All Chapters of 元カレのことを絶対に許さない雨宮さん: Chapter 121 - Chapter 130

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第121話

凛はイチゴをひと口かじり、目尻をほころばせながら小さく笑った。「おいしい」その笑顔を見つめながら、敏子はふと、彼女が帰ってきたときの少しやつれた姿を思い出した。胸の奥がじんと熱くなり、思わず彼女の手を取り、自分の温かい手で包み込んだ。そして顔にかかった髪をそっとかきあげながら、じっと見つめてぽつりと言った。「……痩せたわね」凛は口いっぱいにイチゴを頬張っていて、ほっぺたがふくらんだまま、目を丸くして首を振った。「そんなことないよ、さっき体重測ったら、先週より1キロ太ってたんだから。見た目がスリムなだけ。手を触ってみて、ちゃんとお肉あるよ」わざと困ったような顔をして、茶目っ気たっぷりに続ける。「むしろ、ちょっとダイエットでもしようかな〜なんて……」その言葉が終わらぬうちに、慎吾が眉をひそめた。「ダイエットなんて、女の子がするもんじゃない。お前はもう十分細いんだ。これ以上痩せたら、骨と皮だけになっちまうぞ」最近の若い子たちは、SNSや動画でダイエット成功者なんて見てすぐに影響される。食事を抜いたり、ひどい時には痩せ薬まで使う。そういう話を聞くたびに、慎吾は頭が痛くなるのだった。凛は目をきらきらと輝かせながら、母の腕にぐにゃりと甘えるように寄りかかる。「わかってるって。ちょっと言ってみただけだよ〜」敏子は娘の額を軽くコツンと叩いて、ふくれっ面で言った。「言うだけでもダメよ。今度帰ってきて、また痩せてたら許さないからね。覚えときなさい!」凛は笑みを浮かべたまま、小さくうなずいた。「わかったって」敏子は寄りかかってくる娘の重みを感じながら、その髪を指でやさしく梳いた。そして、ずっと胸にしまっていた問いを、ようやく口にする。「……この何年か、外ではちゃんとやっていけてたの?」凛の目がふと揺れる。そしてまるで何でもないことのように、あっさりと答えた。「うん、大丈夫だったよ」「あの人は?一緒に帰ってこなかったの?」この質問は、ついに来た。凛は視線を落とし、静かに、けれどはっきりと告げた。「……もう別れたの」あの頃、父が退院したあと、母とふたりでわざわざ帝都まで来てくれた。けれど、彼女の頑なな態度に心底あきれて、ふたりは帰っていった。それ以来、父は激怒し、彼女との関係を断絶。6年もの間、連絡すら一切途絶えていた。だか
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第122話

「私の書いたものが支離滅裂だなんて、どうしてそんなこと言えるの?それが作家にとってどれだけ侮辱的な言葉か、分かってるの?!……確かに、あなたは編集者だし、その専門的な視点や市場に対する判断を信じるべきなのかもしれない。でも、あのスタイルは私の得意とするところじゃない。たとえ方向転換するにしても、いきなりあそこまで変えるのは無理があるわ……お互い、少し冷静になるべきだと思う。じゃあ、用事があるから切るわね」電話を切った敏子は、訝しげな表情を浮かべる娘と目が合った。作り笑いを浮かべながら言う。「大丈夫よ、出版社の編集者からの電話だっただけ」「本当に大丈夫?」「まさか、ウソつく理由ある?」敏子はくすっと笑いながら、娘の肩をそっと抱いた。「ここ数年、紙の本の出版業界って不景気でさ、ベストセラー作家たちもどんどんネット小説にシフトしてるのよ。上手くいけばがっぽり稼げるし、逆にうまく順応できずに消えてく人も多いけどね。編集者としては、私にもネット小説を書いてほしいって。でもまだ心の整理がつかなくて……迷ってるの」「ネット小説?」凛は少し目を丸くした。「どんなジャンル?」宜敏は一瞬だけ笑みを引きつらせた。「都会の恋愛もの、だって」凛は言葉を返さなかった。敏子は、もともとミステリー作家だった。サスペンスがブームだった頃、一作目の『凶器』で鮮烈なデビューを飾り、年間五十万部の大ヒットを記録。その後も間を空けずにホラー小説『廃村学校』を刊行し、自らの記録をあっさり塗り替えてみせた。あの年は「敏子イヤー」とまで呼ばれた。彼女の二作品、計五冊が年間書籍売上ランキングのトップ五を独占したのだ。今の編集者が現れたのも、その頃だった。何度かやりとりを重ねるうちに、敏子は彼女の発想に独自の切り口と先見の明を感じるようになった。何より、何度も足を運んでくれた熱意に心を動かされ、一気に十年契約を交わすことに決めた。それ以降、敏子の作品はすべてこの編集者の手によって校正され、出版・販売されるようになった。だが、予想していたような飛躍は訪れなかった。むしろその後の敏子は、まるで創作の袋小路に迷い込んだかのようだった。アイデアを出せば「市場に合わない」「売りがない」と一蹴され、ようやく構想が通ってプロットまで仕上げても、執筆に取りかかろうとした矢先
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第123話

あの時期、敏子はうつになりかけていた。幸いだったのは、夫と娘がそばにいてくれたことだ。その支えがあったからこそ、少しずつ気持ちを立て直すことができた。ただ、それ以来、ネットには一切触れず、携帯電話も機能の少ないシニア向けのものに変えてしまった。十年という歳月のあいだに、世に出したのはあの青春小説一冊だけ。それ以外に、新作はなかった。「……まあ、そんな話はもういいわ。ホットサンド、おいしい?」「うん。昔と変わらない味だった」凛は母の顔を見つめながら、何か言いたげに口を開きかけたが、結局、何も言わなかった。「ただ、コーヒーがちょっと熱かった」「そう?じゃあ、もう少し冷まそうか」……大晦日が近づくにつれて、静かだった小さな町にも、どこか華やかな空気が漂い始めていた。通りの両側には赤い提灯が吊るされ、道沿いの街路樹には色とりどりの電飾が巻きつけられていた。近所の小さなスーパーは買い物客でごった返し、商品もあまり残っていなかったので、敏子は車を出して、中心街にある大型スーパーへ向かうことにした。車を停め、母娘は並んでエレベーターに乗り、一階へと下りていった。まだ入口に入る前から、左右に立てられた看板に、大きな「年末セール」の字が目に飛び込んできた。中を覗くと、ぎっしりと人で埋め尽くされていた。年越しの買い物に訪れた人々で賑わい、どこもかしこも、お祝いムードに包まれていた。家に子どもはいなかったが、正月ともなれば雨宮家の親戚付き合いもあるし、卒業していった教え子たちが顔を見せに来ることもある。ご近所の人たちがふらりと立ち寄ることも少なくない。だから、おつまみや果物は常備しておかないと落ち着かない。お菓子売り場を通りかかると、敏子はブランドもののキャンディやポテトチップス、ビスケットをいくつか手に取った。そういえば、家の油や醤油、酢といった調味料もそろそろ切れそうだった。思い出したように、瓶詰めや調味料のボトルもいくつかカートに加える。鮮魚コーナーに足を運ぶと、水槽の中でエビが元気よく泳ぎ回っていた。それを見た敏子は、ふと振り返って凛に「エビ、買って帰る?」と聞こうとした。……が、後ろにいたはずの娘の姿が見えない。敏子は眉をひそめてカートを押しながら二列ほど戻ると、やっぱりという顔で凛の姿を見つけた。手に
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第124話

「さっきカレーパウダーを買い忘れちゃった。凛、あそこの棚から一袋取ってきて」「うん」凛はすぐに頷いたが、母が自分を席から外そうとしているのを察していた。娘が離れていくのを見届けてから、敏子はようやく口を開いた。「今朝も言ったけど、まだ考えてる最中なの」「考えてる考えてるって……この話、もう三ヶ月前に持ちかけたわよね?その時も考えさせてって言うから、時間をあげた。でも今になっても、はっきりした返事は一度ももらってない」敏子は眉をひそめた。「私たち、長いこと一緒にやってきたんだから、あなたも分かってるでしょう?私はサスペンスとかスリラーの中短編が得意なの。だいたい二十万字か三十万字ぐらいの作品。今さらネット小説に転向しろって……そんなの、まるで別世界じゃない」「どっちも小説でしょ?なにが別世界よ。文学はつながってるものよ。畑違いなんてないわ」女性の口調は冷たくなり、さっきまでの笑みもすっかり消えていた。敏子は、なんとか冷静に説明を試みた。「まず、ネット小説って基本的に長編が主流でしょ?下手すれば百万人字超えなんてザラ。それに人気ジャンルっていえば、都会の恋愛だとか、財閥との結婚だとか……そういうの、私は一度も書いたことがないし、得意でもない。どうやって書けっていうの?『青い果実』のときのこと、もう忘れたの?あの時も転向しようって言ったけど、結果はどうだった?」『青い果実』――それは、敏子が酷評された青春学園小説のことだった。文香の視線がわずかに揺れ、口調も少しやわらいだ。「分かってるわ。あの作品であなたの評価が一気に落ちて、今でもその傷が癒えてない。ネットから離れたのも、それが理由なんでしょう?」「だったら……私がネットを離れたことを知ってて、どうしてまた社長ものの恋愛小説なんて、ネット市場に迎合する方向へ行けって言うの?」「敏子先生、落ち着いて、まずは、ちょっと聞いて」文香は声を和らげながら続けた。「『青い果実』がビジネスに繋がらなかったのは、執筆が遅れたせいよ。書き上げて出版するまでに三年、四年かかったでしょ?その間に映像業界のトレンドはもう変わってた。私があの方向への転向を提案した時には、たしかに青春学園ものが熱かったの。だから、その責任を全部私に押しつけるのは乱暴よね?あなたにも責任はあるし、もちろん、私たち両
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第125話

「作品を生み出せず、売上も作れない作家が……それでもまだ作家って言えるの?」その言葉に、敏子の中で何かがぷつんと切れた。「私には、構想なんていくらでもある。でも、あなたは……!」言いかけた言葉を、文香が容赦なく遮った。「あなたのその構想には、何の特色もない。売れる要素なんてひとつもないのよ。書いても時間の無駄、書籍コードの無駄遣い。売れるはずがない!……自分がまだサスペンスの女王だとでも思ってるの?厳しい言い方になるけど、あなたはもう時代遅れなのよ。敏子先生、現実を見て。いい加減、自分の立ち位置を認めなさい!」「お母さん――」凛が耐えきれず、棚の陰から飛び出してきた。その声に、敏子は一瞬うるんだ瞳をぐっと押さえ込み、笑顔を無理やり引き出した。「持ってきた?」凛は手にしたカレーパウダーの袋をひょいと持ち上げて見せた。「うん、ここにあるよ。もう遅いし、お父さんもたぶん学校から帰ってるよね?早く会計して帰ろう?」「……ええ、そうね」「鈴木さん、それでは私たち、これで失礼します」凛が母の代わりに静かに頭を下げた。彼女には分かっていた。今の敏子がどれほど傷ついていて、もうこれ以上、目の前の人と向き合う余裕がないことを。文香は薄く笑ってみせた。「ええ、私はもう少し見て回るから」そう言ってから、再び敏子の方に向き直る。「さっきの話、もう一度よく考えてみてちょうだい。……私たち、古い付き合いでしょう?これまで何年も、一緒にやってきたんだから」敏子は視線を落としたまま、何も言わなかった。凛がそっとカートを引き取り、そのまま母を連れてその場を離れた。「お母さん、あの女……鈴木さんとは、十年契約だったよね?」「うん」「たしか、今年が最後の年だったはずじゃない?」敏子は少し考えてから、うなずいた。「言われてみれば、そうね」「……彼女のこと、どう思う?」敏子は二秒ほど沈黙し、それから言葉を絞るように答えた。「……まあ、プロ意識はあるわ」凛はふっと微笑み、特に突っ込まずに話を続けた。「契約書、まだ残ってるよね?」「残ってるけど、どうして?」「今夜、探して見せてくれない?」「どうしてそんなの見たいの?」「ただちょっと見てみたいだけだよ。ダメなの?」「そんなわけないでしょ。お母さんのものなんて、全部
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第126話

しかも、母と編集者の会話を聞いていて、凛の胸に残ったのは――作家への気遣いでも励ましでもなかった。そこにあったのは、ただ一方的なプレッシャーと、精神的な支配に近い言葉の数々だった。「いいでしょ!いいでしょ~」「わかった、帰ったら送るわよ。でも、最後まで読む根気があるのかしら?」「絶対に大丈夫!絶対読むから!」……家に着くと、慎吾が玄関先でしめ飾りを取り付けていた。自分では位置のバランスが分かりづらいのか、首を傾けながら凛が口を挟んだ。「お父さん、ちょっと右に寄ってるかも。もう少し左に……」ちょうどそのとき、敏子も車から降りてきて、じっと飾りを見つめながら首を振った。「私から見ると、ちょっと高すぎない?もう少し下げてみて」慎吾は素直に、しめ飾りを数センチ下にずらした。だが――「やっぱり低すぎるわ。もう少しだけ上に戻して」「……これくらいで、ちょうどいいんじゃない?」凛が助け舟を出すと、慎吾はようやく飾りを整え、脚立から静かに降りた。全体のバランスを確かめながら、なんとも言えない顔でつぶやく。「うーん……なんか、まだ変な気がするな」それを見た敏子がふっと目を細めて、あることに気づいた。「……もしかして、表裏逆につけてない?」慎吾はごほごほと軽く咳き込みながら、視線をそらした。「……言われてみれば、そうかも」彼は玄関のしめ飾りと、リビングに飾る予定だった小さな門松を取り違えて設置していた。左右のバランスが妙に合わないと思ったのも当然だった。敏子はあきれたように、しかし軽やかに言った。「もう、冬休みに入ったら頭まで休んじゃうんだから……」「……」慎吾は返す言葉もなかった。その様子に、凛は思わずぷっと吹き出して笑ってしまった。……大晦日。敏子は久しぶりに台所に立ち、凛の好きな料理をいくつも用意した。炊きたての白米に、おせち料理の定番である黒豆、数の子、伊達巻、紅白なます。煮しめや筑前煮も丁寧に味を含ませた。一方、慎吾は重箱に詰める盛りつけを担当しつつ、お雑煮の出汁を整え、焼いたお餅を準備していた。柚子の香りがほんのり漂う吸い物の湯気が、台所にやさしく広がっていた。家族の健康や繁栄を願いながら、色とりどりの料理が食卓に並べられる。午後五時、三人は揃ってこたつに入り、静かに箸をつけた。食後
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第127話

体裁さえ保っていればいい。お互い干渉せず、波風立てなければ、それで充分。海斗はといえば、いつもその中間に立ちながらも、ほとんどが回避的な態度だった。自分から話題に出すこともなければ、深く問いただすこともない。見て見ぬふりをして、曖昧なままやり過ごしてきた。彼が、恋人と実の母との間に横たわるあらゆる問題に、正面から向き合おうとしたことは一度もなかった。それでも凛は、彼を責めなかった。彼を思って、何ひとつ強く求めたりはしなかった。たとえば――「大晦日の夜、どこで過ごすの?」「私と、お母さん、どっちを選ぶの?」そんな質問を、彼女は一度も口にしたことがない。けれど今、改めて振り返ってみると、あの頃の自分の譲ることも耐えることも気遣いも、所詮は自己満足だったのかもしれない。男は、そんな優しさを大切にするどころか、いつしか慣れっこになり、しまいには、それが“当然”だと思うようになる。「うん、両親に会いたくなって、チケット取って帰ってきた」凛はあくまであっさりと、そう言った。けれど、画面越しにそれを見ていたすみれには分かっていた。凛が実家に戻る、その一歩を踏み出すまでに、どれほどの勇気が必要だったかを。「ご両親はお元気?長い間会ってないから、よろしく伝えてね」「元気にしてるわ。さっきご飯のときも、すみれの話が出たのよ」大学時代から、雨宮夫婦はすみれが娘の一番の親友だと知っていた。夏休みに凛が帰省するたび、「これ、すみれに持って行って」と地元のお土産を持たせていたほどだ。今でもすみれは、慎吾が作った牛肉の味噌を思い出すと、ちょっと涎が出そうになる。「ところで、いつこっちに戻ってくるの?実家にはどのくらいいる予定?」凛は少し考えてから答えた。「まだしばらくいると思う。久しぶりだから、両親とゆっくり過ごしたくて」すみれはうなずいた。「だよね、こんなに長く帰ってなかったんだもん。きっとお父さんもお母さんも、すごく会いたがってたよ」電話の向こうで、すみれの目線がふと下に落ちた。iPadで何かを見ていたようで、目がぱっと輝いた。「ちょっと待って、やばい、今おもしろいの見つけちゃった!」「なに?」「見てないの?」「ううん、なにも」そのとき、すみれはようやく思い出した。――そういえば、凛はとっくに海斗をブロックしてた
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第128話

凛は淡く唇を歪めた。「大丈夫、遠慮しなくていいわ」そう口にしたものの、空気はふたたび沈黙に包まれた。そんな折、すみれの側から急にざわざわと賑やかな音が聞こえ始めた。「凛、ごめん!ちょっともう無理かも。うち家族の宴会始まっちゃって、お母さんが私のこと探しまくってるの」「わかった。いってらっしゃい」通話が切れたあと、凛はスマホを置こうとしたが、その瞬間、立て続けにいくつかのLINEメッセージが届いた。送信者は、時也。添付されていたのは、国際訴訟の訴状とその受理通知書。現在の進捗についての簡潔な説明と、本人の署名が必要な書類がいくつか含まれていた。国際訴訟は通常の手続きに比べて格段に複雑で、進行にも時間がかかる。ここまでスムーズに動いていることに、凛は内心少し驚いていた。彼女はファイルをダウンロードし、オンライン上で署名を済ませると、改めてすべての書類を時也に送り返した。向こうは一秒も経たずに既読がつき、返信を送ってきた。どこか冗談めいた軽い調子で、こう書かれていた。【こんなに俺を信じてるの?俺が裏切るかもしれないのに?】【あなたはそんなことしない】凛の一文を見た瞬間、時也は胸の奥がふっと温かくなった。知らず、口元に笑みが浮かぶ。明らかにその言葉が嬉しかったのだろう。彼は気怠げに口角を上げながら、指を素早く動かしてメッセージを打ち込んだ。【安心して。署名が必要な書類なだけだよ。訴訟のこと以外には一切関係ないから】凛は眉をわずかに上げたが、特に気にすることもなかった。彼女はバカじゃない。署名を求められた書類はすべて目を通してからサインしている。問題がないと判断したから、署名しただけだ。それに、もし時也が彼女を陥れようとするなら――こんな回りくどくて、幼稚な手段を選ぶとは到底思えなかった。2秒ほどして、スマホが再び震える。【よいお年を。来年こそ、俺の願いが叶いますように】……凛は無言のままスマホをひっくり返し、ベッドの上に伏せて置いた。彼女はサンタクロースじゃない。彼の願いが何であろうと、彼女には関係ない。「凛、お父さんがおしるこを作ってくれたわよ、早く食べなさい――」階下から敏子の声が聞こえてきた。凛はすぐに立ち上がり、軽やかに返事をする。「はーい、今行く!」7時20分、テレビでは紅
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第129話

電話の向こうからも、同じように新年の挨拶が返ってきた。彼女の声はやわらかく、落ち着いていて、その中にほんの少し微笑がにじんでいるように聞こえた。陽一の脳裏には、彼女が携帯を手に、ほほえみながら新年の挨拶をする姿が浮かんだ。ちょうどそのとき、空に開いた花火が彼女の笑みを浮かべた横顔を照らしている――きっと美しいに違いない。……元旦の朝。凛はこの日、珍しく11時まで寝ていていいと許された。陽の光が静かに窓辺をよじ登り、カーテンの隙間からじんわりと部屋の中へ染み込んでくる。彼女はまどろみの中でゆっくりと目を開け、窓の外で風に揺れる木の枝の影が、まるで獣の爪のようにカーテンに投影されているのをぼんやりと見つめた。もう朝なの?!彼女は上半身を起こし、大きなあくびをひとつ。窓辺へと歩み寄ると、勢いよくシャッとカーテンを引いた。思ったとおり、朝の日差しは遠くの山肌に積もった雪を眩しく照らし出していた。光が雪に反射して、まるで目がくらむような明るさだった。庭では、慎吾と敏子が並んで座り、本を読みながら日向ぼっこをしていた。慎吾の耳はいい。窓が開く音を聞いた瞬間、凛が起きたのだとすぐに分かった。教師という職業柄、彼は時間に対して非常にきちんとしている。だから、凛の寝坊癖には、どうにも納得がいっていないのだった。慎吾は湯飲みを手に取り、一口すすりながらぼやいた。「まったく、お前の母さんが甘やかすからだ。こんな時間まで寝て、三食もろくに摂らない。胃を悪くしたらどうする気なんだ。最近の若い子は自分の体を大切にしない。年を取ってから痛い目見るんだぞ……」そんな小言を遮るように、敏子が手元のみかんを一房、ひょいと夫の口元に押し込んだ。「寝坊したくらいで、いつまでうるさく言うの?凛はもう卒業してるのよ、あなたの生徒じゃないんだから。元旦の日にちょっと寝坊したくらい、いいじゃない」そう言いながら、敏子は窓辺にいる凛に目を向けた。「お父さんはおじさんだから、気にしなくていいわよ。朝ごはん、テーブルに置いてあるから、温めればすぐ食べられるわ」「はーい」凛はにこにこしながら返事をした。陽が高く昇り、日差しがぽかぽかと庭を包む。朝食を済ませた凛も、両親の隣に腰を下ろし、湯飲みを手に、お茶と日光浴の時間に加わった。「お父さん、このお茶な
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第130話

ちょうどその時期は冬休みに入っており、生徒の大半は休みに入っていたため、校内はひっそりと静まり返っていた。正門の前に立っていた凛に気づいた警備員が、じろじろと彼女を見ながら声をかけてきた。「大学が冬休みで、先生に会いに来たんだね?」高三の生徒たちはまだ補習授業があるため、校舎の一部では授業が続いていた。凛が何か言う前に、警備員は背中に回していた手を軽く振りながら、咳払いを一つした。「入っていいよ。ただし静かにね。高三の授業の邪魔しないように」「……」凛は何も言わず、黙って軽く会釈をして校内に入った。本当の目的は先生に会うことではなかった。彼女は校舎へは向かわず、グラウンドを二周ほどのんびりと歩いたあと、そろそろ帰ろうかと門の方へ戻っていた。その途中、ふと目に入ったのは学校の「優秀卒業生コーナー」だった。そして、そこに自分の写真を見つけた。写真の下には、小さな紹介文が添えられていた。雨宮凛20XX年、臨市理系全国大学入試成績一位、B大学生物学科合格。風が目にしみて、彼女は顔を少しそむけた。地面の落ち葉が風に巻き上げられ、小さな渦を描く。さっきまで明るく澄んでいた空が、見る間に雲に覆われ、どこか陰りを帯びはじめた。凛は腕で風をさえぎりながら、そろそろ戻ろうと歩き出した。不意に背後から、誰かの小さな叫び声が聞こえた。「あっ、雨宮先生!」凛が顔を上げると、本当に父の姿があった。そういえば昨夜、紅白を一緒に見ていたとき、今日学校に立ち寄って高三の生徒に試験問題を届けると言っていたっけ。なるほど、それで来たわけだ。「雨宮先生、こんな朝早くから?元日の一日目でしょう、ご家族はお忙しくないんですか?」声をかけてきたのは、慎吾と同じくらいの年齢の女性教師だった。凛もどこかで見たことがある。教職員住宅の住人だが、自宅とは別棟に住んでいる。物理の教員で、父と同じ教研グループに所属していた。当時、慎吾は「特別進学クラス」を、その女性教師は普通クラスを担当していたので、授業を受けたことはなかったが――その娘、児島はるか(こじまはるか)とは高校時代、同じクラスだった。「児島先生」慎吾はにこやかに挨拶を返した。「ええ、うちは特に忙しくはないですよ」「へえ?じゃあ凛は、今年も帰省しないのですか?」「帰ってますよ
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