Tous les chapitres de : Chapitre 51 - Chapitre 60

1144

第51話

「それなら、なおさら無理だよ」彼が、もし母親の死の真実を知る日が来れば、そのときはアナへの態度が少しは変わるかもしれない。でも、それまでの間は難しいだろう。そういえば、どうしておじいさんはそのことを宏に黙っていたんだろう。今度実家に帰ったときに、ちゃんと聞いてみる必要がある。食事も終わりかけた頃、私は本題に戻った。「そういえば来依、コンサートのチケット手に入った?」来依は、社内でも私より人脈が広い。コンサートの話が決まったとき、私は彼女にお願いしてあった。来依は天井を指差して、愚痴っぽく言った。「今回はさ、本当に意味わかんないんだけど、チケットは社長室にしか回ってないの。一人一枚ずつしか配られてなくて、誰も余ってないのよ」「社長室だけ?」「うん。本当に欲しいならさ、江川に頼んでみたら?今ちょうど、あなたの機嫌を取ろうとしてるっぽいし。言えば、何枚でもくれると思うけど?」「……それは遠慮しとく」私と宏は、なるべく距離を置いた方がいい。まあ、それはあくまで私だけの考えでしかなかったけど。オフィスに戻ったばかりで、宏から電話がかかってきた。私は窓際に歩いて電話を取り、受話器の向こうから低くて心地よい声が聞こえてくる。「土曜の夜、空いてる?一緒にコンサート行かないか?」「チケット、余ってるんでしょ?」自分からは頼まない。でも、向こうから来た話なら、蓮華の分くらいはもらっておきたい。「あるよ」「じゃあ、二枚もらっていい?」蓮華はたぶん誰かを誘うだろうし、余分にあった方が安心かもしれない。「今、加藤に持たせて届けさせるよ」「ありがとう」「それで、君は?」「……なにが?」「俺は君の質問に二つ答えたよね?でも、君は一つも答えてない」低い声が、やけに近く感じた。言われてしまえば、確かにそうだ。私は目を伏せて、静かに答えた。「空いてるよ」あの頃、彼を愛していた時代、何度も何度も聴いていたのはマサキの歌だった。今、彼の隣で同じライブを聴くというのは、きっと、私なりの区切りになるだろう。きちんと、ちゃんと、八年続いた恋に終わりを告げるための儀式。再び宏と同居することになったけれど、以前の新婚生活のようにはいかない。壊れたものをもう一度繋ぎ直すなんて、そ
Read More

第52話

仕掛けられたと言ったが、実際は、薬を盛られた。しかも、人を理性ごと焼き尽くすような、下劣でえげつない媚薬だ。宏のような、ビジネスの場で冷酷に決断を下すタイプの人間が、もし明日正気に戻れば、仕掛けた相手が無事で済むはずがない。でも、今はそんな先のことを考えている場合じゃなかった。異様な赤みがさした彼の顔を見ていると、今夜を乗り切れるかどうか、それすら不安になる。どうすればいいのか迷っていたとき、寝室に置いていたスマホがけたたましく鳴り響いた。着信画面を見て、私はまるで救いを得たように飛びついて通話を取った。「ねえねえ、チケット手に入れたよ!伊賀のヤツが持ってて……」「来依!」思わず彼女の話をさえぎった。「ああいう薬を飲まされたときって、どうすればいいの?」「ああいう薬?」「どんな薬?」「その……媚薬みたいなやつ……」どうしても口に出しにくくて、言葉を濁しながら説明する。来依は、たぶん飲んでいたんだろう。むせ返りながら慌てて言った。「ちょ、なに!?急にそんな話して……まさか、あんたが……?」「違う違う!」私はソファにいる男の熱を思い出しながら、焦り気味に言い直した。「宏が」「……今、どこにいるの?」「リビング」「で、あんたは?」「寝室」何を聞かれてるのかわからないまま、私は機械的に答えた。「いいから、とにかくどうしたらいいか教えて」「寝室のドア、鍵かけて」「えっ?」「いいから早く!」来依の声が切羽詰まっていた。「お願い、今すぐ鍵をかけて!」彼女の勢いに押され、私は反射的に足を動かしてドアの方へ向かった。けれど、ドア枠に手をかけたその瞬間──視界がぐらりと陰る。顔を上げると、そこには深くて底知れない黒い瞳があった。潤んだ目は赤みを帯びていて、情欲に染まっている。普段の冷静さなんて、もう跡形もない。上半身には黒いシャツを着ていて、まだどこか禁欲的な雰囲気を残しているのに──下半身はあまりにもあからさまで、顔が熱くなる。長く伸びた脚の間に、明らかな膨らみがあって……お互いの身体のことなんて、もうとっくに知り尽くしてるはずなのに、私は思わず耳が熱くなった。……やっぱり、この状況、エロすぎる。スマホの向こう、来依が私の
Read More

第53話

でも……私たちは離婚する予定だったのに。彼を押し返そうとしたけれど力が入らず、泣きそうになって叫んだ。「やだ、宏、やだってば!」「泣かないで……ほんとに、ダメ?」喉を上下させながら、真っ赤に染まった目でじっと私を見つめるその顔には、今にも限界を超えそうな必死の抑制が滲んでいた。「……うん」「……そうか」彼は目を閉じた。額の血管が浮き上がり、荒い息を吐きながらも、ゆっくりと私を解放してくれた。私はそっと手のひらを握りながら、言葉を探した。「じゃあ、あなたは……」「南」彼が唐突に目を開けた。さっきよりもさらに深く色濃くなった欲望がその瞳に宿っていて、私をぐっと抱き寄せたかと思えば、唇を耳元に近づけて囁いた。「……助けて。お願いだ」一瞬、頭がぼんやりしていたのかもしれない。彼の声が、まるで懇願のように聞こえた。胸の奥がビクリと震えた。「ど、どう……すればいいの……?」その言葉は、彼にとっては承諾の合図だったらしい。彼はすぐに身体をかがめ、私の膝の裏に腕を回して抱き上げた。視界がふっと浮いたかと思えば、私は反射的に彼の首に腕を回してしまっていた。まるで、どこか恥ずかしくて見られたくないようなポーズになってしまって──彼は大股で寝室のソファに向かい、そのまま腰を下ろした。私の脚は彼の腰に絡んだまま。あまりに熱くて、思わず腰を引いた。彼が欲望に濡れた目を下へと向けて一瞥し、低く掠れた声で言った。「ここ……君が濡らしたんだろ?」「えっ……」ぽかんとしたまま彼の視線を追って、見ると、黒いスラックスの股のあたりがはっきりと濡れていた。顔から火が出そうなほど恥ずかしかった。でも、彼の眉間には微かに笑みが浮かんでいて、私は思わずむっとしてしまった。「……結局、どうすればいいの?」彼は背もたれにゆったりと身を預け、温かくて乾いた手が私の手首にそっと触れた。そして、指先で優しくなぞるように撫でながら──次の瞬間、「カチッ」というベルトの金具の音が響いた。ぞくり、と全身が震える。気づけば私の手は、彼の導きに従って、とてもじゃないけど言葉にできない場所へと触れていた。「こう……」掠れた彼の声が、耳の奥を震わせた。私は彼を見上げて、ただただ呆然としてしまった。
Read More

第54話

そんなの、私自身もう忘れてたのに。まさか、あの「体調悪いかも」って適当に流した一言を、彼が真に受けて覚えてたなんて……私はコットンタオルで顔の水気を拭いながら言った。「いいよ、平気だから」宏は眉をひそめた。「昨夜、まだ辛そうだっただろ」「……」まさか、「医者に妊娠初期は性行為禁止って言われた」なんて言えるはずもない。私はとっさにごまかした。「もう大丈夫になったから」彼は疑わしそうに目を細めた。「本当に?」行くとすれば、当然江川グループ傘下の私立病院。特別な通路で、待ち時間もなく、結果もすぐ出る。──だからこそ、私が妊娠してるなんて、絶対に隠しきれない。絶対、行けない。私は彼の視線を避けて、なるべく自然に言った。「……行きたくない。病院、好きじゃないの」「南」宏の目が細くなった。その声にはわずかな圧がある。「何か俺に隠してる?」カランッ彼の言葉が突然すぎて、私は思わず手を滑らせてしまった。乳液のボトルが大理石の洗面台に落ちて、乾いた音を立てた。心臓が跳ねる。──バレてる。彼はゆっくりとこちらへ歩み寄り、私の肩を掴んで体ごとこちらに向けさせた。深く黒い瞳が、まるで心の奥底まで見透かそうとしてくる。「南、本当に何か隠してるんだな?」「宏……」彼は一瞬、言い淀みながら、それでも言葉を続けた。「……病気とか、そういうのか?」私は思わず息をついた。「そう。だから、早く離婚しよう。お互いのために、ね?」「ふざけるな!」彼は突然、声を荒らげた。手が震えているのがわかる。そしてそのまま、私の手を強く引いて玄関へと歩き出した。「ちょっ、宏、何するつもり?」「病院に行く」彼の手の力が強すぎて、手首が痛む。けど、不思議と怒れなかった。私は少し乾いた声で聞いた。「なに?私が死ぬのが怖いの?」その瞬間、彼が立ち止まった。振り返った彼の顔は冷たく、歯を食いしばっている。「……お前が死んだら、骨にしても灰にしても、江川家の墓に叩き込んでやる」あまりの言いように、私は呆気に取られた。我に返った瞬間、思わず鼻で笑ってしまった。「なにそれ。気持ち悪」まるで、すごく深い愛情みたいなことを言って。こっちに自覚がなかった
Read More

第55話

「……他の理由じゃダメなのか?」彼がそう言って、じっと私を見つめてきた。「例えば?」私は、自分が彼を試していることを否定しなかった。彼は薄く唇を引き結んで、少しの間を置いてから言った。「ただ、君に健康でいてほしいだけだ」「……なんか、お年寄りの誕生日に言うスピーチみたい」そう言って、私はふっと笑った。心のどこかで引っかかってはいたけれど、それ以上は深く触れず、冗談めかして返す。「そのセリフ、来月のおじいさんの誕生日会まで取っておいてよ」──健康でいてほしい。それはつまり、アナとずっと一緒に幸せに過ごせるように、ってこと?そんな皮肉めいた思いが胸をかすめたとき、採血のために看護師がやってきた。腕に消毒液を当てられた瞬間、私は思わずびくりと肩をすくめて、体をこわばらせてしまった。……怖い。小さい頃から、ずっと。子どもの頃、注射や採血のときはいつも、父が抱っこしてくれて、母がもう片方の手を握ってくれた。それに、頑張ったあとは必ず小さなご褒美があった。そのあとは、めったに大きく体を崩すこともなく、風邪程度なら薬を飲んで寝てれば治った。採血なんて、ほとんどなかった。だから、苦手意識は一向に薄れなかった。……でも、私はもう大人で、両親もいない。「大丈夫、怖くないよ」そのとき、不意にあたたかくて乾いた手が、そっと私のもう片方の手を包み込んだ。親指が手の甲をやさしく撫でてくる。耳元で、低く穏やかな声が囁いた。「俺がついてる」「……ついてても、痛いのは私だけでしょ」「じゃあさ、痛かったら俺のことつねって。君と一緒に痛み、感じるから」彼の声は、落ち着いた低音で、どこまでも優しくて。私は目を伏せて、視線の先にしゃがみ込む彼の姿を見た。いつもはどこか見下ろされるような立ち位置だった彼が、今は私のそばで、同じ高さにいる。そのことに、胸が少しあたたかくなった。でも、それと同時に──ふっと、寂しさも湧いてきた。思わず、小さな声でつぶやく。「……でも、ずっと一緒にはいられないじゃん」声が小さすぎたのか、彼は聞き返してきた。「え、今なんて?」「……なんでもない」私は首を横に振った。言ったところで、どうせ自分が惨めになるだけ。そんな言葉は、胸の
Read More

第56話

ぼんやりと、昔を思い出した。その頃私は江川宏と結婚して半年で、生理が10日ほど遅れた。彼はいつもコンドームをつけてくれたけど、妊娠しているのではないかと考えていた。妊娠検査薬を買う時、私はもう待ちきれずに、どのように彼と妊娠のニュースを共有するかを考えていた。今、本当に妊娠していた。江川宏は一つのドアを隔てて立っていることを思ったが。興奮や喜びの気持ちは全く湧いてこなかった。ただ恐怖と緊張で、そして何か起こるのではないかという不安だけがあった。最悪の結果は、この子を失うことだった。そう考えると、背中に冷や汗が出た。たった2年半で、もう何も変わってしまい、まるで別世界のようだった。足が鉛のように重くなり、複雑な気持ちで玄関まで歩いて行くと、外にはもう江川宏の姿はなかった!どこにいるの?私のバッグだけが、寂しくも金属のベンチに置かれていた。彼は……行ってしまったの?私はバッグから携帯を取り出し、画面にLINEのメッセージが表示されていた。「急用ができたので、結果が出たら加藤が家に持って行くから、少し遅くなるけど待っててね」……私はため息をつきながら、病院の外に向かって歩き出したが、突然考えが変わった。報告書はすでに私の手にあった。この時間を利用して何か変更するのも簡単だった。河崎来依に電話をかけたが、彼女はほぼ即座に出た。「ちょうど電話しようと思っていたところだ。どこにいるの?なんで出勤しないの?昨夜どうしたの?なんで急に電話が切れたの?江川宏と未練がましい関係を持ったわけじゃないね?」彼女は焦っていて、質問が連続して飛び出してきた。最後の質問は、私を照れらせた。これは一体何なんだ!最初の質問にに答えた。「私は聖心病院にいる」「検診に行くの?教えてくれよ。一緒に行けるのに」河崎来依はいつも要点がつかめる。「違う。これは江川家の病院だろう。なぜそこに行ったの?」彼女に簡単に経緯を説明した。「ただし、超音波室から出てきたとき、江川宏はもういなかった」「くそっ、びっくりさせられた」河崎来依は結論を出した。「だから、江川宏はまだ妊娠のことを知らないんだね?」「うん」「それでいい」私は道路の端に立ち、タクシーを止めた。車に乗って、座席の背もたれに寄りかかった
Read More

第57話

子供のために。そして、自分自身のためにも。来依は、私を説得しようとはせず、ただこう尋ねてきた。「……もしダメだったときのこと、ちゃんと考えてる?」「うん、考えてる」もし全てが思い通りに進まなかったとしたら、私は、静かにこの場所から姿を消すつもりだった。この子を失わないために、何よりもまず、それを最優先にして。そう決めた瞬間、もう家に帰って夕飯を作る気力なんてなかった。マンションの近くで適当にラーメンを食べて、帰宅してすぐにソファに沈み込んだ。宏が帰ってくるのを待ちながら、膝の上にノートパソコンを広げて、仕事に没頭する。だけど、どれだけ時間が経っても、玄関が開く気配はなかった。しびれを切らして、私は彼にメッセージを送った。「もうすぐ帰ってくる?」……けれど、いくら待っても既読がつかない。どんな急用が入ったというの?来依からは、会社で何か起きたなんて話は聞いていなかった。秋は日が短い。五時には、もう夕陽が窓辺を染めていた。オレンジ色の光、揺れるカーテン。外から吹き込む風の音に、胸が妙にざわついた。不意に、ひとりきりのこの空間がたまらなく寂しくなって、気づけば、私はスマホを手に取っていた。私は、こんなふうにただ待たされるのが嫌いだ。何も知らされず、空中に吊るされたままみたいな感覚が苦しくてたまらない。ちょうど宏に電話をかけようとしたその瞬間、着信が割り込んできた。加藤からだった。「若奥様、すみません。私用ができてしまって……もしよければ、体検の結果をバイク便でお届けしても?」「会社の急用、もう片付いたの?」「え……急用?」その反応で、私はすべてを理解した。──今日、宏が私を置いて急に病院を離れた理由。それは仕事なんかじゃなかった。咄嗟に話題を変えた。「検査結果、もう出たんだ?」「はい。午後に病院から連絡がありました」「じゃあ、自分で取りに行くよ」「ですが……私が伺ったほうが──」「大丈夫。私、病院の近くだから。あなたはあなたの予定を大事にして」そう言って電話を切り、そのまま車で病院へ向かった。信号待ちの間、やっぱり我慢できなくなって、もう一度宏に電話をかけてみた。けれど、今度も出なかった。もうすぐ青に変わるそのタイミングで
Read More

第58話

どれくらい経ったのか、救急処置室のドアが開いて、看護師が名前を呼びながら出てきた。「江川アナ、江川アナのご主人の方、いらっしゃいますか?」宏がすぐに反応して、大股で駆け寄る。「先生、俺です!」──その一言。たったそれだけの言葉なのに、胸の奥を鋭く抉られた。心臓に突き刺さるようで、息ができなくなった。私が一日中待っていた時間。ようやく決心して出した答え。その全部が、今この瞬間、滑稽な冗談になった気がした。私は今、ただの道化だった。離婚届はまだ出していないのに──私の夫は、別の誰かの「ご主人」としてそこにいた。すぐ近くで、彼の焦った声が聞こえた。「彼女の容態は?重いんですか?」看護師が答える。「かなりの出血がありましたけど、運ばれたのが早かったので今は落ち着いてます」そう言って、彼の不安を和らげるように続けた。「赤ちゃんも無事です」──赤ちゃん?妊娠……してたの?二人には、もう子どもが……?私は息をするのも忘れて、茫然と彼の横顔を見つめた。宏は、ようやく安心したように深く息を吐いた。「……よかった」あまりに露骨な私の視線に気づいたのか、それともたまたまなのか、彼はふとこちらを向いた。ほぼ同時に、私は踵を返して非常階段へと逃げ込んだ。背中を壁に預けた瞬間、先ほどの情景が頭に浮かんで、身体の力が抜けた。気づけば、私は笑っていた。声を出して、堪えきれずに、嗤うように。笑いながら、唇の端に広がる塩辛い味に気づいた。──バカみたい。南、あなた、本当にバカだよ。彼には、もう子どもがいるんだよ。ただおじいさんの目を気にして一時的に一緒に暮らしてるだけで、それを復縁のきっかけだなんて──勝手に希望を持って、期待して、よりを戻せるなんて思って……ほんと、愛情に飢えすぎ。せめて、これで完全に踏ん切りをつけたくて、私はスマホを取り出し、メッセージを打とうとした。その瞬間、着信が鳴った。──江川宏。電話を取ると、変わらぬ淡々とした声が響いた。「もしもし、南。家にいる?」「うん」鼻をすする音がバレないように、必死で抑えながら訊いた。「どうしたの?」「……本当に家にいる?」「嘘ついてどうするのよ」できるだけ何でもないふうに笑
Read More

第59話

彼はクリーム色のカジュアルなスーツを着こなしていて、背が高く、どこか穏やかな空気を纏っていた。にこりと笑いながら言う。「友達が入院しててさ、ちょっと顔を見に来たんだ」「へぇ……」「君は?どうしてひとりで病院なんかに?」私は手にした診断書を軽く掲げてみせた。「健康診断の結果を取りに来ただけ」山田先輩の表情が一瞬引き締まる。「……体、大丈夫だった?」「うん。問題なし」私は前に会社の健康診断を受けたばかりで、今回もそのときと同じく、数値は全部正常だった。ただ──お腹の中に小さな命が宿っていることだけが違っていた。山田先輩は頷くと、少し言いにくそうに言った。「……まだご飯食べてないんじゃない?良かったら一緒にどう?」そして、何かを気にしてか付け加えた。「丹生と河崎もいるよ」私はそっとお腹に手を添えた。たしかに少しお腹が空いていた。「うん、いいよ」一人で家に帰っても、何を食べるか決めかねて終わりそうだったし。それに、誰かと一緒にいれば、余計なことを考えずに済む。山田先輩は自分の車を助手に預け、私の車に同乗して店へ向かった。その店は、昔ながらの羊肉スープの名店で、目立たない路地の奥にひっそりと佇んでいた。それでも評判は高く、路地の入り口には停められた車でぎっしりだった。私たちも路上に車を停め、歩いて中へ向かうと、伊賀と来依はもう席についていた。私を見つけた来依は、目を見開いて笑いかけてくる。「えっ、来たの?今夜は来られないと思ってたのに」「たまたま山田先輩と会ってさ」来依は一瞬、目つきを鋭くして私の耳元に顔を近づけてきた。「……うまくいかなかったの?」「うん。そもそも話すチャンスすらなかった」「は?なんで?」私は小さく息を吐いて、ぽつりと答えた。「江川アナが、妊娠したらしい」「……は?妊娠?あの女も?」来依の声は本来かなり抑えめだったはずなのに、そのときばかりは思わず声が上ずった。思わぬ大声に、伊賀と山田先輩が同時にこちらを見た。「なに見てんのよ。ほんと、男ってこういうときに限って耳がいいんだから」来依が苛立ったように伊賀を睨みつける。「おいおい、また何かあったのか?」伊賀は困ったように笑いながら肩をすくめた。そのまま来
Read More

第60話

この食事、私は味もわからないまま終えた。家に帰ってからは、まるで夢の中をさまようような一夜だった。眠っていたのか、起きていたのか、自分でも曖昧だった。翌日は昼まで寝てしまい、起きたときは足元がふわふわしていた。冷蔵庫をのぞいて、適当に料理を作ることにした。茄子とひき肉の炒め物、それとエビと豆腐の炒め物。白いご飯をよそって、ようやく少し気持ちが落ち着いた。コンサートは夜。まだ時間が早い。気分に沈んでいても仕方ないので、パソコンを開いて仕事に取りかかることにした。その前に、いつものようにSNSをチェックする。MSの公式アカウントが投稿したばかりの情報に目が止まった。胸がふっと高鳴る。詳しく読もうとしたそのとき、来依から電話がかかってきた。「大丈夫?南ちゃん」心配させたくなくて、明るく答えた。「大丈夫だよ」「江川、帰ってきた?」少し間を置いてから、「ううん」とだけ答える。「じゃああいつの話やめよ。思い出すだけでムカつく」来依はすぐに話題を変えた。「それよりさ、MSが今年のクリスマスでコラボ出すって知ってた?」「さっき見たよ」これまでのコラボはブランド同士で契約して決めるのが普通だったけど、今回のMSは趣向を変えて、デザインコンテストの形式を取るらしい。各ブランドに2枠ずつ与えられ、優勝したデザイナーの所属ブランドがMSとコラボできる。しかもその優勝者は、MSのデザインチームと一緒に実際のコラボ商品を制作できるという。MSといえば、ラグジュアリーブランドの中でも頂点に君臨する存在だ。そんなブランドとの共同制作なんて、どのデザイナーにとっても夢みたいなチャンス。各ブランドは、このチャンスを逃すまいと血眼になって動き出すだろう。まさに、あの手この手で勝負を仕掛けてくるに違いない。「どう?参加してみたい?」「そりゃあね。こんなチャンス、誰だって欲しいよ」でも──と、私は少し自嘲気味に笑う。「私なんかより、もっと実力ある人いっぱいいるし。たぶん、夢見て終わりだよ」「でもさ、山田先輩って今、MSのアジアのトップでしょ?お願いして、ちょっとだけ裏口通らせてもらえば?」「やめてよ」思わず笑ってしまった。「それやったら、私も山田さんもアウトだし、何より他の人に
Read More
Dernier
1
...
45678
...
115
Scanner le code pour lire sur l'application
DMCA.com Protection Status