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婚約崩壊寸前!初恋は遠ざかれ のすべてのチャプター: チャプター 361 - チャプター 370

375 チャプター

第361話

慎一は、ズボンすら完全に脱がなかった。私はショーケースと彼の体の間に押しつけられたまま、まるで何かのモノのように扱われていた。彼の瞳には、感情らしいものが一切浮かんでいなかった。たとえ、今まさに彼が一番欲していたことをしている最中だったとしても。狭い空間に響くのは、私が必死で抑えている嗚咽の音だけだった。どれくらい経ったのか分からない。やっと慎一が私から離れる。その腕が離れた瞬間、私はその場に崩れ落ち、膝をついた。ぼんやりと視界に手が伸びるのが見えた気がした。でも、顔を上げると、慎一は片手で静かにベルトを締めながら、私の無様な姿をじっと見ていた。あのぼんやりと伸びてきたと思った手は、結局、最後まで下がったままだった。私は笑った。どうしようもなく、力なく。彼がこうする以上、私を助け起こそうなんて思うはずがない。どうして私は、彼にまだ人間らしさが残っているなんて、ほんの少しでも期待してしまったのだろう。体は彼に酷く弄ばれ、私はクローゼットから適当に服を引っ張り出してシャワーを浴びようとした。だが、彼はそれを許さなかった。「後でにしてくれ。少しでも残した方が、妊娠しやすいからな」私はふっと笑った。彼の目の前でバッグから緊急避妊薬の箱を取り出す。水も飲まず、そのまま薬を飲み込んだ。毒薬がどれほど苦いのか知らない。でも、この瞬間、毒薬を飲み込むのと何も変わらない気がした。苦しさが全身を巡り、心も、肝も、肺も、腎も、すべてが痛んだ。「子ども?私は一生、あなたの子なんて産まない!」慎一の両手はぎゅっと拳を握りしめ、俯いたその顔も、深く苦しみに歪んでいた。「最初から……あの日、俺にそうしていいって言った日から、お前はずっと……避妊してたんだな」彼は確信を持って言った。ただ、信じたくないだけで、もう一度念を押すように訊いた。「この前、一緒に幸せな時を過ごしたあの時でさえ、お前は俺の子どもを産みたいなんて、これっぽっちも思わなかったのか?」私はふらつく足取りで洗面所へ向かう。今度は彼も、もう止めようとしなかった。遠くから、彼は私を見つめていた。その目に浮かんでいたのは、「悔しい」という言葉だった。あの時、私の子どもがいなくなったのは、最後には私が雲香を犠牲にしたせいだった。でも、もし妊娠中、雲香が何度も
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第362話

昨夜の出来事を経て、慎一はもう私を引き止めようとはしなかった。翌朝早く、私は出張で地方へと向かった。元々三日間の予定だったけれど、結局一週間に延ばすことにした。予定が長引いたせいか、卓也は付き添いたいと言い出したが、私はそれを断った。彼はすでに私のために霍田家の株をいくつか手に入れてくれていたし、小さな株主たちとも連絡を取ってくれている。白核市の動きが止まるわけにはいかなかった。私が任されたのは今回も小さな案件。違うのは、資料を読む時間をホテルの部屋に移したことくらい。三日目、慎一からメッセージが届いた。【今日帰ってくるのか?空港まで迎えに行く】スマホを握ったまま、思わず苦笑してしまった。どうせまた父親に「早く子供を産ませる」とでも約束して、その振りをしているのだろう。出発のときも一人だったし、家の玄関まで見送りにすら来なかった人が、何が迎えだろう。私はスマホをポケットにしまい、気付かないふりをした。実際、明日が本来の依頼人との約束の日だった。海苑の別荘にいたくなかったから、少し早めに出てきただけ。準備も整ったし、地元をぶらつく時間もできた。私は有名な小泉寺(こいずみてら)のふもとまで散歩した。遠くから見る赤い壁と黄色い瓦、どこか懐かしい雰囲気が漂っていた。でもここは縁結びや安産祈願で有名なお寺だから、私には関係ない。立ち去ろうとしたその時、壁際で手相を見ていたおばあさんが私の手を引いた。なまりの強い方言で何かを話し、時折「幸せになれるよ」なんて分かる言葉を挟んでくる。優しい笑顔にほだされて、私は五百円を手渡してしまった。こういうのを気にする性格じゃないし、何を言われてもどうでもよかった。高校を卒業したとき、こっそりと大西寺(だいさいじ)にお参りしたことがある。線香もあげ、お守りも買い、真剣にお仏様に願った。でも今、慎一とはすっかり冷え切ってしまった。結婚後、一度だけ「今度、一緒に御礼参りに行かない?」と聞いたことがある。彼は笑ってごまかしたまま、きっともう覚えてすらいないだろう。お仏様も、もう呆れているに違いない。おばあさんは小さなお守りを私に押しつけるようにくれた。私はその好意を無下にできず、手を合わせてお寺の方角に向かい、目を閉じて祈った。でも心は空っぽだった。何を願えばいいのか、分からなかった。海辺
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第363話

最初は、はっきりとは見えなかった。けれど、ステージの上のあの人が慎一だと、私はほとんど確信していた。大きなスクリーンに彼の横顔が映し出された瞬間、驚いたのは私だけじゃなかった。音楽祭の出演順はすでに公表されていたし、そもそも、あのステージの上の人は有名人なんかじゃない。「顔を隠してるのは、大抵イケメンじゃないって相場が決まってる。せいぜい雰囲気的イケメンってとこだろうな」と、周囲で誰かが囁いているのが聞こえた。その時、スクリーンの中の彼が、突然観客席に顔を向けた。まるで私の居場所を最初から知っていたかのように、仮面越しの視線がまっすぐ私を捉えた。私は思わず一歩後ずさり、本能的にその場を離れたくなった。突然、彼の指がピアノの鍵盤を強く叩き、優雅だった旋律が瞬時に全く違う雰囲気に変わった。彼は唇をマイクに近づけ、優しく歌い始めた。「君は本当に唯一の意味を知ってるか?ただ一緒にいるだけじゃなくて、本当にわかってほしい。目を閉じて、心で見て、本当に君を愛してる。他の誰にも真似できない……」その澄んだ低い声は、ざわついていた会場を一瞬で静寂に包み込んだ。全員がその歌声に引き込まれ、誰もが解けない哀しみの中へ連れて行かれた。私の乱れた気持ちも、強制的に止められたようだった。彼の一言一言が、まるで私のために歌われているようで。やがて、曲が終わり、彼がピアノの椅子から立ち上がると、ようやく観客たちは我に返り、歓声を上げた。けれど彼は、拍手にも花束にも振り向かず、立ち止まることはなかった。「誰なんだ!」と誰かが叫んだ。彼は口元に微笑を浮かべて答えた。「今日は、たった一人のためだけに来た。彼女が俺を知っていれば、それで十分だ!」会場がどよめいた。いつも冷静なあの男が、ステージから飛び降りて走り出した。観客たちは本能的に道を開け、私は根が生えたようにその場から動けなかった。彼がどんどん近づいてくるのに、一歩も動けなかった。ついに、彼が私の目の前に立った。無邪気に笑い、胸を上下させて息を弾ませながら、「聞いてた?」と問いかけてきた。私はぎこちなくうなずいた。ほんの数秒の間、自分の全細胞に「動け」と言い聞かせていた。それでも、彼が私の頬を包み、そっと唇を重ねてきた瞬間、ようやく心の中の震えが現実になった。けれ
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第364話

慎一の体は熱を帯び、数日ぶりの再会に、すぐに昂ぶりを隠せなかった。彼がごくりと唾を飲み込む音が、私にもはっきりと聞こえた。私の体をくるりと引き寄せ、彼の体は私の上に覆いかぶさるように伸びてきた。漆黒の瞳が、まるで全身を包み込むように広がって、降りかかってくる。私はそっと顔を背けたが、彼の唇は静かに私の頬へと触れる。部屋の中には、私と彼の浅い呼吸が重なるだけ。ほかには何の音もなかった。手を伸ばして彼を押し返そうとしたが、彼を動かすには私の力では到底足りない。慎一のキスは、私の動きに誘われるように、ますます大胆さを増していく。頬から首筋、鎖骨、そしてさらに……私は暗闇の中で目を見開き、彼が自分を抑えきれずに堕ちていく姿を、冷静に見つめていた。そして彼がもう自分を抑える気のない動きを見せたそのとき、私は低く問いかけた。「私に会いに来たのは……結局こういうことがしたかっただけ?」その瞬間、慎一の高鳴っていた心臓が、まるで氷のように静まり返った。佳奈の言葉はあまりにも冷たくて、彼の心をも凍らせた。彼は、佳奈の寺での写真をネットで見たあの日から、ずっとこの日のために動いてきた。音楽祭のステージも、スタッフとの交渉も、自分の会社の秘書を動かしてまで、金も労力も惜しまず尽くしてきた。それでも、どんなに心を砕いても、佳奈から見れば彼女と寝たいだけだった。ただその一言にしかならなかった。慎一は深く息を吐き、目を閉じて、ベッドの端に身を転がす。「もう寝ろ」部屋には静寂だけが残り、私は背を向けて寝返りを打った。かつて、そっと彼の腕の中にもぐりこんでいた私。その距離は今や、もう二人分の余裕があるほど遠く感じる。だけど目を閉じれば、今夜ステージで歌っていた慎一の姿が、どうしても頭から離れない。会場をどうやって彼に手を引かれて出てきたのかも覚えていない。ただ、鳥肌の立つ声とキスだけが記憶に残っていた。胸が少し痛む。こんな気持ちは本当に苦しい。眠れない夜には、そんな感情がどこまでも膨らんでいき、ますます自分が惨めに思えてくる。私が「好き」だと思っていたのは、ただの勘違い。私が「愛」だと思っていたのも、自己満足だった。他人の感情を、自分の物差しで測っていた。それがいちばんの間違いだった。そんなことをぼんやり考えながら、気
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第365話

私は、慎一が外で朝食を注文している声を聞いた。彼はわざわざ電話で、私の好きなデザートをいくつか頼んでいた。それに、「妻のために」と何度も強調していた。布団から起きて着替えているとき、つい笑みがこぼれてしまった。誰も見ていないところで、今度は誰に向かってあんなに愛情深い夫を演じているのだろう――なんて、もう一片の信頼も残っていないのに。荷物もすべてまとめ終えてから、ようやく部屋を出た。案の定、食卓には色とりどりの朝食が並んでいた。慎一は長いテーブルの端に座り、何かを慌ててズボンのポケットに押し込んでいる。アルミの包み紙が擦れる音がして、そのままコーヒーカップを持ち上げ一口飲む。何をごまかそうとしているのか、私には分からなかった。彼は咳払いして私を見た。「よく眠れたか?」私は軽く頷いた。実際、昨夜は私も彼もほとんど眠れなかったはずだ。彼の目の下のクマははっきりしている。でも私は、朝からしっかりコンシーラーを重ねて隠していた。私がキャリーケースを引いているのを見ると、慎一は眉をひそめた。「どこ行くんだ?」「ちょっと東海市(とうかいし)に。穎子がインタビューを手配したの。最近、うちの法律事務所が力を入れてる社会貢献活動を取り上げるって。ちょうど顔出しが必要で、私が適任なんだって」「俺と一緒に家に帰るんじゃないのか?」と慎一は納得いかない様子。「彼女はお前に全国を飛び回らせて、自分はオフィスでぬくぬくか……」私はただ微笑んで何も言わなかった。この件は、穎子に全部かぶってもらうしかない。歩き出そうとすると、慎一が呼び止めてきた。「何か食べていけよ。それから俺も一緒に行く。インタビューなら、どうせ長くても一日で終わるだろ?」「いいよ、会社放っておけないでしょ。終わったら自分で帰るから」玄関まで歩いたとき、慎一は一歩で距離を詰め、私の行く手を塞いだ。「ほら、こんなにたくさん用意したんだ。お前の好きなものばかりだぞ」振り返って見てみると、確かに二人分にしては多すぎる朝食だ。でも、それがどうしたというのだろう。「私一人じゃそんなに食べられないし、あなたはコーヒーしか飲まないでしょ。どうせ無駄になるなら、私が食べなくても同じじゃない?」慎一は私のキャリーケースを奪い、「俺が一緒に食べる」と言った。腰に手を回され、無理やり
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第366話

慎一は車の中で電話をかけ、フライトの手配をしていたが、高橋から「霍田当主が救急室に運ばれた」と告げられた。朝方、父親からの電話を一方的に切ったばかりだった。その直後に怒りのあまり発作を起こし、心拍計のモニターは、まっすぐな一本の線になったという。慎一は落ち着かず、なんとかコネを使って既に離陸した飛行機を引き返させ、自分が乗るまで絶対に再度出発させないようにした。彼はVIP専用の通路を通り、最も早い便で白核市へ戻る段取りを整えた。一方、私は冷たいベンチに座り、何度も何度も「霍田様、早くご搭乗ください」とアナウンスが流れるのを聞いていた。慎一は数歩歩いて振り返る。彼は唇をきゅっと噛みしめ、目尻も不自然に赤い。知らない人が見たら、さながら恋人たちの別れのように映っただろう。「本当に、一緒に帰ってくれないのか?親父、昔はお前に優しかっただろ。これが最後の別れになるかもしれないんだぞ……」私は言葉を遮った。「昔でしょ?それに、親孝行なあなたが帰ればいいじゃない。私は今や霍田家の人間じゃないもの」アナウンスは相変わらず急かし続けるが、慎一にはまるで聞こえていないかのようだった。「俺が、今もお前は霍田家の嫁だと言ったら?」「それはあなたの勝手な言い分よ」私は視線を落として彼を見なかった。「もう行きなさい。私は仕事があるの」慎一は深く息をつき、低い声で言った。「佳奈、仕事って、家族よりも大事か?お前のその仕事、俺は……」「あなたはどうするの?」私はまた遮った。「また女を見つけて、私の全てのチャンスを奪って、最後にはその女に命まで狙われるっていうの?」慎一は拳を握りしめ、大股で私の方へ歩み寄ると、片手で簡単に私を椅子から引き上げ、後頭部を抱え込んで、強引にキスをした。激しいものになるかと思いきや、そうではなかった。彼の唇は微かに震えていた。そして、もう何も考えずに私を強く抱きしめた。「佳奈、親父がいなくなったら、お前まで俺のそばからいなくなりそうで怖いんだ」彼はさらに強く私を抱いた。「本当に想像もできないんだ、お前が一人で頑張ってきたあの頃のことを……」彼は私の額にキスを落とし、「本当に、お前のことが心配なんだ。今度、俺も、同じ立場になったんだよ」私は瞳が少し潤んだ。母のことを思い出した。私は母を連れて異国へと旅
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第367話

霍田当主の病状はなんとか安定したが、依然として楽観できるものではなかった。そのせいで慎一はますます忙しくなり、会社と病院を行ったり来たりする日々が続いていた。私は全国を飛び回り、これまでよりも難しく、時間のかかる案件を引き受け始めていた。もはや、慎一よりも忙しいくらいだった。慎一とは、もう随分と顔を合わせていない。家に帰るたび、どこかから私の帰宅を知った慎一が、まるで幽霊のように真夜中に寝室へ忍び込み、私を激しく求めてくるのだった。私は抵抗しなかったし、そもそも抵抗できなかった。彼が子どもを欲しがっていることを知っていた。焦燥感に駆られ、今にも狂いそうなほどだった。それは、彼の父親の願いだったから。私は彼に合わせた。彼もまた無言で、まるで仕事のように淡々とした行為を繰り返すだけだった。そこに楽しさも、ぬくもりもなかった。ただ虚しさだけが残る。きっと、霍田当主がこの世を去ったら、慎一はもう私に触れることもないだろう。死んだ魚のような私に、もう興味を持つことはないはずだ。ただ、毎回が終わるたび、私は彼の目の前で避妊薬を一錠取り出し、水で流し込んだ。その後、穎子に頼んで、さらに長期の出張を手配してもらうのが常だった。慎一は拳を握りしめ、私の前でじっと耐えていた。彼も、私を止められないことをよく分かっていたからだ。小さな錠剤一つ、こっそり飲むのはあまりに簡単だ。緊急避妊薬が体にどれほど副作用をもたらすか、知らないわけじゃない。でも、私はそんなことどうでもよかった。薬の匂いをかいだだけで吐き気を催すのに、それでも慎一の前で平然と飲み込んだ。慎一の目には、言葉にならない思いが渦巻いていた。私の目にも、伝えきれない思いが溢れていた。私たちはしばしば見つめ合い、そして長い沈黙が流れる……珍しいことに、その夜の終わりに慎一はすぐにベッドを離れず、私にこう尋ねた。「今年の正月、どう過ごすつもりだ?家も全然飾り付けしてないし、なんだか寂しいな」彼がじっと私を見つめてくる。それは、この数ヶ月間で唯一ともいえる、私たちの間に流れた温もりだった。「私が人を手配しておくわ」と私は答えた。例年、慎一は三日間だけ正月休みがあった。私はいつも早めに準備を始めて、彼とふたりきりで半日でも過ごせたらと夢見てきた。でも彼はいつも忙しかった。両親の世
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第368話

康平はすでに海外に渡っていて、今ではなかなかの活躍をしていると、夜之介から聞いた。彼は父親が用意した道をそのまま歩み、海外のラグジュアリーブランドの世界へと足を踏み入れた。誰もが夢見るようなファッション業界のコネも、彼の国内で所属していた芸能プロダクションでは、もはや取るに足らないものになっていた。例えば夏目陽子、ありとあらゆる一流ブランドのアンバサダーをいくつもこなし、トレンドランキングにも何度も入っていた。私はてっきり、康平もようやく自分の進むべき道を見つけたのだと思っていた。でも、まさかこんなに早く結婚するなんて、思ってもみなかった。そんなことを考えていると、不意に電話が鳴った。海外からの番号だった。「もしもし、康平」私は目を細めて微笑み、親しげに声をかけた。「おめでとう!」その向こうは、窓の外に静かに舞い落ちる雪のように、黙っていた。窓ガラスに映る自分の顔はどこかぎこちなく、でも彼には見えないからと、無理に笑顔を作るのはやめた。いつもの康平とは違う、淡々とした声で彼は言った。「佳奈、俺、結婚するんだ。来てくれるか?」「私……」海外への移動は国内のようにはいかない。往復するだけで二日、式に出るならもう一日必要だ。しかも、私は慎一に年末は一緒に過ごすと約束したばかりだ。それに、式が終わって三日後は大晦日。慎一と一緒に霍田当主のお見舞いに行く必要もあるだろう。最近の霍田当主は、まるで私のお腹にすでに霍田家の孫がいるかのように、やたらと私に会いたがるのだ……康平は続けて言った。「来てくれるよね?お前の友達にも招待状を送ったよ。往復のチケットもホテルも全部用意してある。道中が心配だから、誰か付き添いもつけてる」「穎子はもう彼氏ができてて、最近会うのすら難しいの。たぶん一緒に行くのは無理かな……」「じゃあ、その彼氏も連れてくればいいさ。付き添い禁止ってわけじゃないし」私は黙り込んだ。みんなが時間を作れるかどうかも分からない。でも今の私と康平の関係で、結婚式に出るのがよいのだろうか。もし新婦に何か知られたら、余計な悩みを増やすだけじゃないか。康平は、私の気持ちを察したのか、しばらく沈黙した後、苦笑した。「もしかして、慎一が行くなって言ってるのか?俺、もう結婚するってのに、まだ心配されてるのかよ」
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第369話

海苑の中を隅から隅まで探し回ったあげく、ようやく裏庭の雪の中に、背筋をピンと伸ばして立っている慎一を見つけた。黒いコートには薄く雪が積もっていて、どうやらしばらくここに立っていたらしい。年末は彼が一番忙しい時期のはずなのに、こんなふうに雪を眺めてぼんやりしている余裕があるなんて。慎一の視線はどこか一点を見つめているようで、けれどどこも見ていないようでもあり、その虚ろな瞳は舞い落ちる雪よりも淡く儚い。「慎一」私はそっと彼の名を呼ぶ。今呼ばなければ、きっとこのまま氷の彫像みたいに固まって、冬そのものと一つになってしまう気がした。本当は、海外へ行く話をしようと思っていた。反対されるだろうなと覚悟もしていたけれど。慎一はゆっくりとこちらを振り返った。その表情は、まるで氷の彫刻のように冷たく凛々しく、一見柔らかそうな輪郭も、その奥には鋭い冷たさを隠している。彼の視線がじわじわと私に焦点を合わせ、しばらく見つめた後、ようやくその表情が和らいだ。「おいで」彼のコートはまるで大きな獣の口のようだった。私が一歩踏み出した瞬間、彼の腕がすっと伸びて、私をその中に包み込んだ。私の頭を優しく覆いながら、彼は目を閉じ、額をそっと私の額に寄せてきた。長い睫毛の上に雪が降り積もり、その重みに耐えかねて震えている。慎一は鼻先で私の頬をくすぐり、まるで「早く」と急かすようだった。私はまっすぐに彼を見つめる。その表情を見て、ふと思い出す。昔、自分のmixiに書き込んだ言葉。【雪の中で、彼と転がって、キスして、笑って……そんな日が来たらいいなあ】まさか、今それが現実になるなんて。偶然なのか、それとも運命なのか。私は彼に気に入られたくて、つま先立ちになり、そっと唇にキスを落とした。けれど、次の瞬間、バランスを崩してしまった。慎一の体がそのまま後ろに倒れ、コートが舞い上がり、雪が二人の頭から顔までたくさん降りかかった。ロマンチックなはずの場面も、お互い雪まみれで必死な様子に滑稽さが混じる。慎一でさえ、少し唇を引き結びながら、私の乱れた髪をそっと直してくれた。「寒いでしょ、起きて!」私は起き上がろうとしたけれど、慎一は私を放さない。彼の掠れた声が耳元に響く。「寒くなんてさせない」彼はしっかりと私を抱きしめ、私の体が雪に触れ
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第370話

書斎の中は静まり返っていて、ページをめくる音だけがかすかに響いていた。慎一は私を抱きしめたまま、静かに頭を私の肩に預けている。邪魔をするつもりはないらしい。「これで、あなたが二度目で私を助けてくれたよね」私は嬉しさを隠せなかった。最初は、彼が私よりも先に動いたと聞いた時、私を脅せるような弱みを握ろうとしているのだと思っていた。でも実際は、そんなことは一切なくて、彼は何の見返りも求めずに、再び安井グループを私の手元に戻してくれた。こうして比べてみると、私が卓也に頼んで用意させたあれこれの備えが、なんだか後ろめたく思えてしまう。「これからの仕事の中心は、どこに置くつもり?」慎一の問いかけに、私は一瞬ぽかんとして、振り返って彼を見た。私の影が彼の頬の半分を覆い隠し、わずかに覗く黒い瞳が、かすかに明滅していた。慎一は落ち着いた声で続ける。「もし会社の経営を学びたいなら、教えてくれる人を手配できるよ」私はペン立てから一本のボールペンを抜き、キャップを外して署名の準備をした。「学ぶ気はないわ。卓也がいるから、彼に任せておけば安心なの」「彼は所詮外部の人間だ。権力は自分で握っておくほうが安心だぞ。でないと、いずれお前の言葉より、彼の方が重くなるかもしれない」「構わないの。母がいた頃から、彼はずっと支えてくれていた。安井グループが今のようになれたのも、彼の力があったからだと思ってる」「それでも、やっぱりお前にはもう少し会社のことに関心を持ってほしい。俺の妻なんだから。いずれ俺が年をとったときに、代わりに支えてくれたら嬉しい」「年をとったとき、か」私は思わず笑ってしまった。その言葉は、あまりにも遠くて、あまりにも美しい未来だ。そんな美しい未来が、私と慎一に訪れるとは到底思えなかった。霍田当主は霍田夫人と娘に財産を残さなかったけれど、慎一は決して彼女たちに冷たくはしないだろう。霍田当主がいなくなれば、私の人生は今よりもっと苦しくなるだけだ。私は、彼と年をとるまで一緒にいられる自信なんてない。慎一には分かっていない。私が本当に欲しいのは権力じゃない。困った時に自分を守れる力だけだ。私はそうだし、穎子もそうだった。「年明けには、また裁判が入ってるんだ」「そんなに無理するなよ。俺の妻が、そんなに苦労し
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