元カレのことを絶対に許さない雨宮さん のすべてのチャプター: チャプター 461 - チャプター 470

480 チャプター

第461話

【本当にそんなに怖いの?じゃあ、私も読んでみようかな!】【信じてくれ、あれを読んだらもう二度と豆腐なんて食べられなくなるぞ】【どうして?】【答えは全部、本の中にある】二日後、「読書ブタ」がまた一つ投稿を上げた。今回は父親の姿はなく、『七日談』の表紙だけがぽつんとアップされていた。そこに添えられていたのは、こんな一言だった。【ふと気づいたけど、年配の人たちって、本当にいいもの読んでたんだな】この一連の流れに乗って、『七日談』はまるで彗星のごとく若者たちの読書界に現れた。そして、若者たちは――どっぷりハマった。半月も経たないうちに、スレッド、掲示板、果ては応援サイトまで立ち上がり、にわかに熱気を帯び始める。それを見た昔からの読者たちは、声を揃えてこう叫んだ。もう無理だ、この宝物みたいな作家、隠しきれない!この時になってようやく、『七日談』のファンたちは気がついた。そういえば、作者はどこに?これだけ話題になっているというのに、作者に関する情報が一切出てこない。以前なら、少しでも売れた本がトレンド入りすれば、すぐさま作者が名乗り出て、ここぞとばかりに注目を集めようとするものだった。『七日談』なんて、もう何度もトレンドに上がっているというのに、作者はというと、ひっそりといなくなった――いや、まるで……スマホを持ってないかのように沈黙している。敏子は本当に知らなかった。ずいぶん前にネットの世界から身を引いていて、SNSアカウントも持っておらず、使っているのはただのガラケー。べつに使えないわけじゃない。ただ敏子は、昔のような情報が少なく、穏やかな世界が、好きだっただけだ。世の中の声に流されることなく、ただ自分の書きたい物語を書き続けていたい。だからこそ、彼女は自ら外界との接点を断ったのだ。誹謗中傷もあれば、称賛や拍手もある。良いも悪いも、すべてを閉ざしたまま、静かに筆を執り続けていた。……凛は話を聞くと、すぐにスマホを取り出し、書名を検索した――『七日談』すると、画面いっぱいに情報が溢れかえった。素人の熱狂的な書き込みもあれば、有名人による推薦コメントもある。もちろん、批判や皮肉も少なからずあったが――それでも、ひとつだけは疑いようがなかった。『七日談』は、間違いなく当たったの
続きを読む

第462話

慎吾は、出かける前にさっと自分でカップ麵を作って腹を満たしていたため、今はまったく空腹を感じていなかった。そのぶん手持ち無沙汰になった彼は、カバンから一冊の本を取り出し、ページをめくりながら夢中になって読みふけっていた。二十分後、アナウンスで乗車手続きの案内が流れた。敏子と凛は荷物が少なかったこともあり、二人そろって先に進んで、スムーズに改札を通過した。そして、改札の先で振り返りながら、慎吾を待っていた。慎吾はそのすぐ後ろに続き、片手でスーツケースを引き、もう一方の手では敏子のバッグを抱えていた。改札を通るためにICカードを取り出そうと、カバンに手を伸ばした瞬間――財布が、ない。さっき、列に並んでいるときのことが頭をよぎる。確かに、後ろから何かにぶつかられそうになり、よろけたのだった。財布はあのとき、背中のリュックから抜き取られたのだろう。「お父さん、早くしてよ」改札の中から、凛のせかす声が飛んできた。慎吾は、ひどく気まずそうな顔で答えた。「……財布がなくなった。ICカードも一緒に入ってた」「……」「スマホで!」凛はすぐに気づいて声を上げた。「アプリでも乗車できるよ!」どうせ財布の中に入っていたのは、せいぜい数万円程度。ICカードだって、あとで再発行すれば済む話だった。eチケットなら、その場ですぐ予約・乗車が可能だ。しかし慎吾は気まずそうに苦笑した。「……スマホも、なくなった」凛は絶句した。そのときだった。慎吾の視線が、遠くの人混みに吸い寄せられた。さっき背中にぶつかってきた、その人物の後ろ姿だ。「泥棒だっ!」慎吾はスーツケースをその場に放り出し、人波をかき分けて駆け出した。凛と敏子は、慎吾が一人で何かあったらと心配になり、改札を逆戻りしようとした。だが、すぐに制服を着た係員が二人を制止した。「お客様、申し訳ありませんが、規定により検票を済ませたあと、こちらの改札口には通れません。外に出られる場合は、出場口のほうからお願いいたします」出口からこの辺りに戻るには、大きく遠回りしなければならなかった。敏子が事情を説明する。「主人が泥棒を追いかけて行ったんです。危ないので心配で……どうにか、特別に通してもらえませんか?」「申し訳ありませんが、規定ですので、どうすることもできません」凛はほんの一瞬、
続きを読む

第463話

時也の視線はまず慎吾に落ち、それからさりげなく凛へと流れた。この二人は……「お父さん、この人知ってるの?」凛が驚いたような声で歩み寄ってくる。お父さん?時也の口元がわずかに緩んだ。今回、時也が臨市に来ていたのは出張のためだった。三日間の滞在を終え、今日が帰る予定の日。けれど悪天候の影響でフライトはキャンセルとなり、彼は秘書に指示して、午前中の新幹線を取り直していた。ただ、まさか……思いがけない収穫まであった。「さっきは瀬戸くんが泥棒を追いかけてくれたんだよ!身のこなしが見事でさ、あれはなかなかのものだった!」慎吾は嬉しそうに言った。凛は一瞬きょとんとしたが、すぐに状況を理解した。「瀬戸社長、ありがとう」「凛、そんなふうに言うなんて、よそよそしいよ。あんな場面、誰だって見たらすぐに動くさ。迷う理由なんてない」敏子は目を丸くして問いかけた。「あなたたち、知り合いなの?」「そうだ」凛と時也が同時に答えた。どうやって知り合ったのか、という話になると、この場で聞くにはあまりにも微妙な空気だった。敏子はそれを察して、それ以上何も言わなかった。「瀬戸くん、どこへ行くんだい?」慎吾が声をかける。「帝都に戻るつもりで」時也は淡々と答えた。「それはちょうどいい!俺たちも帝都に行くところなんだ。お前はどの便?」時也は表情ひとつ変えず、逆に問い返した。「雨宮さんは、どちらの便で?」慎吾が列車番号を口にすると、時也の口元にうっすらと笑みが浮かぶ。「奇遇だね。俺も同じだ」「それは素晴らしい!一緒に行けるじゃないか!」「そうだね」慎吾に熱心に誘われ、時也はそのまま三人のそばに腰を下ろした。二人が世間話をしているその隙に、時也は何気なくスマホを取り出した。あっという間にチケットの変更手続きが完了する。不運も、時に巧みに仕組まれた運命へと変わることがある。……その後、警察官が慎吾を見つけ、先ほどの件について事情を尋ねてきた。慎吾は、なくなっていたスマホと財布がどちらも見つかったことを伝えた。警察官は職務室でサインするよう協力を求めた。先ほど警察が出動していたためだ。もちろん、慎吾は何のためらいもなく、それに応じた。敏子も一緒について行った。座りっぱなしだったので、ついでに体
続きを読む

第464話

凛はそれを受け取った。誘惑が強すぎて、抗うのは難しかった。「ありがとう」「じゃあ……時也って呼んで」「……」帝都に着いたのは午後2時を過ぎていた。凛たち家族三人と時也は、同じ車両には乗っていなかった。駅を出て、凛がアプリを開いてタクシーを呼ぼうとした時、前方にひときわ目立つ背の高い時也が立っているのが見えた。彼は笑顔で慎吾に近づいてきた。「おじさん、外に俺の車が停まってるけど。よかったら送ろうか?」慎吾は少しためらった。「いやいや、大丈夫。そんなに気を使わせるのは悪いし、自分たちでタクシー呼ぶよ」「全然大丈夫だよ、ちょうど通り道なんだし」そう言って、時也は慎吾の手からスーツケースを受け取り、そのまま外へ歩き出した。「ああ、それじゃお願いするよ、瀬戸くん」「はい」凛黙ってアプリを閉じ、携帯をしまった。車の中——時也は運転席に座り、慣れた手つきでハンドルを操作していた。凛は助手席、敏子と慎吾は後部座席に座っていた。「おじさん、そのお持ちの『通鑑』って、2003年に再版された古い本だよね?」時也はルームミラー越しにちらりと目をやりながら尋ねた。慎吾はぱっと興味を示した。「その本を知ってるのか?」「祖父が歴史に関心を持っていて、俺も少しだけ影響を受けたんだ。もし記憶が合っていれば、『通鑑』は2010年以降の版で2つの章が削除されていて、その前にも一度削除があったと思う」慎吾の目がきらりと輝いた。「一度だけじゃないんだ。この本は合計で三度も削除されているんだよ!最近がお前の言う2010年で、その前が2004年、最初の削除がいつだったかははっきりしない。でも子供の頃に初めて読んだ時は、確かに全部で三十六章があった。今持っているのは二回目の削除前の版で三十章、つまりその後の二回で合計四章が削除されたってことは、それより前にもう一回削除があったはずだ」「96年だ」時也が突然口を挟んだ。慎吾はきょとんとした顔で目を瞬かせた。「え?」「もう一回削除があるとしたら、それは間違いなく一九九六年だよ」「どうしてそんなに確信が持てるんだ?」慎吾は興味深く尋ねた。「前までは自信がなかったけど、おじさんが『2004年以前にも削除があった』っておっしゃったので……たぶんそれは、俺の大叔父が統一編集を担
続きを読む

第465話

敏子は思いもよらなかった。まさか時也が自分の本を読んでいたなんて。「『七日談』が私の作品だって、知ってたの?」時也はちらりと凛を見て、うなずいた。「はい、知ってた」どこで知ったのか――時也は言わなかった。敏子も聞かなかった。ただ、凛だけがひたすら気の毒だった。二人の聡明な視線に何度も何度も見つめられ、探られ、値踏みされて……八百回は往復した気がする。はあ……「で、結局犯人って、あの真面目そうな物理教師だったの?」時也の問いに、敏子は少し驚いたように目を見開いた。「どうしてそんなこと聞くの?」物語のラストでは、すべての謎が丁寧に解かれていき、最終的に犯人として浮かび上がったのが、まさにその物理教師だった。自分の専門知識を巧みに使い、見事なまでに計画された完全犯罪。物語は明らかに、あの物理教師を犯人として描いていた。それなのに――時也はこう言った。「本当に彼が犯人なのかな?」敏子の目がふと鋭くなり、時也を見る眼差しが深まっていく。時也は続けた。「本の中に、ちょっと引っかかる描写がいくつかあったのを覚えてる」一つ目は、階段の踊り場に映ったずれた影。二つ目は、唐突に消えた凶器。最後には警察が見つけたけど、あれがどうやって消えたのか、作中では一度も説明されてなかった。三つ目は、一人暮らしの女性の部屋にあった二足のスリッパ。物語では「来客用」とさらっと書かれていたけど――なんでわざわざ男性用のスリッパ?一人暮らしの女が、男を頻繁に招いてるってこと?そのためにわざわざ男物のスリッパを用意してるのか?それは、どう考えても不自然だった。仮にスリッパを用意するにしても、選ぶのは女性用であって、わざわざ男性用を揃える必要なんてない。「……全部の伏線は、真犯人が別にいるって示してるように思える。ま、あくまで俺の推測だけど」時也はそこで言葉を切った。敏子はふっと笑った。「そうやって疑問を口にする時点で、もう答えは見えてるんじゃないの?」時也もつられるように笑った。「ってことは……続編、あるんだよね?」敏子は答えなかった。けれど、微笑んだまま何も言わないその態度が、すでにすべてを語っていた。車が路地の入口で止まると、凛は軽く頭を下げて礼を言い、両親と一緒に車を降りた。「瀬戸くん、ありがとうね
続きを読む

第466話

「時也、どういうつもりだ?」海斗が茶卓のそばに歩み寄った。「何の話だ?」「開発区のプロジェクト、なんで止めた?」時也はひとりで静かに茶をすする。「協力する気がなくなったから止めただけ。何か問題でも?」「お前の勝手な判断で止めたのか?!一日でも遅れれば、どれだけの損失が出ると思ってる!」「だいたい分かっている」「分かってて、そんなことするのか?!」時也は一杯を飲み干すと、淡々と二煎目を淹れはじめた。その所作は流れるように無駄がなく、手慣れていた。海斗は我慢できず、急須に手を置いた。「三日も逃げ回って、今度は何も言わず黙りこむつもりか?ずっと態度をはっきりさせない気か?」ようやく、時也がゆっくり顔を上げた。「誰が逃げたって?」「お前の秘書が出張だと言ってたが、わざと俺を避けてたんじゃないのか?」「ふん、お前ごときが?自意識過剰すぎ。臨市に視察だよ。半月前から決まってた予定だ。お前から逃げる必要なんて、どこにある?」「……臨市?」海斗の目が細くなる。何かに気づいたようだった。時也は口元にふっと笑みを浮かべた。そのとき、悟がずいと身を乗り出してきた。「えっ、時也さん、臨市行ったんすか?臨市っていいとこっすよね。メシも酒も俺の好みにバッチリで……あ、そういや凛さんの実家って確か臨市で――って、なに肘で突いてんすか、いってえ!」広輝が猛烈に目配せしていたが、悟にはまるで通じなかった。仕方なく、横から思いっきり肩をぶつけた。ようやく悟も空気を読み、口をつぐんだ。海斗の視線が、悠然と構える時也に向かう。一語一語、噛みしめるように問いかける。「お前……臨市に、凛を探しに行ったのか?」時也は落ち着いて答えた。「言っただろ、視察だって」そして、一拍置いて言葉をつないだ。「――ただ、凛には確かに会ったよ」「今、なんて呼んだ?」「凛」「……もう一回言ってみろ、この野郎!!」「凛~凛~」海斗が勢いよく時也の胸ぐらをつかんだ。「時也、この前も警告したはずだろ?」時也はその手を払って、ゆっくりと襟のしわを整えながら答えた。「警告?ふん、どんな立場で言ってんの?元カレ?厚かましいにも程がある」海斗は一度深く息を吸い込み、感情を押さえ込むように言葉を続けた。「これがプロジェクトを中断した理由か?……
続きを読む

第467話

「まさか本気で思ってるんじゃないだろうな。俺ときっぱり縁を切れば、凛が俺たちの過去を気にせず、お前と付き合ってくれる――なんて、そんな都合のいい話があるとでも?……バカが!」次の瞬間、海斗は時也の手から茶碗をひったくり、床に思いきり叩きつけた。「パリン」という音と共に、破片が四方に飛び散った。「時也、今まで気づかなかったけど……お前って、ただの恋愛脳だったんだな?」悟と広輝は、破片が飛んでくるのを恐れて思わず二歩、後ずさった。二人は顔を見合わせ、海斗の言葉に含まれた情報に内心驚いた。時也はこんな自損覚悟の方法で、無理やり海斗と縁を切ろうとしたのか?!以前も確かに、二人の仲はこじれていた。だが、それはあくまで私的な付き合いをやめただけ。表向きのビジネスでは、投資すべき案件にはきちんと出資し、稼げる金はしっかり一緒に稼いでいた。利益の前では、私的な関係なんて取るに足らない。もし自分たちだったら――女性を口説くにしても、絶対に金を無駄にしたりはしない。ましてや、時也のような老獪な男が?今回はどうして……海斗が「恋愛脳」と罵るのも無理はない。悟と広輝にだって、時也の行動は理解しきれなかった。時也は床に散らばった茶碗の破片に目を落とし、ふっとつぶやいた。「もったいねぇな。いい湯呑みだったのに……キレたからって割るか?まさか、凛のときもそんな感じだった?」海斗は眉をひそめて言った。「一体何が言いたいんだ?」「小さい人間で何が悪い。幼稚だってかまわない。俺はそういうやつなんだよ。お前との縁はきっちり断ち切る。それだけのことに、大層な理由なんて必要か?俺がそうしたいからそうする。ただ、それだけで十分だろ?」「な、なにを……っ」その一言で、どれだけ怒りを買ったかは一目瞭然だった。上下に波打つ海斗の胸、強張る顎が何度もきゅっと噛み締められるのを見れば、それは明らかだった。時也は口元をゆるめ、海斗を見据える。「どうした?プロジェクトが惜しい?金が惜しいってか?」「……さすがご立派だな、お前は金なんて興味ないってわけかよ??」「あるさ。好きだよ、金は。でも……金より凛のほうが大事だ」悟と広輝は、無言で顔を見合わせた。どうしよう?鳥肌が立ってきた。時也は構わず続けた。「お前の言うとおり、俺がどれだけお
続きを読む

第468話

「彼女は、愛に恵まれた家庭で育った。これが何を意味するか、分かるか?」その声に、海斗が振り返った。時也は、ひとつひとつ言葉を噛みしめるように続けた。「つまり――彼女には、人を愛するだけの余裕があって、自分で未来を切り開く勇気もある。たぶんだからこそ、あのときお前と一緒にいるって決めた彼女は、何の迷いもなく、全世界を敵に回すことさえ厭わなかったんだ。なのに、お前はそのすべてを裏切った。お前や他の連中からすれば、凛のあのときの行動も、そのあとお前に対して見せた寛容さも、ただの恋愛脳だったかもしれない。でも俺は知ってる。彼女は違う。彼女は、自分が選んだ男のために、かつて自分が下した決断のために――全力を尽くした。ただ、それだけなんだ。そして、最後に彼女が望んだものなんて――最初から最後まで、ちゃんと向き合ってほしい、たったそれだけのことだった」時也は、人の急所を正確に突く男だ。海斗の身体がわずかに揺れた。目元には赤みが差し、唇が震えた。「……お前、それを今ここで言って……自慢してるつもりか?」「そう思っても構わないよ」時也は両手を軽く広げてみせた。もはや、取り繕う気すらなかった。「……」「あんな家庭で育った子は、感情に対する要求が必然的に厳しい。彼女が求めるのは、完全で、寛容で、清く、純粋な偏愛だ」それは、天秤にかけた末の選択なんかじゃない。時也は、海斗のことを最低な男だと思っていた。けれど自分だって、決して合格とは言えなかった。時也はこれまでずっと、計算し、駆け引きし、一歩一歩盤石に物事を進めてきた。昔の時也なら、女を追いかけるために、金になるプロジェクトをいくつも手放すような真似は決してしなかっただろう。実際、海斗の言う通り、女を追うことと金を稼ぐことは矛盾しないのだから。それでも。時也は、もうそんな綿密な計算をしたくなかった。凛のために、一度くらい――わがままになってもいいと思った。……もしかしたら二度、三度と続くかもしれない。いや、それどころか。この先、何度でも――数え切れないほど、繰り返してもかまわないと思った。結局、海斗はドアを思いきり叩きつけて出ていった。その音は、天井が揺れるかと思うほど激しかった。ドアのすぐ向こうに立っていた悟と広輝は、その場で硬直した。魂が抜けかけた顔を
続きを読む

第469話

海斗はざっと資料に目を通すと、すぐさまプロジェクトのマネージャーを呼びつけた。「これらは、すべて中止だ」「は、はい?」マネージャーは耳を疑った。これらはすべて会社が現在最も重視しているプロジェクトで、中には、あと一歩で利益が見え始めるものもあった。それを今になって、突然すべて中止だと――?!「俺の言い方に、何か曖昧なところでもあったか?」「い、いえ…」「それとも、理解するのが難しかったか?」「……いえ、そういうわけでは」「じゃあ、何が問題だ?」マネージャーの額に冷や汗がにじむ。「社長、申し訳ありませんが……私には、どうしてなのか……」「理解しなくていい。命令に従えばそれでいい」……20以上のプロジェクトを整理し、打ち切る。それだけでも膨大な作業だ。どこをどう切り分け、どうすれば損失を最小限に抑えられるか――すべてが具体的な課題だった。全てを終えた頃には、すでに深夜を回っていた。海斗はオフィスの大きな窓際に立ち、遠くの夜景に目を向ける。月は白く冴えわたり、街の灯りはところどころで瞬いていた。あの時、彼女はお前と一緒になるために、全世界を敵に回す覚悟でいた。なのに、お前はそのすべてを裏切った。時也の言葉が、途切れることなく頭の中を反芻する。海斗は苦笑した。悔しさにも、いろんな種類がある。けれど、最もたちが悪いのは――誰もが口を揃えて言うのだ。「お前は、どれほど素晴らしい女性を逃したのか」って。だが、そう言っている彼らは。そのときには誰一人、何も言わなかったじゃないか。すべてが手遅れになってから、こうして教えてくれる。海斗は、深く重たい無力感に呑まれていた。そしてそれは、別荘に戻り、がらんとしたリビングを目にした瞬間――極点へと達した。自分は、何をすべきだった?今さら、何ができる?時也は言った。もう、凛の両親に会ったのだと――朝。夜が明け、金色の陽が大地に差し込む。凛は静かに起き、朝食を用意した。慎吾と敏子を起こすことはせず、自分だけで食事を済ませると、そっと外へ出て、朝の運動に出かけた。その日は午前中に授業がなかったため、運動の帰りにそのまま市場へ立ち寄った。そして慎吾と敏子が目を覚ましたときには、温かい朝食がテーブルに並び、冷蔵庫には、買いたての新鮮な野菜と
続きを読む

第470話

「品物、受け取らないよ。まず、あんたに何かしてもらった覚えはないし、私たちは他人。物の値打ちなんて関係ない。受け取る理由なんてどこにもないよ。それに――あんたと凛はもう終わったの。今じゃ他人同士。なおさら、あんたから何かもらう筋合いはない」思い出すのは、たった一度の顔合わせ。あのとき、敏子と慎吾はレストランで三十分近くも待たされた。ようやく現れた海斗は、手ぶらだった。「おじさん、おばさん」と形式ばった挨拶をしただけで、あとは黙って飯を食っていた。会話らしい会話はなかった。自分から話しかけようともしない。そのとき敏子の頭に浮かんだのは、ひとつの言葉だった。「釣り合わない」あんな男、娘の相手にはまったくふさわしくない。でも、凛は夢中だった。海斗が「用事がある」と早々に席を立ったあとも、無理に理由をつけて彼を庇っていた。敏子は何も言わなかった。ただ、心が痛かった。凛があんなにも気を遣っているのが哀しかったし、海斗からちっとも大事にされていない現実が、何よりつらかった。二人の関係がどうであれ、海斗の態度はどう見ても礼儀を欠いていた。人の親にすら敬意を払えない男が、どうして娘を大切にできるっていうの?敏子は母として、その日は喜びを胸にやって来た。けれど、帰る時には心配事ばかりが頭を占めていた。もちろん、理屈を噛んで含めるように凛に話すことだってできたし、「あの男は合わない、今すぐ別れなさい」と強く出ることもできた。でも、敏子はそうしなかった。凛の性格を誰よりも知っていたからだ。無理に引き離したって、きっとずっと心に引っかかる。後悔して、未練を残して、一生を悔やむかもしれない。子どもが大人になったら、親は手放すしかない。自分の足で歩かせるしかないのだ。だが敏子は予想だにしなかった。手放した先に待っていたのが「博士一貫コースを辞める」なんて話だとは!この代償は……あまりに大きすぎた。「幸いなことに、もう全部終わったわ。凛も新しい人生を歩き出してる。もしあんたの中に少しでも後悔があるなら、これ以上娘の前に現れないで」敏子はもともと人と口論するのを好まない。騒がしく怒鳴ることもなく、いつも穏やかで静かな口調だった。でも、そんな優しい声色で吐かれた言葉は、これ以上ないほどに残酷だった。海斗は
続きを読む
前へ
1
...
434445464748
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status