All Chapters of 億万長者が狂気の果てまで妻を追い求める: Chapter 1101 - Chapter 1110

1132 Chapters

第1101話

紗枝は、鈴が啓司への想いを貫き、たとえ命を懸けてでも彼のもとへ嫁ごうとする。そんな激しい女だと思っていた。だが、まさかこれほどあっけなく心変わりするとは夢にも思わなかった。どうやら鈴は、権力と財力を持つ男なら誰でもよかったようで、啓司でなければならない理由など、最初からなかったらしい。それなら、最初から誰か紹介してやればよかった。紗枝は心の中でそう呟いた。「九条家の三男坊、九条郁雄(くじょう いくお)を知ってるかしら?」綾子が静かに言う。九条郁雄は「閻魔様」と呼ばれ、九条家の中でも最も権力を握る男だった。その名を聞いた瞬間、鈴の顔にぱっと喜色が広がる。「ありがとうございます!」「礼には及ばないわ。彼に嫁げるかどうかは、あなた次第よ」鈴は勢いよく頷いた。「分かっています。無理強いはしません。もし彼が私を気に入らなければ、絶対に付きまとったりしませんから」その言葉に、紗枝は思わず苦笑した。指摘する気にもなれなかった。啓司だって、鈴を好いてなどいなかったではないか。あのとき彼女は死をちらつかせて、執拗に迫ったのだ。郁雄のような男が、果たしてこの女をどうにかできるものか。紗枝には見当もつかなかった。鈴は昂ぶる気持ちを抑えきれず、そそくさと立ち上がると荷物をまとめに行った。綾子はその姿を黙って見つめている。紗枝は、綾子が甥を陥れるような人間だとは思っていなかった。鈴が部屋を出ていった後、綾子は低い声で真相を打ち明けた。「郁雄は、一筋縄ではいかない相手よ。もし鈴が本気で死にたいなら、彼に会うのが一番ね」そう言って、唇の端をかすかに歪める。「今後、彼女がまた戻ってくるようなことがあれば、私に言いなさい。私が片をつけるから」紗枝は深く頭を下げた。「ありがとうございます」「これからは、私に遠慮なんてしないでいいのよ」綾子の声は、不思議と温かく、心からのものだった。そのとき、紗枝は今日の本来の用件を思い出した。「綾子様、午前中にお話ししたこと、覚えていらっしゃいますか。週末に啓司を連れて散歩にでも行きたいんです」紗枝は、啓司が屋敷の中でどれほど息苦しい日々を送っているか、直接言うことができず、言葉を選んで提案した。「啓司が今の状態で外に出て、何か問題が起きたりしないかしら?」綾子の声には
Read more

第1102話

そこまで言われてしまえば、紗枝にはもう断る理由などなかった。三人で屋敷を出ると、啓司は二人のあいだに座り、拓司の目の前で紗枝の手をぎゅっと握りしめ、全身を彼女に預けていた。紗枝はその手を振りほどくこともなく、まるで幼子をあやすように穏やかに寄り添っていた。「どこへ行くんだ?」と拓司が尋ねた。本当なら、紗枝は啓司を直接和彦のもとへ連れて行くつもりだった。だが、今の状況ではそれが叶わないと悟り、言葉を変えた。「いっそ、牡丹別荘に戻りませんか?あそこなら啓司も少しは気が晴れると思うの」拓司は一瞬だけ考え、運転手に静かに指示を出した。「牡丹別荘まで頼む」やがて車は別荘に到着した。「お家に着いたよ」紗枝は優しく声をかけ、啓司の手を取って車を降りる。拓司はその後ろを黙ってついていった。そのとき、ふと気づいた。どれだけ自分が近くにいても、二人のあいだに割って入るのは難しいのだと。啓司がこんな姿になっても、紗枝は彼を見捨てず、変わらぬ優しさで寄り添っている。その事実が、拓司の胸に重くのしかかった。ほどなくして、啓司がぽつりと言った。「眠りたい」「じゃあ、お部屋に戻って寝ようね」紗枝は彼を、かつて二人で過ごした部屋へ連れて行き、ベッドに寝かせ、布団をかけた。その隙に、彼女はスマートフォンを取り出して和彦にメッセージを送る。裏口からこっそり入ってほしい。啓司が寝ている部屋の場所も伝える。送信を終えると、スマホを閉じ、気づかれぬよう階下へ降りた。リビングでは、拓司がソファに腰を下ろしていた。彼は、紗枝が啓司に密かに会わせる段取りを整えているなどとは、夢にも思っていなかった。「兄さんは寝たのか?」紗枝は静かに頷く。「ええ、今ちょうど。いつ起きるかわからないから……もし用事があるなら、先に帰っていても大丈夫。啓司が目を覚ましたら、私が屋敷に連れて帰ります」「今日は週末だ。特に用事はない」拓司の口調は淡々としていて、感情の色は読み取れなかった。紗枝はそれ以上言葉を重ねることができず、ただ心の中で——どうか和彦たちがうまく中へ入れますように、と祈るしかなかった。リビングには二人だけが残り、どこか気まずい空気が漂った。紗枝はそっと立ち上がり、話題を変えるように言った。「少し、外を散歩しま
Read more

第1103話

紗枝は彼の視線を追った。その瞬間、胸の奥がかすかにざわつく。和彦はもう着いている頃だろうか。幸い、拓司は何も言わず、ただ振り返って穏やかに微笑んだ。「もちろん分かってるよ。君はもう、昔みたいな馬鹿正直な女の子じゃない」「もう少し遠くまで散歩しに行こう」拓司がそう提案すると、紗枝はほっと胸を撫でおろした。一方その頃、和彦はすでに駆けつけ、裏口から部屋に入り啓司の診察をしていた。紗枝には、その診察がどれほど時間を要するのか分からない。ただ拓司に付き添い、ひたすらその場をやり過ごすしかなかった。二人は他愛もない会話を続けていたが、やがてスマホのメッセージ受信音が小さく鳴り響いた。紗枝はちらりと画面を見てから、拓司に言った。「もう遅いし、戻りましょう」拓司は彼女の穏やかな横顔を見つめ、その意図を察してはいた。しかし、それを口にするのは気の毒に思い、ただ静かに「ああ」とだけ応じた。戻った時、啓司はまだ目を覚ましていなかった。少し空腹を覚えた紗枝は、食事を注文し、拓司と並んで食卓についた。拓司にとっては久しぶりの感覚だった。彼女と食事をし、散歩をし、言葉を交わす――まるで恋人同士のような穏やかな時間。紗枝の腹は日に日に大きくなり、食欲も旺盛だったが、拓司の前ではどこか気恥ずかしく、つい控えめにしてしまう。その様子を見抜いた拓司は、柔らかい声で言った。「もっと食べなよ。じゃないと僕も食べきれないし、もったいないから」「うん」紗枝はぱっと顔を明るくし、もう一杯お代わりをして嬉しそうに箸を動かした。拓司はその姿を黙って見つめながら、ふと幼い頃の記憶を思い出す。あの頃も、紗枝に何かを差し入れると、彼女はいつも上品に少しだけ口をつけるだけだった。自分が「食べきれない」と言って初めて、彼女は安心したように大きな口で食べ始める――そんな小さな癖は今も変わらない。ただ、心の在り方だけが、あの頃とは違ってしまったのだ。そう思うと、拓司は不意に俯き、軽く咳き込んだ。「大丈夫?」紗枝が心配そうに箸を置いて顔を覗き込む。「大丈夫。白湯でも飲めばよくなるよ」立ち上がった拓司は、小さなコップに白湯を注いで一口飲み、確かに少し楽になったようだった。その時、二階から物音がした。どうやら啓司が目を覚ましたらしい。
Read more

第1104話

紗枝は啓司の腕の中に寄りかかっていたが、不思議と違和感はなかった。何かを尋ねようとしたその瞬間、啓司の大きな体が彼女にもたれかかり、広い掌がそっと頭を支えた。「頭が……痛い」「頭痛?お医者さまを呼んでくるわ」「行かないで……抱きしめさせてくれ」啓司の声はかすれて、どこか弱々しかった。だが紗枝は、彼がこうして話していることに安堵し、まるで以前の彼に戻ったかのように感じた。思わず畳みかけるように問いかける。「何か思い出したの?」「シーッ……喋るな。ここは安全じゃない」啓司は声をひそめた。その真剣な眼差しに、紗枝は驚きと戸惑いを覚えながらも、素直に口を閉ざす。啓司は彼女を強く抱き寄せ、しばらくそうしてから、ふっと力を失ってベッドに倒れ込んだ。紗枝が額に手を当てると、ひどく熱い。慌てて解熱剤を取りに行き、濡れたタオルで啓司の体を拭いてやった。ドアの外では執事が静かに見守っていたが、何も言わず、そのまま立ち去った。啓司の容態は一進一退だった。夜になると、再び彼と話そうとした紗枝の前で、啓司はまた虚ろな表情に戻っていた。もしかしたら、まだ回復の途中なのかもしれない。完全に愚かになったわけではない。そう思うと、紗枝はほんの少し希望を抱いた。月曜日の朝。紗枝はいつものように出勤した。黒木グループのビルへ向かう途中、一台の車が進路を塞いだ。車から降りてきたのは牧野だった。「奥様」紗枝も静かに車を降りる。「牧野さん、何かご用ですか?」「社長は……最近、お元気ですか?」牧野は今や啓司とまったく連絡が取れず、しかも彼の周囲は拓司の人間ばかりだった。IMグループが啓司自ら築き上げた数々の秘密を守るため、彼は身を隠し、拓司の目を避けるように動いていた。「啓司は大丈夫よ」紗枝が穏やかに答えると、牧野は安堵の息をついたが、なおも不安げに言葉を重ねた。「お世話をおかけして、本当に申し訳ありません。どうか……どうか、社長のそばにいてください。決して、社長に何かあってはなりません」「ええ、安心して」紗枝はしっかりと頷いた。だが牧野が本当に安心できるはずもなかった。二日前、彼はあと一歩のところで啓司を連れ出せるはずだった。だが、啓司が突然発作を起こし、計画は水泡に帰したのだ。紗枝が去っていく背を
Read more

第1105話

「どうしてまだ入り口に立っているんだ?入ってこい」ガラス扉の向こうに紗枝の姿を見つけ、昂司は声をかけた。その目は、彼女の体を上から下まで余すことなく見定めるように動いた。妊娠しているとはいえ、紗枝の魅力はいささかも衰えていなかった。ただひとつ残念なのは、その整った顔に新たな傷が一筋、刻まれていたことだった。紗枝は静かにオフィスへ足を踏み入れた。「部長、何か御用でしょうか」昂司は椅子の背にもたれ、片手で顎を支えながら言った。「別に重要な話じゃない。まずは座ってくれ」紗枝が椅子を引いて腰を下ろすと、彼は視線を向けたまま続けた。「お前の部署、先月の営業成績が一位だったそうだな」「ええ」「女ひとりで、元は最下位だった五課を一ヶ月でトップに押し上げるとは、大したものだな」その口調には、賞賛というよりもどこか含みのある、面白がるような響きがあった。紗枝はその意図を測りかね、形式ばった返事をした。「お褒めいただき、恐縮です」昂司は足を組み替え、話題を変える。「お前と啓司が離婚したと聞いたが?あいつもどうかしてる。お前みたいに綺麗で有能な女を手放すなんて、正気の沙汰じゃない」私事に踏み込まれた瞬間、紗枝の瞳に冷たい光が宿った。「部長、公務でのご指示がないようでしたら、失礼いたします」そう告げて立ち上がり、ドアへと歩き出す。その背を見た昂司は、すぐさま立ち上がり後を追った。彼女の腕をつかみ、低く押し殺した声で囁く。「紗枝……見てのとおり、今ここには誰もいない。はっきり言っておく。俺が戻ってきたのは、これまでの仕打ちをきっちり返すためだ。ただし、俺に従い、俺の女になるなら、お前だけは助けてやってもいい」昂司にとって、啓司はすでに壊れた存在であり、紗枝を守れる者などいないと踏んでいた。自分ほどの地位にあれば、欲しい女を手に入れられなかったことなど一度もない――そう信じて疑っていなかった。だが紗枝は、彼の胸の内などとうに見透かしていた。力強く腕を振り払うと、冷然と口を開く。「このこと、夢美さんにはお話しになったんですか」昂司は一瞬、呆気に取られたが、すぐに薄笑いを浮かべた。「彼女に話すわけがないだろう」「では、今から私が夢美さんに話しに行きます。もし夢美さんが同意するなら、私
Read more

第1106話

夢美が何を求めようとも、紗枝はそれを与える。彼女には焦りなどなかった。なぜなら、まだ手元に、切り札が一枚残っているからだ。もし夢美と昂司が本気で自分を追い詰めるつもりなら、紗枝もまた、二人をただでは済ませない。廊下ですれ違ったとき、夢美は横取りしたプロジェクトの書類を手に、勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。「あら、前はそんなに強気だったかしら?ねぇ、知ってる?さっきまたいくつかプロジェクトが回ってきたの。聞いたところによると、あなたたち五課がやっとのことで勝ち取った案件らしいじゃない。本当にありがとうね」少し間を置いて、夢美はわざとらしく微笑みを添えた。「でも、お返しをしないのも失礼でしょ?だから私もいくつかプロジェクトをあげたわ。私があなたをいじめたって、拓司さんに告げ口しないでね」紗枝は氷のような視線で彼女を見つめた。「ご心配なく。告げ口なんていたしません。あなたがくださるプロジェクト?それはご自分の老後の楽しみにでも取っておかれたら?」言うまでもなく、夢美が与える仕事など、骨折り損で利益の見込めない厄介事に決まっていた。夢美は一瞬言葉を失ったが、すぐに口元を歪めて嘲る。「紗枝、何をそんなに調子に乗ってるの?今のあなたは黒木家の犬よ!お腹に黒木家の種を宿していなかったら、綾子さんがあなたをグループに残すと思う?たかが課長になったくらいで偉くなったつもり?本当に笑わせるわ」紗枝は込み上げる怒りを必死に押し殺し、何も言わなかった。正面からぶつかっても、彼女たち夫婦の思う壺だとわかっていた。それに今の紗枝には、綾子という確かな後ろ盾がある。焦る必要はない。午後、綾子から電話がかかってきた。「最近、仕事はどう?もし疲れているなら、拓司に言って、しばらく家で休みなさい」そう言って少し間を置き、「これから毎月一億円あげるから、好きに使っていいわよ」とさらりと続けた。紗枝は、あの日綾子を助けて以来、ここまで親切にされるとは思ってもみなかった。月一億円――年にすれば十二億以上。確かに、それだけあれば、もう働く必要などない。だが紗枝は丁寧に、しかしはっきりと断った。「ありがとうございます。でも、今の仕事がとても順調なんです。やはり自分の力で稼ぎたいと思います。ご安心ください、私と子どものこと
Read more

第1107話

紗枝は、心音が雷七に会いたがっていたことを覚えていた。彼女を車に乗せると、そのまま迷いなく牡丹別荘へとハンドルを切った。「私がお土産に何を持ってきたか、聞かないんですか?」車中で心音がいたずらっぽく言った。「お土産?」きょとんとした顔で尋ねる紗枝に、心音は少し呆れたように息を吐いた。「社長、ほんとに自分のことに無頓着すぎますよ。海外で使える人脈のリストです。それから、辰夫さんから預かった美味しいものと、エイリーが最近リリースした新曲も」食べ物にも音楽にもさほど反応を示さなかった紗枝だったが、“海外の人脈”という言葉にぱっと顔が明るくなった。「最高!」紗枝は思わず心音に抱きつく。「心音ちゃん、あなたって本当に私の幸運の女神様ね!」「大げさですよ。別に私が何か特別なことをしたわけじゃないのに」「いいの、そういうことなのよ」笑いながら言う紗枝の心の中では、すでに夢美と昂司という強欲な夫婦にどう手を打つか、その策略が形を取りつつあった。「ねえ、その海外の人脈に連絡を取って、私といくつか契約を結べるように話を進めてくれる?」心音は一瞬ため息をついた。帰ってきたばかりなのに、もう仕事の話ですか。それでも渋々頷いた。ふたりが話し込んでいるうちに、車はあっという間に夏目家の旧宅へと到着した。紗枝は心音を伴い車を降り、雷七の部屋の前まで案内する。「あと数分で、彼と逸ちゃんも帰ってくるはずよ」自分の言葉を覚えていてくれたことに、心音の胸は温かく満たされた。「本当にありがとうございます」「雷七は無口な人だから、あなたのほうから頑張らないとね」紗枝が言い終えたその瞬間、玄関のドアが開く音がした。心音の胸が一気に高鳴る。スーツをきっちりと着こなした雷七が、静かに姿を現した。その立ち姿は凛としていて、どこか近寄りがたい気品がある。武術の心得を感じさせる、引き締まった体。やっぱり素敵……心音は思わず背筋を伸ばした。「こんにちは、雷さん。お久しぶりです!」慌てて挨拶する声が、ほんの少し上ずっていた。心音の身長は、雷七の肩あたりに届くかどうか。雷七は静かな目で彼女を一瞥した。「どこかでお会いしましたか?」「お忘れですか?去年の桃洲で……社長の秘書をしていた心音です」雷七
Read more

第1108話

紗枝は、しょんぼりしている心音の肩をそっと叩き、柔らかく微笑んだ。「心音、あなたはとても素敵よ。どこか凛としていて、まるで女傑のよう。そんなに自分を卑下することなんてないわ」心音はクッションを抱き寄せ、視線をそらした。「からかわないでくださいよ」自分の力はわかっている。喧嘩なら負けない自信がある。でも、雷七のような男が好きになるのは、きっと守ってあげたくなるような、か弱い女性なのだろう。「じゃあ、私が間に入ってみようか?仲を取り持つキューピッド役なんてどう?」紗枝は冗談めかしながらも、本気で二人を結びつけてみたいと思っていた。心音は愛嬌があり可愛らしいし、雷七は寡黙で品がある。見た目の釣り合いも申し分ないうえ、二人とも武芸に秀でている――互いに刺激し合える関係になれるかもしれない。「やめてください!絶対言わないでくださいね!」心音は慌てて手を振った。「ただ、彼が格好いいって思っただけです。好きとか、愛してるとか、そんな話じゃありませんから」紗枝は苦笑しながら、肩をすくめた。「そう、わかったわ。でも、もし何か困ったことがあったら、いつでも言ってね」「はい、わかりました」心音は力強く頷いた。「それで、今日は何が食べたい?」紗枝が話題を変える。「何でもいいです」心音は即答した。「あ、そういえば、こちらの会社の営業許可証の手続き、もう済ませました」「そんなに早く?」紗枝は目を丸くした。「社長が言ったことは全部、最優先で片付けますから。それで……黒木グループ本社の仕事、いつ辞めるんですか?もうこっちに専念すればいいのに」紗枝は少し考え込んだ。「まだその時じゃないわ。心音、あなたにお願いがあるの。まずは一緒に黒木グループで働いてほしいの」黒木グループの社員たちの中でも、心音ほど信頼できる人間はいない。「わかりました。今晩、営業部の人材募集に申し込みます」心音の即答に、紗枝は満足げに笑った。「本当に、私の考えていることがよくわかるのね」通常の手順で営業部に入れば、彼女が紗枝の部下だと誰も気づかない。きっと物事を進めやすくなるだろう。その夜。紗枝と心音は夕食を済ませたあと、心音を梓に紹介し、啓司の世話をするため屋敷へ向かった。「心音、時間のある時は梓と一緒に、逸ちゃんのことを
Read more

第1109話

啓司が彼女に言葉を返すことはなかった。ただ静かに手を伸ばし、紗枝を抱き寄せた。その腕の温もりに、紗枝ははっと息を呑み、そっと囁いた。「……啓司」男はゆっくりと頭を下げ、彼女の顔に頬を寄せて囁く。「ねんねしよう」「ねんね……?」思わず紗枝は吹き出した。その無垢な響きが可笑しくて、愛おしくて――この瞬間を録画しておき、彼が元気を取り戻したら見せてやりたいと心から思った。彼女は布団をかけ直し、啓司の肩を優しくぽんぽんと叩いた。「うん、ねんねしようね」灯りを落とすと、静寂が部屋を包んだ。紗枝はそっと目を閉じ、穏やかな眠りへと沈んでいった。翌朝。まだ空の端がかすかに白み始めた頃、けたたましい着信音が静寂を破った。紗枝は寝ぼけ眼でスマートフォンを手に取り、表示された名前を見て眉をひそめる。美枝子。こんな時間に電話をかけてくるなんて――まさか昭子が、また何か仕掛けたのだろうか。「……美枝子?」電話を取ると、か細い声が震えながら届いた。「紗枝さん……たすけ……て……」「美枝子、どうしたの!?」叫ぶように問い返したその瞬間、向こうの音がぷつりと途切れた。そして、低く荒々しい男の声がかすかに聞こえた。「くそ、このアマ……誰に電話しやがった!」次の瞬間、通話は強制的に切れた。胸の奥が冷たく締めつけられる。紗枝はすぐにベッドを飛び出し、着替えを掴むようにして身支度を整えると、美枝子の家へ車を走らせた。だが、到着してみると、隣人が首を横に振った。「美枝子さん?もう随分前に引っ越しましたよ。今はもうここには……」紗枝はさらに最近の様子を尋ねたが、隣人は「詳しくは知らないんです」と困ったように答えるばかりだった。考える暇はない。紗枝はすぐに雷七へ電話をかけた。「時間がある時でいいから、美枝子に何かあったのか調べて。お願い」それだけ告げて、彼女は会社へと戻った。その日、会社には新しい社員が入っていた。言うまでもなく、それは心音だった。海外の大学を首席で卒業し、複数のプロジェクトを成功に導いた才媛。午前中の面接で即採用が決まると、夢美はさっそく彼女を第一課のチームリーダーに任命した。すぐに心音からメッセージが届く。【社長、やりました。一課の内部に潜り込みました】
Read more

第1110話

昭惠はその言葉を聞くと、憧れの色を宿した瞳で言った。「お姉ちゃん、本当にすごいね」昭子はその崇拝の眼差しを心地よく感じながら、穏やかな笑みを浮かべて言った。「あなたも鈴木家のお嬢様なんだから、いずれ鈴木家の一部はあなたのものになるのよ」「そんなの、いらないです」昭惠は慌てて首を振った。「冬馬くんが早く元気になって、私たち親子が安心して暮らせる場所があれば、それで十分なんです」昭子はその素朴な言葉を聞きながら、内心で冷ややかに笑った。いらないなんて、口ではいくらでも言えるわ。でも、本心では誰だって金と地位を欲しがるものよ。でなきゃ、紗枝の身分を平気で奪ったりはしないでしょうに。「さあ、降りましょう」「はい」二人は車を降り、黒木グループの本社ビルの中へと足を踏み入れた。大理石の床が光を反射し、天井のシャンデリアがきらめくその空間に、昭惠は思わず息を呑んだ。まるで別世界のような豪奢さに、胸の奥で淡い憧れが芽生える。お姉ちゃんの婚約者は、こんなに大きな会社の社長なのね。鈴木家もきっと、途方もない資産家に違いないわ。手首に光るブレスレットに指を滑らせながら、昭惠はふと心の中で呟いた。もし私が本当に鈴木家のお嬢様だったなら……「前はどんな仕事をしていたの?」と、昭子が何気なく尋ねた。「ごく普通の、小さな会社の事務員でした」昭惠は少し恥ずかしそうに答えた。「普通の大学を出て、専門もこれといってなくて……だから、そういう仕事しか見つからなかったんです」昭子は青葉が昭惠を自分の傍で働かせ、いずれは家業を継がせようとしていることを思い出し、にこやかに言った。「じゃあ、こうしましょう。これからは私と一緒に仕事をしてちょうだい。給料は――そうね、いくらでも希望を言っていいわ」「ほ、本当ですか?」昭惠は目を丸くした。「もちろんよ。それと、役職は……副部長なんてどうかしら?」昭子の瞳には、打算がちらりと光った。名ばかりの副部長でもいい。青葉には「私が昭惠を厚遇している」と見せられるし、一石二鳥だわ。「副部長、ですか?でも私、働き始めたばかりで、分からないことばかりで……」昭惠は恐縮したように言った。「大丈夫よ。誰だって最初は何も分からないもの。少しずつ覚えていけばいいの」昭子は優しく言葉を添えた。「それ
Read more
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status