All Chapters of 佐倉さん、もうやめて!月島さんはリセット人生を始めた: Chapter 371 - Chapter 380

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第371話

一時間が過ぎた。だが、淳也はとうとう現れなかった。この成績なら、もはや補習など必要ないだろう。そう思えば納得できるが、それでも明日香の胸に引っかかるものは残った。図書館の通路を、数人の女子生徒が本を抱えて通り過ぎた。声を抑えながらも、興奮は隠しきれていない。「見た?淳也君のあのスリーポイント!超かっこよかったよね!」「見た見た!あれはマジで神レベル!」「隣にいたの、5組の砂原彩でしょ?二人ほんと似合ってた」「うん、あの子が一番長く続いてるよね。前の元カノたちは、一週間も持たなかったし」そのうちの一人が明日香に気づき、急に口をつぐんだ。残りも気まずそうに視線を逸らし、足早に去っていく。明日香はただ、何も言わずに視線を落とした。日和の問題集をめくりながら、説明を再開した。一度でわからなければ、二度。それでもわからなければ、三度。日和が小さく頷くまで、根気よく教え続けた。明日香は元来、忍耐強い。どれだけ内心がざわついていても、日和の澄んだ瞳を見れば、怒りも呆れも、不思議と霧のように消えていった。二時間後。一ページ分の練習問題のうち、日和が理解できたのは半分にも満たなかった。「明日香、やっぱり私って、本当にバカなのかな?」日和は上目づかいに明日香を見つめながら、涙をこらえるようにまばたきした。「違うわ。まだ自分に合ったやり方を見つけられてないだけ」明日香は、静かに語りかけた。「淳也だって最初は、あなたよりひどかった。全科目合計で50点台、国語なんてあなたよりも低かったのよ」「本当?」「ええ、本当。彼にできたんだから、あなたにもできる。帰ったら、今日やった問題をもう一度書き写して、考え方を整理して解いてみて」「うん......それで、これからも一緒に図書館、来ていい?」日和の目に宿った、かすかな光。それを明日香は壊すことができなかった。「いいわよ」そう答えながら、ふと思い出した。前世、明日香はまだ生まれてこなかった娘が、もし生きていたら、どんな子だっただろうと何度も想像したことがある。おそらく、日和のように柔らかくて、優しくて、ちょっと不器用な子だったかもしれない。もし、そんな子が本当にいたなら、きっと、世界中のいいものをすべて捧げていた。授業まであと30分。二人は並ん
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第372話

「勝手に世話焼いてんじゃねぇよ!」机をドンと叩いて立ち上がったのは、山口晴美(やまぐち はるみ)。背後には、彩の取り巻きたちが数人、腕を組んで並んでいた。「そうよ。私たちは日和に用があるの。あんたには関係ない。さっさと6組に帰りなさい!」周囲の視線が集まり始める中、日和は恐る恐る明日香の前に立った。声はかすれ、肩は小刻みに震えている。「明日香を......いじめないで。わ、私が......後で、買ってくるから」それでも、日和の指先は明日香の制服の裾をそっとつまんでいた。まるで何かにすがるように、小さな声で懇願した。「明日香、大丈夫だから、先に教室に戻って......また巻き込んじゃったら嫌なんだから......」だが、明日香は動かなかった。その時、晴美たちの1人が、机の上のノートをひょいと掴みあげた。「こんなのに勉強?このバカが理解できるわけ?」「触らないで、それは明日香のものよ!」日和が取り返そうとするも、まるでおもちゃのようにひらひらとかわされる。まるで猿回しだ。「じゃあ、破いてやろうか?」「や、やめて——!」日和の目が赤く染まり、声が裏返った。ざわざわと、生徒たちが見物に集まり始めたが、明日香の声は冷静だった。「それを破く前に、一度ページをめくって。表紙の裏に名前が書いてあるから」「何よ、たかがノートで......」晴美はあざ笑いながらページを開いた。そして、すぐに顔色が変わった。それは、明らかにやってはいけないことをしてしまった顔だった。彼女はノートをそっと机に戻し、視線を逸らした。「べ、別に......大したもんじゃないし。誰も欲しがらないわよ、こんな......」「待ちなさい」その一言には、温度がなかった。けれど、確かに周囲の空気が一瞬止まった。「まだ何か用?」「日和に謝りなさい」「は?なんで私が――」「そのページに書かれていた名前を見たでしょう?」沈黙。数秒後、晴美は奥歯を噛みしめながら、絞り出すように言った。「ごめんなさい」たった六文字は、苦痛に満ちていた。だが、心の中では不服だった。色掛けで這い上がったクズが、いつまで威張ってられるかしら? 取り巻きたちは、そのノートに一体誰の名前があるのかと不審がった。誰もが気
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第373話

淳也は明日香の手を掴んだまま、教室のドア前まで強引に引きずった。ちょうどその時、英語の教科書を抱えた教師が廊下から現れ、少し困ったように声をかけてきた。「淳也、英語の授業が始まるぞ。早く教室に――」「うるせぇな。黙ってろ」怒気をはらんだ声に、教師はわずかに顔をしかめたが、それ以上は言わずに教室へと入っていった。周囲の生徒たちも、誰ひとり口を挟まなかった。淳也の短気は有名で、今の態度でさえまだマシな方だったのだ。明日香は腕を振り解こうとはせず、静かに言った。「話があるなら、授業の後にして。私は授業を受けに来てるの」だが淳也は手を離さなかった。逆に一歩踏み込み、片手で明日香を壁際へと押しやった。顔が近い。明日香の瞳を、真正面から覗き込むように迫った。「お前、あのバカとさっき話してたこと、どういう意味だ?」明日香は眉をひそめた。「彼女には名前がある。日和。まずはそれを尊重して」「ああ、日和ね」淳也は鼻で笑い、不快そうに肩をすくめた。「なんでわざわざ、あんなやつに補習なんてしてんだ?お前がやる必要ないだろ」明日香は時間を無駄にしたくなかった。先生はもう教室に入っているし、この姿勢も誤解を招きやすい。明日香は淳也を押し返し、冷たい声で言った。「日和は、友達よ」その言葉には曖昧さがなかった。淳也が彼女の目の奥を探ろうとしても、何も揺れは見えなかった。むしろそこに浮かんでいたのは、今朝、彼女の名前を呼んだ日和のあたたかい声と笑顔だった。明日香は続けた。「あなたが誰と恋愛するのは止めないわ。火曜、木曜、金曜。放課後は図書館で日和の補習をする。来たいなら来てもいい。あなたの今の成績なら、帝大は確実。でも来ても教えるのはあなただけ。彩がわからないなら、あなたが教えてあげて」「......」「私たちの時間は、もう無駄にしたくないの。私はただ補習を引き受けただけ。それ以上のことは、自分で何とかして」言葉の一つひとつが、鋭く静かだった。かつてあの夜、彼が酔った勢いで「好きだ」と言った瞬間を思い出していた。それが本気だったのか、戯れだったのか。今となっては、どちらでもいい。どちらにせよ、あり得ない話だった。期待を抱かせず、誤解も与えず、錯覚も残さない。それが明日香の答えだった。
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第374話

明日香は教室に十五分ほど、ただ静かに座り続けた。誰もいなくなった教室で、ペンの転がる音すら遠く感じるほど、時間だけがゆっくりと流れていた。ようやく立ち上がり、校門の外に停まっている藤崎家の車へと向かう。車内に乗り込むと、携帯のロックを解除した。未読のメッセージがいくつも、画面に並ぶ。すべて樹からだった。返信を打とうとしたその瞬間、突然、着信音が響いた。画面には、「父」の名前。明日香は小さく息を呑み、通話ボタンを押した。「......もしもし、お父さん」康生が自ら電話をかけてくることなど、ほとんどない。その声は、いつも通り静かで冷ややか、だが、決して逆らえぬ圧力を帯びていた。「遼一から聞いた。お前も、桜庭家のパーティーの招待状を受け取ったそうだな?」「はい」「樹様は、まだ帝都に戻っておらん。明日の夜には間に合わんそうだ。今夜は一度、家に戻って準備をしろ。明日の出席は、俺が同行する」一拍置き、さらに付け加える。「ちょうど良い機会だ。知人に、お前を紹介しておきたい」「でも――」思わず漏れた小さな反論は、口をついてすぐ飲み込まれた。そして言い直した。「はい。わかりました」どんな理由を添えても、父の意志を曲げることはできない。それを、明日香はよく知っていた。明日香は運転手に方向を変えるよう告げ、目的地を南苑の別荘へと変更した。桜庭家は藤崎家ほどの財力こそないが、社交界では確かな立ち位置を持つ名家。康生が自ら出席するのは、公の場で「明日香=樹=藤崎家」という図式をはっきりさせ、今後の布石とするために他ならなかった。樹は、これまでにも何度かパーティーに誘ってくれた。だが、明日香はそのたびに断っていた。樹は無理強いをしなかった。彼はいつも明日香の意思を尊重してくれた。康生は、違う。車は彫刻が施された重厚な鉄門の前で静かに止まった。開いた門の奥、温かな光がこぼれるリビングには、すでに食卓を囲む人々の姿が見えた。まるで、明日香の帰りを待っていたかのように。遼一、珠子、江口、そして――康生。康生が席から目を上げ、無表情のまま言った。「手を洗って、食事に来い」「はい......お父さん」隣にいた芳江が、黙って鞄を受け取った。席に着くと、江口がスープをよそいながら微笑んだ。
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第375話

「たまに――か」康生は満足げに息を吐き、皺だった眉間がわずかに緩んだ。「お前ももう年頃だ。男女のことは......真理、時間を見つけて教えてやれ。できれば三年以内に子供を授かるように」その一言に、空気が鈍くよどむ。子供?明日香は思わず喉の奥で笑いそうになった。けれど、笑えなかった。背筋に氷を差し込まれたような冷たさが、ゆっくりと広がっていく。自分には、子供を授けることなど決してできない。前世も叶わず、今生もまた同じ。二つの人生を合わせても、それだけは唯一、心の奥底で悔やみ続けてきた。江口はその沈黙のなかで、ちらりと対面の遼一を一瞥した。唇の端を、意味ありげに持ち上げた。食後、明日香は部屋へ戻り、浴室の湯に身を沈めた。髪を拭きながら出てくると、コン、コンと控えめなノック音がして、明日香は心臓を掴まれたようにびくっとした。まるで悪魔が扉を叩いているようだった。「明日香、もう寝た?」江口の声だった。胸を強く締めつけていた恐れが、少しだけ緩んだ。ドアを開けると、江口は紙袋のような箱を抱え、どこか忍び足のように静かだった。「お父さんが、これを渡すようにって」部屋のテーブルに置かれた箱。江口は何も言わずに、丁寧に中身を取り出す。一枚目、二枚目、三枚目。全てのカバーに、明らかな裸婦写真。一目見ただけで、中身が何なのか明日香にはわかった。目の前が一瞬、白くなった。馬鹿げている。頭に浮かんだのはこの言葉だけだった。江口はわざとらしく肩をすくめ、笑った。「女はね、いずれ通る道なの。知らないより、知ってた方が傷つかないのよ。顔がいいだけじゃ足りないわ。ベッドでの技術も身につけないと、男はすぐ飽きるもの。こんなかわいい顔、無駄にしちゃだめよ」含みのある言葉に、明日香はとぼけたふりをした。その忠告を残し、江口は意味深な笑みを浮かべ、踵を返して部屋を後にした。父は、自分の娘に――江口と同じ道を歩ませたいのだろうか?顔と身体で男に媚び、価値を保つ道を?明日香は一瞬、それらをゴミ箱に放り込んだ。だが、すぐに拾い上げ、何も言わずクローゼットの奥に押し込み、鍵をかけた。樹との間には、こんなものは一切必要なかった。扉の鍵を確認し、まだ不安で椅子をドアに押し当てる。部屋の中で、自分の空間
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第376話

「昨晩早く寝たから、今朝はすっかり目が覚めちゃったの。樹、週末はずっと家にいるつもりだったんだけど、今夜お父さんが桜庭家のパーティーに連れて行くって」「行きたいか?もし気が進まないなら、田中に迎えに行かせよう。あるいは......そのまま海市に来てもいい。明後日、月曜に一緒に帝都へ戻ればいいさ」桜庭家と藤崎家の確執は、明日香の胸にも深く刻まれていた。桜庭グループの現会長は、他ならぬ樹の母だった。彼女は藤崎家を出て桜庭家を継ぎ、今に至っている。ここ数年、樹と母との関係は冷え切ったままだ。両家の交流も途絶え、外から見ればまるで藤崎家が桜庭家を意図的に無視しているかのように映る。あの頃、樹が南苑の別荘に閉じこもっていた時期、母親は何度も訪ねてきた。その心遣いは、遥に勝るとも劣らぬものだった。明日香は思う――距離を置いているのは、むしろ樹の方なのではないかと。けれど、彼が何を抱え、どう傷ついてきたのか、彼女にはまだ分からない。古傷をえぐるようなことは、今の彼にとって決して良いはずがなかった。「でも......お父さん、機嫌悪くなりそうで怖いの」「大丈夫、俺がついてる。お父さんには何も言わせない。もし嫌なことがあったら、すぐに俺に言え。帰ったら......俺が仕返ししてやるよ」「うん!今すぐ起きて、会いに行く」「ああ、支度ができたら連絡して」「わかった」その電話のやりとりを、ハンドルを握る千尋は静かに聞いていた。「では、今夜は戻られないのですか?」もともとは一週間かかるはずだった仕事が、三日も前倒しで終わった。千尋にはその理由が分かっていた。あの日、「会いたい」と明日香が一言つぶやいただけで。それだけで、樹は二晩徹夜し、プロジェクトを力技で終わらせたのだ。恋愛というものは、時に人の常識や効率をあっさり覆す。「戻らない。昼にはレストランを選んでくれ。できれば、地元の名物料理がいい」「かしこまりました」帝都から海市まではそう遠くない。高速を使えば、1時間半もあれば十分だ。海に面した街、海市。夜市は活気があり、観光客でにぎわう。樹はそんな場所で、明日香と並んで歩きたいと思っていた。明日香は、黒いウールのコートを羽織った。以前、樹が貸してくれたものだ。去年の誕生日、寒さに凍えていた彼女
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第377話

樹が「帰ろう」と一言言っただけで、明日香が「帰りたい」と口にすれば、誰も余計なことを言う者はいなかった。康生と共に宴席に出るよりも、樹と過ごす時間の方が、ずっと気楽で心地よかった。康生は藤崎家を恐れていた。ましてや、樹に逆らうことなど、思いもよらないことだった。午前十時、海市へ向かって車が走り出し、十一時半には目的地へと到着した。運転手は高級レストランのエントランス前に車を停めた。「明日香さん、私はこれで失礼いたします。後ほど、若様がお送りいたしますので」「はい、お疲れさまでした」「とんでもございません。お気遣いなく」千尋は見慣れた車を遠くから見つけると、早足で助手席側へと駆け寄り、手慣れた動作でドアを開けた。明日香はチェーンバッグを肩に提げて車を降り、黒いウールのコートの前をきゅっと引き締めた。千尋が言った。「社長が中でお待ちです。私はこれで失礼いたします」「商談、うまくいったの?」レストランに入る直前、明日香は声を潜めて尋ねた。千尋は微笑んだ。「最終段階に入りました。社長が同席なさらなくても大丈夫です」明日香はほっとして頷いた。「そう、ありがとう」実は彼女、自分の存在が邪魔になるのではと気がかりだった。もし樹が忙しそうなら、一人で海市の街をぶらつこうと考えていたほどだ。ドアを押して中に入ると、すぐに視線が一つの姿を捉えた。ゆったりとしたソファーチェアに腰かけた男性が、ややうつむき加減で何かを打ち込んでいる。メッセージだろうか。明日香はそっと近づき、対面の席に座った。「お待ち合わせの方、まだですか?注文もされていないようですけど」その声に、樹は手を止めて携帯をしまい、卓上のポットから明日香のカップへと丁寧にお茶を注いだ。「ちょうどいい、待ち人は今、目の前に座ったところだ。......藤崎家にはたいした芸はないが、少しばかりの金はある。好きなものを何でも頼みなさい」タイミングよく、数人のウェイターがデザートのプレートを運び、メニューを二冊そっとテーブルに置いていった。「このデザートは......?」「腹ごしらえに」そのひとことで、明日香はふっと笑った。適当にいくつか選んでみたが、どれも量は多くなかった。もともと彼女は小食だったし、甘いものは好きでも、たくさんは食べ
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第378話

会計を済ませようとしたその時だった。柔らかく耳に心地よい、どこか上品な女性の声が突然響いた。「樹様?まあ、偶然ですね。またお会いできて光栄です」明日香が顔を向けると、そこには見知らぬ女性が立っていた。白磁のような肌、洗練された身のこなし、ひと目で育ちの良さがわかる。だが、その隣にいた人物は知っていた。成彦。クラスでいつもトップをキープする優等生。目が合うと、明日香は軽く会釈し、成彦も無言で頷き返した。そのやりとりを目にした樹は、女性には目もくれず、明日香の方へ視線を向けた。「知り合い?」「うん、クラスメートなの」正直に答えると、樹の眉がわずかに緩んだ。その時、レジ係が伝票を差し出してきた。「お客様、ご確認をお願いいたします。えっと......四名様ご一緒でよろしいでしょうか?」明日香が口を開きかけた瞬間、樹の低く冷ややかな声が遮った。「いや、別々で」言い終えたあと、彼はわずかに身を寄せ、声のトーンだけを柔らかく変えた。「財布は、ポケットの中だ」茉莉と呼ばれたその女性が、場を和ませるように笑顔で割り込んだ。「私たちは12番テーブルです。お手数ですが、金額をご確認いただけますか?」「かしこまりました。少々お待ちください」明日香は空気を察し、彼のコートの内ポケットから黒い財布を取り出した。ふと開いた瞬間、まず目に入ったのは、小さな証明写真。制服姿の自分だった。急きょ撮ったもので、天然パーマの髪は手入れが大変だったから、いつも伸びたら切っていた。まさか、あの写真がここに――「どのカードを使うの?」耳がほんのり赤くなるのを感じながら、明日香は目を逸らした。「どれでもいい」彼女が一枚選ぶと、樹の瞳が一瞬、何かを感じ取るように揺れたが、すぐにいつもの静けさに戻った。会計を終えた四人は、同じタイミングでレストランの外へ出た。「樹様がこんなに忘れっぽいとは......先日のパーティーでもお話ししましたのに」茉莉はさらりと話題を変え、明日香の方へ視線を移した。「こちらは......妹さん、ですか?」妹?一瞬、明日香の表情が固まった。兄妹に、見えるの?だがその場の空気よりも先に、樹の表情が目に見えて冷たくなっていくのがわかった。茉莉もその変化に気づいたの
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第379話

明日香は、心のどこかで理解していた。これ以上、深く踏み込むべきではないと。男という生き物は、金と地位を手に入れると、女遊びに走るものなのだと。康生も、遼一も、結局はそうだった。それでも彼女が再び、誰かに心を委ねようとしたのは、樹という存在が、これまでにない安心感を与えてくれたからに違いない。聞かない。問いたださない。それは無関心からではない。ただ、彼が感情でも、精神でも、そして身体でも、決して自分を裏切らないと信じたいからだ。もし、もしも彼にまで裏切られることがあれば、もう、誰のことも信じられなくなってしまう。荷物を車に戻すと、樹は明日香を海辺へと連れ出した。強すぎない潮風が頬を撫でる午後。二人は手をつなぎ、ゆっくりと砂浜を歩いた。風が吹くたびに彼女の髪が舞い、それを優しく整えてくれる彼の指先。その一つひとつの仕草が、まるで時間までも穏やかにしてしまうようだった。指を絡め合ったまま、前を歩くカップルたちを眺めながら、明日香の胸には、今までにない静かな幸福が満ちていった。「寒くない?」「寒くないよ」そう答えた彼女のコートのボタンを、樹は一つひとつ丁寧に留めてくれた。「ここ、気に入った?」「うん。初めて来たの。連れてきてくれて、ありがとう」「初めて?」明日香は頷いた。「うん、勉強が忙しくてね。なかなか出かける時間がなかったの。去年の冬休みに旅行に行こうと思ったけど......お父さんが反対して、結局あきらめたの」冬休み。樹の瞳がわずかに翳った。そういえば、淳也もあの冬休みに旅行へ出かけたことがあった。「じゃあ、卒業したら......卒業旅行に付き合ってくれる?」そう問いかければ、彼女はきっと頷いてくれると思っていた。だが、意外にも明日香は静かに首を横に振った。「ごめんね。お父さんが夏休みいっぱい、習い事を詰め込んじゃって......」「そうか。君の好きにすればいい」少し離れた場所で、一人の男が黒いキャップを目深に被り、カメラを構えていた。ファインダー越しに見えるのは、男の完璧な横顔――正面からの顔は写っていなかったが、横顔だけでも十分に魅力的だった。シャッターが切られる。映るのは、彼女の髪を整える指、優しくマフラーを巻いてあげる横顔、そして彼女のコートのボタンを留
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第380話

窓の外がすっかり夕闇に包まれる頃、明日香はまどろみの中で目を覚ました。紙をめくる、かすかな音。薄く目を開けると、ベッドの脇に座る影――ベージュのセーターに包まれた樹の姿が、やわらかな照明に照らされて浮かんでいた。その首筋には、青いインクがほんのりのぞく。タトゥーだ。その瞬間、彼がこちらを振り向いた。けれど夢から醒めたばかりの明日香の意識は一瞬だけ混乱し、体を起こして思わず身を引いた。目の前にいるのが確かに樹だと確認してから、ようやくゆっくりと息を吐いた。「驚かせてごめん」樹は本を閉じ、穏やかに言った。「大丈夫。悪夢を見てただけ」明日香は髪をかき上げ、膝を抱えるように座り直した。「でも、どうしてここに?」「電話が通じなかった。心配になって、様子を見に来たんだ。ぐっすり眠ってたから、起きるまで待ってた」彼の膝にかけられた毛布に気づいた明日香が視線をやると、樹は微笑を浮かべる。「ちょっと寒くてさ。ブランケットが見つからなくて、勝手に借りちゃった」「足、また痛いの?揉もうか?」「大丈夫。君がくっついててくれたら、それで温かいから」そう言って、彼は明日香の手を取り、胸元にそっと引き寄せた。心臓が跳ねる音が伝わりそうなほど、彼の体温は近かった。明日香は迷いながらも、彼の肩に身を預けた。おそるおそる、彼の腰に手を回した。このぬくもりに包まれていると、康生に咄嗟についた同衾の嘘が、ほんの少しだけ本当になっていく。今日だけは、特別。彼の膝に置かれていた本に目を向けた。「その本、面白い?」「うん......まあまあかな。戦争を背景にした、ちょっと切ない恋の物語。聞きたい?」「うん。聞いてから、夕飯行こう」窓から差し込む月明かりが、フロアライトに銀色の縁を与えていた。静かな部屋に響くのは、彼の低く落ち着いた声。その語りに耳を傾けながら、少女は彼の腕に包まれていた。まるで、絵画のような一場面だった。同じ時刻、帝都の反対側。珠子は宴の賑わいから逃れるように、ホテルのスイーツコーナーで身を縮めていた。商談のマナーも分からず、酒も飲めない。場違いなのは、自分が一番分かっていた。遥の隣で優雅に立つ遼一の姿を遠くから見つめながら、胸の内にはどうしようもない劣等感が渦巻いていた。遥の
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