All Chapters of スウィートの電撃婚:謎の旦那様はなんと億万長者だった!: Chapter 901 - Chapter 910

960 Chapters

第901話

「彼女が運が良いのではなく、彼女の背後にいる人物が強いの」雪子は手すりを強く握りしめながら言った。「その人物と彼女を引き離せさえすれば、彼女はただの好きなように弄ばれる存在にすぎないわ」「じゃあ、その背後の人物って一体誰なの?」佳恵は不安げに尋ねた。この人は、何度も華恋が死の運命を避けられるようにしてきたのだから、きっと非常に強大な存在に違いない。まさか……稲葉家なの?でも華恋と稲葉家が関わっているのは、商治が水子を追っているからであり、水子がたまたま華恋の友人だからじゃないか?「それはあなたが知る必要はない」雪子の声は硬かった。「最近、華恋が短編小説のコンテストに出ようとしているのを知ってる?そのコンテストの審査員の一人がハイマンなのよ」佳恵は、ハイマンが何をしているかなんて気にしたことがなく、当然その短編小説コンテストのことも知らなかった。「あなたにもそのコンテストに出てもらいたいの」佳恵は聞いた途端、即座に拒絶した。「いやよ、文字を見るだけで嫌になるのに、ましてや執筆なんて。そんなコンテスト、絶対出ない」「心配しないで。出品する作品は私が用意してあげる。あなたの役目は、結果発表の日に内応を務めて、私の人間が会場に入り込めるよう協力することだけ」「つまり、結果発表の日に南雲を殺すつもりなの?」「その通り」雪子は考えていた。華恋の実力なら必ず賞を取るだろう。その時は必ず会場に来るはずだ。あの日は警備も何倍にも強化されるだろうが、人混みが多い分、絶好のチャンスでもある。どうせ、之也の狼組織の連中は皆死兵だ。任務さえ果たせれば、それでいい。佳恵は一気に乗り気になった。「いいわ、私、参加する」華恋を殺せるなら、彼女は何でもやってやる。雪子は満足そうに言った。「よし。作品は後で送るから、ちゃんと投稿しておきなさい」「分かった」佳恵はふと思い出し、雪子を呼び止めた。「ちょっと待って。どうせ私が出場するんだし、作品も代筆してもらうんだから、すごく上手い人に頼んで、私を一等賞にしてくれない?そうすれば、いろんな人の口を塞げるでしょ」以前、みんなこう言っていた。ハイマンはあんなに文才があるんだから、その娘である彼女も優秀で当然だろう。その時は気にしなかった。でも彼女は自分がハイ
Read more

第902話

貴仁の部屋の中、厚いカーテンは閉ざされ、一筋の光も差し込まない。机の上のパソコン画面だけが彼の瞳を照らし、画面の向こうの相手に、彼が眠っていないことを知らせていた。「俺にはまだ分からないんだ。どうしてお前は高坂佳恵の資料をわざわざハイマンに渡そうとする?今のところの調査結果では、あいつはハイマンの娘じゃない可能性が高いが、彼女が絶対に娘じゃないと証明できる決定的証拠もないだろ?もしかしたら、あの時入れ替えられた子供が、また入れ替えられたってことだってあり得るじゃないか?」パソコン画面の中で、宇都宮峯はグラスに酒を注ぎながら、世間話のように語りかけた。彼の興味を引こうとするが、貴仁は自分の感情に沈み込み、独りで黙々と酒を飲んでいるだけだった。つまらないと感じた峯は、とうとうグラスを置いた。「おい、蘇我家の坊ちゃんよ。いい加減気取るのやめろ。呼び出したのはお前だろうが。俺は昼間の睡眠を犠牲にしてまで来てるんだぞ。なのに感謝の言葉もなく、一人で塞ぎ込んで酒飲んでるだけとはな」貴仁は杯を置き、峯を一瞥した。「ここには他に友達がいない。だからお前と話すしかないんだ」峯は笑った。「海外だけじゃなく、国内でも友達なんてほとんどいないだろ。それで、やっぱり華恋さんのこと、まだ進展なしってわけか?」華恋が記憶を失っていることは、峯も知っていた。ただ、それを知ったのも貴仁からだった。もともと華恋に頼まれて調べていた件はいくつもあったが、どれも成果が出なかった。諦めかけていた頃、神原家の令嬢が一歳のときに入れ替えられていたと、偶然耳にした。華恋から佳恵の話を聞いたことがあったため、深掘りしたのだ。調べた結果、佳恵は実は使用人によって入れ替えられた子だと分かった。そしてさらに調べると、ハイマンの娘は五、六歳のときに行方不明になったことも判明した。それを知った時点で、峯は何かおかしいと思い、貴仁に伝えた。だが当時の貴仁はまるで気に留めず、彼もこれ以上調べなかった。どうせ依頼主である華恋本人が記憶を失い、この件を完全に忘れてしまっていたからだ。だが昨日、貴仁から突然電話があった。その声は怒気を帯びており、峯は驚いた。生真面目で温厚な彼が怒るなんて初めてで、興奮した峯は、一体何があったと問いただした。だが貴仁は説明せ
Read more

第903話

貴仁は峯の驚愕などまるで耳に入らないように、黙って酒を注ぎ続けていた。……一方その頃、華恋が原稿執筆に専念するため、宴会の準備は自然と水子と商治に任された。「どの日がいいと思う?」水子はカレンダーを手に取り、一日ずつめくりながら最適な日を探している。だが商治は、彼女のほんのり赤らんだ頬を見つめるばかりで、心臓が高鳴り、思わず噛みつきたくなる衝動に駆られていた。「ちょっと、聞いてるの?」彼の上の空な様子に気づいた水子は、不満そうに彼の腹を小突いた。我に返った商治は、笑って水子の腰を抱き寄せた。「君がいいと思う日なら、どの日でも」「なにそれ、適当すぎない?」水子はぷいとそっぽを向く。「華恋はこれからあなたの妹になるのよ」商治は彼女の耳元に顔を寄せ、声を低めて囁いた。「もしこれが、俺らの結婚式の日取りを決める話なら、本気で考えるさ」言いながら、彼の鼓動はさらに速くなった。水子は答えなかったが、拒絶するわけでもなく、ただひらりとその話題を逸らした。「ところで、当日はどのくらい人を呼ぶの?」商治が唇を吊り上げ、返答しようとしたその時、スマホが鳴った。画面を見ると、研究室からの着信だった。電話を取り、数語耳にした瞬間、彼の顔色が変わった。そして立ち上がり、足早にバルコニーへ向かった。向こうはすでに説明を終え、彼の指示を待っていた。「分かった。すぐ行く」それだけ告げ、商治は通話を切った。「出かけるの?」水子はカレンダーを見たまま、彼の様子に気づいていなかった。商治は不自然に短く返した。「ちょっと行ってくる、すぐ戻る」「分かった。じゃあ他の日も見ておくわ。帰ってきたら一緒に決めましょう」「本当は君が決めてくれればそれでいいんだけど……」稲葉家の女主人として振舞っていいと言いかけたが、彼はその言葉を飲み込み、口に出さなかった。ホテルを出た商治は、研究室へ直行した。入口に着くと、電話をかけてきた共同責任者が待ち構えており、彼の姿を見るなり駆け寄った。「稲葉先生、やっと来てくださった!」「一体どういうことだ?」施錠された実験室を見つめながら、商治は怒りを抑えて問った。「私にも詳しくは分かりません。今日来た政府の役人が、我々の研究は危険性があるから続行でき
Read more

第904話

ホールは商治の口から、研究室が閉鎖されたと聞かされ、呆然とした。「稲葉先生、どうか落ち着いてください。すぐに電話で確認します」商治は天才医師であり、M国大統領が最も重視する人材の一人だった。さらに、稲葉家は侮れない大企業であり、加えて商治は時也とも深い付き合いがある。それらすべてがホールを不安にさせた。彼は慌てて部下に電話をかけ、事情を問いただした。外交官シャーマンの命令だと知るや、ホールは怒鳴った。「馬鹿げている!外交官ごときが、勝手に人の研究室を閉鎖できるものか!」部下が答える。「どうやらケイティさんが前から稲葉先生をお慕いしていたようですが、思いが叶わず、逆上した末にシャーマン氏に研究室を閉鎖させたらしいのです」「そんなのはなおさら無茶苦茶じゃないか!」ホールはさらに激昂した。「たかが男女の感情で稲葉先生の研究室を閉鎖するとは......もし騒ぎが大きくなったら、どうやって収拾をつけるつもりだ!」部下は黙り込んだ。「大統領に連絡しろ!」ホールは苛立ちを露わにした。部下は思わず口を開く。「局長、シャーマン氏は賀茂之也様とつながっているんです」つまり、このシャーマンなる人物の背後には之也がいる。そして之也は時也に次ぐ大富豪であり、軽んじられる存在ではない。さらに、時也と之也の関係は複雑に絡み合っている。迂闊に首を突っ込むのは賢明ではなかった。ホールはやはり迷いを見せた。部下は続けて言う。「しかもこの外交官は大統領の親友でもあります。長官、この件は関わらない方がよいかと」「だが稲葉先生のほうは......」ホールは眉間を押さえた。「仕方ない」深いため息をつき、ホールは商治に電話をかけ、事情を簡単に伝えるにとどめた。神々の争いに、ホールは凡人として、関わりたくなかった。商治も、シャーマンの命令と聞いてすぐに裏の事情を察した。「研究室は閉鎖されたんだ。みんな、しばらく休んでくれ」彼は部下たちに告げた。「この期間よく頑張ってくれた。再開の時期は追って知らせる。給料は変わらず支給するから安心してくれ」人々はそれを聞いて、しぶしぶ帰っていった。商治は最後に研究室を一瞥し、それから水子を迎えに行き、一緒に帰宅した。家に戻ると、時也もいた。「ただいま
Read more

第905話

之也は狡猾であり、そう簡単に対処できる相手ではなかった。「賀茂之也の方はどうなった?」華恋がここにはいないことを確認してから、商治が問いかけた。「もう布陣を始めている」「どうやって動くつもりだ?あの男は用心深く、周囲には腕利きばかりだ。消そうとしたって、そう簡単にはいかないぞ」「誰が消すなんて言った?」時也はまぶたを持ち上げ、商治を横目に見た。商治は訝しげに言った。「じゃあ......」「彼が僕を生かしたように、僕も彼を殺さない。ただし、あいつは華恋を狙った。その代償は払わせてやる。惨烈にな」商治は彼が軽口を叩いていないことを理解していた。「聞いた話だが、最近は耶馬台国で小早川の指揮のもと、SYの耶馬台国支部の子会社が、新エネルギー車、通信機器、不動産などの分野で市場シェア一位を獲得しているらしい。このままいけば、賀茂家の耶馬台国での生産領域は急激に圧縮されるだろう。そうなれば、哲郎は圧迫を余儀なくされた賀茂家を抱えて惨めに生きるしかなくなる」時也は一瞥をくれた。「彼にそんな機会が残されていると思うか?」商治の心は震えた。「賀茂家全体を奪うつもりか?それは行き過ぎじゃないか。あまりに追い詰めすぎだろう。何にせよ、最初に耶馬台国へ行った時、賀茂家には随分助けられたじゃないか」「賀茂哲郎の命を今まで残してやった。それで十分に仁義は尽くした」商治は言葉を失った。しばしの沈黙ののち、時也はふと思い出したように言った。「そうだ。最近、賀茂之也は政治家を資金援助してている。彼の野心はSYに留まらない。叔父さんに早めに備えるよう伝えておけ」「まさか......」商治は愕然とした。「狂っているな。お前に対抗するためなら手段を選ばないのか?」「僕に対抗するためだろうが、自分のためだろうが、油断は禁物だ」商治がさらに言おうとした時、二階から華恋と水子が降りてきたので、慌てて口を閉ざした。「さっき華恋の小説を読んだんだけど、本当に素晴らしかった。食事だって呼ばれなければ、まだ読み続けていたわ」水子は階段を降りながら力説した。「商治も読んでみてよ。本当に面白いから」華恋の視線は期待を込めて時也に向けられた。「Kさん、もう読み終わった?どう思う?」時也はうなずき、立ち上がった。
Read more

第906話

残念ながらその喜びは長くは続かなかった。華恋が完成した原稿を時也に渡したとき、彼は言った。「帰って翻訳するよ、できたら部下に届けさせる」華恋は無言になった。時也の車が遠ざかるまで、華恋はただ唇を噛みしめ、魂の抜けたように部屋へ戻った。何が起きているのか分からない。ただ一つ分かるのは、Kさんが意図的に距離を置いているということだった。もし過去の記憶を取り戻せば、Kさんとの関係もこんなに変な雰囲気じゃなくなるのかな。その考えを水子に話した時、彼女は驚きのあまり顔色を変えた。「華恋、絶対にそんなふうに思っちゃだめ。いい?Kさんがあなたを無視するなんて、絶対にありえないの」華恋が不思議そうに見つめると、水子はさらに強調した。「よく覚えておいて。そんなこと考えず、今をしっかり生きるの。それでいいのよ」「つまり、今の生活が、記憶を失う前よりいいって思うの?」水子はしばらく真剣に考え込んだが、本当は答えに窮していた。けれども華恋の体を思って、言った。「もちろんよ。今の方がずっといいに決まってる」華恋はその言葉を素直に信じた。「じゃ水子は?兄さんの方とどうなの?」「わ、私たち?それはまあ......あんな感じよ......」「本当にここで働くつもりはないの?」華恋は、商治が聞けなかった質問を口にした。水子はソファに腰を下ろした。「うん。このプロジェクトが終わったら帰るつもり。私の生活の中心はずっと国内にあるの。ここで一からやり直すなんて......もし商治に捨てられたら、私は全部失うことになる。そんなこと、毎日のように起きてるでしょ。私はそのリスクは負いたくないの」華恋は笑った。「でも、もし兄さんがここでのすべてを捨てて、あなたと一緒に耶馬台国に帰るって言ったら?」「ありえない」水子は即座に、断固とした口調で答えた。「彼は絶対にすべてを捨てて私と帰るなんてしない。ここで彼は多くの人から尊敬され、名医として慕われてる。耶馬台国に帰れば最高の待遇は受けられるかもしれない。でもここでの立場に比べたら、雲泥の差よ。何よりも、ここには彼の両親や家族がいる。耶馬台国には何もない。私と帰れば、同じようにリスクを背負うことになる」華恋は少し考え込んだ。「でも私は、彼があなたと一緒に帰る気がす
Read more

第907話

華恋はやはり問題ないと思った。「いいわ、じゃあそう決まりね」水子はそう言い終えると、華恋としばらく話してから外へ出た。ところが、出た瞬間、客間で電話をしている商治の姿を見た。「どんな手を使っても構わない、この土曜日までに必ず研究室の件を片付けろ。来週にはもう一度実験を再開するんだ!」電話口で相手が何かを言うと、普段は温厚な商治が怒りをあらわにした。「くだらない言い訳はいらない。その時間があるなら早く問題を解決しろ!」そう言い放ち、電話を切った彼は、振り返ってちょうどソファに携帯を投げ置こうとしたとき、二階に立つ水子を見て、慌てて表情を整えた。「帰るのか?」「うん」「送っていくよ」水子は唇を動かし、結局は小さくうなずいた。商治は鍵を取り、水子をホテルまで送り届けた。車中、二人は一言も話さなかった。水子は何度か、商治に何があったのか尋ねようとしたが、最後まで飲み込んだ。彼女が帰国すれば、この関係も終わりを迎える。これ以上続けても意味はない。それに、彼女には分かっていた。千代は息子に早く結婚してほしいと願っていることを。「じゃあ、先に行くね」そう言って水子は上の階へと上がっていった。商治はその背中を見送り、大きく息を吐いたあと、疲れたように空を仰ぎ、アクセルを踏んで走り去った。水子は部屋の前に着き、いつものようにカードキーを取り出してドアを開けた。次の瞬間、思わず飛び上がるほど驚かされた。「どうして私の部屋にいるの?」ベッドに悠然と腰掛けているケイティを目にして、水子は嫌悪を隠さず眉をひそめた。ケイティは言った。「この国では、私が行きたい場所にはどこにでも行けるのよ」水子の眉はさらに深く寄った。「これは犯罪よ!」ケイティは小さく笑った。「ふふ、じゃあ警察を呼んでみなさいよ」水子は相手を無視し、すぐに携帯を取り出してホテルのマネージャーに電話をかけた。だが予想外にも、そのマネージャーは電話を切ってしまった。顔色が変わった水子を見て、ケイティはいっそう得意げになった。「無駄よ。言ったでしょう、この国では私は完全に自由なの。稲葉先生の研究室を閉鎖させたのも、私の一言で済む。やりたいことは何でもできるの」水子はふと、先ほど商治が電話で口にしていた研究室の件を思い
Read more

第908話

水子は冷ややかに笑った。「それは商治に言うセリフじゃなかったの?私に言ってどうするつもり?」ケイティは言った。「もちろん彼にも言うつもりよ。ただ、そのときあんたが彼にしがみついて離れないんじゃないかと心配なだけ」水子は笑みを浮かべた。「それはどうぞご安心を。数日後には帰国するの。だから、もし私が彼にすがりつきたくてもできないわ。よほどのことがない限り......」「よほどのことって?」「......彼が一緒に耶馬台国へ来るのでなければ」ケイティはそれを聞いて笑った。「夢でも見てるの?稲葉先生があんたと一緒に耶馬台国へ行くなんてあり得ないわ。彼はすでにこの国で大成功を収めているのよ。そんな彼が、耶馬台国で一からやり直す?そんな愚か者はいないわ!」その言葉は、水子自身の心の奥にもあった本音だった。けれど、ケイティの口から言われると胸の奥がざわついた。「そうわかっているのなら、どうしてわざわざ私に絡むの?」ケイティは言葉に詰まった。苛立ったようにベッドの上のバッグをつかみ上げると、「覚えてなさい。稲葉先生はすぐにあんたを捨てるわ!」そう吐き捨てて、水子をきつくにらみつけ、大股で出て行った。水子はその背中を見送りながら、彼女の最後の言葉が何度も脳裏に響いた。確かに、彼女と商治の縁は、もう尽きかけているのかもしれない。稲葉家。商治が家に戻るとすぐ、部下からの電話が入った。「稲葉先生、シャーマン氏の秘書と連絡が取れました。秘書の話では、研究室の再開は不可能ではありませんが、先生ご自身でシャーマン氏の邸宅まで行く必要があるとのことです」商治は拳を固く握りしめた。「分かった」そう言って電話を切った。息子の帰宅に気づいた千代は、彼が再び出て行こうとするのを見て呼び止めた。「また出かけるの?」「少し片付けなきゃならないことがある」そう言いながら、彼は玄関へと急いだ。母は追いかけてきて言った。「何の用事があるの?あんた、この数日顔色がおかしいわね。水子と喧嘩でもしたの?」「してない」それでも心配な母は彼の腕をつかみ、真剣に言った。「水子にとって、ここは見知らぬ土地なのよ。もし本当に喧嘩したなら、あんたの方から折れてあげなさい。いい?絶対に、慣れない土地で彼女に傷
Read more

第909話

この邸宅は稲葉家ほどの規模ではなかったが、古風で自然な趣があり、芸術的な鑑賞価値に富んでいた。邸宅の執事は商治を客間へと案内した。「稲葉先生、シャーマン様はまだ書斎で仕事をされています。少々お待ちくださいませ」そう言うと執事はそのまま下がり、茶の一杯すら出されなかった。十分以上が過ぎてようやくシャーマンが二階から降りてきた。商治の姿を見ると、驚きと喜びが入り混じった表情を浮かべた。「稲葉先生、どうしてわざわざ私のところに?」シャーマンは背が高く整った顔立ちをしており、年齢の跡こそ刻まれていたが、若き日の優雅さはいささかも失われていなかった。商治はいきなり核心を突いた。「シャーマン氏、私の研究室を閉鎖させたのはあなたですね」シャーマンは顔色ひとつ変えずに言った。「研究室が閉鎖された?そんな話、私は知らないが」商治は遠回しな言葉を避け、冷静に告げた。「率直に言いましょう。望んでいるものは何ですか」シャーマンはその言葉に口元をほころばせた。「稲葉先生がそこまで言うなら、私も隠すつもりはない。研究室を閉じさせたのは確かに私だ。ただ、これはすべてあなたのためでもあるのよ」商治は目を逸らさず、じっと彼を見つめた。シャーマンは落ち着き払って説明を続けた。「実は、大統領が最近ある土地を欲しているのです。ところがその土地はモント氏の所有で、この老人は極めて頑固者。誰が説得してもイエスとは言わない。しかし調べてみると、あなたはかつて彼の命を救ったことがあるとか。彼はあなたを非常に尊敬していると聞いた。というわけで、もしあなたが出向いて説得すれば、必ずや土地を大統領に譲るはず。もしこの件を成功させてくだされば、大統領は必ずあなたに大いに感謝するでしょう。これは素晴らしいことだと思わないか?」商治はわずかに笑みを浮かべた。「確かに良い話かもしれませんね。ただ、私の性分はご存じでしょう。私は甘い言葉に優しいが、強引な手段は嫌いです。研究室を閉鎖することで私を脅し、従わせようとする......こんな頼み方は初めて見ました」シャーマンは苦笑した。「実はこの方法を取ったのも、やむを得ずのことだった」商治は黙って彼を見据えた。しばらくしてシャーマンは執事に茶を運ばせ、そのあとで言った。
Read more

第910話

商治がすでに核心を突いたことで、シャーマンも遠回しにせず本音を口にした。「そうだ。実験を再開したいのなら簡単なことだ。モントー氏を説得し、私の娘を娶ることだ」シャーマンは笑みを浮かべて場を和ませようとした。「稲葉先生、どちらもあなたにとっては容易いことだ。あなたが頷くさえすれば、すぐにでも実験室を再開させてやろう」商治は彼を一瞥した。「では、ごゆっくりお待ちください。到底こないその日を」そう言うと踵を返し、その場を後にした。商治が去るのを見届け、二階に身を潜めていたケイティがついに我慢できず駆け下りてきた。「お父さま......」シャーマンの目にはまだ怒気が残っていたが、娘を見て無理やり笑みを作った。「心配ない、彼は長くは持たん。実験室が早急に再開できなければ、これまでの努力は水の泡になる」ケイティは不安げに眉を寄せた。「でもお父さま、彼はあなたに頭を下げる気はないように見えました」「無駄だ。実験を再開したいなら、必ずこの二つの条件をのまねばならん。この件が大統領に知られたところで結果は同じだ。ましてや実験室一つなど、大統領が気にかけることはない」「もし気づかれたら?」ケイティは思い出した。商治の親友は時也である。もし時也が大統領に報告すれば、可能性はゼロではない。「心配するな。私たちには後ろ盾がある、問題はない」娘を安心させると、シャーマンは彼女を部屋へ戻し、自らは電話をかけた。通話がつながる前に背筋を伸ばし、衣服を整える。やがて電話がつながると、彼の態度はさらに恭しくなった。「賀茂さん、ご指示どおりに進めました」受話器の向こうから之也の含み笑いが聞こえた。「ほう?彼は承諾したのか?」シャーマンは頭を垂れ、気まずげに答えた。「まだ......ですが、彼はすでに十年もその実験を続けています。彼にとって命より大事なものです。必ずや再開のために我々を助け、モントー氏を説得し土地を売らせるでしょう」之也は眉を上げた。「その土地が俺の狙いだとは言わなかったな?」「い、いえ!ご指示どおり、大統領が望んでいるとだけ伝えました」「よし、よくやった。この件が成功したらお前にも相応の見返りはある。ただし、もっと圧をかけろ。俺は長く待てん」「承知しました」之也は半ば開
Read more
PREV
1
...
8990919293
...
96
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status