All Chapters of 元カレのことを絶対に許さない雨宮さん: Chapter 441 - Chapter 450

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第441話

陽一が洗面所から出てきた。洗面所のドアは、ちょうどコート掛けの真正面。だからこそ――二人は避ける間もなく、ばっちり目が合ってしまった。陽一は脱いだ服を腕に抱えたまま、髪はまだ濡れていて、雫がぽたぽたと垂れている。Tシャツの肩口はすでに濡れ始め、首筋や頬もうっすら湿っていた。水なのか汗なのか、見分けがつかない。そして、その視線が凛に向いた瞬間――頭の中が、真っ白になった。凛は黒いキャミソール姿。ぴったりした生地が、豊かな胸元やなめらかな上半身のラインをはっきりと映し出している。丈はやや短く、しなやかな腰が覗き、小さなへそまではっきりと――細くしなやかな腕、際立つ鎖骨、黒に映えるその肌は、まるで発光しているかのように白かった。夢で見た彼女と、寸分違わぬ姿だった――凛はその場に立ち尽くし、呆然と見つめたまま、手に持ったTシャツを着ることさえ忘れていた。「せ、先生……」陽一がようやく我に返り、慌てて背を向ける。深く息を吸い、どうにか声を落ち着かせようとするが――「すみません、やっぱり洗面所、借りたけど……」それだけの言葉が、喉をひどく締めつける。口の中は乾ききり、息を吸うことさえままならなかった。ドクン──ドクン──胸の奥で何かが狂ったように脈打ち、今にも胸を突き破って飛び出しそうな勢いだった。陽一はたしかに、自宅でシャワーを浴びるつもりだった。清潔な着替えを手に洗面所へ向かったところ、そこには作業員たちが数人、所狭しと集まっていた。古い造りのアパートで、設計当初にはエアコンの設置場所など考慮されていない。そのため、室外機は決まって外壁に取り付けられている。ちょうど陽一の部屋もそうで、洗面所の外壁に室外機が設置されていた。作業員たちはすでに安全ベルトを身につけ、洗面所の窓から身を乗り出し、壁の外で修理を進めているところだった。これでは、シャワーどころかトイレを使うことさえままならない。結局、陽一は凛の家へと向かった。ひと言声をかけようと、寝室の前まで来たものの、そこでふと足を止める。今、話しかけたら邪魔になるだろうか?もしかしたら、もう休んでいるかもしれない――とにかく、自分は手早く済ませるつもりだった。数分もあれば終わる。まさか、そんな偶然に鉢合わせする
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第442話

二人での作業は、これが初めてではない。陽一は野菜を洗い、雑用をこなし、凛の指示に素直に従った。凛は包丁を握り、材料を手際よく切り分けては、鍋に向かう。しばらくして、食卓には肉料理二品、野菜料理二品、それに湯気の立つスープが並んだ。向かい合って椅子に腰を下ろすと、陽一が先にご飯をよそい、凛の方へそっと差し出す。凛は受け取りながら、ふと笑みを浮かべて「ありがとう」と言った。空気はすっかり落ち着きを取り戻し、さっきの気まずい場面など、なかったかのようだった。食事を終えた後、陽一はいつものように黙って台所に立ち、片付けを手伝う。彼が渡してくる皿を、凛は丁寧にタオルで拭き、一枚ずつ所定の場所へ戻していく。二人の連携は息がぴったりで、整然としていた。だが、ゴミを片付けようとしたその時だった。凛と陽一が同時に腰をかがめ、ゴミ袋の口を縛ろうとした瞬間、不意に二人の額がぶつかった。「いてっ——」凛は額を押さえて身を起こし、思わず顔をしかめた。「ごめん、本当にごめん!気づかなかった……」陽一は慌てて謝りながら凛に近づき、「どこ打った?見せて」と優しく言って、そっと凛の手をどけた。額の一点が赤くなっている。爪ほどの小さな範囲だったが、幸い腫れてはおらず、大事には至らなそうだった。「ただゴミをまとめようとしただけだったのに……本当にすまない」凛はかすかに首を振って答えた。「大丈夫です……もう痛くないから」そう口にしたものの、大きな瞳はうるみ、目尻もうっすら赤く染まっていて、まるで誰かに叱られた子どものようだった。陽一の表情はますます申し訳なさそうになった。「あの……先生、その手……離してもらえますか?」凛の控えめな声に、陽一はようやく、自分の手が彼女の手首に触れたままだと気づいた。「し、失礼……」陽一はまるで火でも触れたかのように、慌てて手を放し、二歩ほど後ろへと飛び退いた。凛は最初こそ気まずさで頬を染めていたが、その大げさな反応を目にして、つい吹き出してしまった。陽一も思わず口元をほころばせる。「そんなに可笑しかったか?」「うん、すごく!」彼は小さくため息をついて、「……君が楽しければそれでいい」と静かに言った。そう言うと、もう一度腰をかがめて、ゴミ袋の口をしっかり縛った。
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第443話

「直ったよ」「じゃあ、今夜も夜ランしますか?」「うん……一緒に行くか?」「ぜひ~」軽いやり取りのあと、二人はそれぞれの部屋に戻り、トレーニングウェアに着替えた。そして再び合流すると、並んで階段を下り、軽やかに走り出す。夕陽はすでに沈み、空の色はゆっくりと深まってゆく。夜の帳が静かに大地を包み込む。一周走り終えた頃には、月が高く昇り、その光がはっきりと冴え始めていた。点々と浮かぶ星も、ちらちらと瞬きを始めている。三周目に差しかかると、凛が息を切らしながら立ち止まった。「せ……先生。ここでちょっと休みます。気にせずに続けてください」陽一も足を止め、肩で息をしながら彼女に視線を向けた。「大丈夫か?」凛は全身汗でびっしょりになり、頬もほんのり赤く染まっていた。「疲れたってほどじゃないけど……ただ暑くてたまらないんです」髪の根元はすっかり汗で濡れ、頬を伝った汗がぽたりとこぼれ、スポーツTシャツの布地に染み込んでいく。「じゃあ、もう走るのはやめて、ちょっと歩こうか」陽一がそう言うと、凛は照れくさそうに鼻先をそっと触れた。ふたりは並木道をゆっくり進んでいく。しばらく歩くと、B大学の正門にたどり着いた。陽一は近くのコンビニに立ち寄り、ミネラルウォーターを二本買って戻ってきた。一本のキャップを開けてから、もう一本を凛に差し出す。「ありがとうございます」凛が小さく礼を言う。そのまま正門を抜け、さらに半周まわって裏門へと歩を進めた。裏門から少し中に入ったところには、誰でも使えるオープンなバスケットコートがあった。ふたりがその脇を通りかかったちょうどその時、ひとつのバスケットボールが凛の頭上めがけて飛んできた。彼女はすぐに気づいて、身を引こうとしたが――その前に陽一が素早く反応し、凛の腕をぐいと引いて自分の背後にかばい、もう片方の手でボールを見事にキャッチした。「ピィーッ!」コートのほうから口笛が響く。「ナイスキャッチ、兄ちゃん!」陽一は今日、白いバスケットウェアを着ていて、その姿はまるで現役の大学生のように若々しかった。「こっち、あと一人足りなくてさ。どう?一緒にやらない?」陽一はボールをやりたくてうずうずしていたが、先に凛の方を見て軽く目で問いかけた。凛はうなずいた。「先生、行ってき
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第444話

「まだ付き合ってない」「おお~なるほど、まだ口説き中ってわけか!」誰かが茶化すように声を上げたが、陽一は何も答えなかった。その沈黙を、男たちは肯定と受け取ったらしい。「知り合ってどれくらいなんだ?」陽一は一瞬考えた。「一年以上だな」「マジかよ!そんなに経ってんのにまだ落とせてないのか?それはちょっとヤバいぞ。せっかく背も高くて顔もイケてんのに、もったいねえって!」陽一は黙っている。「よし、俺が奥義を伝授してやる。これ使えば、九割九分の女はイチコロだぜ……」陽一は興味なさげな顔をしていたが、相手が本題に入ると、つい耳を傾けてしまっていた。……帰り道、凛はふとつぶやいた。「……先生のあのシュート、すごくかっこよかったです。フォームもきれいで……」歩きながら、凛は身振りを交えて嬉しそうに話していた。陽一はその隣を歩き、時おり相槌を打ちながら、口元にはずっと笑みを浮かべていた。薬局の前を通りかかったとき、陽一がふと立ち止まる。「ちょっと待ってて」そう言って、店の中へ入っていった。出てきた時、手には塗り薬が握られていた。陽一は凛の額を指差した。「おでこ、まだ少し赤い。たぶん明日あたりアザになるかも。これ、塗っとけば早く治るよ」凛は、彼が薬局に入ったのが自分のためだとは思ってもいなかった。「ちょっとした傷ですし、明日には治ると思います。そんなに気を遣わなくても……」凛は慌ててそう言って手を振ると、陽一は軽く首を傾けた。「顔にアザができると見た目よくないだろ。女の子って、そういうの気にするんじゃないの?」「女の子って?」凛が眉をひそめると、陽一はあっさりと答えた。「ああ、すみれもそうだったから」「……じゃあ、ありがとうございます」そう言って凛が塗り薬を受け取ろうとしたその時だった。陽一は、それを渡す素振りも見せず、黙って医療用の綿棒を取り出した。「自分じゃやりにくいだろ。僕がやるよ」そのために、彼は薬局の中でわざわざ手を洗い、消毒スプレーまでしてから戻ってきたのだった。凛は思わず口を少し開け、驚いたように陽一を見上げた。陽一はすでに黙々と塗り薬を綿棒に含ませていて、片手でそっと彼女の額にかかる前髪を払った。赤くなった部分が、やわらかな照明の下で露わになる。その指先が
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第445話

「そうしてこそ、彼女はおまえを信頼できる人間だと感じ、何の不安もなく、安心してその胸に飛び込んでくるってわけだ。わかったか?」陽一は、なるほどと思った。実にもっともらしい理屈だ。ただ一つ、納得できない点もある。転んだ拍子にキスとか、いきなり抱き寄せてキスとか……前者は現実味がなさすぎて危なっかしいし、後者に至ってはただの狼藉だ。そんなのは愛情表現じゃない。むしろ女性への敬意を欠いている。そう、敬意の欠如だ。そう思っていたはずなのに──夢の中の自分は、その「敬意の欠如」を地で行くようなことばかりしていた。挙句の果てに、口を突いて出た言葉は、「……凛、気持ちいいか?」その瞬間、陽一は飛び起きた。ベッドの上で頭を抱え、まるでいたずらがバレた子どものように肩を落とした。どれほど時間が経ったのか、自分でもよくわからない。ただ、気持ちがようやく落ち着いたころ、陽一はベッドを下りてクローゼットの前に立ち、清潔なボクサーパンツを取り出して着替えた。もう治まったはずなのに。なのに、どうしてまた…………翌朝──朝日はいつもより早く研究室に顔を出していた。昨日はデータの出力を待たずに帰ってしまった。そのことが気にかかり、今日は早めに来て補っておこうと思ったのだ。このままじゃ、また陽一に説教されるのは目に見えている。それが嫌で、彼は目覚ましを三つもセットし、まだ空が白む前に布団を抜け出して、車を走らせてきた。ところが——「うそだろ!お前いつ来たんだよ!?今日って日曜だよな!?今週は二日休むって言ってたじゃん、なんで来てんだよ!」あまりにも感情が高ぶりすぎていて、かえってやましさが丸見えだった。陽一は実験台の前に立ち、冷ややかに視線を上げる。「つまり、昨日のデータ、出してなかったんだな?」「!」朝日は言葉を失った。しまった!「いやいや……せっかくの休みに、なんで来るんだよ!?陽一、お前ってたまにマジで真面目すぎるんだよ!石よりもかたいじゃないか!」「ふうん」と陽一は淡々と返す。「データ、さっき二組分出しておいた……まあ、今の様子じゃ、必要なさそうだけどな?」朝日は一瞬固まり、すぐさま満面の笑みに切り替えた。「へへっ、冗談冗談!そんな真に受けんなって…………石って最高じゃん!見た
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第446話

というのも、ちょうどその頃、凛はすでに臨市行きの新幹線に乗り込んでいた。祖母・千代子の八十歳の誕生日を祝うため、雨宮家の三兄弟が盛大な祝いの席を設けることになり、親族一同でにぎやかに集まる段取りだった。当然、孫世代の凛にも帰省の声がかかった。日程はずいぶん前から決まっており、しかも三日間連続。祝日でもなかったため、凛は休むしかなかった。ちょうどその頃、大谷は海外で開催される学術サミットに出席中。今回はやや長めの滞在となり、時差の影響もあって、凛は電話ではなく、前もって休暇申請のメールを送ることにした。幸い、温厚な先生は快く了承してくれただけでなく、「おばあ様によろしく伝えてね」と、いくつか祝福の言葉まで託してくれた。午後二時、新幹線が臨市駅に滑り込んだ。敏子が車で迎えに来ていた。「お父さんは?」車に乗り込みながら凛があたりを見回す。慎吾の姿が見えず、不思議に思う。敏子は免許を持ってはいるが、運転はあまり好きではない。こんなふうに駅まで迎えに来るのは、たいてい父・慎吾の役目だった。どうして今日は……敏子はどこか困ったような顔をした。「お父さん、今日はちょっと都合がつかなくてね」「でも今日は日曜日だし、授業もないでしょ」だったら、一体なにがそんなに忙しいのか。ここまで話すと、敏子はふうっとため息をついた。凛はますます首をかしげる。「これはね、ちょっと長くなるのよ……」千代子の八十歳の誕生日は盛大にやると前々から決まっていて、加えて千代子自身がにぎやかなのが大好きなものだから、本番の祝いは明後日なのに、田舎の親戚たちは二日前の今日から続々とやって来ていた。十数人が集まれば、当然のように宿泊の手配が問題になる。祖父母の清・千代子はいま、長男・省吾の所有する別荘に身を寄せていたが、その別荘は地上二階、地下一階の三階建てで、部屋数もスイートが四つきり。決して大きな造りではなかった。さらに、省吾は自宅で友人を招くこともあるし、そこに田舎の親戚が大勢押しかけて泊まるなんて、ちょっと見栄えが悪い。「さて、どうするつもり?とにかく省吾の家はダメだからね!」千代子は、家族会議でおなじみの強気な態度を崩さず、きっぱりと言い放った。その視線が、次男の亮吾と三男の慎吾に向けられる。長男は受け入れ不可
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第447話

「私は図々しいから、恥をかくのは平気だけど……でも、あの親戚たちに聞かれたらどうしよう?『こんな立派なマンションに住んでるのに、洗濯機すら買ってないの?』って。そのときに『お金がなくて、実家が家の購入を援助してくれたから、もう余裕がないの。義父母も特に手助けしてくれなかったんで……』なんて、まさか言えないし……宴が終われば、あの人たちは何事もなかったかのように帰って、あちこちで好き勝手に話すに決まってるわ。私と亮吾は別に構わないけど。どうせ年に数えるほどしか帰省できないから。でも、お義母さんの顔が立たなくなるのだけは……私、心配で……もちろん、お義母さん『それでもいい』と言うなら、私は喜んで親戚を家に泊めるとも。にぎやかなの、大好きだし!」珠希はにこにこと笑顔を浮かべたまま、口を止めると、そのまま千代子の返事を静かに待った。だが、その胸のうちは、もう毒づきの嵐である。ふざけないでよ。引っ越したばかりの新居、私がまだまともに楽しむ間もないってのに、なんであんな田舎臭い親戚どもに踏み荒らされなきゃいけないのよ!?承諾する方が阿呆よ!千代子の目がわずかに揺れた。「引っ越したばかりで家具もまだ揃ってないなら、もういいわ。私の誕生日祝いなのに、親戚や友人を呼んで、洗濯機ひとつ使えないなんて、さすがに無理があるでしょう?」「だよねー」珠希はため息をつきながらも、口元のニヤつきがどうしても抑えられなかった。「もしうちの親がもうちょっと援助してくれてたら、ここまでカツカツにはなってなかったのにさ……あ、ちがうちがう、お義母さんのこと言ってるんじゃないよ?うちの実家の話ね」千代子は「……」と黙り込んだ。最初は気にしてなかったのに、そう言われるとさすがに引っかかる。とはいえ、「援助」に関して、千代子は何の反応も見せなかった。珠希は内心で舌打ちした。ほんっとケチくさいババアだわ……でもまあ、認めざるを得ない。珠希、人の心の操り方だけは、やたら上手い。少なくとも、千代子だけは完璧に手玉に取ってる。省吾は上座に座ったまま、終始一言も発しなかった。多忙な身でなければ、今ごろはもう会社にいたはずだった。予定が狂ったおかげで、たまたま同席しているだけだ。その妻・仁美が空気を読んで場を和ませようと口を開く。「こっちの家にも何人か
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第448話

珠希はにこにこと笑みを浮かべながら話し続けた。「慎吾さん夫婦って、あの大きな別荘に住んでるじゃない?田舎の親戚たちは、みんなあそこに泊めればいいのよ。階も多いし、内装も立派で、新しい換気システムに床暖房まで完備されてる。床に布団を敷くだけでも、十分じゃない?十数人くらいなら余裕で泊まれるし、もっと来たって大丈夫よ。一番いいのは、湖畔別荘の裏門から宴会場のホテルまでがすごく近いってこと。ちょっと歩けば着くから、わざわざ送迎もしなくて済むし!」すっかりその案が気に入ったのか、珠希は何度もうなずきながら自分の言葉に納得していた。だが、彼女はすっかり忘れていた――自分の家もその別荘地の中にあり、同じくらい条件が良かったということを。そのとき、慎吾がようやく口を開いた。これまで何度か口を開こうとしたが、タイミングが合わず、ようやく声を出しかけてもすぐに遮られてしまっていた。「俺も、最初からそうするつもりだったんだ。2人の兄さんも都合が悪いなら、敏子と相談して、親戚はうちに泊めることにしよう」どうせ三日間だけのことだ。千代子はあそこまで強く言い切っていたし、珠希は相変わらず口が達者で立ち回りもうまい。敏子としては渋々ながらも、もう頷くしかなかった。もちろん、田舎の人たちを嫌っているわけではない。ただ、最近は新作の構想を練っていて、ちょうど泉海とプロットの擦り合わせを済ませたばかり。まだ調整段階の今、彼女にとっては静かな環境こそが何より大切だったのだ。そんな中で、突然賑やかになるのは、正直落ち着かない。それでも、どうしても無理というわけではない。敏子はにっこりと微笑みながら言った。「お義母さん、ご心配なく。親戚のみなさんのこと、ちゃんとおもてなしするから」……敏子は運転しながら話した。「……今はもう田舎の人たちが家に泊まってるの。お父さんはずっと接待で手一杯だから、迎えに来たのは私なのよ」凛は頷いた。「お母さん、普段あんまり運転してるの見ないけど、けっこう上手だね」このとき、凛はまだこれから起こる事態の深刻さに気づいていなかった。敏子は顎を少ししゃくって、自信満々に言った。「当然よ!私、物覚えは早いんだから!」……湖畔別荘。「慎吾、この家はお前のかい?!おお……なんて豪華な家だこと!」話しているのは皺
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第449話

三男の慎吾だけが、ちょっと見劣りしてたんだよね。名門大学を出たって話だけど、結局は教師になったってさ。見栄えは立派でも、稼げなきゃ意味ないじゃん!敦子は心の中で何度もぼやいてた。千代子が産んだ子だって、みんながみんな金運に恵まれてるわけじゃないんだな、って。……と思いきや。まさかの、慎吾まで出世しちゃってた!?千代子って女、ほんっと運がいいにもほどがあるわ……そんなことを考えれば考えるほど、敦子の胸はムカムカしてくる。だからせめて孫の享史にはいっぱい食わせておかなくちゃ。せっかく都会まで来たんだもん、しっかり元取らなきゃ損ってもんよ!敦子の一家八人だけじゃなく、もう一つの親戚一家もやってきた。叔母も家族全員引き連れてのご来訪だった。その直子(なおこ)おばさん、家に入るなり敦子とまったく同じ反応で、部屋を見渡しては感心しきり。「慎吾、あんた……すっかり出世したんじゃないの?」直子は声をひそめて、さらにこんなことまで言ってきた。「今の教師って、そんなに稼げるもん?もしかしてさ、何かうまい話でもあったんじゃない?」慎吾は大きく首を振り、両手をブンブンと振って否定した。「ないない、絶対にないって!俺は公立の学校に勤めてるし、給料だって決まってる。裏で儲けるようなことなんて、あるわけないよ!」「なにそれ、まさかおばさんを他人扱いってわけ?裏で稼いでないと、こんな立派な別荘に住めるわけないでしょ?」冗談じゃない!慎吾は頭をポリポリ掻きながら、苦笑い。「いや、ホントに俺は全然稼いでないの。ただ、うちの嫁さんと娘がしっかりしててね。この別荘も、あの二人が買ったもんなんだ。俺はというと……まあ運がよかっただけ。いい嫁さんに巡り会えて、いい娘がいて、ありがたい話さ」「……」直子は黙り込んだ。いやいや、聞きたいのはどうやって金を稼いだかでしょ。何いきなり幸せな人生の自慢話みたいなこと語ってんの?話の焦点ズレてるってば!?教師のくせに!そんなツッコミを心の中でしながら、直子は手すりをさわさわ撫でて、次にソファにドスンと腰を下ろして座り心地をチェック。そして、ついに目をつけたのは――さっきから敦子がずっと目で追っていた、あの花瓶の前だった。「慎吾、これ、すごく素敵ね。もしかして、骨董品とか?」慎吾は直子の性格をよ
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第450話

凛は思わず一度外に出て、もう一度家の表札を見上げた。本当に、ここで間違いない。薄灰色のフローリングには、そこかしこに靴の跡とゴミ。談笑しながら何かをつまむ者たちが、果物の皮、スナックの包装袋を、当たり前のように床へと投げ捨てている。壁も、誰かの子どもに蹴られたのか、黒く曇った足跡がふたつ、くっきりと残っていた。ぶんぶんと飛び交う話し声が、まるで蜜蜂の大群のように空気を震わせる。凛はちらりと敏子に目を向けた。「……なにこれ?」敏子は気まずそうに、ぎこちない笑みを浮かべて肩をすくめた。――見ての通り、よ。凛は心の中でつぶやいた……帰ってもいい?だが当然、そうはいかなかった。すでに誰かが彼女に気づき、にこやかに手を振りながら近づいてきていたのだった――「あらまあ!これが慎吾の娘さん?すっかり大きくなって、きれいになったわねぇ!B大で院生してるって聞いたわよ?本当に立派だこと!」「やっぱり凛ね!こんなに背が高くなっちゃって……で、もう結婚は?まだ学生やってるの?もう何十年も勉強してる感じだよね?あんまり長くやってると、行き遅れちゃうわよ~?」「帰るの大変だったでしょ?さあさあ、煎餅でも食べて!」周囲が凛を見つけた瞬間、まるで珍しい動物でも現れたかのように一斉に群がり、口々に好き勝手なことを言いながら取り囲んでくる。凛は笑顔を崩さず丁寧に挨拶を返し、いくつか適当な返事をしつつ、最終的には「ちょっとお手洗いに」と言ってなんとかその場を抜け出した。そそくさと階段を上がり、自室へと向かう。ドアまで来ると、部屋の扉が大きく開け放たれていることに気付いた。凛は思わず眉をひそめ、中を確認したが、幸い物は触られていなかった。凛はほっと息をつくと、すぐにドアを閉め、外の騒がしい一切を遮断した。夕食は敏子が手配したものだった。敏子は料理を作りたくなかったし、慎吾が一日中この連中に仕えていた上に料理までするのを気の毒に思ったので、外の料理屋に電話して作らせて届けてもらった。十数人の人々は非常に満足そうに食べた。しかし、後片付けや皿洗いは結局、慎吾が一人でやることになった。敦子は慎吾がエプロンを結び、台所に向かうのを見て、すぐに声をかけて止めた。「慎吾、何してんの?」慎吾は答えた。「台所片付けに行くよ」
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