All Chapters of 婚約崩壊寸前!初恋は遠ざかれ: Chapter 211 - Chapter 219

219 Chapters

第211話

私は胸が張り裂けそうだった。私の子がいなくなろうとしているのに、慎一はまるで喜びを隠せない様子だった。たしかに、私が嘘をついた。でも、彼だって罪深い人間だ!悲しみが一気に私を包み込み、こんなときに彼と親密な関係になるなんて到底受け入れられなかった。だけど、体中の力が抜けて、立っていることすらできなかった。私は全身の重みを慎一に預けるしかなく、彼は私が彼にすがりつこうとしているのだと、私も彼に心を許し始めているのだと勘違いしていた。「慎一……」私は弱々しく拒んだ。「やめて。とても疲れてるの」彼は私を見上げ、瞳には欲望が滲んでいた。「わかってるよ。ただキスするだけ、ほかには何もしない」彼はどこか子供っぽく笑った。「今は無理だろ?そんなこと、俺が一番わかってる。ただ、十ヶ月も我慢しなきゃいけないなんて、俺もつらいよ」私は力なく笑い、それ以上返事をしなかった。彼に抱き上げられてベッドまで運ばれると、薄い部屋着はすぐに彼の手で脱がされた。彼はもっともらしく言う。「お風呂に入れてあげるよ。それから一緒に寝よう。もう遅いし、ゆっくり休まないと、赤ちゃんだって休めないから」彼の少し荒い呼吸が私の頬や首、鎖骨にまでかかる……お風呂に入れてくれると言いながら、未練たっぷりに私に触れていた。私は彼の手を掴んだ。「もう無理、お風呂は明日にして。今日は本当に疲れたから」信じてもらえないかと心配になり、さらに言い添えた。「妊婦は疲れやすいんだよ」私は身動きもできなかった。今この瞬間、子どもを失ってしまうのが怖かった。慎一はじっと耐えていた。普段は冷静で気品ある彼が、まるで水に濡れた猫のようで、私の唇にそっと、名残惜しそうにキスを残してから、冷たいシャワーを浴びに行った。私は浴室の曇ったガラス越しに映る彼の姿をぼんやりと見つめながら、いつしか深い眠りに落ちていった。再び目を覚ますと、もう彼の姿は隣になかった。今日は慎一が雲香のために記者会見を開く日だった。鏡の中の私は、目に痛みと意地が宿っていた。軽く化粧して顔色の悪さを隠し、黒の和服に身を包んだ。長い首筋にはキスの痕が残っている。タクシーを呼び、記者会見の会場へ向かった。現場は賑やかで、多くの記者が大きなカメラを構えていた。私は避けることもせず、真っ直ぐレッドカ
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第212話

記者たちの対応がようやく終わると、慎一は私を控室へと連れて行った。すると、雲香が私たちが手をつないで入ってくるのを見て、まるで狐につままれたような顔をした。小さな顔に大きな瞳が、驚きでさらに丸く見開かれている。彼女は声を思いきり上げて、「お兄ちゃん!なんで佳奈がここにいるのよ!」雲香の反応には、つい笑いがこみ上げてしまう。昨日はあんなに私に威張っていたのに、今日はまるでしおれた花みたい。私は少し顎を上げ、さらりと言った。「今回の件、私にも関わりがあるからね。お兄ちゃんと相談して、ついでに私も説明の場を借りようかって。前に早瀬さん夫妻と揉めた裁判のことも、一緒に整理しておこうと思ってさ」「急な話でごめんね、雲香」私はにこやかに彼女を見つめる。「でも安心して。今日は雲香が主役よ。私が邪魔することはしないわ」雲香は足を鳴らし、ぷいっと慎一のもとへ駆け寄り、子供のように甘えた。「お兄ちゃん、ひどいよっ!」慎一は、すごく機嫌が良さそうだ。まあ、当然か。自分の妻に子どもができて、しかも義理の妹とも平和的にやっていけそうな雰囲気。これで家の中も落ち着く。嬉しくないはずがない。たとえ雲香が今にも爆発しそうな顔をしていても、お兄ちゃんは「妹が甘えてるなぁ」と微笑ましそうに見ているだけ。私はすべてを見守りつつ、良き義姉らしく、にこにこと微笑んだ。慎一は雲香の頭をぽんぽんと優しく叩き、「わがままじゃない、ちゃんとお義姉さんと一緒にメイクして、後で一番かわいいプリンセスで写れよ」となだめる。私はそっと慎一のネクタイを整え、「じゃあ、あなたは先に行って。ここは私と雲香で大丈夫だから。あとで記者会見の質問も一緒に確認しておくから、心配しないで」と小さな声で伝える。「うん、記者の手配も済ませてあるから」と慎一は淡々と返し、私のおでこに優しくキスをした。「無理しないで、体調が悪くなったら言ってね。すぐに連れて帰るから」記者の手配も万全、ね。彼が雲香のためにどれだけ力を尽くしているか、嫌でも伝わってくる。私はわざと雲香の前で慎一に甘えるように腕を押し返し、雲香の様子をちらりと見てから、「もう、心配しすぎ。早く終わらせて、早く帰ろう」と恥ずかしそうに言った。それでも慎一は念を押すように雲香を見て、「お義姉さん今日はちょっと体調が良くな
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第213話

雲香の唇が小刻みに震え、握り締めた拳はさらに力を込めていた。もしここに他の人がいなかったら、きっとその拳は私に向かって振り下ろされていただろう。雲香は一人、私の背後に立ち、しばらく黙っていた。何を考えているのかは分からないけれど、彼女の様子から察するに、ようやく冷静さを取り戻したようだった。彼女は私の隣にある鏡台の前に腰を下ろした。鏡越しに私たちの視線が交わる。彼女の目はまるで鋭い刃物のように歪み、あと少しで普段の仮面を切り裂きそうなほどだった。「私ね、もうすぐ海外に行くけど、そんなに長くはいないわ。お父さんの体、もう長くないでしょう?そうなれば……この家のことは全部お兄ちゃんの言う通りになるの。そうしたら、また私を呼び戻してくれるのよ。だから、私たち二人の時間はまだまだこれからたっぷりあるんだよ。想像しただけでワクワクしちゃう!」彼女は片手で顎を支え、横目で私を見ながら、唇の端に微笑みを浮かべ、いつもの無邪気な表情に戻る。その声は弾むように明るかった。「ねえ、佳奈?そう思わない?」部屋にいるスタイリストたちは、なんとも言えない気まずい表情をしていた。でも、こんな場にいる人たちは分別も心得もある。聞くだけで、余計なことは言わないものだ。私は彼女たちを一瞥した。案の定、彼女たちは俯いて私の髪を整えるのに集中し、目線を合わせようともしない。私は鼻で笑い、雲香に返事をした。「確かに、これから先は長いわね。でも、あなたのお兄ちゃんと相談して、あなたにふさわしい若旦那を探して、さっさと嫁に出してあげるつもりよ。その方がお兄ちゃんも気が楽でしょうし」雲香の顔はみるみる青ざめ、机をバンと叩いた。「あんた……」彼女の言葉は、廊下から慌ただしく駆け込んできたスタッフによって遮られた。「霍田さん、曲井さん、記者会見がまもなく始まりますので、そろそろ裏でご準備を!」「分かった」「はい、ありがとう」私と雲香は同時に返事をした。廊下は長く、私たちのすぐ後ろにはスタッフが控えていた。雲香は少し緊張しているようだったが、私は無表情で、全く動じていない。この記者会見は雲香にとってはただの会見かもしれない。でも、私にとっては……「雲香」と私は小さく呼びかけた。どこか哀れむような顔で。「さっき、あの人たちが私を霍田さんと呼んで、あなたを曲
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第214話

「あんた!」雲香の大きな瞳が怒りに燃え上がり、まるでこの場で私を燃やし尽くそうとしているかのようだった。「子どもができたからって、それがあんたの免罪符になると思ってるの?」雲香は、あまりの悔しさに足を踏み鳴らしたが、どうにもできず、ただ拳を握りしめて私を睨みつけるしかなかった。「きっと外の奴との子だ。お兄ちゃんの子なんて、あり得ない!できるはずがないっ!」「雲香」私は胸が引き裂かれるような顔で彼女の言葉を遮った。「私はあなたを本当の妹だと思ってきたのに、どうして私の子をそんなに呪うの……」心臓がバクバクと跳ね上がり、今にも喉元から飛び出しそうだった。そのとき、大広間の扉がゆっくりと開き、スタッフが私たちにステージへの登壇を促した。この先に待つ出来事を思うと、どうしても平静ではいられず、涙が今にも溢れそうになる。赤ちゃん……私の赤ちゃん……ママのこと、恨むかな?胸を押さえ、今にも泣き出しそうな顔をしている私を、慎一が見つめていた。彼は壇上の中央に立ち、眉をひそめて私たちを見守っている。不安がその表情にありありと浮かんでいた。記者たちもカメラのアングルを調整し、私と雲香が壇上に上がるのをじっと狙っている。階段を一段でも登れば、私たちの一挙手一投足が世間の目にさらされるのだ。私はそっと額に手を添え、わざとふらりと体を揺らした。まるで今にも倒れてしまいそうに。深呼吸し、痛みに耐えるような顔で言う。「雲香……私にどんな恨みがあっても、今は、この会見が終わってからにして、お願い……」私は彼女より先に階段をゆっくりと登り始めた。わざと、ゆっくりと。雲香は短気だから、こんな状況で大人しく私の後ろに従うはずがない。「は?何その芝居がかった態度、吐き気がする!」彼女は早足で私の横に並び、わざと肩で私を突き飛ばすようにして、私を追い越し、ほとんど駆け足で慎一のもとへと向かっていった。私はその力を感じたが、あえて抵抗しなかった。そして、その後は、何度も頭の中で想像した通りだった。彼女が私の背後から走り寄ってくる。私はその勢いで階段から弾かれ、転げ落ちて床に叩きつけられる。ほんの一瞬、空中で世界がスローモーションになったかのように、全てが鮮明に見えた。慎一、普段はどこまでも落ち着いている彼が、雲香を無視し
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第215話

「ち、違うっ……違うの、私じゃない!あ、あの人が勝手に……勝手に転んだのよ!」雲香は怯えたように首を振り、胸の前で手をぶんぶん振り回して必死に否定する。私は声が枯れるほど泣き叫んだ。「私が自分の子を傷つけるわけないじゃない!あれは私の……私の大切な子なのよ!」全身が震えて涙が止まらない私を、慎一は静かに抱き寄せ、冷たい唇で私の額にそっとキスを落とした。「佳奈、今は、まず病院だ。話は後でいいから」「嫌!」私は彼の腕の中でもがいた。「今、言わせて!」会場の記者たちは誰一人言葉を発することなく、ただカメラのシャッター音だけが響く。今この瞬間、私と雲香が交わす一言一句が、そのまま証拠として記録されていく。これでもう、真思の件も改めて説明する必要はない。全ての答えが、ここで明らかになる。でも、本当にこれで十分なの?「雲香、昔あなたは浮浪者を雇って私を陥れ、私を牢屋に送り込もうとしたわね。でも、私は慎一のために、子どものために、全てを許してきた。それなのに、今度は私の子どもにまで狙った……一体どうして?私はあなたのお兄ちゃんと四年も夫婦をやってきた。あなたを私たちの新居に住まわせて、一緒に新婚旅行にも連れて行った。実の妹のように大事にしてきたのに、どうしてそんなに私を憎むの?」雲香の顔には分厚く化粧が塗られていたけれど、動揺は隠しきれない。唇を噛みしめ、慎一を見上げて今にも泣き出しそうに叫ぶ。「お兄ちゃん、違うの、本当に私じゃないの……」慎一はただ黙り込んだまま、何も言わない。私は慎一の腕を強く掴み、この場で彼に選択を迫った。「慎一、今でも、まだ彼女の味方をするの?」慎一の腕の力が強くなる。その瞳には、深い苦しみが浮かんでいた。奥歯をぎゅっと噛みしめ、頬の筋肉が浮き出るほど力を入れ、しばらくしてから、ようやく重い息を吐き出した。「まずは病院だ!」そう言い残して、私を抱きかかえたまま壇上を降りる。彼の言葉は、長い針のように私の心を突き刺し、私は張りつめていた糸が切れたみたいに、力なく彼の腕の中に崩れ落ちた。これでもダメなの?これだけしても、雲香の存在は彼の心から揺るがせられないの?もう彼の顔も、声も、何も見たくない。目を閉じて、このまま深く眠って、二度と目覚めなければいい、そう思った。涙は、止めど
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第216話

慎一の瞳には、言葉にし尽くせない想いが宿っているようだった。「まずは病院へ行こう。絶対に、お前が納得できる答えを出す」ぼんやりと霞む視界の中、私ははじめて慎一の目に、確かな決意を見た気がした。信じたい。今度こそ、彼は私にちゃんと向き合ってくれる。そんな気がしたから。私は慎一を見上げて、微笑んだ。「うん」と小さく頷いた。それだけで、胸が張り裂けそうだった。彼に抱きかかえられながら、私はぼうっと外へ運ばれていく。景色が瞬く間に流れ去り、気づけば、視界は赤一色に染まっていた。意識は妙に鮮やかなのに、体はどんどん遠のいていく。これは夢なのだろうか。私はたくさんのことを考えた。人生はまるで芝居のようだというけれど、どうして私の人生は、こんな芝居みたいになったのだろう?体の痛みは本物で、子どもを失った悲しみも、胸を締めつける苦しさも、全部本物だ。それなのに、どうして心だけを切り離して「芝居みたい」だなんて、思えるはずがない。でも、これは芝居じゃないなら、何だというのだろう。私は、こうなることを、心のどこかで覚悟していたはずだった。思考は次第に薄れて、辺りはすっかり闇に包まれる。もう何も考えたくなかった。流産した私は、医者に「最低でも一週間は安静にしていなさい」と言われた。だけど、そんな気持ちの余裕なんて、私にはなかった。雲香のネットでの炎上は収まる気配もなく、まるで誰もが石を投げる存在になってしまった。霍田当主は、私の妊娠を知ってとても喜んでくれたのに、その矢先、流産のニュースがSNSのトレンドにまで上がってしまった。ショックで倒れた霍田当主は、そのまま救急室に運ばれ、命さえ危なかった。霍田当主は決意した。雲香は何度も霍田家を乱してきた。これ以上は許せない、と。父の逆鱗に触れた雲香は、もはや家に置いておけない存在になった。霍田夫人は、霍田当主の前に一昼夜ひざまずき、今度は私の病室にやってきて、また一昼夜、私に謝り続けた。ベッド脇には慎一が座っている。彼の瞳には、どうしようもない葛藤が浮かんでいた。一方は父の命令、もう一方は二十年もお母さんと呼んできた人への情。霍田夫人の泣き声に頭が痛くなってきた頃、雲香が現れた。彼女は血まみれの手首で病室に駆け込んできて、床に倒れ込みながら絶叫した。「佳奈、
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第217話

私は視線を落とし、もう一度顔を上げたとき、そこに残っているのは、過去に別れを告げる決意だけだった。「はい、自ら同意しています」私は静かにそう答えた。慎一は黙っていた。職員が少し苛立った様子で再び尋ねる。「そちらの男性は、いかがですか?」慎一は答えず、ただ私の方を向き、目元がだんだん赤くなっていく。彼にじっと見つめられていたら、突然鼻の奥がツンと痛くなり、目尻に涙が溜まった。心の中には、避けようもない大雨が降り始めたような気がした。しばらくして、慎一は顔を背け、かすれた声で言う。「自ら同意しています」職員は疑わしそうに私たちを見て、「お二人、どう見ても感情が壊れたようには見えませんけど……本当にいいんですか?」私と慎一は同時に彼女の言葉を遮った。「私と彼の間に、感情なんてない」「俺と彼女の間に、感情なんてない」離婚の場面で、ようやく無駄な呼吸が合った。長年一緒にいたけれど、「感情なんてない」ということだけが、私たちが唯一同意できることだった。そう、感情なんてない。じゃなきゃ、こんなところまで来ない。この離婚は私が切り出したこと。だから、少しも悲しい顔なんて見せられない。けれど「感情なんてない」という言葉は、どうしても心に突き刺さった。頭の中で何度も「感情なんてない」を「今までのことは、これでチャラ」と言い換えようとして、ようやくここに平然と座っていられる気がした。職員は、私たちの同時の返答に一瞬詰まり、諦めたようにため息をつくと、パソコンをカタカタと打ち始めた。数分後、彼女が口を開いた。「離婚届の受理は一応完了しました。戸籍変更の手続きもあるため、正式に離婚成立までに少し時間がかかります。その際、もう一度窓口へお越し下さい」私は微笑んで「ありがとうございます」と言った。慎一は無言で立ち上がり、一人で外へ歩き出した。彼の背中を見送りながら、ふと、この数ヶ月の出来事が夢のように思えた。離婚なんて、意外と簡単なものだったのかもしれない。彼の心にはいつも比べる誰かがいて、取捨選択があった。私と雲香が本当にぶつかり合って、もうどうにもならなくなったとき、彼は自然と答えを出したのだ。私たちは役所の前に立っていた。私は左、彼は右へ歩き出す。私が歩き出そうとしたその時、慎一が私を呼び止めた。「
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第218話

私は慎一を見つめた。彼の瞳には、隠しきれない哀しみが浮かんでいた。その目に宿る葛藤は、幼いころからずっと憧れてきた家族というものが壊れてしまったことへのものだと、私はすぐに気づいた。彼が私を冷たいと責めるのも、私が彼の気持ちを顧みず、寄り添うことをしなかったからだろう。霍田当主も、何度もそのことを私に言った。満たされない子ども時代は、一生かけて癒やしていくしかないって、誰もがそう言う。慎一が私に恨みを抱く理由は、私が彼のそばに残って、辛いながらも幸せな夫婦の仮面を被り続けなかったから。だからこそ、私は冷たいんだと。私は大きく息を吸い込み、鼻の奥がつんとするのを無理やり抑え込む。慎一が私に、ほんのわずかでも情をかけてくれるなんて、私は絶対に信じない。「そう、あなたの言う通りよ」額に手を当て、疲れたようにため息をつく。もう、彼と争う必要なんてどこにもなかった。心も体も、もう限界だった。立ち去ろうとした瞬間、慎一が長い足で私の前に立ちはだかる。黒い革靴、黒いスラックス、黒いスーツジャケット。まるで、私たちの結婚生活に弔いを捧げるための喪服のようだった。私は彼の靴先を見つめて、思わず笑ってしまう。体を四十五度ほどひねって、彼の横をすり抜けようとする。一刻も早く、この関係から抜け出したかった。少なくとも、彼のもとから!けれど、また彼が前に立つ。彼の腕が、まるで二本の鎖のように私の肩をがっしりと掴み、強く揺さぶった。心の中の鎖が、ぎしり、と音を立てる。「佳奈!なんで、俺はこんなに苦しいんだ!」私は呆然として彼を見た。そして、泣き顔よりもひどい笑みを浮かべる。掠れた声で、思わず懇願の色をにじませる。「もう……いいでしょう。お願い、行かせて。私、もう限界なの」厚手のコートに身を包み、風に揺れる毛皮の裾。今の私は、それだけで十分に苦しい。「ホントの紳士なら、こんな寒空の下で私を立たせておかないわよね?」慎一は、その言葉に反応して、突然コートの前を開き、私を力強く抱きしめた。顎を私の頭に乗せて、その重みが妙に痛い。「なんでお前だけが平気な顔してるんだ?」私は暗闇の中で瞬きをする。どうして私まで、苦しまなきゃいけないのか分からなかった。別れたふたりのどちらがより苦しいかなんて、そんな物差しで愛を測ること自体、
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第219話

一時間後、私と慎一が役所の前で六十秒間抱き合って別れる動画が、あっという間にトレンド入りしていた。動画の中で、慎一のコートの裾が風に舞い、私が背を向けて歩き去る姿を見つめている。そのシーンは、まるでドラマのラストシーンみたいだと、ネット民たちの間でネタにされていた。【どれだけ絶望したら、流産したその足で離婚届を出しに行けるんだろう?】どれだけ絶望してたのか?私は苦笑いするしかなかった。今どきのネット民は、言葉で人の心を切り裂く術をよく知っている。二人の過去に興味を持った人もいたけど、調べても出てくるのは、雲香の記者会見で、私と慎一がわざと仲の良さをアピールした、あの場面だけ。私のツイッターには、【こんなに賞味期限切れの早いイチャイチャ、推せないわ】とか書かれている。結局、私と慎一の破局には、四文字のタグが付けられることになった。#仮面夫婦みんなは、全部嘘だったんだなと言う。私はスマホを投げ出し、虚ろな目で天井を見つめながら、力なくベッドに身を沈めた。動画の光景が何度も頭の中で再生される。慎一の問い詰める声が、胸に突き刺さる。私はもう、窓の前に立つ勇気すらなかった。彼がまだ下にいるのを知っていたから。落ち着かない心臓を抱えたまま、玄関の方からノックの音がした。数秒息を潜めて聞いてみる。あまりにも礼儀正しいノック。慎一ではない。気力もなく、無視しようかと思ったけれど、田中さんの声が聞こえてきた。ドアを開けると、田中さんはたくさんの荷物を抱え、手には新鮮な食材を提げていた。でも、その後ろには、思いもよらぬ人物が立っていた。まさか、こんなに早く慎一と顔を合わせることになるとは思わなかった。別れたばかりなのに。私は彼を見据えた。憎しみがこみ上げる。思い出の中だけならまだしも、なぜ目の前に現れるのか。私は玄関口で立ちはだかり、冷たく言い放つ。「霍田社長、しつこくすると見苦しいよ」慎一は唇をきつく結び、黙ったまま、顎のラインがナイフのように鋭く光る。田中さんが私の手を握った。「奥様、ご主人様を入れて差し上げて。奥様がちゃんと食べてるか、心配で私を呼んだのよ。ご主人様は奥様のこと、本当に気にかけてるんですから」彼がどう思おうと、私には関係ない。母が亡くなってから、田中さんだけが私を気
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