All Chapters of 佐倉さん、もうやめて!月島さんはリセット人生を始めた: Chapter 131 - Chapter 140

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第131話

淳也の今の姿は、まるで牙を剥いていた獅子が調教師に出会い、撫でられるうちにすっかり従順になった子猫のようだった。樹は、公の場に姿を見せることがほとんどない。たとえ近頃、藤崎グループの経営に関わり始めたとはいえ、その存在は依然として外部の人間にとって謎に包まれていた。さきほど車椅子に座っていた人物が誰なのか、あの場にいた者たちはおそらく知らなかっただろう。だが、哲と悠真は知っていた。あれは、帝都・藤崎家が育て上げた正統なる後継者、藤崎樹。数年前の交通事故で両足を失い、それを機に公の場から姿を消した男だ。当時の樹は、今の淳也を遥かに凌ぐほど、手の付けられない存在だった。ふたりは驚くほど似ていた。気性が激しく、傲慢で、他人など眼中にない。まさに自分が世界の中心であるかのように振る舞っていた。しかし、いま目の前にいる樹は、かつての姿とはまるで違う。むしろ、以前よりもはるかに底知れぬ恐ろしさを感じさせるのだった。たった一瞥で、淳也を完全に支配してしまうその威圧感。淳也は、樹の異母弟である。しかし藤崎家では、父を除き、その存在を認める者はいなかった。淳也の母親は、ただの一般人。かつて芝居の世界で一世を風靡した女優にすぎない。芸能の世界出身の女など、名家・藤崎家にとっては「存在しない者」同然だった。樹の冷酷さを、彼らは誰よりもよく知っている。かつて明日香が事件に巻き込まれたとき、樹はそれを淳也の仕業と勘違いした。そして、バーの個室で彼の手を潰させたのだ。あの晩、引きずられるようにして車に乗せられた淳也の姿を、哲も悠真も忘れてはいなかった。あの場にいたのは、三人だけだった。あの記憶は、今も彼らの脳裏に鮮やかに焼き付いている。樹たちの姿が控室から遠ざかっていったあと、哲がぽつりと口を開いた。「......明日香と、あの人はいったいどうやって知り合ったんだ?」「淳也......あの時のこと、本当にこのまま終わらせるつもりか?」声は抑えられていたが、周囲の控室の人間たちはただならぬ空気を感じ取っていた。ただ、その会話の意味までは理解できていないようだった。淳也はポケットに手を突っ込み、ライターをくるくると回しながら、俯いたまま小さく笑った。「......面白くなってきたな」明日香と樹が展覧会を見終えた
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第132 話

午後三時、展覧会は無事に終了した。珠子は国際展示場の外で、見覚えのある車を見つけた。彼女はすぐに助手席のドアを開け、乗り込んだ。「遼一さん......いつから来てたの?どうして電話してくれなかったの?あなたも来てるって分かってたら、もっと早く出てきたのに......こんなに長く待たせちゃって」珠子のスケジュールは中村が把握しており、今日は校外学習で展覧会に出かけることを知っていた。遼一は飛行機を降りたばかりで、たまたま通りかかって彼女を迎えに来たのだった。「大丈夫だよ」遼一は短く答えた。「ねえ、あのプロジェクトの話は?どうなったの?」「契約は済んだ」「本当に?すごい!おめでとう、遼一さん。あのプロジェクトのために、ずっと一週間以上も頑張ってたもんね。これでやっと少し休めるね」車が静かに動き出す。そんな中、車内に響いた彼の声。「珠子ちゃん、シートベルト」一瞬きょとんとした彼女は、すぐにはっとして言った。「あ、忘れてた」素直にシートベルトを締める。以前は、いつも遼一が自ら手を伸ばして締めてくれていた。遼一が疲れているのが分かって、珠子はそっと黙って座り込んだ。車がUターンした瞬間、遼一は道路を渡ろうとする一組の姿に目を留めた。その見慣れた後ろ姿――あれは、明日香だった。明日香は腰をかがめて、車椅子に座る男性のコートとマフラーを丁寧に整えている。ウェーブがかった腰まである長い髪が肩を滑り落ち、手にはペットボトル。その蓋を開け、男性に水を飲ませていた。遼一の視線は鋭くなり、彼女の一つ一つの動作を逃すまいと目を凝らした。唇は固く閉ざされ、鋭利な輪郭が冷たい緊張感を帯びた。車内の空気は、目に見えないほどの圧で張りつめていく。不穏な気配が、静かに広がっていた。珠子もその雰囲気に気づき、口を開いた。「今日は学校の展覧会で......明日香さんも、友達と一緒に来てたみたい。あの人、足......たぶん障害があるんだと思う」遼一はそのまま、離れたところに立つ明日香の姿を見つめ続けた。どこかで、奇妙な錯覚に陥る。かつて、明日香も彼に対して、あんなふうに細やかで、優しく、まるで良妻賢母のようだった。あの夢の中の明日香が脳裏をよぎった瞬間、遼一の胸に重く息苦しいものが込み上げてきた。信号が
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第133話

あの男たちは、彼が差し向けたのか?なぜ......?遼一の復讐計画が、すでに始まっているというの?だから先に動いた?前世では、少なくとも結婚まではたどり着けたのに。なのに今回は、遼一は、最初から彼女に生きる道など与えるつもりはなかったのか。あの桃源村での出来事も、遼一が人を雇って仕組んだものだったの?だとしたら、どうして明日香をいじめた連中をわざわざ懲らしめたりしたの?今さら誰に見せるための芝居だっていうの?今日、私が辱められて死ぬのを、この目で見届けたかったの?それなら、なぜあのとき、海に飛び込んだ私を助けたの?遼一......康生には一体何をされたの?なぜその憎しみを全部、私に向けるの?私は、何もしていないのに!男たちの手が、明日香の服を無遠慮に引き裂いていく。白いフリースのコートは、すでに剥ぎ取られていた。明日香の抵抗など、蟷螂の斧に過ぎなかった。「ちぇっ、ただの見物かよ。遼一......お前さんは、なんとも思わないのかい?」哲朗の目は、彼の下半身に視線を落とし、ニヤリと笑みを浮かべた。血のように紅をさした唇が、どこか妖艶に艶めいていた。「残念だな......今夜を過ぎれば、この小娘も、いっちょ前の『女』になるってのに。でも、よくやってくれたよ。もし明日香が藤崎家に取り入るようなことになれば、我々の計画はさらに厄介になるところだった。明日香みたいな女なら、いくらでも替えがきく。惜しむ理由なんて、ないだろ?」遼一の瞳は、黒曜石のように深く、夜のように冷たかった。だが、事態は彼らの思い通りには進まなかった。明日香は渾身の力で二人を突き飛ばし、そのうちの一人が取り出したナイフを、咄嗟に手で払い落とした。ナイフはカランと音を立てて地面に転がり、代わりに彼女の腕には深々と切り傷が残った。溢れ出す血。明日香は腕を押さえ、闇の中へと逃げ出した。二人が追いかけようとしたその時、電話の着信音が鳴った。「――追うな」どれだけ走ったのか分からない。明日香はようやく振り返り、誰も追ってこないことを確かめた瞬間、つまずいて道端に倒れ込んだ。腕の傷は深く、指の隙間から、血が止まらず流れ落ちている。手は血まみれだった。痛みはもう、感覚が麻痺していてよく分からない。張り詰めたままの神経に全身が震え、なんと
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第134話

夜が更けると、月明かりは厚い雲に遮られ、ぼんやりと滲むように揺れていた。幾重にも重なる雲は、まるで明日香の胸の内をそのまま映したように、重く、息苦しかった。彼女は、まるでいじめられて捨てられた子猫のように、行き場をなくし、どこへ向かえばいいのかも分からなかった。こんなにも広い世界のどこに、自分の居場所があるのか、ずっと分からなかった。そんな彼女の前に、闇の中から遼一が現れた。けれど、携帯越しに聞こえてくるのは風の音ばかりで、彼の返事は聞こえなかった。足音がする。しっかりとした、重みのある足音。明日香はそちらを振り返った。涙に滲んだ視界の中で、遼一の黒いシルエットだけがかすかに揺れて見えた。携帯を耳に当てたまま、彼が近づいてくるにつれて、明日香はその場に力なく崩れ落ちた。腕からはまだ血が流れ、すでに限界は近いようだった。失血により顔は青白くなり、全身が絶望に包まれていた。彼女は遼一のズボンの裾を握りしめ、荒い息を吐きながら言った。「どうして?遼一......私、いったい何が悪かったの?どうして、こんな仕打ちを......」こんなにも愛しているのに、どうして何度も私を傷つけるの?「明日香...... 調子に乗りすぎると痛い目を見るぞ」遼一は身を屈め、片手で彼女の頬を掴んだ。「藤崎家を利用して月島家から逃げようとしたんだろう?いつもそうだ、お前は甘すぎるんだよ」「あなたが私を嫌ってるのは分かってる......もう、あきらめたわ。それ以上どうしろっていうの?最初から殺すつもりだったのなら、なぜあの時助けたの?私はもう十分苦しんだ......お願い、これ以上苦しめないで......」遼一の眼差しは鋭く、その声は凍えるように冷たかった。「お兄さんと呼べ」「あなたなんか......私のお兄さんじゃない!今まで優しくしてくれたのも、全部嘘だった。お兄さんを名乗る資格なんて、あなたにはない!」明日香はヒステリックに叫んだ。恐怖はすでに通り過ぎ、心に残っていたのは、怒りと運命に抗えない無力感だけだった。「これから先、藤崎家の人間には一切近づくな。逆らえば、どうなるか分かってるな?」羽のような長いまつ毛に、きらきらと涙の雫がこぼれ落ちる。その姿は、どこまでも痛ましく映った。明日香は傷ついた腕を押さえ、手す
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第135話

明日香を抱き上げた瞬間、ふと、ひとひらの白いものが遼一の鼻先に舞い落ちた。ひんやりとした感触が肌を撫で、体温で静かに溶けていく。顔を上げると、いつの間にかぼたん雪が降り始めていた。雪は地面に落ちてはしばらく留まり、そして音もなく溶けていく。あの冬を思い出す。月島家に来て、最初の年のことだ。八歳の明日香:「お兄ちゃん、見て、雪だよ!」十一歳の明日香:「お兄ちゃん、外で雪だるま作ろうよ?明日香、お兄ちゃんが大好き!」十八歳の明日香:「お兄さん、今年帝都でまた雪が降ったら、告白するから、付き合ってくれる?」明日香......お前は、何も悪くない。悪いのは、月島家に生まれてしまったことだ。そして今、お前が味わっているこの苦しみは、まだほんの序章に過ぎない。——明日香は、どれほど暗闇の中を彷徨ったのかわからない。まるで魂のない人形のように、自分の意思も感情もどこかへ消え、ただ肉体だけが動かされているようだった。ふと、目の前にかすかな光が見えた。気づけば、その光に導かれるようにして歩いていた。意識が少しずつ、輪郭を取り戻していく。「......うっ......」ベッドに横たわった体が、小さく震えるように冷たい息を吸い込む。見上げた先には灰色の天井。見知らぬはずなのに、どこか懐かしさを含んだ香りが鼻をかすめた。淡く香る椿の匂いだった。左手のベッドサイドには、黒いセーターを着た遼一が座っていた。整った輪郭と落ち着いた佇まい。そして、どこか陰を宿した眼差し。現実とは思えなかった。これは幻なのか?私は......どうしてここにいるの?「遼一様、明日香さんはどうなさったんです?昨日まで元気だったのに、またお怪我を......」ウメの声だった。「あ、目が覚めたようです!」ウメは砂糖水の入った碗を手に近づいてくる。その目は心配に曇っていた。「明日香さん、大丈夫ですか?動かないでくださいね。遼一様が、今お怪我の手当てをなさっていますから」遼一は麻酔も使わず、明日香の腕の傷を縫合していた。もう一方の手は珠子に押さえられ、明日香が暴れないように支えられている。「遼一さん、やっぱり......病院に連れて行った方がいいんじゃ......?」明日香は唇を噛み、痛みに必死で耐えていた。まるで生きたまま
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第136話

「こんなにひどい傷......遼一様がこんな時間まで帰ってこないから、心配して迎えに行ったんですよ!もし外で何かあったら、どうするつもりだったんですか!」ウメの叱責に、明日香はふっと笑った。「転んじゃったの」「えっ?どうやって転んだの?こんな深い傷になるなんて、普通じゃないわよ!」「ダンスの練習中に、ちょっと気づかなくて......切れちゃったの」ウメは眉をひそめ、即座に言った。「だめです、旦那様に話して場所を変えてもらいましょう。先生も先生です、生徒がこんな怪我をしてるのに放っておくなんて!」その言葉に、明日香の胸がじんわりと温かくなった。怪我をしたとき、いつも最初に自分のことを心から案じてくれるのは、このウメだった。「ウメさん、本当に大丈夫。加藤さんに電話して、迎えに来てもらってください」珠子が穏やかな声で言った。「明日香、もうこんな時間よ。一晩ここに泊まりなさい。明日帰ればいいのよ。こんな夜中に、私と遼一さんがあなた一人を帰すわけにいかないでしょう?」明日香は砂糖水を半分ほど飲み干していた。体の震えも、少しずつ収まってきていた。「そうよ、この子は毎日遅くまで、ろくに夕飯も食べないで......きっとお腹空いてるはずよね。ちょっと麺でも作ってくるわ」ウメが慌ただしく立ち上がった。明日香はゆっくりと起き上がり、ベッドのヘッドボードにもたれかかった。そこで初めて、自分が遼一の部屋にいるのだと気づいた。「......あんまりお腹空いてないから、大丈夫」そう言う明日香に、珠子は心配そうに微笑んだ。「明日香、遠慮しなくていいのよ。ここを自分の家だと思って。私も遼一さんも、あなたの面倒を見るのは当然のことよ。それとも、麺じゃなくて他のものがいい?買ってきてあげようか?」賑やかで優しい声たち。けれど、明日香のこめかみには痛みが走り始めていた。ここは、珠子と遼一の家。自分の居場所ではない。そう思えば思うほど、胸が苦しくなる。明日香は伏し目がちになり、垂れた長い髪に隠れるようにうつむいた。そして、気づいた。自分が珠子のパジャマを着ていることに。いつ、誰が着替えさせたのか、まるで覚えていない。財布と携帯も、ベッドサイドのテーブルの上にきちんと置かれていた。「少し休めば平気。心配しないで」
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第137話

前世の明日香は、傲慢でわがままだった。だが、今はもう違う。どんなに鋭い棘も、いつかは角が取れ、丸くなる日が来る。今の自分に降りかかる仕打ちは、かつて珠子を苦しめていた頃の自分のやり口よりも、はるかに残酷だった。だからこそ、何があっても受け入れるしかなかった。ひとつひとつ、逃げずに向き合って。これが因果応報というものなのだ。明日香はそっと窓を閉めた。もう二度と雪を見ることも、好きになることもないだろう、と心に決めた。腕を抱えて、小さなソファに身を縮めるように座り、クローゼットの角をじっと見つめた。深夜零時ちょうど。明日香の携帯電話に、一通のメッセージが届いた。樹:【お誕生日おめでとう、お姫様】それは、明日香が今年初めて受け取った誕生日メッセージだった。驚きと共に、思わず画面を見つめた。どうして樹が、自分の本当の誕生日を知っていたのだろう?明日香の誕生日を知っている人間などほとんどいない。遼一ですら、本当の誕生日は知らなかった。身分証の登録は間違っていて、明日香の正しい誕生日は12月26日。その一通のメッセージが、冷たく曇っていた心を一気に晴らしてくれた。胸の奥に、ふわりと温かい光が差し込んだ。明日香はすぐに返信した。【どうして今日が私の誕生日だってわかったの?】【秘密】続けて、もう一通。【どんなプレゼントが欲しい?】でっかいピンクの限定クマのぬいぐるみ......そんな言葉を打ちかけて、明日香の指が止まった。遼一の警告が、頭をよぎった。「これからは、藤崎家の誰にも近づくな。言うことを聞かないなら、どうなるかは分かっているな」ためらいの末、明日香は打ちかけていたメッセージを削除した。リビングには、もう音ひとつしない。皆、すでに眠ってしまったのだろう。明日香は迷わず加藤に電話をかけ、迎えを頼んだ。おそらく、明日着ていた服はウメに洗われてしまったのだろう。仕方なく、遼一のクローゼットを開け、奥に畳まれていた毛布を取り出した。ウメの整理癖を知っていた明日香は、どこに何があるかも、自然と把握していた。そういえば、前世では、たくさんのことをウメから学んだ。奥様としての振る舞い方や、家事のやり方までも。自分の整理の癖も、ウメにそっくりだった。毛布にくるまり、部屋を出る前に、明日香
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第138話

「......遼一様、今出ていったのは、明日香さんですか?」玄関のドアが閉まると同時に、ウメの声が背後から響いた。住人の少ないこのマンションでは、音の一つひとつがよく響く。ウメはすぐにエレベーターで下へと向かったのだろう。明日香は、その足音に背筋を強ばらせた。ウメに追いつかれ、「戻ってきて」と懇願されるのが怖かった。今の明日香は、あまりにも優しくなりすぎていた。ウメに涙ながらに頼まれたなら、きっと抗えない。それほど、彼女の言葉には重みがあった。ほんの一言、「戻ってきて」――それだけで、心が揺れ、また遼一の元へ引き返してしまいそうだった。でも今夜、遼一が明日香に突きつけた言葉は、どこまでも冷酷で、はっきりとしていた。月島家が粉々に崩れるまで、満足することはない。遼一の復讐は、ただの報復では終わらない。彼が望んでいるのは、月島家の「すべて」を奪い尽くすこと、それだけではなかった。思い返せば、明日香は遼一のことを本当には理解していなかったのかもしれない。彼はまるでブラックホールのように、近づくすべてを引きずり込み、破壊してしまう存在だった。そして明日香は、その傍に絡みつく、ただの蔦にすぎなかった。冷たい風が吹き抜ける中、明日香はマンションの前で毛布にくるまり、じっと立ち尽くしていた。加藤が南苑の別荘から来るには、最低でも三十分はかかる。道が空いていれば、十五分から二十分といったところか。足首はすでに真っ赤になっており、冷え切ったパジャマの中、腕にはまだ鋭い痛みが残っていた。明日香はそっとパジャマの袖をまくり、血の滲んだガーゼと、簡単に巻かれた包帯を見つめた。明日は塾には行けないな。病院に行かないと。遼一が自分にしたことを思い返し、胸の奥が冷えた。あの人の優しさは、すべて人目を意識した仮面にすぎなかった。二人きりのときでさえ、かつては少しばかりの気遣いを見せていた。でも今は、それすらもない。雪はまだ降り続いていた。噴水の石像も、緑地帯の木々も、すでに真っ白な雪に包まれている。そのとき、背後でエレベーターのドアが開く音がした。明日香が振り向くと、黒いコートを着た遼一が、無言のままエレベーターから降りてきた。鋭く突き刺すような視線が、明日香に向けられる。彼女は淡々と視線をそらし、内心の動揺を必死に隠した。彼
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第139話

車が静かに動き出し、団地を離れた。明日香はずっと黙ったまま、車窓の景色をぼんやりと見つめていた。遼一も何も言わず、ただ前を見て運転している。わざとなのか、窓は半分開いており、冷たい空気が車内に容赦なく吹き込んできた。まるで冷凍庫の中にいるような寒さだったが、明日香は一言も発さず、その沈黙を破ることを拒んだ。それが、明日香という人間だった。ロバより頑固で、遼一に利用されていることを分かっていながら、それでも前に進み続けた。まるで道を間違えたと気づきながら、それでも引き返すことなく、黙々と歩き続けるように。遼一もまた、同じような人間だった。コートは雪で半ば濡れ、無言のままの二人の間に、ぴんと張り詰めた空気が流れていた。二十分も経たないうちに、明日香の体はすっかり冷えきり、小さく震えていた。やがて、車は南苑の別荘の前に停まった。明日香が車を降りると、リビングのカーテンの隙間から、かすかな光が漏れているのに気づいた。閉じきれていないその隙間に、白い手がそっと触れている。窓の結露が、その形をぼんやりと映していた。玄関に向かわず、明日香はその場で足を止めた。そして中から聞こえてくる、耳を塞ぎたくなるような、生々しい音に気づいた。明日香はくるりと背を向け、雪を避けられる片隅にしゃがみこんだ。ここなら、その音も聞こえない。ここは静かで、痛みから少しでも逃れられる場所だった。雪を踏む足音が近づく。遼一だった。「ここで一晩中しゃがんでいるつもりか?」「どこに行けばいいのか、わからなかったの」むっとした声で、明日香は答えた。少し、怒りが滲んでいた。遼一は、明日香が誰かに辱められても、それを見て見ぬふりをしてきた。なのに今になって、帰る場所すらなくなった彼女に、同情の手を差し伸べようとしている。気まぐれに優しくなったり、冷酷になったり、その態度に振り回されるのはもう、うんざりだった。彼に会うたび、心が擦り切れていく。「ここは......私の家だった。でももう、行く場所なんてどこにもないの。遼一......私を傷つけたいなら、同情なんかしないで。そんなことするくらいなら、最初から助けてくれなければよかったのに」明日香はぽつりと続けた。「送ってくれてありがとう。もう帰って。私のことは気にしないで」以前、明日香が珠子をど
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第140話

「ほいじゃけぇ、お嬢様が来てくださったけぇ、眠気なんか吹っ飛びましたわ。ちょっと、しゃべらんかね?」明日香は小首をかしげた。「『しゃべらん』って......何?」芳江は太ももを叩いて笑った。「えっ、知られとらんかったですか?『しゃべらん』ゆーたら、お話するって意味なんですよ」明日香は少し考え込みながら、静かに頷いた。「......何を話したいの?」すると芳江は、まるで内緒話でもするかのように声をひそめて言った。「さっきちょっと外出しとったときにな、こっそり聞いてしもうたんじゃけど......旦那様、ここ三年のあいだに二人も女囲うとるらしいんよ。なんか、もうすぐ弟ができるかもしれんて」訛り混じりの言葉に、明日香は思わずふっと笑ってしまった。芳江の話し方は豪快で、どこか憎めない。話す内容に執着がないようで、それがかえって心地よかった。父が多くの女性と関係を持っていたことは知っている。だが、外に子を残すようなことはなく、仮にあっても、すべて綺麗に処理してきた。一度だけ、三十歳にも満たない女が幼い子どもを抱えて現れたことがあった。だがそれきり、その女性の消息はぱったりと途絶え、その子どもの行方もわからなくなった。そんな出来事は、たった一度きりだった。机の上にはスタンドライトが灯り、部屋にはほのかに炭の香りが漂っていた。芳江の大きないびきが静かな空間に響いた。明日香は昨夜の出来事のせいで腕が痛み、眠ることができなかった。狭いベッドでうつらうつらして、ふと目を覚ますと、窓の外はすでに青く明るくなりはじめていた。そっと起き上がり、芳江を起こさないよう毛布を肩に掛け、静かにドアを閉めて外へ出た。雪は一晩中降り続き、外は分厚い雪に覆われていた。昨夜乾かしてもらった綿のスリッパが、玄関に並んでいた。履くと、ほのかに温もりがあった。裏口を回り、昨夜自分が帰ってきたことを知られないように気をつける。正門は開いており、中では使用人たちが散らかったリビングの後片付けをしていた。彼らは一斉に声をそろえて言った。「お嬢様」「......うん」明日香は小さく返事をして玄関をくぐった瞬間、甘ったるく不快な匂いが鼻をついた。眉をひそめたまま、階段を駆け上がった。浴室に入り、傷に触れないようにし
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