舞子はそう言うと、ゆっくり立ち上がり、その場を後にした。こんな提案、到底受け入れられるものではなかった。紀彦の考え方は、舞子のそれとは根本から異なっている。もちろん舞子にもわかっていた。彼のような人間には、いずれ「同じ志を持つ誰か」が現れるだろう。この世界には、計算と合理性で生きる人間が決して少なくないのだから。でも、少なくとも今の自分には、到底割り切れなかった。背後から足音が追ってきた。紀彦だった。彼はポケットからスマホを取り出した。「桜井さん、連絡先を交換してもいいですか?気持ちが整理できたら、いつでも連絡ください」舞子は彼を見つめ、少しだけ迷った末に、自分のスマホを取り出した。今は、はっきり拒絶することもできない。この先、どんな形であれ関わる可能性がある相手なのだから。二人は静かに連絡先を交換した。そのとき、道の向こう側。一台の黒い車が路肩に停まっていた。運転手が助手席から降りて、後部座席の男に封筒を手渡した。「賢司様、ご依頼の資料です」賢司の視線は、舞子と男の姿を一瞥したあと、封筒に戻り、書類に目を通し始めた。運転手は再びハンドルに戻り、エンジンをかけながら尋ねた。「次はどちらへ向かいましょう?」だが賢司は答えなかった。静かな車内に、ページをめくる音だけが響く。せかされているわけでもないのに、どこか緊張感が漂っていた。やがて沈黙に耐えかねた運転手の背中に、じっとりと汗が滲む頃――「この男の素性を調べろ」低く、抑えた声が後部座席から届いた。運転手はわずかに動揺しながら訊いた。「どなたのことでしょうか?」賢司は再び窓の外を見やった。その視線を辿るようにして、運転手も外を見た。すると、舞子の隣に立つ男に気づき、思わず息を呑んだ。……この女、どこまで大胆なんだ。賢司様とすでに深い関係にあるのに、他の男にまで手を出そうとは。心の中で舌打ちしながら、すぐに返答した。「かしこまりました」一方、舞子はふいにくしゃみをした。眉をひそめ、「風邪かしら?帰ったら薬でも飲んでおこう」とつぶやいた。帰宅して玄関のドアを閉めたちょうどそのとき、スマホが震えた。画面には、賢司からのメッセージ。余計な言葉は何一つなく、そこにあったのはただ一つ、位置情報だった。舞子は唇を噛み、細い指で
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