All Chapters of 佐倉さん、もうやめて!月島さんはリセット人生を始めた: Chapter 121 - Chapter 130

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第121話

明日香はそっと首を横に振り、沈黙を守った。先に口を開いたのは平井だった。「あと10分くらいで時間だね。ちょうどお昼だし......明日香ちゃん、よかったらこのあと一緒にランチどう?」明日香は出かける前、何も口にしていなかった。施設に着いた時点で、すでに空腹を感じていたが、それを悟られたくなくて首を振った。「あまり、お腹は空いてないんです」そう口にした瞬間、タイミング悪く、明日香の腹の虫が盛大に鳴いた。「......グーッ」赤面する明日香。平井はそれを見て、温かな笑みを浮かべた。「行こう、明日香ちゃん。今日は新しいスイーツが入ってるんだよ。きっと気に入ると思うな」キャディーはすでにクラブを片付けており、帰り支度を整えていた。「では......先生にご馳走していただくことになりますね」明日香は一歩踏み出し、平井のあとに続いた。天下一は、ゴルフをはじめとする各種娯楽施設と宿泊設備が融合した、高級統合型リゾートだった。ここでは、金さえあれば、ほとんどすべての贅沢が享受できる。「中華と西洋、どっちがいい?」「中華でお願いします。ここのお料理、まだ食べたことがなくて」「わかった」平井はフロントカウンターに立ち寄り、二階にあるレストランの予約を取った。ふたりはエレベーターに乗り込んだ。平井が押したボタンは十階だった。静かに昇っていくエレベーター。扉が開くと、平井は自然な所作でドアを手で押さえた。「どうぞ」「ありがとうございます」明日香は軽く頭を下げ、廊下へと歩を進めた。廊下にはペルシャ風の厚手の絨毯が敷き詰められており、足元がふわりと沈むような心地よさだった。レストランの扉をくぐると、すぐにウェイターが出迎えた。「平井様、お席のご用意が整っております。いつものお席で」「うん」案内されたのは、窓際の静かなテーブルだった。そこからは、手入れの行き届いた芝生が広がり、視界いっぱいに緑の風景が広がっていた。優雅な音楽が低く流れ、どこか夢の中のような静謐な空間が広がっていた。明日香は、その雰囲気がとても気に入った。やがて、ウェイターが二人分のメニューを差し出した。そこに値段は記されておらず、代わりに、彩り豊かな料理の写真が並んでいた。どれもが食欲をそそる美しさだった。「気になるも
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第122話

「飲み物は?何がいい?」明日香は微かに首を振った。「いいえ、お水で結構です」そのとき、不意に場の静けさを破るような、場違いな声が響いた。「おや、明日香ちゃんじゃないか!久しぶりだな!」声の主に視線を向けた瞬間、明日香は驚いて立ち上がった。「お兄さん......」遼一がこちらへ歩み寄ってくる。鋭い眼差しは相変わらずで、その威圧的な気配に、空気がピリつくようだった。「レッスンは終わったのか?」その問いに、明日香の胸が一瞬で凍りついた。遼一に対するトラウマは、過去の記憶とともに明日香の中に深く根を張っていた。その姿を目にしただけで、思考より先に感情が動揺してしまう。反射的に言い訳を口にしそうになった自分に、心の底で戸惑いと嫌悪が湧き上がった。前世では、たとえ愛されていなくても、遼一の独占欲は病的なまでに強かった。「しっかりしてよ、明日香!」心の中で自分を叱咤した。「もうただの兄妹じゃない!それなのに、どうしてこんなに怯えてるの?もっと強気にならなきゃ!」なんとか平静を装い、明日香は小さく頷いた。「ええ。ちょうど終わったところで、先生が食事に連れてきてくださったんです」そう言うと、平井が席を立ち、にこやかに遼一へ手を差し出した。「こんにちは、平井謙介と申します。明日香さんのゴルフのインストラクターです」遼一は手を取り、短く名乗った。「佐倉遼一。明日香の兄だ」苗字が異なることに特に触れることなく、平井は自然に話を進めた。「ちょうどいい機会ですし、よければご一緒にどうですか?僕たちも今、席についたばかりなんですよ」しかし、遼一は明日香に視線を送りながら、冷たく言い放った。「結構だ。約束がある」その場に流れた緊張感を、哲朗が何気ない調子で打ち破った。「遼一、そんなこと言わずにさ。せっかくのチャンスなんだから、明日香ちゃんと一緒に食事くらいどうだい?それに、珠子が来るまでにはまだ時間もあるし、急ぐことないだろ......なあ、明日香ちゃん?」帝雲学院の昼休みは二時間以上あり、ここまで来るのにも三十分とかからない。その瞬間、明日香の脳裏にあることがよぎった。今日は珠子の誕生日だ。自分の誕生日は来週の十二日。ちょうど一週間違いだった。毎年、明日香の誕生日は質素で、ウメが手作りのケーキ
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第123話

「お兄さん......」明日香はまだ何か言いかけたが、遼一は冷ややかに「勝手にしろ」と吐き捨てるように言った。そう言い残すと、彼は踵を返し、振り返ることなくその場を去っていった。平井は、明日香のこわばった表情に気づき、優しく声をかけた。「座ったらいいよ。まだ時間はあるし、ここからそんなに遠くないからさ」明日香は少し居心地悪そうにしながらも席についた。そこへ、ウェイターがデザートを運んできた。平井は、先ほどのやり取りから何か不穏な空気を感じ取っていたが、それについては何も言わず、代わりに別の話題を振った。彼は天下一の施設をひとつひとつ紹介し、面白い話も織り交ぜながら、明日香を楽しませようと努めた。喜怒哀楽がすぐ顔に出る人がいるが、明日香はまさにそのタイプだった。彼女の心中がどう動いているのかは、表情を見ればすぐにわかってしまう。珠子の誕生日には、多くのクラスメイトが招待されていた。だが、珠子は明日香に、同じ学校へ転校してきたことだけでなく、もうひとつ大事なことをまだ伝えていなかった。それは――珠子もまた、明日香と同じ6組に転入していた、という事実だった。当然、淳也たちもその場にいた。珠子は女子たちに囲まれながら笑い声を上げ、楽しげに個室へと入っていった。その際、窓際の目立つ席に座り、年配の男性と楽しそうに話している明日香の存在には、まったく気づいていなかった。そのあとからゆっくりと歩いてきた淳也は、一目で明日香の姿を見つけた。久々に見る明日香の姿に、悠真と哲も意外そうな表情を浮かべた。「よりにもよって、一番会いたくない奴が来るとはな......」と哲が吐き捨てるように言った。ていうか、あいつって珠子の妹だよな?なんで誕生日パーティーに呼ばれてないんだ?まあ......あの性格じゃ、誰からも好かれないのも無理ないけど」「いや......そういや、普段は全然気にしてなかったけど、明日香って今回の試験でクラス1位だったんだよな。1組の中でもトップ5だって。あいつ、まさかチートでもしたんじゃないのか?」哲は淡々と呟くように言った。「忘れたとは言わせないぞ。明日香が6組でどれだけいじめられてたか。いい成績を取って、クラスを変えたくなるのも、まあ、理解はできる」二人の視線が同時に淳也に向けられた。
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第124話

「こんなに長い間会ってなかったけど、元気そうだな!」淳也は手にした金属製のライターを弄びながら、ふと顔を上げた。下から見上げるような視線の奥で、赤と青の炎が黒い瞳に揺れ、そこに感情の色は読み取れなかった。エレベーターはすでに12階にあり、間もなく到着した。平井が降下ボタンを押した。「知り合い?」「別に」明日香は目を伏せたまま、平井のあとについてエレベーターへと足を踏み入れた。「淳也、明日香はお前のこと、完全に無視してるぞ」哲は腹を抱えて笑った。悠真は淳也の肩を軽く叩くと、何も言わずに笑いながら個室へと入っていく。淳也は不遜な笑みを浮かべながら、手の中のライターの蓋を音を立てて閉じた。「恩知らずめ」そう呟くと、唇の端にかすかな皮肉を残したまま、その場を離れた。十階の個室は賑やかそのもので、笑い声が絶えず響いていた。花火、風船、ケーキにろうそく。本来なら、この誕生日パーティーは夜に開かれる予定だった。だが、遼一は今夜、海外市場開拓のために出発せねばならず、深夜十二時前に空港へ向かう関係で、誕生日の祝いはやむなく昼に繰り上げられたのだった。バースデーソングが終わると、珠子は最初の一切れのケーキを切り分け、皆の視線を背に受けながら窓辺に立つ遼一のもとへと運んでいった。「遼一さん、最初の一切れをあなたに。お忙しい中、私の誕生日のために時間を割いてくれてありがとう」遼一はもともと甘い物が苦手だったが、それでも黙って受け取った。視線はそのまま外に向けられ、車に乗り込む明日香の姿をじっと見つめていた。やがて無表情のまま顔を戻し、目元にわずかな苛立ちを滲ませた。「夜は加藤に送ってもらう。俺は会社に戻る」鍵を手にするとそのまま立ち上がり、テーブルの上に置かれたケーキには目もくれず、部屋を出ようとした。「遼一さん......」珠子が呼び止めるも、彼の足は止まらない。テーブルに残されたケーキを見つめ、彼女の目には明らかな落胆の色が浮かんだ。すぐに女の子たちが駆け寄って慰めの言葉をかけたが、珠子は静かに二切れ目のケーキを切り、今度は淳也へと差し出した。ソファにふんぞり返っていた彼は、まさに典型的な放蕩息子のような態度で、足をテーブルの上に投げ出していた。しかし人の気配を感じると足を下ろし、フォークを手にしてケ
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第125話

「ごめんなさい......感情のコントロールが、どうしても苦手で」冷ややかな視線は一瞬で消え、珠子は無垢な表情を浮かべて静香に謝った。「本当に、ごめんなさい。わざときついことを言ったわけじゃないの。ただ、いま私たち、一緒に住んでいないから。明日香にはきちんと伝えておくわ。だから、気にしないで」静香は訝しげな眼差しを向けた。最初に抱いた珠子への好感は、すでに跡形もなく消え失せていた。感情のコントロールが苦手。聞こえはいいが、ただの言い訳に過ぎない。結局は、演技を続けられなくなっただけではないか。クラスに来たばかりの頃は、誰にでも優しく、どこか儚げで、周囲の保護欲を巧みにくすぐっていたのに。静香が去った後、個室には誰一人残っていなかった。先ほどまでの賑わいはすっかり静まり返り、まるで何事もなかったかのようだった。最初はうまくいっていた。なのに、珠子にも、なぜこんなことになってしまったのか、わからなかった。「天下一」を出た後、明日香はピアノと書道を習い始め、最後にはダンスのレッスンにも手を伸ばした。運動神経に恵まれない明日香だったが、天は彼女に驚くほど柔らかな身体を与えていた。だが、どうしてもリズムに乗れず、鏡に映る自分の姿はまるで妖怪のように見えた。それでも一番の苦痛はストレッチだった。三ヶ月ぶりの練習、夜八時半過ぎにスタジオを出るころには、明日香は床に崩れ落ち、救急車を呼ぶか、その場で一夜を明かすか、本気で迷ったほどだ。加藤が珠子を迎えに行っていたため、明日香は仕方なくタクシーで帰宅することになった。分厚い黒いコートに身を包み、ポケットに手を突っ込み、目を閉じてシートにもたれかかると、すぐに浅い眠りに落ちた。「お客様、行き先をまだおっしゃってませんよ!お客様......」運転手の声に、明日香はまどろみの中、窓にもたれたまま答えた。「南苑の別荘まで......」株式会社スカイブルー社内。「遼一社長、マンチェスター行きビジネスクラスのチケット、出発一時間半前の便で手配済みです。あと三十分で出発可能です」中村は必要な資料をすべて整えていた。遼一は、いつも会社で最後まで残る人物だった。マンチェスターとの時差を考慮し、この時間に出発する必要があったのだ。遼一は最後のメールを送り終えると、即座にパソコンの
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第126話

遼一は珠子の体を抱き上げ、助手席にそっと座らせた。そしてシートベルトを締めた。ウェイターが気を利かせて、彼女のバッグも手渡してくれた。「お客様、このお嬢さん、彼女さんですか?一人でずいぶん飲んでらして、危うく痴漢に絡まれるところでしたよ。こんなに可愛い彼女さんなら、今後は一人で出歩かせない方がいいですよ」遼一は無言のまま財布から千円札を数枚取り出し、チップとして差し出した。感謝の言葉はなく、静かに車の前に回り込むと、運転席に乗り込み、エンジンをかけてそのまま車を発進させた。目的地は高級マンション「ガーデンレジデンス」。到着すると、遼一は車から降り、腕時計に目をやった。まだ約一時間の余裕がある。珠子を支えながら車から降ろすと、彼女はふらつく足取りのまま、遼一の胸に身を預けるように倒れ込んだ。「帰りたくない......まだ飲みたいの......」「珠子、騒ぐな。明日は学校があるだろう」その瞬間、珠子のどこにそんな力があったのか、突如として遼一を強く突き飛ばした。よろけた彼女は数歩後退し、今にも転びそうなほどだった。遼一は深いまなざしで彼女を見つめた。「珠子、今日......何かあったのか?」珠子はかぶりを振ると、涙で潤んだ瞳を彼に向けて見上げた。「私......海外から帰ってこなければよかったのかな......ううん、最初から助けられなければよかった......そうすれば、こんなに苦しまなくて済んだのに。どうして......どこに行っても、誰も私のことを好きになってくれないの?遼一さん、私のどこがいけないの?私って......足手まといで、何一つあなたの役に立てない」泣きじゃくりながら、珠子は両手で顔を覆った。涙は止まる気配もなかった。「お前は、何もする必要なんてない。他人の目を気にすることもない。ただ、自分が正しいと思えることをやればいい。珠子、お前はまだ子供だ。あの子が持っているものは俺が与える。あの子が持っていないものも、俺が与える。もう二度と、お前を一人にはさせない」「遼一さん......」珠子は抑えきれない感情のまま、彼の胸に飛び込んだ。「今の私には、あなただけなの。これからも、私を捨てないでね?もしあなたまでいなくなったら、珠子には、もう誰もいなくなっちゃう......」遼一はそっと彼女を抱
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第127話

あの二人は、たしかに愛し合っていた。前世の珠子を死へと追いやったのは、他でもない、明日香だった。そのせいで、遼一に憎まれることにもなった。すべては、自業自得。すべて、自分のせいだった。明日香は、すっかり眠気が覚めていた。車窓の外に流れる景色をぼんやりと眺めながら、吹き込んでくる風に肩を震わせ、しっかりとコートの前を合わせた。時の流れは早い。気がつけば半年以上が過ぎ、正月まで残すところ一ヶ月あまり。運転手がルームミラー越しに彼女を一瞥し、無言で窓のボタンを押して閉めた。三十分後、南苑の別荘に到着した。建物の前に立つと、漆黒の闇に沈んだその屋敷には、一つの明かりも灯っていなかった。街灯のかすかな明かりの下、数匹の虫が弱々しく飛び回っている。かつてなら、どんなに遅く帰っても、必ず誰かが灯りを残して待っていてくれたものだ。明日香の好物である、温かい麺を作ってくれていた。今は、明日香を待つ人など、どこにもいない。時折、明日香は思う。この世界に自分ひとりだけが取り残されてしまったような、そんな孤独を。けれど幸いなことに、こうした状況にも、もうすっかり慣れてしまっていた。手を擦り合わせて息を吹きかけると、鞄から鍵を取り出し、冷えきった家の扉を開けた。ここ数日、明日香は「食べる」「眠る」「鍛える」という単調なサイクルを、ただ淡々と繰り返す日々を送っていた。帰宅は毎晩遅く、康生と顔を合わせることもめったになくなった。聞くところによれば、彼は江口と共に南国でバカンスを楽しんでいるらしい。遼一も、今は海外出張中だ。明日香が家に戻るのは、いつも夜の十時ごろ。気がつけば、今の生活ペースにもすっかり馴染み、以前は苦手だったダンスも、いまではすんなり腰を落とせるようになり、開脚も自由自在にこなせるようになった。恋愛なんて、結局、何の役にも立たない。勉強や稽古に支障をきたすだけのものだ。稽古を終えれば、次に待っているのは試合、あるいは資格試験。やるべきことは山のようにあり、帝雲学院の中間模試にさえ出席していない。そのとき、学校から電話がかかってきた。芳江がちょうど掃除中で、手を止めて受話器を取った。「もしもし、どちらさんですかね?」「月島明日香さんはいらっしゃいますか?」「私に代わります!」ちょうど
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第128話

今日は、ちょうど展覧会に足を運ぶ予定の日だった。明日香はそれを忘れず、朝早く起きて身支度を整えた。白のカシミアコートに、黒のニットロングスカート。その下にはフリース素材のタイツを履いている。空は一面の曇り空で、気温は零度。肌を刺すような冷気が頬をなでていた。最近の帝都の天気はまるでジェットコースターのように目まぐるしく変わり、別荘の花壇には霜が降りていた。つい昨日まで緑色をしていた楓の葉が、一晩で鮮やかな紅に染まっている。白く降りた霜を目にした瞬間、明日香は身震いした。顔をマフラーにうずめると、吐息で頬がほんのり赤くなる。今日は、雪が降るかもしれない。タクシーが到着すると、明日香は小走りでドアに向かい、すばやく乗り込んだ。人を待たせるのが嫌いな明日香は、集合時間より三十分も早く家を出た。その甲斐あってか、会場に到着した頃にはすでに入場口前に長蛇の列ができていた。人々は手にチケットを握りしめ、開場の時を静かに待っていた。明日香が到着してからまだ十分も経たぬうちに、一台の高級車が滑るように到着した。車の中から樹は、窓越しに階段の上を見やった。そこには白い服を着た明日香が、嬉しそうにぴょんぴょんと跳ねている姿があった。樹の口元が自然と緩んだ。「ここで降りるよ」「かしこまりました」もう一枚、靴下を履いてくればよかった。足が、少し冷える。「明日香さん......」背後から聞き覚えのある声がして、振り返ると田中が車椅子を押して、少年と共に立っていた。「待たせてごめんね」と、樹が微笑んで言った。「いいえ、私もさっき着いたばかりなの。それじゃあ、中へ入りましょう」その時、田中が彼女を呼び止めた。「明日香さん、私どもは中には入りません。若様のお世話をお願いできますか?」東条は気を利かせ、電話がかかってきたふりをしてその場を離れた。田中もまた、静かに背を向けて去っていった。残されたのは、樹ひとり。「迷惑をかけるよ」「大丈夫よ。それに、そんな薄着で本当に平気?今日は雪が降るかもしれないって言ってたのよ?手、冷たくない?」明日香は心配そうな顔で、まるでお節介を焼くように彼の手に触れた。指先はまるで氷のように冷たかった。「手袋をしてないと思って、予備を持ってきたの」そう言ってバッグから取り出し
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第129話

時おり、明日香は自分の話しすぎる癖が人に嫌がられているのではないかと、不安になることがあった。展示会場にはエアコンの暖房が心地よく効いており、外の寒さが嘘のように感じられた。明日香は一枚一枚の絵を、細部まで見逃すまいと真剣な眼差しで見つめていた。エドワード氏の作品に与えられたものは、驚きというよりも、圧倒的な感動だった。ただの静止画であるはずの絵たちが、まるでそこに生命を宿しているかのような温もりを放っている。風景画も人物画も、すべてが驚くほどリアルで、目の前にその光景が再現するようだった。それぞれの絵は立派な額縁に収められ、会場のあちこちには警備員が配置されていた。来場者がむやみに近づけないよう厳重に管理されている。それもそのはず、ここに並ぶどの作品も、今後作者の絶筆になる可能性があり、オークションでは想像もつかないほどの価値を持ち得るのだ。「彼の描く絵って、どれも本当に素晴らしいよね」「気に入った?」「8歳のとき、遊び半分で母さんの本棚によじ登ったら、本棚が倒れて、山のような本の下敷きになったの。そのとき、本の間から一枚の写真が落ちてきてね。それがエドワードさんの作品だったの。今でも鮮明に覚えてるわ。『ファンタジーワールド』っていう題名だった。あれは、私が人生で初めて見た、本物のオーロラだった。夜空を鋭く切り裂くような光が、極寒の世界に幻想的な輝きを与えていた。あの極北の凍てつく大気を、絵筆でここまで見事に表現できる人なんて、彼のほかにいない。本当に、すごい人よね。ただ一つ残念なのは、それを写真でしか見られなかったこと。実物を目の前にしていたら、きっともっと感動したんだろうな」「いつか、見られるさ。君が心から望むものは、きっと全部叶うよ」その優しい言葉に、明日香は一瞬夢を見たような気持ちになったが、すぐに現実へと気持ちを引き戻した。「もう、いいの。こうして長い時を経て、展覧会でエドワードさんの作品に出会えただけで、私はもう十分幸せ」一階を見終えたところで、まだ二階と三階が残っていた。少し疲れたので、休憩室でひと休みすることにした。「トイレ、行きたい?」「......」樹は面白がるように口角を上げて言った。「手伝ってくれるなら、僕は全然かまわないけど?」明日香の顔がみるみるうちに真っ赤にな
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第130話

明日香はトイレから出ると、蛇口をひねって手を洗いながら、淳也のそばにいたあの女の子の顔を思い返していた。どこかで見たことがある気がする。でも、珠子と淳也って付き合ってたんじゃなかったっけ?どうして、また別の彼女ができてるの?いや、昨夜、珠子と遼一が抱き合っていたところを見た。あの様子からして、あの二人は両想いなんだろう。ということは、淳也は振られた、ってことか。桃源村にいた頃、淳也は向かいの家に住んでいて、明日香は彼と珠子がキスしているのを見たことがあった。あれは、本当にキスしていたのかどうかはわからない。明日香の見た角度では、そう見えただけだったのかもしれない。それに、あの二人の間に実際に何かがあったのかさえ、明日香にはわからなかった。まあ、もう自分には関係のないことだ。深入りする必要なんて、どこにもない。明日香は手を洗い終えると、ペーパータオルを二枚取って丁寧に拭き、それをゴミ箱に捨てた。そしてそのまま休憩室へと向かった。休憩室の入り口まで来たとき、彼女の目に飛び込んできたのは、大勢の人々に囲まれた樹の姿だった。静香。それに、帝雲学院六組の生徒たち。どうしてここに?顔立ちの整った女子生徒たちが樹の周囲を取り囲み、何やら楽しげに話しかけていた。樹は口元をほころばせながら、それに応じている。その中で真っ先に明日香に気づいたのは、静香だった。ぱっと顔を明るくして、嬉しそうに声をかけてくる。「明日香!奇遇だね!どうしてここにいるの?副担任の先生から、今学期は学校に来ないって聞いてたけど」その声と同時に、明日香は樹の視線が自分に注がれていることに気づいた。探るような、どこか測るような目だった。居心地の悪さを押し隠すように、明日香はゆっくりと近づいていく。「ええ、本当に偶然。まさかここで会えるなんて思ってなかった」静香が明日香に明るく応じる一方で、周囲の空気は一変した。明日香が近づいた途端、多くの生徒たちが表情を引き締め、誰もまともに彼女を見ようとはしなかった。その中で、傍らに控えめに座っていた珠子に、明日香は軽く声をかけた。「珠子さん」珠子は昨日の気まずい出来事を思い出したのか、どう反応していいかわからない様子で一瞬固まった。昨日、遼一と話していた内容を、明日香はすべて聞いていたに
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