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契約終了、霜村様に手放して欲しい のすべてのチャプター: チャプター 1471 - チャプター 1480

1552 チャプター

第1471話

どんなに愛していても、和泉夕子の夫以上に彼女を愛せる者などいない。大野皐月もそのことを分かっていた。だが、それがどうしたというのだ。彼は、身を焦がしながらも、その苦しささえ甘美なものとして受け入れていた。それを誰に咎められようか?こんな風になってしまった和泉夕子を見て、大野皐月は激しい後悔に襲われた。彼女が最期の言葉を知りたいと尋ねたあの日、何と言っていたのか、教えてやるべきだった。包み隠さず、全てを話すべきだったのだ。大野皐月は自分の臆病さを憎み、また、自分の自制心を憎んだ。しかし、和泉夕子の苦しみを思うと、そんなものは取るに足らない、小さな後悔でしかなかった。今、もしできることなら、神に祈って彼女が受けるべき苦しみを代わりに引き受けたい。そうすれば、彼ら夫婦二人で幸せに暮らしていけるのに......どうせ自分の生死など誰も気にしないだろう。しかし和泉夕子は違う。彼女は多くの人にとっての希望なのだ。霜村冷司、白石沙耶香、池内思奈、生まれたばかりの息子、そして彼女を想う多くの人々......大野皐月が心の中で神に祈り、自らの命と引き換えに和泉夕子を救おうとした時、黒いコートを着た男が、雨に濡れながら車から降りてきた。少しよろめきながらも、彼は急足で向かってくる......桐生志越が病院に着いた時、和泉夕子はすでに集中治療室に移されていた。霜村冷司は彼女の手を握りしめ、側から片時も離れずにいた。医者から絶望的な言葉を告げられ、誰もが和泉夕子は目覚めることはないと思っていた。皆、ICUの外でその夜を過ごした後、一人、また一人と去っていった。しかし、霜村冷司だけが信じななていかった。彼は、和泉夕子はただ道に迷っているだけで、道を見つければ家に帰ってくると思っていた。彼女が帰るのを待つ男は、世界中の名医を探させるために相川涼介と相川泰を送り出し、ゼロに近い奇跡がいつか実現すると信じていた。もし奇跡が起きなくても、約束通りにするだけだ。彼女が生きるなら、自分も生きていこう。しかし、もし死んでしまうというのなら、自分も死ぬだけだ。いずれにせよ、和泉夕子は途中で待っているだろうから。少しぐらいの時間、問題ない。桐生志越は血まみれの和泉夕子を見ることはなかった。ICUのガラス越しに、顔色の悪い霜村冷司が和泉夕子の手を握りしめ、彼女をじっと見つ
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第1472話

桐生志越は自制心があり、礼儀正しく、節度をわきまえる。和泉夕子がもう自分のことを愛していないと知っていながらも、揺るぎなく、静かに彼女を愛し続けている。これは実に尊い人柄だ。あまりにも尊いからこそ、霜村冷司は顔を上げ、その真っ直ぐな後ろ姿を見つめた。端正な眉がわずかに寄せられ、血走った目に、複雑な感情が浮かび上がった。ICUの扉が今にも閉まろうとした時、冷たく落ち着いた声が、桐生志越の耳に届いた――「ありがとう」桐生志越は足を止め、振り返って、ベッドの脇に座る男を見た。他人には傲慢な彼が、和泉夕子の前では、ひどく低姿勢になる。きっと極限まで愛しているからこそ、この「ありがとう」は本当に心からでたものだろう......桐生志越はあらゆるつてを頼って医師を探し、見つけ次第、病院に連れてきた。だがどの医師も和泉夕子の状態を見ると、モーアと同じ見解だった。目覚める可能性は、ほぼない、と。大野皐月が見つけてきた医師もそうだった。如月家の人々、霜村家の人々、春日家の人々が見つけてきた医師も、皆同じだった。医師たちが皆「目覚めない」と言うのを見て、如月尭は霜村爺さんに八つ当たりした。霜村爺さんが退院したら、タイミングを見計らって車で轢き殺そうと考えたぐらいだ。どうせ自分も生きていくつもりはないのだから、あの老いぼれを道連れにするのも悪くない、と。だが如月尭がアクセルを踏み込む間もなく、病院から出てきたばかりの霜村爺さんが乗るリンカーンが、大型トラックと衝突するのを目撃した。大事故だった。大型トラックはほぼ霜村爺さんが乗っていた車を轢き潰すように通過し、車の前方がぺしゃんこになっていた。如月尭はそれを見て一瞬驚愕し、すぐに霜村冷司のあの言葉を思い出した――この世の理から外れるものには、天罰が下る。霜村冷司は、霜村爺さんが交通事故にあったという知らせを聞いても、瞬き一つしなかったし、葬儀にも参列しなかった。彼の心はただ一つ、医師を見つけて和泉夕子を救うことだけに集中していた......だが医師を探すたびに、燃え上がった希望は、医師の言葉によって打ち砕かれる。しかもこのタイミングで、保育器の中の赤ちゃんの状態が悪化した。ICUに泊まり込む男は、毎日危篤宣告を受けていた。最初の頃は、聞くたびに身体が震えたが、今では感覚が麻痺して何も感じ
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第1473話

霜村冷司が子供を抱こうとしないのを見て、白石沙耶香は彼が和泉夕子を苦しめた子供を責めているのだと察した。だから、無理強いはしなかった。白石沙耶香は赤ちゃんを抱き上げ、和泉夕子の隣に寝かせた。そして、和泉夕子の手を赤ちゃんの小さなお腹の上に置いた。母子の絆だろうか、和泉夕子の手が触れた瞬間、赤ちゃんは泣き出した......赤ちゃんの泣き声を聞いて、霜村冷司の目も赤くなった。すらりとした指が、自分の意志とは関係なく、伸びていき、赤ちゃんの小さな手に触れた......激しく泣いていた赤ちゃんは、霜村冷司の手に触れると、徐々に泣き止んでいった。涙で濡れた、澄んだ大きな瞳で霜村冷司を不思議そうに見つめながら、とても小さな指で霜村冷司の小指を握った......赤ちゃんの五本の指は、霜村冷司の小指を握るだけで精一杯だった。その小さな手に握られた瞬間、霜村冷司はこの子の全世界となり、彼はもう一方の手でそっと目を覆った......彼は声を上げて泣きじゃくり、何度も和泉夕子に問いかけた。「一体いつになったら目を覚ますんだ。このままだったら、私はもうどうしたらいいんだ......」そばにいた白石沙耶香も、涙が止まらなかった。もう二ヶ月になるのに、和泉夕子には何の反応もない。まるで死んでしまったかのように、そこに横たわっている......三ヶ月目、相川涼介と相川泰は、ついに一人の年老いた東洋医学に精通する医師を見つけた。昏睡状態の患者を専門に診ている医師だった。ただ、高齢で、すでに引退して海外に住んでいたため、相川涼介と相川泰は街を歩き回り、多くの人を訪ねる中で、ようやく居場所を突き止めたのだ。佐藤医師は長い間、患者を診ていなかったし、相手が霜村グループの社長夫人だと聞くと、治せなかったら大変だと恐れ、断った。それを知った霜村冷司は、佐藤医師が和泉夕子を救えるかどうかは分からなくても、藁にもすがる思いで、三日間の時間を割いて、わざわざ海外まで飛んだ。多額の報酬を用意し、何度も頼み込んで、佐藤医師をA市に連れて帰った。佐藤医師は和泉夕子の状態を確認した後、目を覚ますかどうかは分からないと告げた。ただ、全力を尽くすとだけ言い、治療法は以前、如月尭が連れてきたモーアと同じく、東洋医学と西洋医学の併用だった。霜村冷司は佐藤医師に任せるだけでは不安だったの
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第1474話

霜村冷司は何も言わず、軽く頷いただけだった。今の彼は、和泉夕子が目を覚ましてくれるなら、何でもする覚悟だった。白石沙耶香は少し信じられない様子だったが、躊躇することなく霜村冷司に住所を教えた。住所を手に入れた霜村冷司は、すぐに神社へと向かった。白嶺神社では、麓から山頂の本殿までの長い階段を登る際、一段ごとに祈りを捧げれば、どんな願いも叶うと言われていた。未だかつて神を信じたことのない霜村冷司は、以前ならそんな話は馬鹿げていると思っていたが、今は......革靴にスーツ姿の霜村冷司だったが、全てのプライドを捨て、一歩階段を登るごとに祈りを捧げ、和泉夕子の無事を願った。終わりが見えない急な階段を、革靴でのぼり、靴擦れが起こっても、山頂に近づくにつれ空気が薄くなり、意識が朦朧としてきても、祈りを捧げ続けた。やっとの思いで山頂に着くと、本殿が目に入った。震える足で、御神体の前まで行くと、手を合わせた。血の気のない顔で、御神体を見つめる。どこか神秘的で、汚れのない空気に包まれながらゆっくりと目を閉じる......霜村冷司は......一つ、和泉夕子が目を覚ますこと。二つ、子供が健康であること。三つ、母子共に長生きすること。これ以外、他には何も要らなかった。もし神仏が願いを叶えてくれるなら、全ての財産を捧げてもいいと思っていた。もし神仏が財産を欲しないなら、命と引き換えにしても構わないと思った。霜村冷司はこの願いを胸に、神社に祀られている全ての神様に祈りを捧げた。彼の信心深さを見た神職は、絵馬を持ってきて、救いたい人の名前を書き、木の高いところに掛けると神に願いが届くのだ、と教えた。霜村冷司は感謝を伝え、絵馬を受け取ると、願い事を書き込み、震える膝を支えながら梯子を登り、絵馬を一番高い場所に掛けた。絵馬を結び終え、降りようとした時、木の枝の隙間から、自分の名前が書かれた古い絵馬が見えた。風が強く、一瞬しか見えなかったが、絵馬は風に飛ばされていった......梯子を降り、木の下に立った霜村冷司は、先ほど飛ばされた絵馬を探し回り、やっと自分の名前が書かれた絵馬を見つけた。長身の彼は、その絵馬を長い指で挟み、上から下へと眺め始めた......【一つ、沙耶香の無事を。二つ、志越の健康を。三つ、冷司の幸せを】
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第1475話

窓際のベッド。少しだけ開いた窓から、風に乗って雪がはらはらと入り込んでくる。白いレースのカーテンを揺らしながら、ひんやりとした空気が運ばれてきた。気温の変化を感じた和泉夕子は、天井から視線を移し、ゆっくりと窓の外へと向けた。そこには、一面の澄んだ空が広がり、霜の花びらのような雪が、ひらひらと舞い落ちていた......舞い込んでくる雪を捕まえようと、指を動かそうとした。しかし、少し動かすだけで、指先から全身へと痛みが広がった。お腹、心臓、下半身、そして頭まで、全身が痙攣するほどの激痛に、涙が溢れ出す......診察道具の入ったカバンを提げた佐藤医師が、病室のドアを開けて入ってきた。和泉夕子が泣いているのを見ると、彼の動きが一瞬止まった。すぐに和泉夕子の前に駆け寄り、まぶたをめくり、状況を確認する。意識がはっきりしていることを確かめると、大きな声で叫んだ。「沙耶香さん!夕子さんが目を覚ましましたよ!」洗面所でタオルを洗っていた白石沙耶香は、佐藤医師の興奮した声を聞き、急いで飛び出してきた。和泉夕子が目を開けて自分を見つめているのを見ると、白石沙耶香は鼻の奥がツンと痛み、胸にしまっていた感情を一気に爆発させた。「夕子!」泣きながら和泉夕子の元に駆け寄り、その手を握りしめた。白石沙耶香は嬉しくて涙が止まらなかった。「やっと、目を覚ましたのね!」半年だ。このまま目が覚まさなかったら、霜村冷司が持ちこたえられないのはもちろん、白石沙耶香自身も限界だった。神は見ていてくれた。やっと和泉夕子が目を覚ましたのだ。白石沙耶香が泣きじゃくるのを見て、和泉夕子は手を伸ばして涙を拭ってあげたかった。しかし、痛みがひどくて動けない。唇を震わせ、「沙耶香......」と呟くのが精一杯だった。名前を呼んだだけで、喉はまるで刃物で切り裂かれたように痛んだ。もう声が出せない。それを見た佐藤医師は、急いで診察道具のカバンを開け、数本の医療針を取り出し、和泉夕子の腕に刺す。針を指してもらうと、和泉夕子の痛みはいくらか和らいだが、それでもまだ痛かった。特に、体中に繋がれた管が、ひどく不快だった。もがきながら管を抜こうとする和泉夕子の手を、佐藤医師は押さえた。「目を覚ましたばかりですから、まだ治療が必要なんですよ。治るまでは、もう少し我慢してくださいね」不快
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第1476話

白石沙耶香は絶望に打ちひしがれ、椅子に倒れ込んだ。「佐藤先生、彼女、記憶喪失になっちゃったんですか?どうして覚えてることが18歳以前のことだけなんでしょうか......」佐藤医師は我に返り、「私にも分かりかねます。まずは検査してみないと」と言った。白石沙耶香はすぐに立ち上がった。「先生に検査の手配をお願いしてきます。できることなら、冷司さんが神社から戻る前に治せればいいのだけれど......」白石沙耶香は霜村冷司を心底心配していた。だから、彼が神社から戻る前に和泉夕子の記憶を医師たちが取り戻せることを願っていたのだ。しかし、検査後、医師たちは白石沙耶香に和泉夕子は脳出血による一過性の記憶喪失であると告げた。つまり、18歳以前のことは覚えているが、それ以降の記憶はないのだと。その結果を聞き、白石沙耶香は唖然とした。「一体いつになったら記憶は戻るんですか?」医師は報告書を置き、「いつ戻るかは、患者さん次第としか言えません」と答えた。白石沙耶香は尋ねた。「薬で治療することはできるんですか?」医師は言った。「記憶というものは、薬でどうにかなるものではないんです。刺激を与えるしか方法がありません」刺激と言うならば......白石沙耶香は和泉夕子が命がけで産んだ赤ちゃんを思い出し、慌てて立ち上がった。この半年間、赤ちゃんは白石沙耶香が育ててきた。母乳も、彼女の子供と一緒に授乳し、決して他人に頼ろうとはしなかった。彼女と霜村涼平の細やかな世話のおかげで、赤ちゃんは今ではすくすくと育ち、ぷくぷくとした愛らしい姿になっていた。白石沙耶香は、和泉夕子がこんなに可愛い赤ちゃんを見たらきっと記憶が戻るだろうと思い、霜村冷司が戻る前に、家に帰って赤ちゃんを連れてこようと考えた。ところが、病院を出た途端、桐生志越とばったり出会ってしまった。「沙耶香、夕子の今日の様子はどんな感じ?意識が戻る兆候はあった?」白石沙耶香は足を止め、複雑な表情で言った。「意識は戻ったんだけど......」和泉夕子が目を覚ましたと聞き、桐生志越の暗い瞳に、ぱっと光が灯った。「よかった!会いに行ってくる」桐生志越が興奮して振り返った時、白石沙耶香は彼の腕をつかんだ。「意識は戻ったんだけど、記憶喪失みたいなの。18歳以前のことしか覚えてない」桐生志越は体を硬直
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第1477話

桐生志越は視線を落とし、和泉夕子の目に映る自分の顔を見つめた。その瞳に、思わず心を奪われた。しかし、彼女がもう自分のものではないことを知っていたため、胸の高鳴りを抑え、苦々しく言った。「違う」桐生志越との子ではないということは、霜村冷司との子だ。全く知らない名前、全く知らない人。和泉夕子はなかなか受け入れられなかった。「私たちずっと一緒にいるって約束したのに、どうして別れちゃったの?」白石沙耶香も医師も霜村冷司が夫だと言う。でも、自分が一番結婚したかったのは桐生志越なのに、どうして別の人と結婚してしまっているのだろう?しっかりと握られた指を、少しずつ離していく。桐生志越は心の中で葛藤した末、優しく和泉夕子の手を振りほどいた。「僕が、愛せなくなったんだ......」自分が記憶喪失になったこと、その間に色々なことが起こったことは分かっていた。それでも、この言葉を聞いた和泉夕子は、とても悲しかった。「志越、あなたは永遠に私を愛するって言ってくれたの。だから、そんな言い訳、信じないから」自分は永遠にお前を愛すだろうが、でもお前は違うんだ。桐生志越はそんな言葉を胸の奥にしまい込み、ただ彼女を慰めた。「お前には、僕よりももっとお前を愛してくれる人がいるんだ。彼が戻ってきて、彼に会ったら、僕たちがなぜ別れたのか分かると思うよ」和泉夕子は、桐生志越の赤くなった目を見て、何かを悟ったようだ。そして、ゆっくりと俯いた。「私が他の人を好きになったから、別れたんだね」桐生志越が何か言おうと口を開いたその時、相川涼介と相川泰に支えられた長身の男が、よろめきながら病室に飛び込んできた。白石沙耶香は霜村冷司に連絡していなかった。連絡したのは医師だった。電話を受けた時、男はまだ神の前でひざまずき、天に祈っていた。和泉夕子が目を覚ましたという知らせを聞いた時、両ひざはもう立ち上がれないぐらいだめになっていて、相川涼介と相川泰に支えてもらい、どうにか病院に戻ってきたのだ。しかし、医師は霜村冷司に、和泉夕子が記憶喪失になったことを伝えていなかった。ただ意識が戻ったとだけ伝えていた。今、和泉夕子が目を覚ましたのを目の当たりにし、霜村冷司はこの半年間張り詰めていた体から、急に力が抜けるのを感じた。そして、絶望に満ちていた色気のある目にも、再び生きる希望の光が灯った。彼
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第1478話

数多の神に自分の命と引き換えに和泉夕子を助けてくれ、と祈った。今、神々は命は返してくれたものの、和泉夕子の記憶は奪って行ったようだ。彼女は記憶と命を交換したことによって、目を覚ましたのだ。そう自分に言い聞かせたものの、何故か霜村冷司は笑いが止まらなかった。まるで十数年間、経験してきた全てが、儚い夢だったように......やつれた顔、充血した目、そして苦笑いを浮かべる彼を見て、和泉夕子の心臓は縮こまり、苦しく締め付けられた。心臓に何か異変が起きたと思った彼女は、手を当ててみた。すると異様な痛みはすぐに消えた。その隙に桐生志越はもう一方の手を解く。「夕子、もう旦那さんが戻ってきたんだ。彼とゆっくり話をしなよ。僕はこれで失礼するから。また近いうちに来るからね」桐生志越が踵を返そうとすると、和泉夕子は焦って彼を呼び止めた。「志越、行かないで。彼のことは覚えていないの。一人にしないで、怖い」怖い。その一言が霜村冷司の心臓に突き刺さり、身動き一つできなくなった。太い釘が心臓を貫通し、じわじわと命を蝕んでいくのを、ただ感じるしかなかった......ベッドに寄りかかっていた霜村冷司は、しばらく沈黙した後、濃い睫毛を伏せて、恐怖に満ちた女性を見つめた。「私が怖いのか?」和泉夕子は彼自身ではなく、見知らぬ存在に対する恐怖を感じていた。しかし、それをどう表現すればいいのか分からず、沈黙を選んだ。そして助けを求めるように、桐生志越に視線を向けた。霜村冷司は、彼女が桐生志越をどれほど愛していたのか、これまで見たことがなかった。夢の中で彼の名前を呼ぶのを聞いたことはあったが、今、実際に目にしたことで、霜村冷司は今までの全ての信念を失った。彼は気付かぬうちに、爪が皮膚を切り裂き、血が滲み出るほど強くシーツを握りしめていた。痛みを感じた霜村冷司は握りしめていた手を緩め、ゆっくりと身体を起こす......彼は困惑と絶望を滲ませながら、桐生志越に言った。「私がいると彼女を怖がらせてしまう、だからここに残って彼女に付き添ってくれないか。私は......帰る」そう言った途端、霜村冷司の目は潤んだ。彼らに見られないように、膝の痛みとふらつく体を支えながら、壁に手をついて、背を向けた。よろめく後ろ姿を見て、和泉夕子の心臓は再び痛み出した。今度は、霜村
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第1479話

桐生志越は病室のベッドのそばに座ると、優しく落ち着いた声で、二人の出会い、恋に落ちた経緯、そして生死を共にした出来事をすべて和泉夕子に語った。話を聞き終えた和泉夕子は、少し呆然としたが、すぐに我に返り、淡々とした口調で言った。「志越、なんだか物語を聞いているみたい。私の人生でこんなことが起きるなんて、信じられないわ」桐生志越は唇の端を上げ、かすかに微笑んだ。「僕が記憶を失っていた頃、お前が訪ねてきて、僕たちの間の出来事を話してくれた時も、まるで物語を聞いているようだった。だから、自分が持っていない見知らぬ記憶を受け入れることに抵抗を感じていた。だが......」桐生志越は言葉を一旦止め、深くため息をついた。「記憶が戻った時、僕はひどく後悔した。お前が他の男を愛し、その男と一緒にいる姿をただ見ていることしかできなかったから。僕は、もうその時お前を愛する資格を失っていたんだ......」和泉夕子は何か言おうと口を開いたが、桐生志越は彼女を遮った。「夕子、これらのことを話したのは、僕の元に戻ってこいと言うためじゃない。記憶を失ったからといって、愛する人を遠ざけるようなことをしてはいけないと伝えたかったんだ。僕と同じように後悔をしてほしくないから」彼女はゆっくりとまつげを伏せ、霜村冷司の絶望的な姿を思い浮かべた。まだ見知らぬ人のように感じるが、その男性が自分を深く愛していることは感じ取れた。だから、彼女は戸惑っていた......彼女は眉をひそめ、彼にまつわる出来事を必死に思い出そうとしたが、何も思い出せない。むしろ、考えれば考えるほど痛みが増し、頭が爆発しそうなほど痛んだ。その痛みは全身の傷にまで広がっていく......彼女はついに痛みに耐えきれず気を失ってしまった。桐生志越は慌てて医師を呼びに行った。赤ちゃんを抱いて駆けつけた白石沙耶香は、和泉夕子が再び気を失っているのを見て、顔面蒼白になった。医師が駆けつけ、蘇生処置をした後も、和泉夕子は昏睡状態のままであった。佐藤医師でさえ、呆れたように言った。「記憶を失っているんです。あなたたちは焦って、刺激を与えすぎたんですよ。記憶を取り戻すには、段階を踏む必要があるんですから......」赤ちゃんを使って和泉夕子に刺激を与えようと考えていた白石沙耶香は、すぐにその考えを捨てた。「今の彼女の状態
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第1480話

霜村涼平が駆けつけて、皆に霜村冷司の脳内のチップはウイルスに覆われていて、少しでも動くと感染が爆発的に広がると伝えた。一同は霜村冷司を危うく死なせてしまうところだった。白石沙耶香はこのチップのことで頭が真っ白になった。相川涼介と相川泰は、このチップが闇の場で埋め込まれたことを知ると、壁を殴りつけて怒り狂った。「闇の場の奴ら、こんな残酷なことをするなんて!」脳に何かが入っているなんて、ウイルスが爆発的に広がるかどうかはさておき、痛みだけでも死ぬほどだろう。なのに霜村冷司は、一言もそんなことは言っていなかった。おかげでみんなは今まで何も知らなかったんだ。もしもっと早く知っていたら、あの時闇の場で憂さ晴らしにもっと何人か殺していたのに。霜村冷司の脳にチップがあることは、病院で発覚してしまい、隠しきれなくなった。霜村家一同は、すぐにこのことを知り、病院に駆けつけた。この時、霜村冷司は既に目を覚ましていた。霜村家の人々の怒りの声に、病床の男は全く反応を示さず、ただ顔を横に向け、窓の外の降りしきる雪を眺めていた......白石沙耶香だけが、彼が和泉夕子に傷つけられたことを知っていた。だから、他の人が怒りに燃えている中、白石沙耶香はただ心を痛めていた。しかし、何も言うことができなかった。皆が帰って行った後、白石沙耶香は霜村冷司の前に歩み寄り、優しく声をかけた。「彼女は一時的な記憶喪失なんです。きっと記憶は戻りますから」霜村冷司の濃いまつげが軽く震えたかと思うと、すぐに伏せられ、目の奥に燃え上がった希望を覆い隠した。どうやらこの男が気にしているのは、和泉夕子の記憶喪失ではないようだった。男自身も、自分が何を思っているかも、よくわからなくなってきた。いや、もしかしたら分かっているのかもしれない。でも、そんな自分は、気にしすぎているように思えた。彼女が一番最後に愛していたのは、明らかに自分なのに、なぜ彼女が誰を一番愛していたかを気にしているんだ?もしかしたら、一時的な記憶喪失が永続的なものになるかもしれないと思っているから、こんなにも気にしてしまうのだろうか。どちらにせよ、桐生志越が良い例だ。記憶喪失のせいで最愛の人を失った。もし和泉夕子も記憶喪失のせいで、完全に自分を拒絶したら、自分は一体どうすればいいのだろうか?霜村冷司はそこまで考えると、苦
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