All Chapters of 目黒様に囚われた新婚妻: Chapter 931 - Chapter 940

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第0931話

「千璃ちゃん」——その一声は、まるで心に響く旋律のように、不意に瑠璃の胸の奥へと落ちてきた。彼女は驚いて顔を上げた。すると隼人が唇の端をわずかに引き上げ、穏やかに微笑んでいた。「遅れないで」彼はそう優しく言い添えた。その声色には、これまでにないほどの柔らかさがあった。まるで幻でも見ているかのような気がしたが、隼人の笑顔は確かにそこに存在していた。だが、彼女がようやく現実に意識を戻したときには、隼人はもう車を走らせてその場を去っていた。「千璃……今の、どういうことなの?」夏美は目を見張り、困惑と驚愕の入り混じった表情で尋ねた。「さっき、隼人と何話してたの?」「今夜、四月山へ行くの」瑠璃は静かに答えた。隼人が去っていった方向を見つめながら、心の中にさまざまな憶測が浮かんでいた。——千璃ちゃん。さっきの彼の呼びかけを思い返すたびに、瑠璃の胸には再び希望の光が宿った。——隼人、あなた……記憶を取り戻したの?それとも、最初から忘れてなんていなかったの?この疑問を胸に、彼女は勤に運転を頼み、約束の場所である四月山へと向かった。瑠璃は早めに現地へ到着した。真夏の海辺だというのに、意外なほど観光客の姿は少なかった。約束の時間まではまだあったため、彼女は車の中で待つことにした。運転席の勤が疑わしげに口を開いた。「……目黒社長、本当に生きていたんですか?」瑠璃は小さくうなずいた。「ええ、生きてる。私たちは誰かに嵌められていたの」「誰がそんなことを?」勤は険しい顔で問い返した。「……必ず目黒社長のために正義を貫いてみせます!」「相手はそう簡単には倒せない。今夜、隼人と話してから、これからのことを決めましょう」彼女の言葉に、勤はそれ以上は何も言わず、静かに頷いた。夕日が海に沈んだ頃には、ちょうど約束の時間が近づいていた。遠くから一台の車が近づいてくるのが見えた。やがて車が止まり、隼人が姿を現した。彼の姿を見た勤は、感極まったように目を見開いた。「……本当に目黒社長です!」「ここで待ってて」瑠璃はそう言って車を降りた。興奮した勤がシートベルトを外しかけたが、彼女の一言に、じっとその場に留まることにした。夜の海は、ほんのりと霧がかったような幻想的な空気を漂わせていた。
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第0932話

「お腹の子より……今は君を感じたい」「……え?」瑠璃は一瞬、彼の言葉の意味が理解できなかった。だが、次の瞬間——隼人の掌が彼女の頬に触れた。その手の温もりが、ふわりと彼女の顔に広がる。反応する暇もなく、目の前の男は突然、彼女の唇に深く口づけてきた。どこか違和感を覚えつつも、そのキスはあまりにも優しく、次第に瑠璃の理性は溶かされていった。隼人は目を細めながら、彼女がゆっくりと目を閉じ、自分のキスに酔いしれていく様を見つめていた——そして、自らも目を閉じた。どれほどの時が経ったのか、ようやく隼人は唇を離した。空気を吸い込んだ瑠璃の頬は、火照ったように赤く染まっていた。結婚していて、子供も三人いるというのに……この分野において、彼女はいつだって受け身だった。乱れた鼓動を落ち着かせようとしながら、口を開きかけたその時——「俺は帰る」隼人の冷たい声が降ってきた。「……また恋華のところに?」瑠璃の瞳に、かすかな陰りが差した。だが隼人は彼女を一瞥もせず、そのまま背を向けた。「次に会う日が決まったら、連絡する」「隼人……」瑠璃は彼の手を掴んだ。「お願い、恋華の側にいる理由を教えて。あなた、本当に記憶を失ったの?それとも……」「君が知る必要はない」隼人の突き放すような冷たさに、瑠璃は言葉を失った。その手もすぐに彼の力で振りほどかれる。「……隼人?」「佐々木光——それが俺の名前だ」そう言って振り返った彼の目と声は、さきほど彼女を抱きしめた時とはまるで別人のようだった。瑠璃は、その場に立ち尽くした。彼が去っていく後ろ姿を見つめながら、さっきまでの出来事がまるで夢だったかのように思えた。——今、夢から醒めたの?瑠璃はぼんやりと、遠ざかっていく車を見つめた。心はどこかへ消え去っていた。帰宅後、瑠璃はずっと引っかかるものを感じていた。何かがおかしい……けれど、その正体はまだ掴めなかった。ぼんやりとしたまま一夜を過ごし、翌朝、目が覚めたばかりの彼女のもとに邦夫からの電話がかかってきた。「大事な話がある。すぐに本宅に来てくれ」その声には、いつもとは違う緊迫した気配があった。瑠璃は迷わず身支度を整え、すぐに目黒家の本宅へと向かった。玄関を入った瞬間、彼女は邦夫の
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第0933話

瑠璃が認めた瞬間、邦夫は信じられないという顔で彼女を見つめた。青葉は怒り心頭だった。「千璃、恥ずかしくないの?隼人が亡くなってまだそんなに経ってないのに、もう新しい男を作って、堂々とそんなことまでして……あんたって女は——」「いい加減にして、ちょっと黙って私の話を聞いてくれる?」瑠璃は青葉の言葉を遮った。「よく見て、この写真の男は隼人よ。彼は生きているの」「な、何んだって!?」「……はぁっ!?」邦夫は勢いよく立ち上がり、青葉と同様に衝撃を受けていた。「まさか……君たち、本当にこの背中が隼人のものだと気づかないの?」瑠璃は写真を手渡しながら言った。たったひとつの背中であっても——彼が誰よりもよく知るその姿を、瑠璃は絶対に見間違えることはなかった。だが青葉はちらりと一瞥しただけで、その写真をぐしゃりと丸め、彼女の足元へと投げ捨てた。「隼人と似た体格の男を探して撮らせたんじゃないの?これが隼人ですって?いいわ、それなら今すぐ彼をここに連れてきなさい。呼べるなら信じてやるわよ。いや、それどころか土下座して謝ってやるわ!」瑠璃は、自分がどうやって隼人をこの場に連れてこられるのか分からなかった。そしてようやく昨夜、彼がなぜあんなに優しく、自分に親しげに接してきたのか、その理由に気づいた。——あの写真を撮らせるためだったのだ。予想通り、瑠璃がスマホを開くと、すでにネット上では「目黒夫人の不倫」騒動が広まり、あちこちで名前が挙げられていた。コメント欄には見るに堪えない言葉が並び、彼女の心を打ちのめした。しかし、瑠璃はスマホを閉じ、それ以上は見なかった。「信じようと信じまいと、隼人は本当に生きてるのよ」彼女は顔色ひとつ変えず、邦夫と青葉に向かって最後にこう言った。「私はこの人生で、隼人という夫だけしかいないわ。これから先も、ずっとそうよ」説明する意味がないと悟った瑠璃は、それ以上言葉を交わすことなく踵を返した。背後では青葉が、罵詈雑言を止めずに浴びせ続けていた。玄関を出たそのとき、瑠璃のスマホが鳴った。電話の相手は恋華だった。電話の向こうからは、得意げで高圧的な声が響いた。「千璃、昨日の夜は楽しかった?大好きな男とキスできて、幸せだったでしょう?……でも残念ね。隼人はあんたのことな
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第0934話

車を降りて幼稚園の門前に立った瑠璃は、周囲の若い保護者たちが彼女を見て、ひそひそと囁き合っているのに気づいた。彼女はその視線や噂話を無視し、大門の中をじっと見つめた。しばらくして、ようやく陽菜がぽかんとした顔で現れた。「陽菜、お兄ちゃんは?」瑠璃は彼女の後ろを覗き込むように尋ねた。陽菜はぱちぱちと大きな目を瞬かせて答えた。「おにいちゃん、おしっこ行くっていったけど……でもぜんぜんもどってこないの」その言葉を聞いた瞬間、瑠璃の心臓がぎゅっと締め付けられた。——恋華だ。そう思った矢先、恋華からの電話が鳴った。「千璃、息子がいなくなって焦ってる?不安で仕方ないんじゃない?」その声は嘲るように甘く響いた。「恋華、うちの息子をどこに連れて行ったの!」彼女の焦りと怒りが滲んだ声にも、恋華はただクスッと笑っただけで、そのまま通話を切った。瑠璃は恋華の残忍さを、完全に甘く見ていた。自分を陥れようとするだけならまだしも、彼女は瑠璃の一番大切な存在を狙ってきたのだ。瑠璃はすぐにかけ直したが、恋華は一向に出ない。さらに何度か発信してようやく繋がった。「恋華!うちの子をどこへ連れて行ったのよ!?黒江堂の女当主ともあろう者が、子ども相手にしか強く出られないの?本当に狙いたい相手は私でしょう、だったら私に向かってきなさい!子どもに手を出さないで!」必死に訴える瑠璃の言葉に、電話の向こうは沈黙していた。「恋華、答えてよ!恋華!」「そんなに息子を助けたいなら——来い」冷たい男の声が耳元に届いた。隼人——。「隼人……君ちゃんは……君ちゃんは私たちの子よ!お願い、傷つけないで!」「は……」男が鼻で笑う。「俺がお前と子どもを作るわけないだろ?」——その声と冷酷な言い方は、以前どこかで聞いたことがある。その言葉が骨の髄まで冷たく染み込み、瑠璃は一瞬、意識が遠のきそうになった。そして通話は無情にも切られ、すぐにひとつの住所が送られてきた。「一人で来い」そう添えられていた。瑠璃は陽菜を運転手に預けると、急いで一通のメッセージを定時送信で設定し、タクシーを拾ってその場所へと向かった。指定された住所に着くと、瑠璃はすぐ車を降りた。だが後ろから一台の車がピタリとついてきていた。中の人物は降りる
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第0935話

隼人は、青葉の驚いた顔を見て、彼女もまた自分を隼人という男と勘違いしているのだと悟った。だが、どんなに否定しても——やはり実の息子を目の前にして、青葉の目には涙が浮かぶ。「隼人……本当に……あなた、本当に生きていたのね!」興奮を抑えきれない彼女は隼人のもとへ駆け寄ろうとした。「今はここから出ましょう!」瑠璃は慌てて腕をつかみ、制止する。だが、青葉はその手を振り払った。「千璃、何をごまかしてるのよ?隼人がちゃんと生きてるのに、どうして彼をこんなところに隠してたの?私に会わせようとしないなんて!」瑠璃には、どうやって青葉に説明すればいいのか、本当に分からなかった。彼女の理屈はいつだって一方的で、今も同じだった。一方の隼人は、興味のなさそうな冷たい声で言い放つ。「どうせ来たいなら、勝手に来い」青葉はそれを合図に、慌てて隼人の側へと駆け寄った。「隼人、隼人、お願い、顔をちゃんと見せて……」手を伸ばして彼の顔に触れようとした——だが、男の足が止まる。その目が氷のように鋭く、刃のごとく冷たい光を放ち、彼女を見据えた。「俺は目黒隼人じゃない」——その一言に、青葉の動きがピタリと止まる。それでも彼女は信じられなかった。「何言ってるの?あなたが隼人じゃないはずないでしょ!十月十日お腹に抱えて生んだ我が子よ!?たとえ夫の顔を忘れても、息子の顔だけは絶対に間違えない!」「それが、違うのよ」煙草をふかしながら、恋華が屋敷の中からゆっくりと姿を現した。青葉は顔をしかめ、彼女の顔をじっと見た。なんだか見覚えがある気がするけど、すぐには思い出せなかった。「……あんた、誰?」恋華は答えず、煙を吐きながらそのまま瑠璃の方へ歩いていく。「なに?怖じ気づいたの?だから姑まで連れてきたわけ?」「彼女が勝手についてきただけ。今すぐ帰らせる」瑠璃は冷たく言い放ち、青葉に目をやる。「すぐにここを離れて」だが、青葉は笑みを浮かべながら言った。「自分が何様だと思ってるの?私に命令するなんて」「帰る気がないなら——みんなまとめて入ってもらうわ」恋華がにやりと笑い、後ろの護衛たちに目配せする。危機を察することもなく、青葉はむしろ上機嫌で屋敷の中へ隼人と一緒に入っていく。——もう、引き返
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第0936話

青葉は反射的に手で顔をかばった。ナイフは彼女の手の甲をかすめ、鮮血がにじみ出る。「きゃあっ!」痛みに思わず叫び声を上げ、恋華の容赦ない行動に震え上がる。「なによあんた……」「フン」恋華は鼻で笑い、視線を瑠璃へ向けた。「どう?あんたこの姑が大嫌いだったでしょ?今、代わりにお仕置きしてやったわよ。気分いい?」青葉は手の傷を押さえながら、怒りを今度は瑠璃にぶつけた。「全部あんたのせいよね、千璃!この女は絶対あんたを狙って来たんだわ!隼人がこうなったのも、私が傷ついたのも、みんなあんたが原因よ、この疫病神!」「はあ、口の減らないババアね」恋華はうんざりしたようにナイフをひらひらさせながら笑う。「千璃、面倒だから私がその口、永遠に閉じてやろうか?」その言葉を聞いた青葉は青ざめ、全身が凍りついた。逃げようとしたが、両腕を護衛にがっちりつかまれてしまう。「放しなさい!この疫病神!千璃、あんたはほんとに次から次へと厄を招く女だわ……」「黙りなさいよ!」恋華が怒鳴り、ナイフを振りかざして青葉の顔めがけて突き出す。目を閉じ、首をすくめて絶叫する青葉。だが——何秒たっても、痛みは来なかった。恐る恐る目を開けた彼女が見たのは——瑠璃が、右手で恋華のナイフを素手でつかんで止めていた、という光景だった。青葉は、目を見開いて言葉を失った。瑠璃の手から、ぽたぽたと落ちていく鮮血を見つめながら、胸の奥が激しく波打っていた。これは夢じゃない。本物の血——本当の覚悟。恋華も驚いたように目を見張る。「……千璃、あんた本当に死ぬのが怖くないのね」「私はもう、死の淵を一度見てきた人間よ。今さら怖がることなんてないわ」瑠璃は強い目で恋華を睨みつけ、油断した隙を突いてナイフを取り上げると、勢いよく窓の外に投げ捨てた。「私の家族には二度と手を出さないで。来るなら、私にしなさい」家族。その言葉に、青葉の目に熱いものがにじむ。自分は何をしていたのか——胸が締めつけられた。「へえ……あんた、かっこいいじゃない、千璃。ちょっと惚れそう」恋華は興味深げにニヤリと笑いながら近づく。「じゃあ、あんたが望む通りにしてあげる。私の相手は、あんた——」恋華が瑠璃に手を出そうとした、そのとき――
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第0937話

青葉は慌てて瑠璃の足元を見下ろした。今は真夏。瑠璃はワンピースを着ており、足元にははっきりと水溜まりのような濡れが広がっていた。それは、羊水だった。羊水が破水している——すぐに処置しなければ、赤ちゃんが胎内で窒息する可能性すらある。青葉は彼女が何ヶ月の妊婦かも知らなかったが、どう見てもまだ早すぎる。「ちょ、ちょっと……千璃、今何ヶ月なのよ?」瑠璃は呼吸を整えながら、かすかに答えた。「ちょうど……三十週……」「三十週!?」まだ、あと二ヶ月も残ってるじゃない!青葉は完全に取り乱した。どうすればいいのか、わからない。傍に立っている隼人が未だに無関心な態度を崩さないのを見て、焦った彼女は叫んだ。「隼人!あんたどうしちゃったのよ!?目の前で自分の嫁が破水してるのよ!?見殺しにするつもりなの!?」「……嫁?」隼人は嘲るように小さく笑った。そして、どんどん青ざめていく瑠璃を冷たく一瞥し、背を向けた。まるで関係ない他人のように——その姿が、まるで鋭利なナイフのように瑠璃の心臓を切り裂いた。体の痛みだけじゃない。心が、ずたずたに裂けていくのがわかる。それでも彼女は、歯を食いしばって立ち続けた。だが、こらえきれずに涙がこぼれ落ちる。彼女の状態が明らかに悪化しているのを見て、青葉は慌てて隼人の元に駆け寄った。「隼人!いったいどうしちゃったの!?千璃はあんたの奥さんよ!?今お腹にいるのは、あんたたちの赤ちゃんよ!さっきの女に突き飛ばされて、破水までしてるのよ!?病院に行かなきゃ、あんた、本当に二人とも死ぬことになるのよ!!千璃が死んだら……あんた、記憶が戻ったとき、必ず後悔するわよ!!あの時守っておけばよかったって——死ぬほど後悔する!!」青葉の声が、部屋中に響く。だが、隼人はただ眉をしかめ、冷たい眼差しを彼女に向けた。「……これ以上喋ったら、お前たち、ここから生きて出られないぞ」「なっ……」その冷酷な言葉に、青葉は完全に言葉を失った。振り返ると、瑠璃がまるで崩れ落ちそうに立っている。彼女の顔色はひどく、唇も真っ青になっていた。「千璃……ダメよ!こんなときに眠っちゃダメ!」青葉は心が張り裂けそうになりながら、瑠璃のそばに駆け寄った。まさか、こんな自分が彼女のことをここまで心配する
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第0938話

瑠璃は、端に立ってこちらを見ようともしない男の姿を余所目に、静かに言った。「もう、選択肢なんて残ってない……」視線を戻し、堪えきれない涙をぐっと飲み込む。青葉もどうすることもできず、瑠璃をソファにゆっくりと横たえさせた。そのとき、まだ客間に立っていた二人の警備員を見て、青葉は怒鳴った。「出てって!今すぐ外に出なさい!」そして彼女の視線は、フロアの隅でスマホをいじっていた隼人へと移った。「隼人、たとえ今あんたが千璃のことを思い出せないとしても、この状況で目の前の命を見捨てるなんて、そんな冷血な人間なの!?」隼人は眉をひそめ、明らかに不快そうに振り返った。何か言い返そうとしたその瞬間——彼の目に映ったのは、汗だくで顔色の悪い瑠璃の姿。なぜか突然、胸の奥に鋭く突き刺さるような痛みが走った。隼人は入口の方に目をやり、黙って頷くだけで警備員たちを退出させた。二人の男たちが出ていくのを確認すると、青葉はすぐにティッシュを手に取り、瑠璃の汗を拭きながら、足を支えた。心の中は、焦りと不安でいっぱいだった。出産の経験なんて当然ないし、それに——これは早産だ。早産の赤ちゃんは未熟で、すぐに保育器でのケアが必要になる。下手すれば命にも関わる。瑠璃は意識が混濁していたが、この痛みは忘れようのないものだった。——あの時、刑務所で強制的に堕胎させられた、あの地獄のような痛み。その記憶が、今この瞬間に蘇る。彼女は唇を噛みしめ、ソファの縁を握る手には青筋が浮かび上がっていた。だが、どんなに苦しくても、一言の呻き声も発しなかった。彼女はわかっていた。今この瞬間、望んでいる優しさや愛情は——きっと届かない。青葉はそんな瑠璃の姿に、思わず胸が締めつけられた。隼人でさえ、目の前の光景にどこか呆然としていた。彼はゆっくりと瑠璃の前まで歩み寄り、じっと彼女の顔を見下ろした。汗で濡れた顔。唇を噛み、眉間に皺を寄せる彼女の姿。その苦しそうな表情が、なぜか彼の心にも同じような痛みを走らせた。不思議と、目を逸らすことができなかった。そのとき、瑠璃は彼の姿を捉えた。震える手で彼のズボンの裾を掴み、かすれた声で呟く。「こんな……形になったけど、それでも……あなたがそばにいてくれて、赤ちゃんの誕生を一緒に迎えられ
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第0939話

青葉の必死な叫び声が響いた瞬間、隼人の胸にも、なぜか冷たい針が突き刺さったような衝撃が走った。彼は再び、汗でびっしょりになり顔色の悪い瑠璃の元へと歩み寄る。彼女の額には汗がにじみ、その顔は和紙のように白い。子どもを産もうと必死で耐えているのは見て取れる——けれど、明らかに力が足りない。朦朧とした意識の中で、瑠璃は彼の姿を捉えた。息も絶え絶えの声で、彼に向かって手を伸ばす。「……隼人……」その目は潤み、切ない願いが込められていた。だが、どれほど待っても隼人は反応しない。落胆の笑みを浮かべ、瑠璃はその手をそっと下ろそうとした——――その時だった。彼が突然、その手を掴んだ。ぬくもりが、まるで全身に力を取り戻すように広がっていく。驚いて薄く開けた目に、あの冷たかった男の顔が映った。「痛いなら、叫べばいい」声は冷静だったが、その言葉の端には微かな優しさが宿っていた。瑠璃は堪えきれず、彼の手をぎゅっと握り返す。それが、心の奥に溜め込んでいた感情を、すべて吐き出すきっかけになった。まさか、自分が医療関係者の助けもないまま、こんなにも苦しい出産を迎えることになるとは――しかも、早産だなんて、思いもしなかった。意識がぼやけていく中、耳に届いたのは、赤ん坊の産声。その声に、瑠璃の口元に涙混じりの微笑みが浮かび、全身の力が抜けていった。赤ん坊の顔を見る間もなく、意識が遠のいていく。「千璃!だめよ、千璃!出血が多すぎる……」青葉の叫び声が、遠くから聞こえてくる。でももう、目を開ける力も残っていなかった。彼女は夢の中へと落ちていった。夢の中で、隼人は彼女の手を振りほどき、背を向けて去っていった。その悲しみに、思わず目を覚ます。「千璃!」そばで看病していた夏美が、涙ぐみながら手を取る。「よかった……本当によかった、目を覚ましてくれて……」目が覚めた瑠璃は、まず手で自分のお腹を確かめた。——赤ちゃんはもう、生まれている。「……赤ちゃんは?」かすれた声で問いかけるが、意識ははっきりしている。「君ちゃんは……君ちゃんはどうなったの?」「あなたが出発前に送ったメッセージ、ちゃんと届いたわ。心配でそのままあの住所に向かったの。そしたら、あなたが早産してたって知って……赤ちゃ
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第0940話

瑠璃は、蒼白く美しい唇をわずかに開いて、柔らかく微笑んだ。「隼人との子どもなら、男の子でも女の子でも、どっちでも大好き」その答えを聞いた瞬間、夏美は一度嬉しそうに微笑んだが、すぐに目元が潤んでしまった。彼女はそっと瑠璃の手を握る。「昔もそうだったわね……命の危険があっても、あなたは隼人との子を産むって決めたんでしょう?」瑠璃は否定せず、少し照れくさそうに笑った。——あの頃。あの頃の彼女は、本当に隼人を深く愛していた。たとえ命を落としても、後悔なんてなかった。……でも、今も何も変わっていないのかもしれない。彼を想う気持ちは、今も変わらずにある。「男の子よ」夏美が言ったあと、くすっと笑って涙を拭う。「……でもね、とってもブサイクなの」瑠璃もつられて笑う。「きっと大きくなったら可愛くなるよ。君ちゃんだって、生まれたときはきっとブサイクだったはず……」しかし、その言葉の途中で、ふと沈黙した。——君秋が生まれたときの姿を、彼女は見たことがなかったのだ。病院での生活は半月ほど過ぎた。身体の回復と産後の静養のための入院だったが、看護師がついていても、夏美と賢は毎日交代で彼女の世話をしていた。時には、君秋と陽菜も一緒に来てくれる。ある日、夏美と一緒に保育器の中の赤ちゃんを見た帰り、病室へ戻ろうと廊下を歩いていると、不意に、病室からこっそりと出てくる青葉の姿が目に入った。手には袋を持ち、何かを隠すようにそそくさと反対方向へ歩いていく。「青葉?どうして病室から出てくるの?娘の病室にコソコソして何してたのよ?」夏美が思わず声を上げた。呼び止められた青葉は、慌てた様子で持っていた袋を背中に隠す。「……通りかかっただけよ。ちょっと覗いただけ」「それじゃ、その袋は何?やましいことがなければ、隠さないはずでしょ?」夏美はなおも追及する。「あんたに関係ないわ」そう言い放ち、青葉は一瞬だけ瑠璃を見て、そそくさと立ち去った。「あんた……」夏美はさらに問いただそうとしたが、瑠璃が彼女の腕を引き止めた。病室に戻ると、目に入ったのはベッド横の小机に置かれた保温ポットだった。この半月、赤ちゃんを見に行って戻ってくるたび、机の上には必ずその保温ポットが置かれていた。瑠璃は思い出す。青葉は料理にこだわり
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