All Chapters of 婚約崩壊寸前！初恋は遠ざかれ: Chapter 381 - Chapter 390

慎一は、一言も発しなかった。彼は背を向けたまま、いつもは凛とした背中が、小さな山のように丸く沈んでいる。久しぶりに煙草を手に取り、ライターで二度火をつけてやっと火がついた。白い煙が彼のまわりに薄く漂う。私はむせて咳き込んでしまった。もしこの痛みがなければ、すべては夢の中の出来事のようにすら思えたかもしれない。慎一はゆっくりと振り返り、闇のように深い瞳で私を睨みつけた。その目には、激しい憎しみが燃えている。彼は素手で煙草をもみ消し、まるで何も感じていないかのように静かに言った。「ありえない」彼の視線が、私の全身をすっと流れる。耐えきれなくなったのか、眉をひそめて私をそっと抱き上げ、バスルームへと運んでいった。ベッドはもう、ぐちゃぐちゃで寝られる状態じゃなかった。何度も何度も夜が明けるかと思った頃、やっと別の部屋に移され、私は力尽きてベッドに横たわった。慎一は言った。「体調が悪いなら、結婚式に行かなくていい。お前の祝福は、俺がちゃんと伝えておくから」暗闇の中で、私は目を開けた。鋭いまなざしでどこか一点を見つめる慎一の横顔が、ぼんやりと浮かぶ。なるほど。これが、彼がずっと言いたかったことなんだ。私はもう、何も言う気力が残っていなかった。そっと目を閉じる。朝早く、雲香がやって来て、ドアをノックした。彼女は可愛らしいピンクのドレスに身を包み、慎一のスーツの袖をつかんで、そのまま外へ連れていってしまった。二人が去ったあと、私はようやく体を起こした。体の力が抜けたまま、頭はぐらぐらしている。しばらくベッドの端に寄りかかってから、壁づたいに立ち上がり、ふらふらと洗面所へ向かった。康平の結婚式、どんなことがあっても、私は行かなくちゃいけない。たとえ遠くから一目見るだけでも、わざわざ彼のためにここに来たのだから。私は穎子に電話して、先に迎えに来てほしいと頼んだ。しばらくして、インターホンが鳴る。てっきり穎子が来たのかと思ってドアを開けると、そこに立っていたのは、真っ白なタキシード姿の康平だった！私が驚く暇もなく、康平はドアを押し開けて、隙間から無理やり中へ入ってくる。「ちょっと、ここに隠れてもらって！」バタンとドアが閉まる音に、私は心臓がドキドキする。康平は息を荒げながら、膝に手をついて屈み込んでいる。

私は少し驚いて、「えっ、秘密？誰のこと？」と訊いた。「お前のことだ」康平は顔を引き締めて、確信を持った口調で言った。「じゃ、言ってみてよ」私は康平が私の秘密なんて知っているはずがないと思った。ネットでちょっと有名になってからは、良い話も悪い話も全部掘り返されて、もはや隠し事なんてあるわけもない。康平は深呼吸をした。「佳奈……」彼は歯を食いしばり、言いたいことが喉まで出かかったのに、また飲み込んでしまった。何か言えない事情でもあるのか、うつむいてしまう。そんな様子を見て、私の好奇心はすっかり刺激されてしまった。私も焦れて、「早く言ってよ」と急かしてしまう。だって康平には早く式場に戻ってほしいのだ。彼は突然顔を上げ、苦しそうな表情を浮かべながら言った。「ずっと……お前にこれを知られなきゃ、俺にもチャンスがあると思ってた。お前が縛られることなく、自由に俺と一緒にいてくれる可能性があるって……でも違った。俺は完敗だよ。佳奈、本当は、お前と……」そのとき、突然、扉の外からノックの音が響いた。康平はピタリと口を閉ざした。私は彼と目を合わせる。お互い、どこか緊張した空気が漂っていた。外から穎子の声が響いた。「佳奈、開けて！」私はホッと息をつき、康平に向かって言った。「穎子だよ、彼女なら大丈夫。何言っても平気だよ、私と彼女の間に秘密なんてないから」そう言いながら、穎子が一人じゃないことをすっかり忘れていた。案の定、博之が穎子の肩を抱いて、堂々と入ってきた。私と康平の姿を見て、ちょっと意味ありげな表情を浮かべる。「鈴木社長、まさかここで会うとは。ご祝儀、今ここで渡した方がいい？それとも式場で？」康平の顔には少し苛立ちが浮かんだ。博之の飛行機のチケットだって、康平が自分で秘書に買わせたのに。康平は博之を無視し、私との会話を断ち切られるのも構わず、完全に無視を決め込んだ。私はちょっと困ってしまう。これじゃ康平の話はもう続かなさそうだ。「行こうか」私は康平に向かって言った。「一緒に行く？それとも自分で戻る？」二人で一緒にいるのを誰かに見られるのは、やっぱり面倒だ。だから付け加える。「自分で戻った方が早いかもね」私は手を伸ばして、穎子に支えてほしかったが、どうも意図が伝わらない。すると、康平が私の前に歩み

「私と慎一は、離婚していないの？」慎一の言葉が、何度も何度も頭の中でこだまし、心をぐちゃぐちゃにかき乱す。耳の奥がガンガンと鳴り響き、思考さえも止まってしまった。穎子が慌てて私の冷えきった手を握りしめてくる。彼女も、今聞いたことがとても信じられないといった顔だ。私はゆっくりと康平を見る。彼は静かに頷き、慎一の言葉が事実だと示してみせた。離婚していない……もし本当に、私と慎一が離婚していないのなら、あの大雨の中、何時間も立ち尽くしていた私は、いったい何だったの？手にした離婚証明書は？ようやく慎一と別れたと勘違いして、康平のことを受け入れてみようとした私の気持ちは？慎一の元に戻ってからは、私はただの従順な相手になり下がって、彼の命令に逆らえずにいた。それも、全部、何だったのだろう。だから、康平が私を追いかけてきた時、激しい想いを持ちながらも、決して一線を越えようとしなかったのは、私を大切にしていたからではなく、私にまだ「人妻」という鎖が残っていることを知っていたからだ。彼には、できなかったのだ。慎一が強く確信していた通り、私と康平は絶対にうまくいかないと、彼は思い込んでいた。だけど私が本気になり、康平の誘いに応じて別の街で暮らすと決め、慎一の元から永遠に去ると約束した時、初めて彼は動揺したのだ。頬を涙が伝い、私はうつむいて笑った。みんな、私を騙していたんだ……部屋の中では幸子が、もっと激しく泣き、そして狂ったように笑い出す。「離婚してないからって何なの？あの二人はもう駆け落ちしたんでしょ？ねえ、霍田社長、私を連れてここから出ていけば、あなたの面子はまだ立つじゃない！」慎一は冷ややかに幸子を見つめ、その目にはもはや軽蔑しかなかった。鋭い視線が彼女を切り裂くように突き刺さる。「お前、本気で思ってるのか？男ってのは、自分の女が他の男にどれだけヤられたか分かったあとで、まだ愛せると思ってんのか？康平が佳奈を見たら、何を思うと思う？ただのだらしない女にしか見えないさ」だらしない……この瞬間ほど、ここに立っていることを後悔したことはない。ここには私だけじゃない、私の友人も、知り合いも、そして私にとってはほとんど他人のような人たちもいる。慎一の「だらしない」という言葉ひとつで、皆の心にどんな想像を呼び起こしたか、考えるだけで身が震え

慎一は今日、結婚式に出席するために、特別に仕立てた黒いタキシードを身にまとっていた。体にぴたりと合う服は、彼の広い肩と細い腰を際立たせ、その端正な顔立ちをさらに引き立てていた。無表情のまま、慎一が私の方へと歩み寄ってくる。黒革の靴が、柔らかな絨毯の上を静かに踏みしめる。だが、そんな彼を見ても私は何も感じなかった。彼は固く唇を結び、まるで命を奪いに来た死神のような冷たい眼差しを向けてくる。博之が私の前に立ちはだかったけど、慎一は鋭い視線を投げつけた。細められた瞳は、鷹のように獲物を捉えて離さない。「どけ」博之は冷や汗を流していた。その後ろから穎子が追いかけてきて、慎一の背中をバンバン叩きながら叫ぶ。「よくも私の男にそんなこと言ったわね！」慎一の忍耐は、もう限界だった。これまで穎子には佳奈の顔を立てて大目に見てきたけれど、彼女もさすがに度重なる挑発は見過ごせない。慎一は沈んだ目で博之をじっと見据え、抑揚のない声で言い放った。「彼女を連れて消えろ。お前ら全員まとめても、俺の相手にはならない」別に直接的な侮辱の言葉はなかった。でも、その言い方は抜群に皮肉だった。「慎一！」私は思わず声を上げた。友人が目の前で侮辱されるのを、もう黙って見ていられなかった。「もうやめて！」慎一が私を見上げる。目が合った瞬間、その瞳に渦巻く暗い怒りが、どこまでも深く、決して消えることがないように感じられた。彼はきっと、面子を潰されたと感じているのだろう。自分の女が、他人の前で一度も彼に尊厳をくれたことがないと。でも彼は、外ではいつも彼女に十分な顔を立ててくれていた。世間では「愛妻家」として報道されているのに、皮肉なことに、彼の妻は彼を仇のような目でしか見られなかった。「私たちのことは、二人きりの時に話そう。今日は康平と幸子の大切な日。客として、場を乱すべきじゃない」「さっき言ったでしょ。彼が結婚するかどうか、私にはもう関係ないの」私は静かに笑った。「慎一、私と康平のことは終わった。次は、私たちの番よ」私はつくづく、どうしようもない馬鹿だったと思う。あの頃の私は、もう一度慎一とやり直せるかもしれない、普通の恋人同士に戻れるかもしれない、なんて夢を見ていた。いつかまた、心から彼に嫁ぐ日が来るかもしれないと……あの時、そ

「本当に、何もしてないの？」私は微笑んで言った。「じゃあ、私たちの赤ちゃんのために、一番盛大な花火をあげてみせてよ」慎一は目を赤くしてうなずき、その場でスマホを取り出して自分で手配を始めた。今夜の大花火は、新婚の康平の話題すらも霞むほどだった。でも、私はその景色を見ることすら叶わなかった。ホテルに戻ると、私は熱を出していた。異国では気軽に病院にも行けず、しかも国内のような治療法なんて望めるわけもなく、もらった薬を飲んでただひたすら熱が下がるのを待つしかなかった。真っ暗な部屋の中、慎一は私のベッドサイドに静かに座って看病してくれていた。私は朦朧としながら、窓の外から花火の音だけが響いてくるのを聞いていた。慎一の声が優しく耳元に落ちてくる。「実は、お前の誕生日のときにも花火を用意してたんだ。その時お前は俺と別れようとしてたから……でも大丈夫、今日の花火の方が前よりずっと綺麗だぞ」彼が私を呼ぶ。「佳奈、抱き起こして、一緒に見ないか？」私は首を振る力すらなくて、半分寝て半分起きているような状態で、そのまま眠りに落ちてしまった。でも、それでいい。せめて私たちの子には、花火が見えていたらいいなと思った。しばらくして、高橋がノックして入ってきた。「社長、明日の帰国のご予定ですが……」慎一は私の髪を優しく撫でながら、瞳に静かな光を宿して言った。「明日は無理だ」「ですが……病院からもお電話がありまして、お父様が……」「俺からちゃんと説明する」彼はそこで言葉を切り、ふと思い出したように尋ねた。「康平の方は、何か動きがあったか？」高橋は目を伏せて、無表情に答えた。「神父の前で誓いの言葉を交わし、ハグとキスを数十秒、無事に式は終わりました」……そんなわけで、熱のせいで帰国の予定は延期された。慎一もずっと私のそばにいるわけにはいかず、幸子との揉め事の後始末に追われて、毎日忙殺されていた。私たちは結局、霍田当主と一緒に年越しすることもできず、先に雲香を国へ帰すことになった。雲香は出発前、わざわざ私の部屋にやってきて、寝ている私を無理やり起こした。彼女はまるで鋭い牙を隠し持つ悪魔のように、冷たい目で私を見下ろしていた。慎一と私が実は離婚していなかったと知ってから、雲香の私への敵意は明らかに強くなっていた。でも、今の私にはそれ