All Chapters of 慌てて元旦那を高嶺の花に譲った後彼が狂った: Chapter 81 - Chapter 90

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第81話

それほど遠くないところから、どこか聞き覚えのある声が聞こえてきた。振り返ると、義父がカラフルなサングラスをかけ、花柄のシャツを着て現れた。どうやらまたどこかの南国の島で女遊びを満喫してきた帰りらしい。若い頃からずっとちゃらんぽらんな坊ちゃん気質で生きてきた人だ。今ではもう、年季だけが入った「お坊っちゃま」になってしまった。アナは義父の姿を見た途端、ぽろぽろと涙をこぼしながら声を上げた。「お父さん……やっと帰ってきたの、うう、私もういじめられすぎて死にそうだったのよ!」「宏がお前をいじめたのか?」義父はサングラスを頭にずらし、宏を見て言った。「何度も言っただろう、ちゃんとアナを守ってやれって。たった二日出かけてただけなのに、なんでアナが病院に来る羽目になってんだ?」……私は苛立ちを感じていて、この隙にさっさとその場を離れようとした。だが、義父は私の存在に気づいたようで、満足げに目を細めて言った。「南、お前も来てたのか」「お義父さん」一応、礼儀としてそう呼んだ。けれど、私の目には、彼は江川宏にとって「父親」と呼ぶには程遠い存在に映っていた。義父はうなずきながら言った。「そうそう、アナのことはもっと気にかけてやらなきゃな」「……」アナになら、いくらでも言い返せる。でも、相手が義父となると、やはり年長者としての立場がある。私はただ一言、「用事がありますので、先に失礼します」とだけ告げた。すると、宏はアナの身体を義父の方へと押しやり、冷たい声で言った。「帰ってきたんだから、あとは頼む」それだけ言い残し、私と一緒に立ち去ろうとする。「宏!」アナが悲鳴のように叫んだけれど、宏はまったく取り合わず、私の後についてエレベーターに向かってきた。私は子供のことを気にして、ゆっくりと歩いていた。彼はそれに合わせて、黙ってついてくる。エレベーターの前に着いた時、私はふと彼を振り返って尋ねた。「午後、時間ある?」ごちゃごちゃと引き延ばすより、さっさとケリをつける方がいい。そう思った。彼は私の誘いに、どこか期待を込めて黒い瞳を輝かせた。「あるよ。どこに行くつもり?」「役所に行きましょう」ええ、誘いよ。でも行き先は、区役所。離婚の手続きをしに行くだけ。今は
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第82話

私は胸がズンと沈んだ。彼と目を合わせることができず、医者がなにか口を滑らせはしないかと、そればかりが怖かった。そんなことになったら、すべてが終わってしまう。私は先に口を開いた。「先生、彼は今日、私の付き添いじゃありません。ほかの女の人の健診に付き添って来たんです」宏は落ち着いた声で返す。「彼女のために来たわけじゃない」「でも、来たのは事実よね?」私はもう、その経緯や理由を追及する気すらなかった。浮気現場を目の当たりにして、誰が「どうしてそんなことになったのか」なんて気にするだろう。気になるのは、裏切られたという事実だけ。酔った勢いか、計画的かなんて関係ない。汚れは汚れだ。どんなにもっともらしい言い訳を並べても、それが浮気であることに変わりはない。宏は何も言わず、まっすぐに私を見つめてきた。「結局、今日は病院に何しに来たんだ?」「言ったじゃない……」「はぐらかすな」彼の声が冷たく鋭くなった。どうしても本当の理由を突き止めたいらしい。まだその場に残っていたエコー検査の医者が口をはさんだ。「奥様、どこか体調が悪いんですか?」私からは何も聞き出せないと見るや、宏は医者に向き直って言った。「先生、妻の検査に何か問題があったんですか?」「先生……」私は思わず手のひらを握りしめ、爪が食い込むのも構わず力を込めた。背筋が冷たくなっていくのを感じた。でも、彼の鷹のような鋭い視線の前では、一言も発することができなかった。心臓がバクバクと騒がしく跳ねていた。私はただ、医者を懇願するように見つめた。お願い、黙っていて。私はただ、離婚したあと、彼から離れて、ひとりで子どもを産み、母としてちゃんと生きていきたいだけ。波風を立てたくない。何よりも、子どもを失いたくなかった。もし無事に出産できたとしても、江川家のような家が、自分たちの血を引いた子を他人に育てさせるなんて認めるはずがない。おじいさんがどれだけ私に優しくしてくれても、それには前提がある。きっとひ孫をちゃんと江川家の一員として迎え入れたいと思っているに違いない。そんな私の想像をよそに、あの日「子どものために我慢しなさい」と繰り返していたあの医者が口を開いた。「ええ、少し問題があります。重
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第83話

彼はほんの少し驚いたように眉を動かした。「会社のこと……知ってたのか?」「ええ、今日になってやっとね」私は軽く肩をすくめようとしたが、体にまるで力が入らなかった。「だから……やっぱり離婚するでしょう?」アナをまた世間の目にさらすようなことは、彼にできるはずがない。案の定、彼の表情はわずかに曇った。「彼女、子どもが安定してなくて……刺激を与えたら危ない。でも、安心してくれ。落ち着いたら、君にもうこんな思いはさせない」「……」その一言で、胸の奥が、すっと冷えていった。まるで数十年分の寒さが、一気に押し寄せたようだった。私は込み上げる鼻の奥の痛みを飲み込みながら、彼を見つめた。「じゃあ、私がもし妊娠してたら?それも、彼女より悪い状態だったら?」この場に立っている間じゅう、鈍い下腹部の痛みと、湿った感覚がずっと続いていた。けれど、私の夫は、「あの人は刺激を与えたら危ない」という理由で、私には我慢しろと言った。つまり私は、最初から我慢する側の人間だということなのか。宏の体がわずかに強ばった。次の瞬間、彼は小さく鼻で笑って言った。「君まで、彼女みたいに子どもじみたことを言うんだな」「……何ですって?」「避妊してなかったの、安全日だけだよな?君が妊娠するなんて、あり得ないだろ」どこからともなく、冷たい風が吹き込んできた。骨の髄まで、ひやりと冷えていくのがわかった。心臓が小さく震えていた。かすれた声で、私は言った。「あなたは……一度だって、私たちに子どもができるなんて思ったことなかったの?」彼は眉をひそめた。「まさか……子どもが欲しかったのか?」「もう、いいわ」私の中で、感情がぷつんと切れた。思わず声が鋭くなった。「時間あるって言ってたわよね。午後、離婚手続きしてくれるんでしょう?」宏の顔色がさっと変わった。「……悪い、もう時間がない」「今日がダメなら、明日にしましょう」私は唇を結び、言葉をかみしめるように続けた。「明日の午後、区役所の前で待ってる」「……だったら昼でいい。離婚するって決めてるなら、最後くらい一緒に飯でも食おうか」彼は目を伏せ、低い声でそう言った。涙がこぼれそうになるのをこらえながら、私は首を振った。「別れる人と
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第84話

私は思わず立ち止まり、無意識に宏の方を見た。彼はいつも通りの穏やかな表情を浮かべ、私をやさしく腕に抱いていた。その様子は、とてもこれから離婚手続きをする夫婦には見えなかった。ロビーの床は乾いていた。私はそっと彼の手を振りほどき、唇をかみながら言った。「違います、私たちは……離婚しに来たんです」「あ……」職員はどこか残念そうに微笑んだ。「一緒になるのは簡単じゃないのに、お二人は仲がよさそうなのに、どうしてまた……?離婚は大きな決断ですからね。衝動的にならないように。一度できた亀裂は、元に戻すのが難しいですよ」私は目を伏せて、小さく息を吐いた。「順番が逆なんです。離婚があるから亀裂ができるんじゃない。亀裂があったから、離婚に至るんです」――誰だって、どうしようもないところまで追い詰められなければ、自ら離婚を望んだりはしない。職員はそれ以上何も言わず、静かに案内してくれた。「そうですか……それならお進みください。今日は雨もひどくて人が少ないので、空いている窓口ならどこでも大丈夫です」「ありがとうございます」私はお礼を言い、一番近くの空いている窓口に腰を下ろした。「こんにちは、離婚手続きをお願いしたいのですが」「必要な書類はお持ちですか?」「はい、全部そろっています」私は必要な書類をまとめて渡し、それからまだ立ったままの宏を見た。「あなたのは?」彼は少し上の空だったが、声をかけられてやっと反応した。整ったその顔には、読めない影のようなものが浮かんでいた。「持ってきた」その声はどこかかすれていた。「じゃあ、こちらにお願いします」職員が手を差し出したが、宏は微動だにしなかった。ファイルを握った手には青筋が浮かび、強く力が入っていた。私は抑えきれずに呼びかけた。「宏?」「……ああ」かすかに返事をしながら、彼の瞳に一瞬だけ、痛みのような色がよぎった。けれど、私の促しに従い、最終的にはファイルを差し出した。職員は書類を受け取りながら、少し眉を寄せた。「お二人とも、自発的な離婚で間違いないですか?」「はい」私は迷いなく答えた。だが隣の宏は、何も言わなかった。職員は彼の方に視線を向けた。「ご主人の方は?本当に気持ちは固まってますか?まだ迷
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第85話

彼はわずかに目を見開き、戸惑うように言った。「……どうして、それを?」もう夫婦関係が終わろうとしている今、隠すことなんて何もない。私は素直に口を開いた。「あの日、あなたとおじいさんがオフィスで話しているのを、ドアの外で聞いてたの。あなたが私に対してもう何の感情もないって認めるところまで、全部」「違う、それは……」彼は少し焦ったように、食い気味に否定した。眉を寄せ、記憶をたぐりながら口にする。「あのとき俺が肯定したのは、その質問じゃなかった。君は……勘違いしてる」でも、私はもう言い争うつもりなんてなかった。ただ静かに、彼を見つめたまま、穏やかに笑って問いかけた。「じゃあ……私のこと、愛したことはあるの?」「……」宏は、ほんの一瞬だけ言葉を失った。その問いは、彼にとってあまりに重く、答えづらいものだったのかもしれない。「南……」「言わないで。下手に説明されたら、私が惨めになるだけだから」私は何でもないような顔で微笑んでみせた。「加藤に私が渡した元の離婚協議書を持ってきてもらって。そのうちあなたは別の人と結婚するでしょ?だからこの株は、私が持ってるべきじゃないの」彼は突然、強く、はっきりとした声で遮った。その瞳には、真剣な光が宿っていた。「……俺は誰とも結婚しない」その言葉に、私の睫毛がわずかに震えた。「それは……あなたの問題よ。どちらにしても、この株を私が持っているのはふさわしくないわ」私は、自分がそんなに強く割り切れるタイプではないことをわかっていた。ずっと愛してきた人だ。だからこそ、離婚したら、もう会わない方がいい。過去は、時間に任せて自然に薄れていくもの。それを自ら何度も掘り返す必要なんて、どこにもない。それに、もしアナがこの株の話を知ったら、私はまた日常を脅かされるだろう。縁を切ると決めたのなら、もう何も残さない方がいい。火種は、消しておくべきなのだ。「そんなに、俺と関わるのが嫌なのか?」宏の表情が曇った。腕時計にちらりと視線を落とし、唇を固く結ぶ。「この後まだ仕事がある。あと5分だけ待つ。サインしないなら、また今度にしよう」「いいえ、今、終わらせる」私は迷わず歯を食いしばり、空欄にきっぱりとサインした。どんなに
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第86話

「そんなに、俺が後悔するのが怖い?」彼は低く、くぐもった声で言った。「でも……それより怖いのは、君に赤の他人みたいに扱われることだ」周囲の空気は凍えるほど冷たかったのに、彼の腕の中は昔と同じ、あたたかかった。そのひと言が、胸に刺さる。我に返ったときには、彼はすでに車のドアを開けてくれていた。私が乗り込むと、彼は一度も振り返らずに歩き出す。雨の帳の向こうで、背中までびしょ濡れになった彼の姿がぼんやりと見えた。胸の奥が、何千もの蟻に食い荒らされていくように、どんどん空っぽになっていった。結婚って、こんなにも簡単に終わるものなんだ。時間にして、たった三十分。区役所に行って、書類を出して、サインをするだけ。一か月後、また都合をつけてもう一度出向き、ふたりの意思が変わっていなければ、離婚証明書が手に入る。それだけで、すべてが終わってしまう。かつて同じ布団で眠り、喜びも痛みも分かち合ってきた日々が、まるで夢だったみたいに。もちろん、それは宏が約束を反故にしなければの話だけど。来依の家に戻ると、私が鍵を出すより先に、ドアが中から開いた。「おかえり」「ただいま」私は笑顔を作り、何事もなかったように答える。彼女はじっと私を見守るようにして、私が靴を履き替えるのを待っていた。そして、少し遠慮がちに口を開く。「江川から、メッセージがあったよ。……本当に離婚、したの?」「申請はした。正式な離婚証明は、一か月後。」私はコートを脱ぎながら、髪を後ろで無造作に束ねる。「で?彼はなんて?」「この一か月、私にあなたのことを頼むって」「私が飛び降りでもすると思ってるのかしら」私は皮肉っぽく笑った。「彼に言っておいて。誰か一人欠けたくらいで、地球は止まらないって」「ううん、そういうんじゃないの」来依は首を振り、眉をひそめて言った。「なんかね、その言い方に引っかかって……彼、本当に離婚するつもりだったのかなって。もしかして、一時的にあなたをなだめるためだけに合わせてるんじゃない?だって離婚の冷却期間って、片方が撤回したら、成立しないでしょ?」「まさか……」私は思わず心が揺れた。確かに、それは宏のやりそうなことだ。でも……アナのお腹には、彼の子供がいる。産まれるまでにはまだ何ヶ月もある。彼
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第87話

土屋さんが慌てた口調で電話口から叫んだ。「若奥様!どうか今すぐ戻ってきてください!旦那様がものすごくお怒りで、若様を叩こうとしています!止められるのは若奥様しかいません!」「……何ですって?」その前半を聞いた瞬間、私は椅子から勢いよく立ち上がった。コートを手に取り、そのまま家を飛び出した。宏のことを心配しているわけではない。おじいさんには孫が何人もいるけれど、結局一番可愛がっているのは宏だ。叱ったとしても、手加減はするはずで、命に関わるようなことにはならない。ただ、あの年齢であれほど怒るのは良くない。体に障ることのほうが心配だった。土屋さんがあそこまで慌てていたのも、それだけの理由があったからに違いない。「とにかく来てみてください。見ればわかりますから!」そう言われて、胸の中はいろいろ渦巻いていたが、それでも江川家の本宅に着いた瞬間、私は立ち尽くしてしまった。書斎では、いつもどこか余裕を漂わせていた宏が、今は地べたに膝をついていた。腰を打たれ、うめくようにうずくまり、額には苦痛で青筋が浮かんでいる。倒れそうになる体を、机の縁に手をかけて必死に支えていた。さらに驚いたのは、そこにアナもいたことだ。声をかけようとしたそのとき、いつも穏やかなはずのおじいさんが、険しい目で土屋さんをにらみつけた。「……南に電話をかけたのは、お前か?」「……はい」土屋さんは素直にうなずいた。「勝手な真似ばかりしおって!」おじいさんは怒鳴り、吐き捨てるように言った。「全員、出て行け!」「おじいさん……」私は慌てて口を挟んだ。これ以上怒らせて、もし体に障ったらと不安だった。「心配するな。あんな奴らに、わしを死なせるほどの価値はない。外で待っていなさい」そう言われては、私も土屋さんも下がるしかなかった。背後では、おじいさんの嘲るような声が響いた。「お前は本当に、あの母親にそっくりだな。空気の読めなさも、まるで同じだ。さっさと出て行け!」それに応えるように、アナの柔らかい声が響いた。「おじいさま、宏をこんなふうに叩いても意味ないでしょう?離婚を望んだのは南のほうなんです。それに、彼女には家も一軒あげたじゃないですか。それで十分だと思いますよ。孫なのは宏です、南はただの他人です」「黙れ!」怒声が
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第88話

宏との結婚生活をこれ以上続けたいなんて、もう思っていなかった。それでも、おじいさんが私のことをここまで毅然と擁護してくれたのを聞いて、胸の奥がじんわりと温かくなった。宏は唇をかみながら言った。「南を傷つけたのは事実ですが、他の誰かと再婚しようなんて、考えたことは一度もありません」「考えたこともないだと?じゃあ聞くが、南枝がなぜお前との離婚を決意した?お前が彼女に諦めさせたからじゃないのか!」おじいさんは、一言たりとも信じていない様子だった。宏は椅子に手をついて、ゆっくりと立ち上がる。「本当に、考えたことはありません。ただ……アナのことも、無視できなかったんです。彼女は今、妊娠していますから」「ふん……お前、ずいぶんとご立派な博愛主義者だな!」おじいさんは、手元の湯飲みをそのまま彼に投げつけた。宏は避けず、正面からそれを受けた。額からじわりと血がにじんでくる。それでも彼の表情はまったく変わらず、真っすぐな声で言った。「温子叔母さんに約束したんです。アナのことは、最後まで面倒を見ると」「じゃあ南はどうなる?会社では噂が広まっている。お前がアナを身近に置いたせいで、まるで南が不倫の張本人みたいな扱いを受けてるんだぞ。彼女にそんな思いをさせて、お前はそれでいいのか?」「彼女は……アナよりずっと強くて、しっかりしています。そんな噂に左右されたりはしません。気にしたりもしないでしょう」まさかこの状況で、宏に褒められるとは思ってもいなかった。でも。その言葉を聞いても、胸の中は苦く、ぎゅっと締めつけられるようだった。私は、もともと強くもなければ、自立心があったわけでもない。かつては温室で守られて咲く、何も知らない花のようだった。それが今では、他に選択肢もなく、懸命にしがみついて、雑草のようにたくましくならざるを得なかっただけだ。なのに、それが「傷ついても平気な人間」として扱われる理由になるなんて。おじいさんが深いため息をついて、ゆっくりと語り出した。「南はな、幼い頃に両親を亡くし、叔母の家に身を寄せて生きてきた。どれだけ白い目で見られてきたか、お前はわかっているのか?強くならなければ、生きていけなかったんだ。誰を頼れたと思う?」そして、おじいさんは忌々しげに言葉を続けた。「お前が頼り
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第89話

私たちは普段この部屋に戻ってくることはほとんどなかった。それでも、使用人が隅々まで掃除してくれていたようで、部屋は一切の埃もなく清潔に保たれていた。シーツやカバー類も三日に一度、きちんと交換されているらしい。ベッドの枕元には、レトロ調のウェディングフォトが飾られていた。百万円超のレタッチャーが仕上げた写真で、不自然な加工の痕跡は一切なく、まるで本物のように写っていた。宏がベッドに腰を下ろしたとき、私は再び手を引こうとした。けれど、彼は私の手首をしっかり握ったまま、眉をひそめて言った。「まだ離婚が成立したわけでもないのに、薬を塗ってもらうこともダメなのか?」「……じゃあ薬箱、取ってくるわよ。何もなしでどうやって塗れって言うのよ」仕方なく、私は折れてしまった。「頼むよ」と言ってようやく彼は手を離した。私は引き出しから救急箱を取り出し、ヨード液と軟膏を持って彼の前に戻った。額の傷口は見るからに痛々しく、私は少し身をかがめて片手で彼の後頭部を支えながら、もう一方の手で血をぬぐった。おじいさんは、本気で叩いたらしい。拭いても拭いても血がにじみ出てくる。見ているだけで、こちらまで痛くなるようだった。「痛い?」と尋ねると――「……痛い。すごく痛い」彼は仰ぎ見るように私を見上げ、その瞳は黒曜石のように澄んで、どこか優しかった。私はつい気が緩み、傷口に息を吹きかけながら、消毒液をそっと染み込ませた。すると彼は満足そうに微笑みながら言った。「……そうすると痛くない。ありがとう、南。君みたいな奥さんがいてよかった」「もうすぐ離婚するくせに……」「つい……」彼は少し寂しそうに目を伏せた。長いまつ毛が影を落とし、その横顔はどこか人懐っこく見えた。私の胸も、じんと痛んだ。「……大丈夫。そのうち慣れるわ」いつかは慣れる。きっと。私だって、いつの間にか慣れてしまっていた。夜寝ているとき、寝返りを打つと無意識に彼の腰を抱いて、胸元に顔をうずめていた。でも最近は、寝返りを打っても誰もいなくて、その空白で目が覚めて、しばらくぼんやりしてからまた眠りにつく――そんな夜が続いていた。多くの人が言う。ふたりが別れるのは、それほど難しいことじゃない。本当に難しいのは、互いのいない生活に慣れていくこ
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第90話  

胸の奥がぎゅっと締めつけられた。言葉にできない苦しさが、一瞬で全身を覆った。この指輪は、私たちの結婚指輪だった。結婚当時、宏はさほど関心を持っていなかったが、おじいさんは義理の孫娘である私に最高のものを揃えてくれた。二千万円の結納金、目が飛び出るような価格の新居、そして一流のジュエリーデザイナーにオーダーして作らせた特注のマリッジリング。その後、結納金は育ててくれた叔母への感謝として渡し、新居も私の居場所ではなかった。日々寄り添ってくれたのは、この指輪だけだった。新婚当初、私は嬉しくてたまらず、左手の薬指に指輪をはめていた。けれど、宏が私も江川グループで働いていると知った日、彼はすぐに「目立たないように」と私に釘を刺した。その日のうちに指輪を外し、細いチェーンにつけて、首に下げるようになった。あれから三年間、ずっと肌身離さず身につけていた。かつて私に幸福をくれたその指輪はいま、皮肉の象徴に変わっていた。私はこの指輪と同じ。宏にとって、誰にも見せられない存在だったのだ。私は自嘲気味に笑った。「……ただ、外すの忘れてただけよ」本当に、忘れていたのだ。もっと言えば、慣れてしまっていた。一人きりのときや、心が不安定になるとき、自然とこの指輪に手を触れるのが癖になっていた。 ――江川宏は、私の夫だった。ただ彼のことを好きでいるだけで、かつては信じられないほどの力が湧いてきた。「……本当に、ただ忘れてただけ?」彼は信じていなかった。「欲しいなら、返すわよ。今ここで、持ち主に返してあげる」私は首の後ろに手を回し、ネックレスの留め具に手をかけた。少しずつ、彼の痕跡を私の中から消していく。早く消せば、きっと早く忘れられる。けれどそのとき――宏は表情を曇らせ、私の手首をぐっと掴んで止めた。低く、しかし有無を言わせぬ声で言い放った。「……外すな。それは、君のものだ」「これは結婚指輪よ」私は口元を引きつらせ、静かに、でも確かに言った。それは彼への言葉であると同時に、自分自身への言い聞かせでもあった。「今日じゃなくても……一ヶ月後には、どうせ外すことになるわ」彼は自分の薬指に残る指輪を親指でなぞりながら、珍しく執着を見せるような眼差しで言った。「じゃあ……もし俺
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