来依を誘って社食へ向かった。以前はデリバリーを頼んだり、外で食べることが多かったが、最近はとにかく歩くのが億劫だった。それに、外の食事より社食の方が新鮮で衛生的なので、自然とここに落ち着いた。オフィスエリアを通りかかったとき、誰かが食事をテイクアウトしたのか、突然強い匂いが鼻を突いた。その瞬間、胃がひっくり返るような感覚がして、慌ててトイレへ駆け込んだ。すべて吐き出し、喉の奥が苦くなったころ、ようやく壁に手をついて立ち上がる。――まさか、妊娠がこんなに大変だなんて。でも、お腹の中の小さな命を思うと、不思議と耐えられた。「また吐いてるの?」この時間、みんな昼食に行っているはずだった。だが、トイレを出ると、洗面台の前にアナが立っていた。――心臓が、ぎゅっと縮む。彼女に妊娠がバレたら、絶対に厄介なことになる。宏に知られたら、親権すら奪われかねない。気持ちを整え、平静を装う。「前から言ってるでしょ? 胃の調子が悪いの。吐くのも普通じゃない?あんた、暇なの? わざわざここで私の吐く音でも聞いてたの?」「……本当に、ただの胃の不調?」彼女は疑い深く目を細めた。「じゃなきゃ、何だっていうの?」「……まあ、そうであることを願うわ」彼女は半信半疑の様子だった。手を洗い、早く立ち去ろうとしたそのとき――「南」彼女が、突然私を呼び止めた。「……まさか妊娠してるんじゃないでしょうね?」――心臓が止まりそうになった。だが、無理に笑みを作り、平然と答えた。「もしそうなら、私が宏と離婚しようとするわけないでしょ? あなたたちのために身を引く?」彼女は、ようやく納得したように鼻を鳴らした。「それもそうね」そのあと、軽蔑するように言い放つ。「余計なことは考えないで、さっさと離婚手続きを済ませなさい。宏
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