All Chapters of 佐倉さん、もうやめて!月島さんはリセット人生を始めた: Chapter 361 - Chapter 370

370 Chapters

第361話

このままでは、淳也は集中力を欠くだけでなく、いずれ自分自身も巻き込まれてしまうだろう。図書館を出た明日香は、ふと立ち止まり、思わず考え込んだ。これから先、淳也はどこへ行くにも彩を連れて行くつもりなのだろうか?彼の胸の内は、相変わらずまるで霧に包まれているようだった。男の心は、海底の針のように掴みどころがない。樹がいなくても、明日香の生活は変わらなかった。「自宅・学校・趣味クラス」の単調なサイクルを、ただ静かに繰り返していた。放課のチャイムが鳴り、鞄をまとめて帰り支度をしていた時、珠子が近づいてきた。「明日香、今日の夜、時間ある?久しぶりに遼一さんと一緒にご飯食べない?私が料理するからさ、きっと気に入ると思うよ。最近ウメさんにも色々教わってるし!」明日香は微笑みながらやんわりと断った。「今日はこのあと授業があるの、ごめんね」「授業?特別クラス?」「うん」珠子は少し困惑したように眉を寄せた。「ねえ......どうして数学オリンピックのクラスに戻らないの?前はずっと頑張ってたじゃない」明日香が唇をきゅっと噛みしめ、答えようとしたその瞬間、遥がふらりと近づいてきて、珠子を見下ろすように笑った。「馬鹿って言われるのも当然よね。今日のテストで最下位だったのって誰だっけ?ああ、あなたよね。明日香が姉妹の情で席を譲ってくれたってのに、よくそんな質問できるわね」珠子はその嫌味にも動じず、ただ淡々と微笑むだけだった。明日香は鞄を肩に掛けながら、珠子を庇った。「私は特別クラスで一番になれるから行くの。誰かのために譲ったわけじゃない」「明日香も、やっぱり順位が気になるのね」遥がふっと笑みを浮かべた。その瞳にあった敵意がふっと和らいだ。教室にはまだ数人が残っていた。中でも目を引くのは、長身で無口、分厚いメガネをかけた男子――田崎成彦(たさき しげひこ)。帝雲学院の学年一位であり、明日香が最も超えたいと願うライバルだった。明日香は、成彦の方を見て静かに言った。「学年一位って肩書きも悪くないけど、私の目標は......それだけじゃない」彼女が目指すのは、もっと先。今年の数学オリンピックでの代表選出。そしてその先の世界。教室に残っていた6人は、皆数学オリンピッククラスの精鋭。帝雲学院のトップ
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第362話

樹は、誰の目にも藤崎家の完璧な後継者だった。彼の周囲には、財界の重鎮たちが恭しく集まり、ひとたび笑みを見せれば、美しい令嬢たちがこぞって視線を向けた。宴席の華やかさは頂点に達し、名門の娘たちは競うように杯を交わそうと近づいてきたが、それらはすべて千尋によって水際で遮られた。かつて、樹が事故で障害を負った時、そのニュースは瞬く間に街を駆け巡った。だが今や彼は再び立ち上がり、傷ひとつ見せぬ姿で社交界に戻ってきた。彼が「飲まない」と言えば、誰ひとりそれに逆らえない。そんな空気を、彼は自然にまとっていた。宴会は、午後9時終了の予定だった。だが、午後8時ちょうど、突如として会場全体が暗転した。ざわめく声が広がる中、次の瞬間、青いスポットライトがステージ中央を照らし出した。静寂の中、ピアノの前に現れたのは、青の限定ドレスを身にまとった一人の女性だった。指先が鍵盤に触れた瞬間、まるで潮が寄せては返すような旋律が響き始めた。ざわついていた会場が、一拍で息を呑み、静寂へと変わる。黒く長い髪が、深海の音に揺れるように揺れ、彼女の姿は、まるで伝説の人魚のようだった。観客席のあちこちから、ささやき声が漏れる。「あれは田崎家の娘じゃないか?この前、海外から帰ってきたらしい......久しぶりに見たけど、まさかあんなに綺麗になってるとは......海市で彼女に並ぶ美しさの女性は、ちょっと思い当たらないな」一曲が終わると、その女性――田崎茉莉(たさき まり)はドレスの裾を軽やかに持ち上げて一礼し、割れるような拍手が会場を包んだ。だが、ある者がふと気づいた。彼女の視線は、ある一点に注がれていた。その視線の先にいたのは、まさしく樹だった。すぐに千尋がスマホで調べ、耳打ちするように報告した。「高校時代の同級生のようです......ですが、樹様には、まったく記憶がありません」時間は、終了まであと30分。だが、誰の目にも明らかだった。田崎家の令嬢の眼差しは、偶然ではない。樹の表情には、冷たく近寄りがたい気配がにじんでいた。やがて茉莉はステージを降り、ゆっくりと一人の中年男性のもとへ歩み寄った。「お父様」その人物こそ、田崎泰明(たさき やすあき)。海市で確固たる地位を築く大商人にして、政界にも密かに影響力を持つ男であ
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第363話

夜、午後八時三十分。明日香は車の後部座席で膝を抱え、黙って窓の外を見つめていた。もっと遅く出てくればよかった。そうすれば、あの二人に出くわさずに済んだのに。今日は早めに帰宅して、たまった寝不足を少しでも解消しようと思っていた。それなのに校門を出た瞬間、遼一と珠子にばったり会ってしまった。二人は夜食を食べに行くところで、遼一の「断るなよ」という一言で、あれよという間に車に押し込まれてしまった。前の席では、どこで食べようか、週末はどこに出かけようかと、恋人同士のように楽しげな会話が続いていた。今の二人はもうそういう関係で、明日香はまるで無理やりカップルの世界に押し込まれたような、居場所のない感覚に包まれていた。「明日香、何食べたい?焼き肉?それともお魚?」珠子が笑顔で後ろを振り向く。「あ......」ぼんやりしていた明日香は、わずかに声を漏らし、薄く笑って返した。「どっちでもいいよ。あまりお腹空いてないし」「そう?でも久しぶりだよね、明日香とちゃんと話すの。放課後のスケジュール知らなかったら、きっと会えてなかった」珠子はちょっと考え込んだ後で言った。「じゃあ、焼き肉にしよう。焼き鳥も追加で!」明日香がふとバックミラーを見ると、遼一の視線とぶつかった。その深い眼差しに、思わず目をそらした。「うん」焼き鳥と聞いて、明日香の胸に微かな不安が走った。前に淳也と食べたとき、消化できなくてお腹を壊したことがあったのだ。やがて、三人は繁華街の一角にある、洒落た雰囲気のレストランに到着した。夜の賑わいはまだ衰えず、店内も活気に満ちていた。入ろうとしたその時、明日香のポケットが震えた。携帯を取り出した彼女は足を止め、先に入っていく二人を見送りながら、そっと唇を噛んでから電話に出た。珠子は遼一の腕に軽く触れながら、店員の案内を待っていたが、明日香が外で誰かと電話しているのに気づいた。「ねぇ、遼一さん、何が食べたい?」「なんでもいい。先に頼んでて。ちょっとタバコ吸ってくる」「うん、わかった」電話の相手は、やはり樹だった。彼はいつも通り、第一声で尋ねてくる。「いつ帰る?」「もうすぐ。今、外食中」「食べ終わったらすぐ戻れ。田中を二二時三十分に迎えに行かせる」「う
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第364話

力が少し緩んだその瞬間、明日香は彼を強く突き飛ばし、その場を離れようとした。だが遼一は、まるで瀕死のウサギを仕留める捕食者のように、長い腕で彼女を再び捕まえ、自分の懐へと引き戻した。「久しぶりだな。少し、ふっくらしたか」暗闇の中で彼の顔は見えなかった。だが、その含み笑いを想像するのは、あまりにも容易だった。「あなたに関係ないでしょ。別に、あなたの家のご飯を食べたわけじゃない」その瞬間、明日香の腰に回された手が、肉をぎゅっとつねり上げた。さらに首筋に触れたキスが、微かな電流のように全身を駆け巡った。実際、明日香は太ったわけではなかった。ただ少しだけ、体に丸みが戻っただけ、以前の骨ばった体ではなくなった。けれどその変化こそ、彼の指先には魅力として伝わっていた。「口が達者になったな。藤崎家に逃げ込めば、俺に触れられないと思ったか?」そう言いながら、遼一の手が胸元へと移動し、突然、強く掴まれた。「っ......!」明日香は痛みに思わずうめき、反射的にその手を掴んで押し返した。けれども力では到底敵わず、涙が滲みそうになる。「遼一、もう......やめて!」声が震える。それでも必死に言葉を絞り出した。「珠子に知られたくないんでしょ?彼女、まだ店の中にいるのよ」遼一はわずかに体を止めた。「怖くなったか?」「怖いわよ。あと、気持ち悪い。彼女がそこにいるのに、まだ私にこんなことするなんて......あなたの浮気癖、いつになったら治るの?珠子はあなたのことが本当に好きだし、あなたも彼女を選んだはずでしょ?だったら、傷つけるようなことは、もうしないで」一瞬、遼一の顔が見えた気がした。暗がりの中、その目が一瞬だけ揺らいだ。「そんなことが、お前の口から出るとはな」「私は彼女を傷つけたくない。それに、樹にも申し訳ない」明日香の声は硬く、決意に満ちていた。「もう、はっきり言ったわ。これで終わり......あなたも、珠子を裏切らないで」数秒の沈黙のあと、遼一はようやく手を離した。明日香は自分の服の乱れを整え、肩を震わせながら影の外へ出ると、背中越しに言い残した。「これが最後よ......もう、あなたに会うことはない」店内に戻ると、明日香は何事もなかったかのように席につき、辛くなさそうな料理を
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第365話

遼一は深く珠子を見つめていた。その瞳は、まるで底の見えない闇のようだった。覗き込もうとすればするほど、逆にその深さに引きずり込まれそうで、誰一人その奥を探ることはできなかった。珠子には、その視線がとても遠く感じられた。長く一緒にいるはずなのに、彼に近づいた気が一度もない。恋人同士なのに、彼は一度も自分に心を開いてくれたことがないように思えた。手をつなぐことはあっても、当たり前のキスひとつすら交わしたことがない。たびたび、彼女は自問した。自分が焦りすぎているだけなんじゃないか?遼一さんにとって、私はただの妹でしかないんじゃないか?彼の目は、今でも過去に縛られているように見えた。彼の過去、その中心にいたのは、誰だったのか。フロントで会計を済ませ、焼肉店を出た遼一は、今夜はガーデンレジデンスには戻らず、そのまま月島家へと向かった。車が南苑別荘の門前で止まると、珠子は明かりの灯る大邸宅を見つめながら、ふと問いかけた。「遼一さん、今夜は帰らないの?」珠子はずっとこの家を避けていた。康生の目に映る自分が、どこか無力で浅ましく感じられて、それが怖かった。「珠子は、この家が嫌いなのか?」「いいえ」珠子は小さく首を振った。だがその表情には、明らかに何か言いにくいことがあるのが滲んでいた。「何かあったのか?俺に言ってみろ」遼一の声は穏やかだったが、その目は珠子の内側まで見通すような鋭さを帯びていた。珠子は思わず視線を外し、スカートの裾をぎゅっと握りしめる。「な、なんでもないよ......遼一さんの考えすぎ」言葉を早口でつなぎながら、彼女はつま先立ちになって遼一の頬にそっとキスをした。頬を赤らめて、照れ隠しのように笑いながら言った。「おやすみ、先に入るね」そのまま車のドアを開け、小走りで玄関へと向かう彼女の背中には、どこか罪悪感めいた影が滲んでいた。遼一はその温もりが残る頬を指で一度触れたが、その表情はほとんど無表情で、むしろ冷たかった。珠子がホールに駆け込むと、江口がまだ起きていた。「お帰り」だが珠子は答えず、足を止めることなく階段を駆け上がっていった。あの子が帰ってきたということは、あの人もまたこの家に戻ったのだろう。数分後、遼一も玄関をくぐり、冷気を纏ったまま家に入った。無言のままテ
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第366話

江口は、その深い瞳から何かを読み取ろうとした。だが、遼一の目には何ひとつ映っていなかった。ただその虚ろな深淵に引き込まれるような感覚と、胸に広がる鈍い痛みだけが、確かに残った。「やきもち?」遼一はそっけなく顔をそらし、水の入ったグラスをテーブルに置くと、ポケットから絹のハンカチを取り出した。指先をぬぐうようにゆっくりと拭き、それを無造作にテーブルへ放り投げる。江口は唇の端を歪めて笑った。「ええ。好きになった男に選んでもらえないんだから、そりゃ、妬くでしょう?」遼一は彼女を一瞥し、冷たい声音で吐き捨てた。「長年付き合って、それだけか。残念だが、俺は『きれいなもの』しか好きじゃない」その一言に、江口の目が一瞬だけ痛みに染まる。古い傷が再びこじ開けられ、血が滲むような感覚。そう、彼女はもう「きれい」ではない。そして、彼にふさわしくもない。「そんな目で見るな、気持ち悪い」皮肉にも、その言葉はかつて明日香が遼一に向けて言ったものだった。今、それを自分の口から発している遼一自身が、一瞬だけ滑稽に思えた。明日香が藤崎家に入ったからといって、彼女を取り戻せない理由にはならない。方法なら、いくらでもある。その沈黙を破るように、江口が静かに笑った。「遼一......忘れないで。私たちは結局、同じ穴のムジナ。あなたがどれだけ珠子を守ろうと、彼女があなたの過去を知ったら、まだそばにいられると思う?それに明日香、もし彼女が、あなたが月島家に入り込んだ本当の理由を知ったら......藤崎家の力を使って、あなたをこの世から消そうとするんじゃないかしら?」遼一は視線を逸らすことなく、低く鋭い声で返した。「なら、どっちが先に死ぬか、賭けてみるか」週末、約束どおり、遼一は珠子と遊園地に出かけた。だが、二人のデートの様子は、遠くの闇に潜むカメラによって一枚残らず撮られ、康生のもとへ届けられた。書斎で写真を受け取った康生は、じっと一枚一枚に目を通し、やがて指先が震え始めた。胸が苦しく、息もまともにできない。江口が慌てて背を支え、椅子に座らせ、背中をさすった。「康生さん......遼一も大人です。幼なじみ同士なら、これくらい自然なことよ」「女の浅はかな口を挟むな。出て行け」冷たい声音が響き、江口は黙って書斎を
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第367話

夕暮れまでに夕食を終えた遼一は、珠子を伴ってガーデンレジデンスへ戻ってきた。ワインを一杯飲んだせいか、珠子は頬を赤らめ、歩くのもおぼつかない。その身体を、遼一はほとんど支えるようにして室内へ入った。玄関のドアを足で閉めた瞬間、珠子は酔った瞳で迷うように遼一を見上げ、両腕を彼の首に絡めた。「遼一さん......約束して......ずっと、ずっと一緒にいてね」ガチャン!静寂の中で、小さな物音が響いた。続いて、押し殺したような声と、何かがぶつかる音。遼一には、それだけで十分だった。誰かが、中にいる。漏れる照明の灯り。微かな生活音。やがてリビングの奥から、一人の女性が現れた。それは明日香だった。片手で額を押さえ、もう片方でスーツケースを引きずるようにしながら、珠子の部屋から出てきたところだった。遼一と珠子の姿が目に入ると、彼女は一瞬、動きを止めた。そして、すぐに状況を悟った。「ごめんなさい。前に忘れていった服を取りに来ただけ。珠子さんの破れたノートも書き直して、机の上に置いておいたから。おふたりはごゆっくり。私はもう、行くわ」明日香はかつて、南苑別荘の改装期間中ここに滞在しており、その際に日常着や資料を多く持ち込んでいた。だが引っ越し時の慌ただしさで、いくつかの荷物を置き忘れていたのだ。今日は図書館からの帰りに立ち寄っただけ。すぐに出るつもりだったが、ベッドの下に転がった英語のテープを見つけてかがんだ瞬間、頭をぶつけてしまった。そして、まさかこのタイミングで二人が帰ってくるなんて。来る前に使用人に電話して鍵を開けてもらったが、こんなことになるなら絶対に来なかった。何も言わせる隙も与えず、明日香はそのままリビングを通り抜けた。すれ違いざま珠子が遼一に、酔った勢いでキスをした。バタン。ドアが閉まる音が、まるで重々しく響いた。その瞬間、遼一の表情が一変した。「珠子、お前は酔っている。部屋で休め」「酔ってなんかない......ただ......遼一さんと、私はもう大人だし......」「やめろ」その声は、冷たい鋼のように低く重かった。「酔いが覚めたら、自分で部屋に戻れ。俺は用事がある」遼一が書斎へ向かおうとすると、珠子の震える声がその背中に突き刺さった。「見たの!昨夜の
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第368話

慌て、怯え、そして失うことへの恐怖。それらすべての感情が、やがてひとつの色へと染まっていく――嫉妬。欲しいものを努力しても手に入らず、誰かの手の中で簡単に輝く姿を見る。珠子の心に、静かに、けれど確かに火が灯った。あの人たちは、生まれつきすべてを持っている。何もしなくても、誰かに与えられ、求められ、守られる。一方で、自分はどれだけ努力しても、望むものには届かない。その差は、もはや残酷という言葉では足りなかった。---明日香は、振り返らずに走った。一歩でも遅れれば、あの魔物の巣に心ごと引きずり込まれそうで。車に飛び乗ると、すぐに運転手がスーツケースをトランクへ入れた。「明日香さん、お荷物はすべてお持ちですか?」「ええ、帰りましょう」大切なのは、英語のテープ。この数日ずっと探しても見つからなかった理由が、ようやくわかった。藤崎家の本邸に車が入ると、玄関先に蓉子の姿があった。彼女は杖を手にして立っており、物音に気づいてゆっくりとこちらを振り向いた。ブロンズ色の老眼鏡には、細いチェーンがかかっていた。「おばあちゃん......こんなところに?」「年を取ると、すぐに迷子になるんだよ。何か食べ物はあるかい?この婆さん、お腹がぺこぺこでね」家には使用人の姿が見当たらなかった。「私でよければ......うどんでも作りましょうか?」明日香はマフラーとコートを脱ぎ、ベージュのセーターの袖をまくり、キッチンに向かった。ぬるま湯を注ぎ、蓉子には水とフルーツを出した。「どうぞ、少し口にして待っていてください。すぐにできますから」久しぶりにつけたテレビは、演歌チャンネル。「おや、あたしが演歌好きって、どうして知ってたんだい?」「小さい頃、祖母と一緒に暮らしていて、彼女も演歌が大好きだったんです」蓉子は静かに明日香を見つめた。頭のてっぺんから、つま先まで。その視線は優しげでありながら、どこか鋭く、何かを探っているようだった。「あなた、また一人かい?若様は?」「出張中です。数日で戻る予定です」キッチンの戸棚には食材が豊富に揃っていた。蓉子はドアに寄りかかりながら、言った。「あの子が女の子を連れて来たのは、初めてじゃないかね。付き合ってるんだろう?」「はい、そうです」「ご両親には
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第369話

明日香は携帯を握りしめながら、何気ない会話を続けていた。「今日の朝ごはんは?」「授業中、寝ちゃわなかった?」取りとめのないやり取り。話題は、ほとんどが日常の断片に過ぎなかった。樹からの電話は、いつも決まった時間にかかってくる。明日香からメッセージを送ることは少なく、返すのも、たまに思い出したような短文だけ。7、8分が経ったころ、鍋の中の麺がほどよく茹で上がった。火を止め、菜箸で麺をすくい上げようとしたそのとき。「樹様、パーティーが終わったばかりですが、ご一緒にお酒を飲む栄誉をいただけませんか?」携帯の向こうから、突然割り込んできたのは上品な女の声だった。誰だろう。どこかの令嬢か、あるいは取引先の関係者か。気が緩んだ一瞬、明日香の指に熱湯が跳ねた。「ひっ......!」反射的に声を漏らし、彼女は手を引っ込めた。その頃、バルコニーの外では、茉莉がこっそり会場を出て樹の姿を追っていた。彼が電話をしていることに気づくと、声をひそめて距離を取った。樹は彼女の存在に気づいていた。ちらりと視線を投げると、冷たさの混じった目が茉莉の輪郭をかすめた。その一瞥に、茉莉の心臓が縮み上がる。彼の中に、自分の存在が「邪魔」以上のものではないことが、はっきりとわかってしまったから。樹が何か説明をしようと口を開くより早く、電話の向こうの明日香が先に言った。「用事があるなら先に行って。早めにホテルで休んでね」言葉には、詰問も怒りもなかった。あるのは、穏やかすぎるほどの静けさだった。そして、通話はそれきり切れた。樹の手の中で、携帯がひときわ冷たくなった気がした。胸の中に、ぽっかりと空白が残される。スーツの内ポケットに無造作に携帯を突っ込み、彼は無言で歩き出した。茉莉とすれ違うとき、視線すら与えなかった。「す、すみません。電話中とは知らず......」茉莉は声を絞り出した。立ち止まった樹が、冷静に言い放った。「そうか?じゃあ、今後は気をつけて。君の立場では、まだ僕と話す資格はない」その一言は、ナイフのように鋭く、容赦がなかった。ちょうどそこへ、千尋が戻ってきた。ピンク色の小さなギフトボックスを手に提げている。「社長、明日香さんが欲しがってたマカロン、買ってきました。指定の味は品切れでしたが、全種
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第370話

もし明日香の存在が、樹にとって救いであるのなら、日和の笑顔は、明日香にとっての癒しだった。それは、ほんの少しだけ心を緩ませる、あたたかな陽だまりのような存在。明日香は一度、日和の成績表を見たことがある。5組の中でも最下位。1組にいたとしても、下から数えた方が早いだろう。最下位はずっと淳也だと思っていた。だが、期末試験のランキングが発表されたとき、日和の名前がなかったことで、彼女が試験を欠席していたと知った。病気だったらしい。学力的には1組にいるべきなのに、今は5組にいる。その理由を、明日香は深く追及しなかった。昼食後、明日香はついでに日和を図書館へ連れて行った。以前は、毎日淳也に補習をしていたが、最近は火・木・金の週3回に減っていた。実のところ、淳也の成績はすでに帝大合格ラインに達しており、小テストでは常にトップ10入り。彼の成長ぶりは、教える者として素直に誇らしかった。しかし、ここ数日、彼はいつも彩を連れて図書館に現れ、明日香はまるで招かれざる第三者のようだった。今日は珍しく、明日香の方が先に到着していた。淳也はまだ姿を見せない。明日香は、その隙に日和の学習を見ることにした。結果は、惨憺たるものだった。もっとも基本的な問題ですら、解けない。ペンを握ったまま、日和は顔を伏せていた。「明日香、私ってやっぱり......本当にバカなのかな?どれだけ頑張っても、全然覚えられなくて......バカだって笑われて、何回もクラス変わったの。昔ね、家がすごく貧しくて、山の中に住んでて、高熱が出ても治療してもらえなくて......それ以来、頭が変になっちゃったみたい。記憶力も悪くなって......でも、頑張ってるの。前に教えてくれた問題は、ちゃんと覚えてるから......」明日香は静かに聞きながら、ふと尋ねた。「クラスをまた変えたのは、どうして?」日和はさらに顔を伏せ、かすれた声で答えた。「バカだってずっと言われて、いじめられて......でも、5組の人たちはまだ優しくて......先生には『次クラス変えたら退学だぞ』って言われたの」なるほど。日和は、ずっと逃げ場所を探していたのだ。「心配しないで。これからは、誰にもいじめさせない」明日香が言うと、日和はぱっと顔を上げた。「明日香....
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