紗枝は、鈴が啓司への想いを貫き、たとえ命を懸けてでも彼のもとへ嫁ごうとする。そんな激しい女だと思っていた。だが、まさかこれほどあっけなく心変わりするとは夢にも思わなかった。どうやら鈴は、権力と財力を持つ男なら誰でもよかったようで、啓司でなければならない理由など、最初からなかったらしい。それなら、最初から誰か紹介してやればよかった。紗枝は心の中でそう呟いた。「九条家の三男坊、九条郁雄(くじょう いくお)を知ってるかしら?」綾子が静かに言う。九条郁雄は「閻魔様」と呼ばれ、九条家の中でも最も権力を握る男だった。その名を聞いた瞬間、鈴の顔にぱっと喜色が広がる。「ありがとうございます!」「礼には及ばないわ。彼に嫁げるかどうかは、あなた次第よ」鈴は勢いよく頷いた。「分かっています。無理強いはしません。もし彼が私を気に入らなければ、絶対に付きまとったりしませんから」その言葉に、紗枝は思わず苦笑した。指摘する気にもなれなかった。啓司だって、鈴を好いてなどいなかったではないか。あのとき彼女は死をちらつかせて、執拗に迫ったのだ。郁雄のような男が、果たしてこの女をどうにかできるものか。紗枝には見当もつかなかった。鈴は昂ぶる気持ちを抑えきれず、そそくさと立ち上がると荷物をまとめに行った。綾子はその姿を黙って見つめている。紗枝は、綾子が甥を陥れるような人間だとは思っていなかった。鈴が部屋を出ていった後、綾子は低い声で真相を打ち明けた。「郁雄は、一筋縄ではいかない相手よ。もし鈴が本気で死にたいなら、彼に会うのが一番ね」そう言って、唇の端をかすかに歪める。「今後、彼女がまた戻ってくるようなことがあれば、私に言いなさい。私が片をつけるから」紗枝は深く頭を下げた。「ありがとうございます」「これからは、私に遠慮なんてしないでいいのよ」綾子の声は、不思議と温かく、心からのものだった。そのとき、紗枝は今日の本来の用件を思い出した。「綾子様、午前中にお話ししたこと、覚えていらっしゃいますか。週末に啓司を連れて散歩にでも行きたいんです」紗枝は、啓司が屋敷の中でどれほど息苦しい日々を送っているか、直接言うことができず、言葉を選んで提案した。「啓司が今の状態で外に出て、何か問題が起きたりしないかしら?」綾子の声には
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