Tous les chapitres de : Chapitre 1221 - Chapitre 1230

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第1221話

修の語気が少し荒くなると、侑子は怯えたように体を震わせた。ベッドの上で身を起こし、布団をしっかりと胸元に抱きしめて、体を縮めた。「昨夜、ふと思い出したの......元カレが隠れていそうな場所。それで伝えに来たの。でも、部屋に入った瞬間、修が私をベッドに引きずり込んで......」侑子は唇を噛み、視線を落とした。涙が、途切れなく頬を伝っていく。その言葉に、修は必死に昨夜の記憶を探ろうとした。だが、頭の中にはぽっかりと空白があり、どうしてもその場面が思い出せなかった。「つまり......俺が無理やり......?」「ち、違うの。そんなつもりじゃなくて......」侑子はさらに毛布を握りしめた。「修が私を欲しがってるなら、私は......全然構わないの。むしろ、嬉しかった......私、断る気なんてなかったし......でも、起きてすぐに責められるなんて......私、何か悪いことしたの?」修の頭に、昨夜の断片的な情景が浮かんだ。確かに感情が高ぶっていた。そして―若子の姿を見た気がした。......薬のせい、なのか?急に頭痛が襲ってきて、修は顔をしかめながら、近くの服を引っつかんで羽織った。そのままベッドから出て、無言で浴室へと歩き出す。浴室の前で足を止め、振り返って一言だけ呟いた。「......服を着て、自分の部屋に戻れ」その背中には、苛立ちと後悔がにじんでいた。バタン、と扉が閉まる音が響く。その音を聞きながら、侑子はうつむいたまま、涙を静かに流し続けた。......一時間ほど経って、侑子は窓辺に立っていた。外では、修の車が家を離れていくのが見えた。昨夜のことを、彼はどう思っているんだろう?何も言わずに出ていくなんて......まさか、何の責任も取るつもりがないの?侑子はそっと、まだ平らな自分の腹を撫でた。彼女は、本当に修の子どもを授かることができるのか?修は例の薬を手に、これまで診てもらっていた医師の元を訪れた。そして、昨夜の件について、正直に話した。医師はしばらく黙り込み、手元の薬の瓶を取り上げて中身を確認した。「......藤沢さん、前回この薬を処方した日から、まだそんなに日が経ってませんよね。本来なら、こんなに減ってるはずはない......まさか、用量を超えて服用してたん
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第1222話

修は前に処方された薬を持って、薬品品質検査のラボへと足を運んだ。そこには顔なじみの研究員がいて、その瓶を託し、成分の分析を依頼した。しばらくして、結果が出た。薬は、確かに正規の病院で処方された精神安定剤。異常は見つからなかった。それを見た修は、ほっとするどころか、かえって心が重くなった。つまり―薬はすり替えられてなどいなかった。全部、自分の思い過ごしだったのか。そう思いながら車を走らせて自宅に戻る。ここ最近、薬を常に規定量以上に服用していた。医師からは再三注意されていたにもかかわらず。こんなことになったのも、結局は自業自得。修は長い間、この薬にすがるようにして精神の均衡を保ってきた。そうしなければ、死にたい衝動が何度も頭をよぎったから。車の音を聞いて、侑子が慌てて玄関から走り出てきた。だが、修はそのまま冷たい表情で彼女の前に立つ。「話がある」「昨夜のことなら、大丈夫。私は何もなかったことにできる。気にしないでいられるなら、それでいい。責任なんて求めないし、誰にも話さない」侑子は気遣わしげに言葉を重ねた。修に負担をかけたくなかった。彼が逃げないように、安心させたくて。だが―修の表情は変わらない。氷のように冷たく、ただ黙って彼女を見つめていた。「修......具合悪いの?それとも、何か気にしてるの?話してくれれば、私、何でも聞くから......ね、私は責任なんて―」修は、遮るように言った。「侑子―昨夜、俺はお前を若子だと思っていた」その声は、底冷えするほど冷たかった。「お前の方が、それを一番よく分かってるはずだろ?」昨夜、覚えていることは少ない。でも―あのとき、彼は確かに若子を見ていた。幻覚だとしても、それだけは、はっきりと記憶に残っていた。侑子の表情が固まり、ゆっくりとうつむく。「......分かってる。でも、大丈夫。私は気にしない。あなたが誰を想っていても、私は怒らないし、嫉妬もしない。全部、理解してるから」「侑子、お前に理解してもらう必要はない。昨日のことは......俺が自分を抑えられなかっただけだ。もう、俺たちはこれ以上関わるべきじゃない」修はポケットから財布を取り出し、中から一枚の小切手を引き抜いた。「これを受け取ってくれ。そして、この家を出て行ってくれ―
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第1223話

あっという間に、半月が過ぎた。薬をやめた修の生活は、まさに地獄だった。処方された眠剤は夜に眠る助けにはなったが、情緒の不安定さまでは抑えきれない。医者のもとを訪れた修は、これが断薬による離脱症状だと告げられ、カウンセリングも受けた。だが、薬に頼れない日々が続くにつれ、修の精神はますます限界に近づいていた。家に戻っても、不眠は悪化。安眠薬さえ効かず、夜通し天井を睨み続ける日々。日中も集中力は散漫で、仕事どころではなかった。気づけば、誰に対しても苛立ちを隠せず、常にピリピリとした空気を纏っていた。総裁室。修は怒りに任せて、手元の書類を床へと投げつけた。「お前ら、何のために給料もらってる?この程度のこともできねぇのか、無能が!」役員たちは顔を青ざめさせて震えていた。―藤沢総裁は、こんな人じゃなかった。普段は冷静沈着で、たとえ部下が失敗しても感情的にならず、理詰めで対処していた。けれど、最近の彼は何かが違った。明らかに、壊れてきていた。「申し訳ありません!すぐに修正いたします!」「修正だ?そんなもん、ただの自己満足だろうが!」修の怒声が室内に響き渡る。その瞬間、胸の奥がきゅっと痛んだ。―離婚のことが、また脳裏をよぎる。何をしても無駄だった。どんなに努力しても、若子は戻ってこない。水を飲んでも、風を見るだけでも、若子のことが浮かんでくる。思い出すたびに、胸が締めつけられる。「出て行け!全員、出て行け!!」修の怒鳴り声が響いた。部下たちは慌てて書類をかき集め、逃げるように部屋を出ようとした。―そのとき。扉の向こうに、一人の女性の姿があった。「若奥様!?どうしてここに......」驚きに満ちた声が廊下に漏れた。「私はもう『若奥様』じゃないわ。あんたたちの藤沢総裁とは、すでに離婚したのよ」その声を聞いた瞬間、修の表情が凍りついた。信じられない思いで扉の方へ歩み寄ろうとした、そのとき―若子が、自ら足を踏み入れてきた。若子は、上品なグレーのセットアップに身を包み、静かに修の前まで歩み寄った。その姿には知性と芯の強さが漂っていて、修の荒れた空気をまるで無言で押し返すようだった。「昔はこんなに怒鳴る人じゃなかったわよね......何があったの?私たちのこと
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第1224話

以前に会ったとき、若子の言葉にはどこか棘があった。だが今は、穏やかだった。時間が経って、久しぶりに再会した修の様子を目にしたとき―彼女は思った。怒りや恨みよりも、胸の奥から浮かび上がったのは、かつて共に過ごした日々の記憶だった。修は、若子の言葉に呆然としながら、じっと見つめ返していた。「......自分のために生きる、か」小さく呟いたあと、突然、乾いた笑いを漏らす。「俺は、ずっと自分のために生きてるつもりだよ......元気にやってるし、心配なんていらない」どこか早口で、無理に明るさを装っているようだった。その様子は、誰が見てもおかしかった。無理に強がっているのが、痛いほど伝わってくる。若子は問い詰めようとはせず、そっとうなずいた。「そうだといいけど」修は一呼吸置いて、視線をずらす。「若子......お前と冴島って......」その言葉を言い切る前に、彼の呼吸が乱れ、胸の奥に鋭い痛みが走った。「修」若子ははっきりと口にした。「私の人生は、私のもの。あんたの人生は、あんた自身のもの......それでいいじゃない。もう、お互いのことは気にしないで」「......」修は何も言えずに黙り込んだ。彼女の言葉の裏にある意味を、彼はすぐに察した。―それはつまり、若子はもう、彼の人生にも心にも、踏み込む気はないということ。その瞬間―部屋のドアが開いた。曜が、書類の入った封筒を手にして中へと入ってきた。そのまま、真正面のソファに腰を下ろし、封筒をテーブルに置く。「用件ってなんですか?」若子がすぐに問いかけた。曜は封筒を指で押し出す。「開けてみて」若子と修は顔を見合わせる。そして修が封筒を手に取り、中身を取り出す。書類に目を落とした瞬間―眉がぴくりと動き、目の奥に驚きの色が走った。「これは......」「これは母さんの遺言状だ」曜はそう言いながら封筒の中身を指差した。「財産の分配については、もう何年も前に決めてあった。彼女の遺産は、四人で均等に分ける。修、若子、俺、それに光莉の四人だ」書類にはっきりと記されていた。石田華の所有していた財産―会社の株、不動産、車、土地......どれも明確に整理され、きっちりと分割されるように指示されていた。遺言は三年前
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第1225話

修がちょうど立ち上がろうとしたそのとき―「失礼します、藤沢総裁。警察の方がいらしてます」秘書がノックのあとに入ってきて、そう告げた。すぐに、二人の警察官が室内へと足を踏み入れた。「藤沢修さんですね」「はい......何か、ありましたか?」警察の一人が前に出て口を開いた。「あなた、山田侑子という人物をご存知ですか?」「知ってます......どうかしました?」「彼女はある殺人事件の容疑者として捜査対象になっています。我々の調査によると、彼女はここ最近、あなたと一緒にいたという証言がありまして。そのことについて、確認させていただきたくて」「殺人......?」修の表情が固まる。「誰が......死んだんですか?」「彼女の元交際相手―山田剛さん。川で遺体となって発見されました。死亡推定時期は半月前。捜査の結果、彼が最後に会ったのは山田侑子という証言があります。ですが彼女は、その時期ずっとあなたと一緒にいたと主張しているんです」その言葉を聞いた瞬間、修は思わず視線を横に逸らし、若子の方をちらりと見た。―彼女もすぐに察した。だが、若子の表情には特に動揺はなかった。侑子と修が一緒にいたことなんて、どうでもよかった。もう、自分とは関係のないことだった。「それじゃあ、私はこれで失礼します」若子は静かにバッグを手に取り、出口へと向かう。「待ってくれ!」修がすぐに彼女のあとを追った。若子は振り返る。「......何か、まだあるの?」「その......おばあさんの遺産のこと、ちゃんと話し合おう。今じゃなくてもいいから、近いうちに......ちゃんと、会って話そう」「言ったでしょ?いらないって」「それでも、一度はちゃんと話しておいた方がいい......大事なことだし、放棄するなら、それ相応の手続きも必要だ......会わないと済まない」若子はしばらく考えた末、小さく頷いた。「わかった。そっちの都合がついたら、また知らせて」そう言って、若子は静かに部屋を出ていった。......階下に着いたとき、背後から声がかかる。「若子、ちょっと待って」振り返ると、曜が立っていた。「どうかしました?」「最近、光莉と連絡取ってる?」若子は首を横に振った。「いいえ、もうし
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第1226話

修は、侑子にアリバイがあることを確認したうえで、彼女を保釈させた。外はすでに夜。風が冷たく、侑子は薄着のまま身を縮こませていた。修は無言でスーツの上着を脱ぎ、彼女の肩にかける。「警察の話じゃ、あいつが死んだのは半月前くらいらしい」修が言う。「死ぬ前に最後に会ったのは、お前だったそうだ」侑子の目は少し赤く、疲れた顔をしていた。「私も知らなかったの。あの夜、たしかに彼は来たわ。しかも、私を殴って......そのこと、修も知ってるよね。彼、恨み買ってる人間が多すぎて、いつ殺されてもおかしくなかった。あの夜だって、お金を無理にでも取ろうとしてた。完全に追い詰められてたのよ」修が黙ったままだったので、侑子は慌てて顔を上げた。「修、まさか......私がやったと思ってるの?違う、絶対に違う!私があの人に敵うわけない。私、そんなこと―」「もういい」修がその言葉を遮る。「お前がやったなんて言ってない。そうじゃなきゃ、証言なんてしない」「ありがとう......でも、あの人が死んでたなんて、ほんとに信じられない。この半月ずっと見つからなかった理由が、それだったなんて。川に遺体があったなんて」「......今夜は送らせる。しっかり休め」修は背を向けて歩き出した。「待って、修!」その声に、修は足を止める。「なんだ?」侑子は服の裾をきゅっと握り、明らかに緊張していた。「......半月前の、あの夜のことだけど......それから......私、生理が来てないの。もう十日以上遅れてる」修の表情が固まる。「なんだって?」「十日以上前には来てるはずだったの。でも来なくて、怖くなって......妊娠検査薬で調べたの」少し間を置いてから、侑子はおそるおそる顔を上げた。「修......私、妊娠してた」「......」修の顔がこわばり、眉間に深い皺が寄る。急に顔色が変わった。「お前......なんて言った?」侑子は慌てて言葉を重ねた。「私、妊娠検査薬で調べただけだから......もしかしたら正確じゃないかもしれない。ちゃんと病院で検査してくるよ。でも、もし本当に妊娠してたとしても......安心して。修には何の責任も―」「黙れ」修が鋭く言い放った。「お前、あの時......薬は飲まなかったのか?」
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第1227話

妊娠が確定した結果を前にして、修は椅子に座ったまま、長い間一言も発さなかった。侑子はその正面に座り、まるで叱られる子どものように俯いたまま。唇を噛みしめながら、そっと修の様子をうかがう。あの夜の後、彼女はすぐに「あの人」の元を訪ねた。―とはいえ、今でもその男の名前を侑子は知らない。ノラというその男は、彼女の体に様々な薬品を注入した。絶対に修の子を妊娠しなければならなかった。だからこそ、痛みに耐えながら、その「何か」を体内に受け入れた。―たとえその子が修の子でなかったとしても、「そうだ」と言い切れば、それは現実になる。修には否定できない。修は相変わらず無言のまま、検査結果の紙だけがテーブルに置かれている。侑子の胸は張り裂けそうだった。妊娠には成功したけど、修がその子を望まなかったらどうしよう?「修......何か言って。どんなことでも一緒に乗り越えられるよ」ようやく、修が顔を上げる。その目には冷たい影が宿っていた。「なんで、お前なんだ」「......え?」侑子は呆然と彼を見つめる。修は感情を押し殺すように、静かに口を開いた。「なんで、お前が俺の子を妊娠するんだ」自嘲するように笑う。「若子が俺の子どもを妊娠してくれたらよかった。けど、彼女は遠藤の子どもを産んだ。そして今、ようやく俺が父親になるってのに......その子の母親が、お前だなんて」その一言が、侑子の心を深く抉った。「修......母親が誰であっても、この子はあなたの子どもなの。あなたはもう、松本さんとは終わったの。これからの人生はこれからじゃない?あなたは父親になれるのよ」「......悪いけど、侑子。俺はこの子を産ませるわけにはいかない」修はその目を逸らさず、冷徹な声で言い切った。「最高の医者を手配して手術を受けさせる。必要な補償は全部する。でも―この子はダメだ」「修......どうして、そんな......これは、あなたの子どもよ?いらないって言ったら、それで終わりなの?」「......お前、本気でこの子を産みたいのか?」修の声は冷たくなっていく。「だから薬を飲まなかった?運を試して、見事に俺の子を授かったってわけか?」「違う!そんなつもりじゃ......」侑子の顔は青ざめた。「どうしてそんなふうに思うの?」
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第1228話

侑子が自宅に送られた後、ボディーガードはまるで彼女が逃げ出すのを警戒するかのように、一晩中玄関前で張り込んでいた。部屋の中で、侑子は枕に顔を埋め、声を殺して泣いていた。やっとの思いで授かった子どもだった。そう簡単に諦められるはずがない。これを失ったら、もう二度とチャンスは巡ってこないかもしれない。涙を拭いながら、彼女はスマホを取り出し、ある番号に電話をかけた。通話がつながると、侑子は声をひそめて言った。「修が明日、私を連れて中絶させるって......この子、いらないって......今はボディーガードが外に張りついてて、逃げられないの......どうしたらいい?」電話の向こうで、ノラは大きなあくびをしながら言った。「そんなに慌てる必要ないでしょ。まだ物語は始まったばっかりですから」「でも......明日には連れて行かれるのよ。この子、失ったら......私は、もうあなたと並ぶチャンスを失うの。お願い、何とかして」「まったく、君ってやつは......何でもかんでも僕に頼りすぎなんじゃないですか?君、使えないにもほどがあるんですよ」「私......」侑子は涙をぬぐいながら、かすれた声で言った。「じゃあなんで私をそばに置いたの?私がそんなに無能なら、どうして......?」ノラは鼻筋をつまみ、疲れた声で言った。「いいから、さっさと寝なさい。明日のことは......自然に片づきますから」「......何それ?」侑子が問い返すより早く、通話は切られた。「ちょ、ちょっと......!?」彼女は慌てて再発信したが、すぐにまた切られてしまった。スマホを握る手が震える。侑子は拳を握りしめ、そのまま枕を何度も何度も叩きつけた。怒りと不安と絶望が、胸の奥からこみ上げて止まらなかった。......翌朝早く、侑子はボディーガードに連れられて病院へ向かった。すでに修は到着していた。侑子の顔色はひどく悪かった。昨晩はほとんど眠れず、ようやく夜半過ぎに少しだけ眠れた程度。疲れ切った顔には、影が差していた。「手術の前に検査がある。最高の医師を手配した。無痛手術だから、身体への負担も最小限に抑えられるはずだ」「修......」侑子は彼の袖口をそっとつまんだ。「邪魔はしない。だから、この子と一緒に遠くへ行かせて。も
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第1229話

若子と千景は、ようやくのことでその巨匠の家にたどり着いた。ここに来られたのも、千景が人脈を使い、知人の紹介を経てのことだった。業界では、彼は「茅野先生」として知られている。若子が腕に抱いていた赤ん坊を見ると、茅野先生の目が一瞬輝いた。「まあ、なんて可愛らしい赤ちゃんだ。君たち、夫婦かね?」子どもを連れて並んでいる姿は、たしかに誰が見てもそう思ってしまうだろう。若子はちょっと困ったように笑って言った。「いえ......彼は、ただの友人です」千景も、同じく気まずさを隠しながらも丁寧に微笑んだ。「ええ、俺たちは友人でして」「そうか、なるほどね」茅野先生はそれ以上詮索せずに話を続けた。「作品を見に来たって聞いたが?」「はい、茅野先生」千景が答える。「先生のお名前は以前から伺っておりまして、ぜひ作品を拝見したくて参りました」普通なら、気軽に見学なんてできるような場所ではない。ふたりがここに入れたのは、茅野先生の知人の紹介あってのことだ。「最近の若い人がわしの作品を気に入ってくれるとは、なんとも嬉しいことじゃ。よし、コレクションルームを見せてやろうかの」そう言って、茅野先生はふたりを案内した。若子と千景はそのあと、茅野先生のコレクションルームに入り、一点一点丁寧に作品の説明を受けた。茅野先生は手工芸の世界で名を馳せる第一人者。作るものはすべてが一点物の逸品で、上流階級の間では、彼の作品を予約するのに列ができるほどだった。一つひとつの作品に注がれる情熱と愛情は、見ているだけで伝わってくる。そして、茅野先生は驚くほど記憶力がよく、どの作品をいつ、どんな思いで作ったかをすらすらと語ってみせた。「茅野先生、本当に素晴らしいです。どの作品のことも、ちゃんと覚えていらっしゃるなんて......本当に尊敬します」「どれも、わしの子どもみたいなもんじゃからな。どの子も、わしの手と心で育てた記憶が詰まっとる」若子がそっと言った。「実は......先生がずっと前に作られた作品を、私、ひとつ持っているんです。ちょっと見ていただけませんか?」「わしの作品か?ほう、出してみなされ」若子はバッグからブレスレットを取り出し、両手で丁寧に茅野先生に差し出した。茅野先生はそれを受け取り、しげしげと見つめた。
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第1230話

茅野先生は、奥から古びた図面を一枚取り出した。「ほれ、これがそのブレスレットの図面じゃ。当時、ある女性がわしのところに来て、これを作ってほしいと頼んできたんじゃ。この図はその人が自分で描いたものなんじゃが......名前も名乗らず、完全な匿名じゃった」「その女性、どんな方だったか覚えてますか?」若子が息を呑みながら尋ねた。「......もう、あれから二十年以上も経ってるからな。正直、顔まではよう思い出せんのう」若子は図面を受け取って、手元のブレスレットと見比べた。―間違いない。全く同じだった。「茅野先生、ほかに何か......手がかりになるようなものは、もう残っていないんですか?」「うーん......すまんのう。本当にこれくらいしか思い出せん。匿名だったし、記録も残しておらんしの。この図面は、持って帰ってくれてええよ」......若子と千景は茅野先生の家を後にした。若子は図面を大切に包の中へしまい込みながら、ぽつりと呟いた。「冴島さん......やっぱり、茅野先生からそれ以上のことは聞き出せなかったね」千景は頷いた。「茅野先生の話だと、依頼人は女性だった。それって......君の母親かもしれないよな」「うん......でも、どうなんだろう。だって、私を捨てたんだよ?捨てたくせに、なんでわざわざ高いブレスレットを作ったりするの?―それって、ちょっと変じゃない?」若子の瞳に、不安と希望が入り混じったような光が揺れていた。「もしかして、彼らは本当に私を『いらなかった』わけじゃなくて......なにか、どうしようもない理由があったのかもしれないって思えてきた」千景は頷いた。「うん、俺もそう思う。あのブレスレット、普通の人じゃ頼めないレベルの品だよ。たぶん、当時何かがあったんだ。そうじゃなきゃ、そんな高価なものを託して手放したりしない。それに、あのブレスレットがそのまま孤児院まで届いてたってこと自体、養父母が拾ったとかじゃなくて、きっと『届けられた』んだ。君の実の親が、わざわざ用意して」若子は胸の前でそっと手を握った。「そう言ってくれると、少し希望が湧いてきた。でも、期待しすぎちゃダメだよね。もし本当は全然違う話だったら、きっと......すごく辛くなるから」「そうだな。もう帰ろう」千景が柔ら
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