佐倉さん、もうやめて!月島さんはリセット人生を始めた のすべてのチャプター: チャプター 581 - チャプター 590

622 チャプター

第581話

明日香は昨晩よく眠れず、六時を少し過ぎた頃にはもう目を覚ましていた。階段を下りると、頭は鈍く痛み、意識も霞がかかったようにぼんやりしている。ここ最近は昼夜の寒暖差が激しい。きっと昨夜、窓を開け放したまま眠ったせいで風邪をひいたのだろう。リビングに入ると、台所では使用人が掃除をしていた。片付けはまだ始まったばかりのようで、床には割れた皿や碗の破片が散乱している。「どうしたの?」「お嬢様」使用人は顔を上げ、事情を説明した。「昨晩、どうやらネズミが暴れたようで……遼一様が菌に感染しては大変だとお考えになり、台所の食器をすべて新しいものに替えるようご指示されました」明日香は周囲を見渡し、「芳江さんは?」と尋ねた。「芳江さんは裏庭に異動となり、今は野菜を洗っているはずです。お嬢様、呼んでまいりましょうか」「いいえ、結構です」微笑みながら、棚の下から救急箱を取り出すと、頭痛薬を二錠、水で飲み下した。続いて冷蔵庫を開ける。「私が以前飲んでいたジュースは?」「遼一様がおっしゃいました。これらのジュースには色素が添加されており、常飲は健康に良くないと。すべて牛乳に替えられました。お嬢様がどのジュースをご所望か仰っていただければ、すぐに搾って参ります」明日香は何も答えず、ただ湯を一杯注いだ。解任されて暇を持て余しているから、こんなことまで口を出すのか。ほんとうに、暇なのね。八時半。二階で着替えを済ませ、一人で朝食をとりながら、傍らには色彩理論に関する本を広げていた。ちょうどその時、玄関に車の気配がした。振り返ると、間もなく遼一がドアから入ってくる。その後ろには珠子、そして久しぶりに見るウメの姿があった。明日香の表情は良くも悪くもなく、ただ無感情に振り向いただけだった。手にした粥を口に運び続ける。ウメを月島家に連れ戻すのは遼一の決定に違いない。父が事故で倒れた今、この家のすべてを決めるのは遼一であり、自分――月島家のお嬢様は、名ばかりで実権など持たない存在にすぎない。彼女が望むのは、常に局外にいることだけだった。遼一が椅子を引き、彼女の隣に腰を下ろす。「気をつけて」珠子がウメを支えながら声をかけた。明日香は、自分の存在がまるで余計なもののように思えた。今やこの家で彼女はよそ者にすぎないのだから
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第582話

明日香は康生の部屋を訪ね、ちょうど鈴香(すずか)という使用人が康生に薬を飲ませている場面に出くわした。「何を飲ませているの?」鈴香はまぶたを持ち上げ、ちらりと明日香を見て答えた。「ご主人様の脳卒中のお薬です」康生の目がうっすらと開いているのに気づいた。だが、その瞳には生気がなく、反応も示さず、ただ虚ろに天井を見つめたまま横たわっていた。次の瞬間、彼の全身が激しく痙攣しはじめ、口に含んだばかりの薬をすべて吐き出してしまった。鈴香は慌てて薬碗を置き、ティッシュで口元を拭った。その様子を見ていた明日香は、彼女の顔に苛立ちの色が浮かんでいるのを見逃さなかった。粗雑に拭き取った鈴香は、再びスプーンを手にして薬を口に運ぼうとした。しかし康生は、薬と共にさらに嘔吐物まで吐き出してしまった。離れていても、鼻をつく不快な臭気が漂ってきた。明日香は手を伸ばし布団をめくる。シーツ一面に、尿が大きく染みて広がっていた。鈴香は顔をしかめ、言葉を絞り出した。「お嬢様、まずはお部屋を出ていただけませんか。ご主人様のお着替えをさせなければなりませんので」「私がやるわ。あなたは薬を煎じ直してきて。それから処方箋の一部も持ってきて」鈴香は困惑の表情を浮かべ、口を濁した。「ですが、お嬢様……これは遼一様から私に任された仕事でございます。ご指示のとおりには……」明日香の声は一瞬で氷のように冷えた。「ここは遼一の言葉がすべてではないわ。今すぐあなたを解雇すると伝えてあげる」鈴香は必死に反論する。「お嬢様、私を解雇する正当な理由はございません。契約によれば、無断解雇の場合は違約金の三倍をお支払いいただくことになっています」「どんな理屈を並べても、あなたはここに必要ないの。給料は支払日にカードに振り込むわ。今すぐ出て行って!」「ですが……私は遼一様に雇われた身。遼一様以外に、私を解雇できる人はいません」「なら覚悟なさい。私が彼に伝えるわ。その時、彼の口から解雇を告げられたなら、あなたには一銭も払われないでしょうね」鈴香は悔しげな顔を浮かべながら去っていった。実のところ、昨日屋敷に戻った時から明日香は気づいていた。目の前の女は介護士の顔をしていながら、その所作も眼差しも介護に携わる者のものではなかった。遼一が呼んだ者に、善意な
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第583話

遼一が二階へ上がったとき、主寝室のドアはすでに開いていた。明日香は浴室から康生を抱き支えるように連れ出し、車椅子に座らせてドライヤーで髪を乾かしていた。床には、彼の身体から替えた汚れた衣服やシーツ、布団カバーが散乱している。髪を乾かし終えると、明日香は櫛を手に取り、丁寧に整えた。天気もそこそこ良い日だったので、父を外に出して日光浴をさせようと考えていた。ふと振り返ると、いつの間にか入口に立つ人影に気づいたが、淡々と視線をそらし、クローゼットから毛布を取り出して父の脚にかけた。どうあれ、彼女の血には康生の血が流れている。その娘であることは永遠に変わらない。たとえ長年、康生が彼女を政略結婚の道具としてしか見ていなかったとしても、少なくとも幼い頃から一度たりとも虐げられたことはなかった。今やこの家は支離滅裂で、寄り添って生きているのは父と娘だけだった。もし父が本当に命を落としたら、次に狙われるのはきっと自分だ――明日香はそう直感していた。車椅子に横たわる康生の手足は、なおもわずかに痙攣していた。脳卒中の後遺症は安定せず、容体も一進一退を繰り返している。明日香は床に散らばった衣類を拾い集め、洗濯かごに入れると、廊下の決められた場所へ置いた。後で使用人が回収し、洗濯する手筈になっている。遼一は、そんな明日香の一挙手一投足を目で追っていた。彼女は一度動き始めると止まることを知らないらしく、片付けが済むとまた別の場所へ移り、ベッドメイキングや布団カバーの交換に取りかかった。その熟練した動作は、数十回以上繰り返してきたかのようで、整然とした手際だった。遼一が部屋に入ってきた。「お嬢様よりも、使用人の方が向いているんじゃないか、明日香……家には使用人がいるんだ。そんな些細なことまで自分でやる必要はない」明日香はベッドを整え終えると、静かな眼差しを彼に向けた。「素性の知れない使用人には任せられないわ。これから父の面倒は私が見る。兄さんに迷惑はかけない」互いにわかっていた。遼一が下心を抱えながら、もっともらしい言葉を並べていることを。「明日香のそんな孝行心、兄さんもよくわかっているよ。安心できる」遼一は、海外にいるよりも、明日香が自分の目の届くところにいることを望んでいた。その時、中村が入口に姿を現した。「遼一社長」
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第584話

遼一は淡々とした口調で言った。「中村、目先の損得よりも長期的な利益を重視している。今回の決断で、俺が望む目的を果たせるかどうかが肝心だ。あの件に関わるなと言ったのは、俺なりの考えがあるからだ。言われた通りにしていればいい」そう言って引き出しから一束の書類を取り出し、中村の前に置いた。「今、お前に任せたいのは、もっと重要な仕事だ」「これは……?」中村は書類を受け取り、ページを繰る。内容を確かめた瞬間、目を見開いた。「会社設立の申請書類……ですか?」遼一は静かにうなずいた。「そうだ。スカイブルーは今は俺の手にあるが、いずれ消える運命にある。誰かが代わりに手を下してくれるなら、俺も余計な手間を省ける。以前解雇されたスカイブルーの社員を呼び戻せ。我々は……すべてを一から始める」さらに言葉を重ねる。「戻る意思のある者には、全員、以前より二割増しの給料を約束する」中村はふと重大な点に気づき、声を潜めて尋ねた。「しかし……スタート資金は?」「その心配はいらない。お前はやるべきことをやればいい」遼一の声には揺るぎない確信が宿っていた。誰も知らなかったが、遼一がかつて達哉から得た資源は、第二の「スカイブルー」を築くに足るものだった。以前は心の底で恐れていた。もし自らの手でスカイブルーを潰したなら、明日香が刃を手に襲いかかってくるのではないか、と。第一に、明日香は頑なで容易には折れない。第二に、遼一自身も明日香に強制的な手段を用いることは避けたかった。だからこそ今、彼の目的が明確になるにつれ、自らの手を汚すことを本能的に避けていたのだ。中村がオフィスを出ると、廊下でちょうど二階に上がろうとしていた明日香と鉢合わせた。彼女は中村を一瞥することもなく、水の入ったコップを手に主寝室へと直行した。康生はちょうど眠りに落ちたところで、明日香はベッド脇に腰を下ろし、脳卒中患者の介護について書かれた本を開いた。康生の現状では、当分パリには戻れそうにない。放置して立ち去ることなどできるはずもない。もし今自分がこの場を離れたなら、再び戻ってきた時、この世に残された唯一の肉親がもういないかもしれないのだ。康生は、彼女にとって最後の家族だった。もし彼をも失ったなら、自分は本当に父も母もいない子になる――その思いが胸に重く
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第585話

一輝の手術が終わり、彼が目を覚ますと、藤崎家の本邸へと連れ戻された。ところが、目を覚ました途端、一輝は泣き叫びながら母を求め続けた。幼い頃から南緒のそばで育った彼にとって、使用人がいくらあやしても効果はなく、嗚咽の合間に吐き戻しを繰り返し、薬どころか口にした食べ物までもすべて吐き出してしまう。ある真夜中にはついに血を吐き、一同は青ざめ、狼狽するばかりだった。蓉子はこの知らせを受けると、いても立ってもいられず、樹の反対を押し切って人を遣い、南緒を藤崎家に呼び寄せた。ようやくそのおかげで子どもは落ち着きを取り戻した。藤崎家の血を引く孫のこと、蓉子が心を痛めないはずがなかった。診察にあたった家庭医によれば、幸い大事には至らず、皆が「血を吐いた」と思ったのは誤解で、実際には泣きすぎてのぼせ、鼻血が口内へ流れ込んだだけのことだった。子どもの回復力は本来強く、数日も経たないうちに一輝は再びベッドを抜け出して動き回るまでになった。南緒もこの間はおとなしく藤崎家に留まり、ひたすら子どもの世話にあたっていた。この日、一輝は玩具の飛行機を手に大広間を駆け回り、南緒は薬碗を持ったまま、転ばないかと心配しつつ必死に追いかけていた。そのとき、使用人がフルーツの盛り合わせを切り分け、ソファ脇に置いた拍子に、床に携帯電話が落ちているのに気づいた。拾い上げてみると、通話はまだ続いていたが、腰をかがめた瞬間に電話は切れてしまった。ただ、画面に表示された連絡先の名前ははっきりと目に焼きついた。「若様、お携帯が床に落ちておりまして、先ほど見ましたところ……」「キャー!」突如響いた南緒の悲鳴が、その言葉を遮った。樹が振り向くと、一輝が床に転んでいるのが見えた。南緒は慌てて駆け寄り、素早く抱き上げると叱るように言った。「ママ、前から言ってたでしょ?床は滑るから走っちゃダメって!手術したばかりなのに、また転んだらどうするの?」そう言いながら、一輝の手を取って開かせた。「どれ、痛いところはない?」すりむいて赤くなった掌を軽く叩き、彼女は唇を寄せてふうっと息を吹きかけた。「僕、全然痛くないよ!」一輝は笑顔を見せると、南緒の腕から抜け出し、樹のもとへ駆け寄った。ソファに登ると素早く彼の膝の上に腰を下ろし、好奇心に満ちた目で尋ねた。
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第586話

南緒は思った。自分と明日香の間には、いずれ決着をつけねばならないことがある。もし樹が明日香を選ぶなら、彼は南緒と子どもを失うことになる。だが子どもを手放さぬつもりなら、明日香がその存在を受け入れられるかどうかにかかっていた。南緒は当然、明日香に困難を悟らせて退かせたかった――たとえ彼女と樹との絆がどれほど深くとも、すでに子を産んだという事実には抗えないからだ。樹は折り返し電話をかけた。相手はすぐに出たが、彼は言葉を失い、沈黙のまま口を開けなかった。明日香が先に声を発した。「樹?電話くれたけど、何か用?」平静で何の変化も感じさせないその口調に、樹はためらいがちに探るように言った。「さっき、間違えて君にかけちゃって……」明日香は軽く応じ、そのまま話を続けた。「電話に出ても誰も喋らなかったから、切っちゃったの。ちょうど折り返そうと思ってたところ――帝都に戻ってきたのよ。お父さんが病気で、しばらく看病しなきゃいけなくて。連絡できなくてごめん」なぜか胸を撫で下ろすような思いが込み上げ、樹は慌てて言った。「そうか……今から君のところに行くよ。ちょうど医者を紹介できるし。お父さんの具合はそんなに悪いの?」明日香の声は淡々としていた。「今のところはまだ分からないの。明日、医師に来てもらう予定だから大丈夫。迷惑はかけないわ。用事があるから切るね」「わかった。じゃあ明日、君に会いに行く」数秒の沈黙の後、明日香はようやく軽く応えた。「……うん」そう言うと、電話は切られた。その日、明日香は康生のベッドの傍らに寄り添い、片時も離れず看病を続けた。午後、部屋を片付けていると、ふとクロゼットの奥の引き出しに一冊のアルバムを見つける。ページを開けば、そこに写る人々の顔はどこか見覚えがあるのに、名前は思い出せない。だが彼らは皆、穏やかな表情をしていながらも、かつては組の地下勢力を牛耳った大物たちだった。孤独に見えた父が、かつてこれほど多くの有力者と繋がっていたとは思いもしなかった。分厚いアルバムをめくり終えても、母の姿は一枚も見つからず、胸の奥にぽっかりとした虚しさが広がった。その時、ドアがノックされ、ウメの声が響いた。「明日香さん、夕食の時間ですよ」明日香は顔を上げ、冷ややかな眼差しを向ける。「わか
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第587話

「珠子、先に出て行って」ほとんど同時に、明日香も冷ややかな声で言った。「みんな出て行って。お父さんには休養が必要なの。ここで騒がないで」言い終えると彼女は背を向け、誰のことも気にかけず、家族ごっこの続きに付き合うつもりもなかった。「明日香さん!」ウメは何か言いかけて口をつぐんだ。その瞳には悲しみが溢れ、まるで明日香にひどい仕打ちをされたかのように、彼女を極悪人に仕立てているかのようだった。「出て行って!」明日香は背を向けたまま、もう二人を見ようとしなかった。珠子は唇を噛みしめ、前へ一歩踏み出した。「ウメさん、私たち、先に出ましょう」珠子に支えられながらウメが部屋を出ると、遼一がドアを閉めた。珠子には最後まで分からなかった。ウメと明日香の間に何があったのか。以前は家族同然に思っていたはずなのに、今や仇同士のように向き合っている。「遼一さん、ウメさんと明日香、どうしちゃったの?」理解できない様子で珠子が尋ねると、遼一の目は冷たく危険な光を帯び、ウメを射抜くように見据えた。「これからは俺の許可なしに彼女に会うな。月島家に残りたいなら、自分の役目を果たせ」ウメは涙をこぼしながらうなずき、声を嗄らせて言った。「遼一様、私は一生月島家に残り、明日香ちゃんに償います」猫背の後ろ姿が遠ざかるのを見送りながら、珠子は再び問う。「遼一さん、本当はどうなの?明日香とウメさんの間に何があったの?何か隠してるんでしょ?」実のところ、珠子はウメが入院してからずっと違和感を覚えていた。長い入院の間、明日香は一度も見舞いに訪れず、病院の廊下で偶然すれ違ったときも、冷たい視線を向けて見ぬふりをして通り過ぎた。「珠子、これはお前の関わることじゃない」遼一は話を切り替えるように言った。「もう遅い。車でアパートまで送る」「帰らない!遼一さんがいる場所に、私もいる!」彼の腕を掴み、子どものようにすがる。「お願い、一人にしないで」だが今回は、遼一は甘やかさず、きっぱりと告げた。「今の状況で、お前がここに残るのは適切じゃない」「どうして?」珠子の目は赤くなり、声は震えていた。「遼一さん、また何か隠してるの?前はここに住んでたじゃない!明日香が康生さんを看病してるんだから、私だって育ての恩義とし
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第588話

明日香は遼一の手を振りほどこうと必死に力を込めたが、うまくいかなかった。彼女は彼を見つめ、ようやく顔にわずかな感情が浮かぶ。眉根をかすかに寄せながらも、その声は相変わらず淡々としていた。「まだ用があるの?」「月島家には使用人などいくらでもいる。お前がひとり付きっきりになる必要はない」遼一の口調は冷え切り、硬質だった。「ええ、全部あなたの手下だものね」明日香はまっすぐに彼の目を見返したが、長くは続かず、視線を逸らした。「遼一、お父さんがどうしてこんなふうになったのか、あなたの方がよく知っているでしょう。今さら、私があなたを信じるとでも思うの?」少し間を置き、彼女は続ける。「今回お父さんが持ちこたえられるかどうかに関係なく、私は自分のすべきことをやるつもり。月島家がいずれあなたのものになるのは時間の問題だから、その時は誰もあなたに逆らったりしないでしょう」そう言い終えると、明日香は力いっぱい彼の束縛から逃れようとし、もう顔も見たくないとばかりに康生の部屋へ向かおうとした。だが、一歩を踏み出した瞬間、腰に強い腕が回され、ぐいと引き戻された。本も毛布も床に散らばり、次の瞬間には彼女は遼一の肩に担ぎ上げられ、階上へと連れ去られていった。遼一の動きは乱暴で、淀みひとつなかった。「分かっているなら、大人しくすべきだろう?」明日香は壁に押し付けられた。彼の灼熱の眼差しは、まるで獲物を喰らう獣のようだった。ゆっくりと距離を詰め、互いの顔の細かな皺まではっきりと見えるほど近づいてくる。男の濃烈な匂いが彼女を包み込み、その体温は烈火のようで、いまにも自分を焼き尽くしてしまいそうに思えた。唇が落ちてきそうになった刹那、明日香はとっさに顔をそむけ、かすかに震える声で言った。「これ以上憎ませようとしないで」「兄が実の妹を犯すなんて、そんなこと世間に知れたら、後ろ指をさされるのを恐れないの?」彼女は歯を食いしばりながら言い放った。「忘れないで、私はまだ樹の婚約者なのよ」遼一は口元をかすかにゆがめ、瞳にわずかな光を浮かべた。「今さら兄さんを脅すつもりか?」「あなたがそうさせるのよ」同じ部屋にいるだけで、明日香は常に劣勢に立たされ、声まで震えていた。遼一は手を伸ばし、彼女の顎をつまみ上げる。笑みを浮かべて
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第589話

遼一は来る者を拒まず、すべての女性と曖昧な関係を持っていた。明日香と関わる以前から、彼がどれほど多くの女と絡んでいたのか、見当もつかない。そんな遼一を心の底では嫌悪しながらも、明日香は自分自身もまた汚れていると感じていた。いっそ最初から遼一と出会わなければよかった、と願わずにはいられなかった。「階下から物音がしたわね。遼一、また明日香をいじめてたんじゃない?」江口が軽やかな声でドア越しに話しかけてきた。やがて彼女が部屋に入り、目の前の光景を見ても、その血色のよい顔には驚きの色は一切なく、むしろ楽しげに笑みを浮かべながら遼一の傍らへと歩み寄った。「あら、ダメじゃないの。女の子をそこまで追い込んちゃって……明日香、もし悩みがあるなら、私に相談してくれればいいのに」江口の瞳は誘うように曖昧で、愚か者でも悟れるほどに、二人の間に隠された関係を仄めかしていた。「出てって!」明日香は手にしていたカッターを机に置いたが、雪のように白い首にはまだ赤い線が残り、血がじわりと滲んでいた。「お願いだから出て行って。ここは私の部屋よ。話があるなら、他の場所でやって」その目に浮かぶ激しい嫌悪は隠しようもなかった。歪みきった関係は絡み合い、この家は腐り果てた沼のように淀んでいた。誰もそこから抜け出すことはできず、全員が沈み込んでいた。「明日香、そのカッターは遊びで振り回すものじゃないよ。自分を傷つけないように気をつけて」江口はまるで彼女を挑発するかのように、一向に去る気配を見せなかった。「あなたたちが出て行かないなら、私が出て行く。この部屋はあげるわ、好きにすればいい」この二人の顔を見ずにすむなら、どこへだって。遼一の脇を通り抜けようとした明日香に、彼が手を伸ばした瞬間、反射的に彼女はカッターで遮った。遼一は本気で振るうとは思っていなかったのだろう、手の甲に鮮やかな切り傷が走った。胸の奥が締め付けられるように痛んだが、明日香は必死に平静を装い、一瞥を投げただけだった。その眼差しは「これ以上触れたら、本当に殺すわ」と告げていた。遼一の目は冷たく鋭く、すでに背を向け去った明日香の姿を見つめながら、底知れぬ闇を湛えていた。次の瞬間、江口の頬に乾いた音が響き渡り、彼女は床に崩れ落ちた。「あなた……」驚愕と怒りで江口の声は途切れた。
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第590話

翌日。明日香は八時半まで眠っていた。護衛たちは外から戻ってくる彼女の姿を目にし、思わず顔を見合わせた。リビングでは使用人たちがすでに朝食を整えており、明日香が玄関に入ると、二階から「ガチャン」と何かが割れる音が響いてきた。遼一はまだソファに腰を下ろし、最新の経済誌に目を通していた。彼は明日香に背を向けたまま、振り返りもせず、冷たい声で言った。「待て。まず朝食を済ませてから二階へ上がれ」台所で忙しく動くウメは、明日香が戻ってきたことにすぐ気づいた。食卓には以前明日香が好んでいた料理が並び、豊かに準備されていた。だが明日香は淡々と言った。「ありがとう。でも隣で麺を作って食べたから、大丈夫」パッという音とともに、遼一は新聞を閉じた。立ち上がると、全身から強いオーラを漂わせながら明日香に歩み寄り、低く重い声で告げた。「これから夜中に勝手に出歩くのは禁止だ」明日香は彼を一瞥もせず、そのまま二階へ上がっていった。廊下の手すりに手をかけ、途中で足を止めて振り返る。「これからは自分で料理するわ。あなたの手を煩わせる必要はない。食べ物に変なものを入れられているんじゃないかと怖いから」台所で食器を準備していたウメは、その言葉に手が震え、持っていたものを「ガチャン」と落としてしまい、地面で真っ二つに割れた。30分後、予約していた医師が時間通りに別荘に到着した。明日香は電話を受け、二階まで迎えに行った。来たのは白髪の八十歳ほどの老人で、医薬箱を手に提げていた。明日香が手を伸ばして受け取ろうとすると、老人は首を振った。「この薬箱はとても重い。あなたのような小娘には持てない。まず病人の元へ連れて行ってくれ」「はい」明日香は医師を連れて二階へ上がり、まず康生の脈を診てもらった。その後、鍼を一セット施してもらうと、手足の痙攣は明らかに緩和された。明日香は切実に尋ねた。「先生、父の状態はどうでしょうか?だいたいいつ頃良くなりますか?」医師は丁寧に説明した。「お父様は気血の不足により、体のバランスが崩れています。さらに肝臓と腎臓の機能も低下しており、日頃の食生活や生活習慣の影響で体内のエネルギーの流れが滞っているのです。先ほど鍼治療を施しましたので、今後は処方した薬を正しく服用することに加え、ツボの図もお渡しします。毎
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