All Chapters of 慌てて元旦那を高嶺の花に譲った後彼が狂った: Chapter 91 - Chapter 100

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第91話

私はふっと笑って言った。「あなたみたいな人じゃなければ、それでいいの」彼の表情にかすかに傷ついた色が浮かぶ。「そんなに俺って、ダメに見えるのか?」「まあ、家庭内暴力とか、薬物とか、ギャンブルとか……そういうのに比べれば、まだマシだけど」「……南」彼の顔がさっと険しくなり、何か言いかけたそのとき――コンコン、とドアをノックする音がして、すぐに江川アナの澄んだ声が響いた。「宏、入るわね」返事を待たずして、ドアが「カチャ」と音を立てて開く。「宏、湿布を――」その言葉は、私の姿を見た瞬間に途切れ、顔の笑みも凍りついた。私は淡々と口を開いた。「先に失礼するわ」「南」アナが穏やかな口調で言う。「もう離婚したんだから、それに見合った振る舞いをしたほうがいいんじゃない? 誤解しないでね。私はただ、誰かに見られてあなたの評判がこれ以上悪くなったら大変だと思って……」「国にさえまだ離婚証明書を出されてないのに、あなたはもう勝手に離婚を発表しちゃうんだ?」堪えきれずに、私はわざとらしく気だるげな口調で続けた。「でもまあ、私の評判がどんなに悪くても、あなたと肩を並べるほどにはならないから安心して」それだけ言い残して、私は大股で部屋を後にした。けれど、完全に出きる前に――「宏、彼女の言ったこと、聞いたでしょ?」と、彼女の声が追いかけてきた。しかし返ってきたのは、思いがけない宏の冷たい一言だった。「誰が入っていいって言った?」「あなたの部屋でしょ?子供の頃は一緒に寝たこともあるのに」アナは悪びれずに答えた。……私は目を伏せ、心の中でそっと安堵した。――離婚届を出しておいてよかった。ふたりの痴話げんかを背に、私は書斎へ向かう。すると、ちょうど土屋じいさんが向こうからやってきた。「若奥様、そんなに急がずともよろしいでしょう。旦那様がお会いになりたがっておられます」「はい」土屋じいさんが来なくても、私はおじいさんに会うつもりだった。おじいさんの顔色は、想像よりずっと穏やかだった。私が部屋に入ると、おじいさんは手招きして優しく言った。「おいで、南」父の面影を思い出す。胸が熱くなって、私は席に着いた。「おじいさん、体の調子は大丈夫ですか?」宏
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第92話

おじいさんに見抜かれた私は、もう迷うことなく頷いた。「はい」するとおじいさんは軽く手を上げて、土屋じいさんに何かを持ってくるよう示した。差し出されたのは、一枚の黄ばんだ診療記録だった。私はそれを受け取り、ページをめくった瞬間――心臓が見えない手でぎゅっと握られたような衝撃を受けた。江川宏。彼が子どもの頃、長年にわたって心療内科に通っていた記録だった。私は思わず顔を上げた。信じたくない。あんな完璧なエリートが、心の治療を受けていたなんて。唇を動かすまでにしばらくかかった。「彼……どうして……」けれど次の瞬間、ふと腑に落ちる感覚があった。生まれてすぐに母を亡くし、父は別の女性に夢中で家庭は荒れ、愛情は継娘にばかり注がれていた。――心に傷を負っていても、なんら不思議じゃない。「ここ数年、あいつに話すべきか悩んだこともあった」おじいさんは深くため息をつき、老いた目に鋭さを宿らせながら言った。「だが、いつかは自分で知ることになる。ずっと隠しておけるもんじゃないからな」……江川家の旧邸をあとにした私は、胸の内にざわつきを抱えたまま帰路についた。車を運転しながら、右目のまぶたがずっとピクピクと痙攣していた。普段ならそんなの気にもしないけれど、今日ばかりは、胸が妙にざわついて仕方がなかった。ちょうどマンションの駐車場に入ろうとしたそのとき――宏から電話がかかってきた。心臓がひときわ強く脈打つ。「……もしもし?」「おじいさんが倒れた! 今、救急車が向かってる」「え、わ、私、すぐ戻る……!」頭が真っ白になり、声が上ずった。そのとき、宏の落ち着いた声が電話口から響いてきた。「南、落ち着いて。こっちには来なくていい。聖心病院に直接向かって」「う、うん……わかった……」頭の中が真空になったように何も考えられなかった。電話を切ったあと、私は車を警備員さんに託して「代わりに停めてください」とお願いし、そのまま道端でタクシーを拾った。前回のことがあるから、こんな状態で運転する勇気はなかった。病院に到着してタクシーを降りたとき、ちょうど救急車がサイレンを鳴らしながら横を駆け抜けていった。――おじいさん!お腹の子のことを思えば、全力で走るわけにもいかず、ただ足早に救急車のあとを追
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第93話

「アナはどこ?」私は彼の手をかわしながら、涙声で問いかけた。おじいさんが倒れたのはアナと一緒にいたときだった。なのに、どうして彼女はここにいないの?そのとき、廊下からハイヒールの音がバタバタと響いた。焦ったようにアナが駆け寄ってきて、顔面蒼白のまま口を開く。「宏、おじいさんは大丈夫?ごめんなさい……なかなかタクシーがつかまらなくて、ちょっと遅れちゃったの……」私は容赦なく問いかけた。「どうして急に倒れたの?」一瞬、アナの顔が強張る。けれど、すぐに取り繕うように答えた。「わ、私にもわからないの。急に息が苦しそうになって……そのまま、倒れて……」「急に?あなた、何も言ってないし、何もしてないってこと?」私は信じられなかった。この二年間、おじいさんは定期的に検査を受けていて、体調も良好だった。宏を殴るほど怒ったときでさえ、何ともなかったのだ。理由もなく、急に倒れるなんてありえない。「なにそれ……南、まさか私のせいでおじいさんが倒れたって言いたいの?」アナは困惑したように立ち尽くし、突然お腹を押さえ、苦しげな声を漏らす。「宏……お腹が……痛い……」宏の表情が一変した。「お腹が痛い?」「うん……!」彼女の頷きを確認すると、宏はすぐさま彼女を抱き上げ、足早にその場を離れた。「先生!彼女は妊娠しています。腹痛があるんです!」私は思わず皮肉な笑みを浮かべ、天井を仰ぎながら壁に背を預け、何とか呼吸を整えようと深呼吸をした。彼が彼女を気遣うのは、分かっていたつもりだった。けれど、こうして何度も何度も目の前でそれを見せつけられるのは、想像以上にこたえる。私の顔色がひどく悪くなっていたのだろう。土屋じいさんが優しく声をかけてきた。「若奥様、少し腰を下ろしてお待ちになってください。旦那様は……すぐには戻られません。どんな状況であっても、きっとあなた方が穏やかに過ごすことを望んでおられますよ」「……はい」涙が止まらず、私は小さく頷いて、隣の椅子に手をつきながら力なく腰を下ろした。けれど心のざわめきは収まらず、目が救命室のドアからどうしても離せなかった。こんなにも焦りを感じたのは、生まれて初めてだった。両親が亡くなったとき、私はまだ小さくて、何が起きているのかも分からなかった。
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第94話

「……これはおかしい」私は胸の奥で何かが引っかかっているのを感じた。「どこが?」と宏が問い返す。しばらく考えた末、私は言った。「おじいさん、いつも具合が悪くなるとすぐ薬を飲んで、症状を抑えてた。今回はどうして、そのまま倒れちゃったの?」「そうそう。前に検診で来られた時も、ポケットには必ず薬が入ってましたよ。今日みたいなケースなら、早めに飲めばここまで悪くはならなかったはずです」と院長も言った。私は冷たく宏に視線を向けた。「江川アナは?」「病室で休んでる」そう答えた彼の顔色が一気に変わる。「まさか……君、彼女を疑ってるのか?それはありえない。たしかに彼女はちょっと気が強いけど、根は悪い子じゃない。それにおじいさんの前では、いつも従順だったし」その言葉に、私は初めて怒りを抑えきれなくなった。根は悪くない?そんな人が、いつまでも他人の夫にしがみつくものかしらでも、寝たふりをしている人を起こすことはできない。そんなの、私が一番よくわかってる。わざわざ言い争う気にもなれず、私は院長のほうを向いて尋ねた。「おじいさんが病院に来たとき着てた服、まだありますか?ポケットに薬が入ってるか確認していただけますか?」「はい。すぐ確認します」院長はすぐに後ろの医師に指示を出した。ほどなくして戻ってきた医師が告げた。「ポケットの中は空でした。薬は見当たりません」「そんなはずない!」すぐに土屋じいさんが、きっぱりと口を開いた。「旦那様がいつも着ている上着のポケットには、使用人が洗濯のあと薬を入れてからクローゼットに掛けるようにしています。それに、私自身も毎回必ず確認しているんです」おじいさんの体調管理は、江川家にとって何よりも大切なこと。雑に扱われるようなことは絶対にない。私はひとつの可能性に思い至り、全身の毛が逆立つような感覚を覚えた。――江川アナの病室、わかってる。彼女がどこにいるかなんて、考えるまでもなかった。聖心病院には、特別な来客のために三つのVIP病室が確保されている。そのうちの一つにはアナの母親が長期入院していて、アナもそこにいるはず。「南!」宏が慌てて追ってくる。「どこへ行くんだ?」「離して!」全身の血が逆流するような感覚。怒りはすでに限界を超えていた
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第95話

「……いいの、そんなのいらない」アナは宏の袖を掴んで離さなかった。「お願い、一緒にいて。ただちょっとでいいから……だめ?だめならもう、このまま苦しんで死ぬだけよ!」「じゃあ、勝手に苦しんでろ」宏は冷たい顔でそう言い放ちつつも、彼女に湯を入れて差し出した。そしてぶっきらぼうにひと言。「ほら、あったかいの飲め」アナは鼻で笑う。「お湯で病気が治るなら、誰も苦労しないわ」私はそのやり取りの場に居合わせて、思わず一歩引いた。よろめきそうになって顔を上げると、目に入ったのは、まるで息の合ったふたりの姿。一人は喜んで演じ、一人は進んで信じる。おじいさんがICUに運ばれてからは、体への負担を考慮して、医師からの面会許可は下りなかった。私は病室の扉の前に立ち、ガラス越しにその様子をじっと見つめるしかできなかった。いつもは穏やかな目をしていたおじいさんが、今は酸素マスクを頼りにかすかに呼吸している。その姿を見るだけで、胸が締めつけられた。ふと、私はその手がわずかに動いた気がした。「土屋じいさん!おじいさん、今、動いたよね?」「はい、動いてます!今も……ほら!」土屋じいさんも目を丸くしながら頷く。目を覚ますのはまだまだ先になるかもしれない。そう思っていたのに、こんなに早く反応が返ってくるなんて。私は喜びと驚きが一気に込み上げ、急いで医者を呼びに行こうと廊下を駆け出した。そのときだった。突然、ICU室内の心電図モニターが甲高い警告音を鳴らし始めた。「ICU1号室、緊急対応お願いします!」私が声を上げるまでもなく、当直していた院長がすぐに駆けつけ、医師や看護師を率いて慌ただしくICUへと駆け込んだ。その表情は、誰もが深刻そのものだった。私はただ廊下の真ん中に立ち尽くすことしかできなかった。どういうこと……さっき、あんなに……動いたのに。テレビドラマなら、体が動いたら回復の兆し。目を覚ます合図のはずじゃなかったの?頭の中がぐるぐる回り、足元が揺れる。私は壁際の椅子に手をついて、なんとか崩れ落ちるのを耐えた。病院には暖房が入っているはずなのに、指先まで氷のように冷たく感じた。医師たちは薬を取りに走り、看護師たちは処置に追われていた。……時間は、思っていたよりも早かった。五分どころか
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第96話

おじいさんが何を話すのかを聞くまでは、てっきり私と宏の離婚を思いとどまらせようとするんじゃないか――そんなふうに思っていた。でも、違った。おじいさんの命が、少しずつ消えていくのをはっきり感じた。声もかすかで、風のように頼りない。「……どうか……江川アナを、この家に入れないでくれ。……江川家を、頼んだよ……」「……はい……」私は嗚咽まじりに何度も頷いた。涙が止まらない。「おじいさん、江川アナが何か言ったんですか?でなければ……なぜ急に倒れたり……」「……あの子は……」おじいさんの目に、一瞬、怒りと嫌悪が宿った。けれどそれもすぐに静かな溜息へと変わる。「……いいんだ。おじいさんが言ったことだけを、覚えていてくれれば」「はい……ちゃんと覚えてます。一字一句、忘れません」私は声を詰まらせながら答えた。それ以上聞くことが怖くて、もう何も訊けなかった。けれど、心にははっきりと疑いの種が植えつけられた。江川アナ――何か、言ったに違いない。「南、泣くなよ……お腹の子を、大事にするんだ……」おじいさんは残された力を振り絞り、私に穏やかに微笑みかけた。「……それだけで……おじいさんは、安心して逝ける……」――ピ――モニターから、鋭く長い警報音が響いた。私は、目を閉じたまま微笑んでいるおじいさんを見つめ、膝から崩れ落ちた。おじいさんは、知っていたんだ。私が妊娠していることを――ずっと前から。なのに、一度も口にしなかった。私は病床のふちに手をかけ、そっと床に膝をついた。涙がとめどなく頬をつたう。「おじいさん、私、ちゃんとやります……言われたこと、全部……ちゃんと守りますから……」この声が、どうか届きますように。安心して、旅立ってください――「……おじいさん!」しばらくして、背後から聞こえたのは、聞き慣れた、でもどこか虚ろな声。彼の心の中で最も大切にしていた人が、やっと彼を解放してくれたのかもしれない。宏は胸を殴られたような顔で、震える声を絞り出した。「……南、おじいさんは……おじいさんは……」「……亡くなったわ」私は静かに告げた。まるで、すべてを失ったように、心が空っぽだった。涙は音もなく流れ落ち、止まる気配さえなかった。十数年ぶりに、また家族を失うと
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第97話

おじいさんの言葉が、何度も胸の奥によみがえる。以前、おじいさんが宏とアナの交際に難色を示していたのは、彼女が少しばかり腹黒く見えたからだと思っていた。でも、今日のそれは……明らかに、違った。アナは、おじいさんに一体何を言ったのだろう。車が江川家の邸宅に入ると、私は黙ってドアを開け、立ち去ろうとした。すると、宏が大股で追ってきて、いきなり私を強く抱きしめた。私は動きを止め、体をこわばらせる。彼は私の肩に額を埋め、息を詰めるような声で言った。「南……今夜だけでいいから、そばにいてほしい」「たった一晩でいいんだ」「お願いだよ……」その言葉を聞いた瞬間、昼間書斎で見たあの診療記録が頭をよぎった。私はどうしようもなく、情のようなものに負けてしまった。「……わかった」おじいさんがいないだけで、邸内の空気は見違えるほど重たくなっていた。どの部屋も同じ。音のない空間に、ぽっかりと穴が空いたような夜だった。私は寝室に戻って熱いシャワーを浴びた。出てきたとき、宏の姿はなかった。眠りについた深夜、ふと背後からそっと誰かの腕が伸びてきた。――誰だか、言われなくてもわかっていた。今夜の宏の一つ一つの動作から、なぜか痛みのようなものがにじんでいた。「……起きてる?」彼は私の額に自分の額をくっつけて、ほとんど聞こえない声で囁いた。私は返事をせず、身じろぎもしなかった。少しの間があって、彼の落ち込んだ声が続く。「……南、おじいさんは、俺のこと失望してたよな……最期に、そばにすらいられなかった」――あんな下手な嘘と演技を信じて、アナのもとにいたくせに。もう今さら、何を言われても、返す言葉なんて見つからなかった。「おじいさん、俺のこと……怒ってたかな」私はカーテンの隙間からこぼれる月明かりを見つめながら、ぽつりと答えた。「私はおじいさんに言わなかったよ。おじいさんが生死の境をさまよっていたとき、あなたがお腹が痛いなんて嘘をついていたアナのそばにいたことは」それは、私が人生で初めて、本気で誰かに残酷になった瞬間だった。優しさに見せかけて、心に突き刺す言葉。「……ごめん」宏はうなだれるようにして、かすれた声で言った。「ちょっとだけ、彼女をなだめるつもりだったんだ。そのあと
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第98話

翌朝、私は江川家の旧宅の玄関で使用人に立ちふさがれた。一歩たりとも外に出ることは許されないのだと、その時に悟った。やはり、昨夜のあれは一方的な通知だったのだ。私に拒む権利なんて、初めから与えられてなかった。これは使用人の意志ではない。宏の命令だと、私はわかっていた。「宏はどこ?」私は苛立ちを抑えて尋ねた。「若様は、夜も明けぬうちにお出かけになりました」「土屋さんは戻ってきた?」「いえ、まだです。旦那様のご葬儀の手配をされているとのことです」「……」私は淡々と口を開いた。「もし、どうしても今出かけなければならないと言ったら?」使用人は静かに、窓の外を指差した。そこには黒服の警備員が数人、じっとこちらを見張っていた。私は言葉を失った。この三年間、宏の不誠実さは変わらなかった。昨夜は「一晩だけここに泊まればいい」と言っていたくせに、今では門を出ることすら許されない。一瞬、私は思った。あの頃、学校の医務室にそっと連れて行ってくれた優しさや、私のプライドを気遣って食事に誘ってくれた、あの少年は――もうどこにもいないのだ。八年という歳月は、人をここまで変えてしまうのか。朝からスマホにはメッセージが溢れていた。おじいさんの訃報を知った人たちからの、慰めの言葉ばかりだった。中でも、来依と山田先輩の反応は対照的だった。来依は何通も心配のメッセージを送ってくれた。時雄はただ一言だけ。【南、つらいと思うけど、どうか無理しないで。体だけは大事にして】言葉の多さと少なさ。どちらが心に響くのか、私にはすぐには判断がつかなかった。けれど、来依を除けば、自分の身体のことまで気遣ってくれたのは山田先輩だけだった。他の人は、この出来事をきっかけに江川家に近づこうとしている――そんな意図が透けて見えた。私はとりあえず、来依と山田先輩の二人にだけ返信をしてから、宏に電話をかけた。……だが、出たのは別の人間だった。「若奥様、海外支社でトラブルが発生しまして、社長は緊急会議中です。終わり次第、必ずお伝えします」電話の向こうで、加藤が丁寧に言った。「もういいわ」私は目を閉じ、静かに答えた。「それなら、いいの」おじいさんが亡くなり、きっとグループ内は混乱しているだろう。宏は今、私のことなど気
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第99話

彼は、私がまた警察に通報するのではないかと恐れて、会社には行かず、書斎でビデオ会議を開いていた。そんな彼に見張られているようで、私は居心地が悪く、庭に出て、一日中ぼんやりと過ごしていた。……翌日、おじいさんの葬儀が行われた。空気は重く、寂しさが漂っていた。細かい雨がしとしとと降り続き、冷え込みが心の奥まで染み込んでくるようだった。そのおかげで、私はようやく江川家の屋敷を出ることができた。宏のそばに付き従い、彼に手を引かれながら、まるで糸で操られる人形のように、弔問客を出迎えた。この二日間、彼の機嫌はひどく悪く、変わったというより、むしろ本性を露わにしたかのようだった。私には、もはや抵抗する余地すらなかった。昨夜、彼にもう一度伝えた。おじいさんは最期に「私たちは離婚してはいけない」とは言わなかった。ただ「江川アナを江川家に嫁がせるな」とだけ。彼は信じてくれなかった。「嘘をつくな」と言われた。私ももう疲れ果てていて、彼と口論する気力すら残っていなかった。葬儀が始まると、私は黒いウールのコートをまとい、静かにその場に立ち尽くし、おじいさんの生涯を語る人々の声に耳を傾けていた。八十年という長い人生が、こうも簡単に言葉で締めくくられるなんて。つい二日前まで私に笑いかけてくれていた人が、今はただの土になってしまった。「おじいさん!」アナが突然現れ、涙に濡れた顔で墓前に膝をついた。「おじいさん……なんで、こんな急に行ってしまったの……」宏が動くよりも早く、私は土屋じいさんに言った。「彼女を連れて行って」おじいさんが一番会いたくなかったのは、彼女だ。それを聞いたアナは、地面から立ち上がり、私を睨みつけて言った。「あなたに私を追い出す資格なんてないわ!」「決めて、宏」私はそう言い残してその場を離れ、来依たちのいる方へと歩き出した。その言葉を聞いて、アナはすぐに表情を切り替え、宏の腕にしがみついた。「宏、今日退院してすぐに来たのよ。寒くて凍えそうだったわ……」「腹痛はもう治ったのか?」宏は彼女の腕を冷たく振りほどいた。表情にはまったく感情がなく、まるで底の見えない池のように静かで、冷たかった。「う、うん……もう大丈夫」アナの顔が一瞬引きつり、すぐにふて腐れたように言っ
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第100話

その言葉を聞いたとき、私は少し言葉を失った。だがすぐに、理由は理解できた。来依は眉間にしわを寄せ、不思議そうに私を見ながら小声で言った。「江川宏、急に人が変わったみたいだね?」「違うわ」私は、アナがボディーガードに連れ出されるのを見届けながら、そっと唇を噛んだ。「ただ……ショックを受けて、自分なりに償おうとしてるだけ」おじいさんが亡くなるその時、彼は最も可愛がられていた孫でありながら、そばにいなかった。しかもその日に、怒らせてしまった。彼が罪悪感や後悔、自責の念に苛まれているのは当然のこと。そして彼なりの償い方が、「おじいさんの言葉に従うこと」、つまり、私を一生江川家の嫁として扱うことだった。そこに、私という人間は、一切関係がなかった。葬儀が終わったあと、私は邸宅に戻り、土屋じいさんと一緒におじいさんの遺品を整理した。使用人が一度整理を済ませていたので、残されていたのは、おじいさんが普段よく使っていた衣類だけだった。ひとつひとつ手に取るたびに、まるで今もどこかでおじいさんが息をしているような錯覚に陥った。私は手を止め、考え込むように口を開いた。「土屋じいさん、前の日……おじいさんのポケットに薬が入ってたのは、本当に間違いないんだよね?」「ええ、確かにありました。若奥様から指示されていましたから。特に寒暖差がある時期は、必ず薬を携帯するようにと。最近冷えてきていましたし、私は毎朝確認していました」そう答えた土屋じいさんは、少し顔を曇らせ、真剣な眼差しを向けてきた。「……若奥様は、江川アナを疑っているのですか?」「まだわからないの」私は首を振った。あの日、アナに確認したとき、彼女の言い分も筋は通っていた。あれだけ慌ただしかったのだから、薬がどこかで落ちてしまった可能性もある。ただ――直感が、違うと告げていた。でも、証拠はない。直感だけでは何の役にも立たない。それに、私がもともと彼女に対して敵意を抱いていたから、冷静に見られないだけなのかもしれない。私はふと考えて、尋ねた。「この二日間、家の使用人が掃除している時に、床に薬の瓶が落ちているのを見つけたりしてませんか?」土屋じいさんは少し考えてから、はっきりと首を振った。「いえ、見ていません。旦那様の持ち物なら、何
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