All Chapters of 佐倉さん、もうやめて!月島さんはリセット人生を始めた: Chapter 591 - Chapter 600

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第591話

明日香は医師の指示に従い、薬を煎じるため裏庭で一時間以上も忙しく立ち働いていた。その時、一人の使用人が近づき、控えめに言った。「お嬢様、やはり私どもにお任せくださいませ。私たちは使用人です。こんな些細なことまで、お嬢様ご自身がなさる必要はございません」明日香は顔を上げることなく答えた。「大丈夫よ。あなたたちは他の用事をしていてちょうだい」ちょうどその時、別の使用人が足早に駆け寄ってきた。「お嬢様、樹様がお見えです。遼一様が応接間でおもてなししております」「分かったわ。あとで行くから」薬が煎じ上がると、明日香はそれを運んで二階へと上がった。しかし応接間には向かわず、使用人に樹を自分の部屋へ通すよう告げた。部屋の机には、二人が婚約した折に撮った写真が飾られていた。傍らの画架は白布に覆われており、それは彼女がもともと樹に贈ろうと描いた絵だった。だが婚約パーティー当日、渡す機会を逸し、そのまま自宅へ持ち帰ったのだ。樹が部屋に入るや否や、待ちわびた人を後ろから抱き締め、その首筋に顔を埋め、貪るように彼女の香りを吸い込んだ。「悪い。最近は会社の仕事が立て込んでいて、なかなか君に会う時間が取れなかった」彼の声には申し訳なさがにじんでいた。「今回はいつ出発するつもりだ?僕も一緒に行くよ」明日香は振り返り、そっとその抱擁から離れると、感情を映さぬ顔で言った。「多分、これからはパリには行かないわ。父が病気で、家で看病しなければならないの。お医者様によれば、早ければ三ヶ月ほどで回復するそうよ」樹は眉を寄せた。「月島家には大勢の使用人がいるだろう?なぜ君がそんなことに時間を費やさねばならないんだ。絵を学ぶのは君の長年の願いだろう?父親が心配なら病院に送ればいい。藤崎グループで専門の者をつけて面倒を見させる」明日香はただ静かに彼を見つめ、ふいに言葉を閉ざした。その平静すぎる眼差しに、かえって樹の心には不安が走った。彼は口元を無理に歪め、沈黙を破ろうとする。「どうしてそんな風に僕を見る?何か悩んでいることでもあるのか?」明日香は小さく首を振り、声を潜めて答えた。「それじゃ……お願いするわ」「水臭いことを言うな。僕たちはもう家族じゃないか」樹は彼女の髪をくしゃくしゃと撫でた。「彼は君の父親であ
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第592話

「さっき出て行かれましたよ。今追いかければ、まだ間に合うかもしれません」「ありがとう」樹は椅子の背に掛けてあったスーツを素早くつかむと、振り返りもせずに外へ駆け出した。だが、入口にたどり着いた時には、目の前を行き交う車の列があるばかりで、明日香の姿はどこにも見当たらなかった。彼はすぐに携帯を取り出し、明日香の番号を押した。「おかけになった電話は、現在電源が入っていないか、圏外です……」無機質なアナウンスが繰り返し流れる。樹は諦めきれず、もう一度、さらにもう一度と番号を押す。だが受話器から返ってくるのは、いつも同じ声だけだった。ほんの一度でも振り返っていれば、すぐ後ろ、少し離れた場所に立ち尽くす明日香の姿に気づいただろう――目を凝らせば、あの見慣れた輪郭を一目で見つけられたはずなのに。樹は結局振り返らず、うつむいたまま彼女へメッセージを打った。【家に着いたら電話して】【千尋にパリ行きの航空券を手配させた。二日後に迎えに行かせる】送信を終えると、迷うことなく車に乗り込み、アクセルを踏んで去っていった。携帯を握る明日香の手は、次第に強く力がこもり、指先は白くなっていた。胸の奥を鋭い痛みが波のように打ち寄せ、心をえぐり取る。実は、樹が廊下で電話を取った時、明日香はこっそりとその後を追っていた。受話器から漏れる一言一句を、すべて耳にしてしまったのだ。婚約者であるはずなのに、今の自分はまるで他人の感情に割り込む第三者のようだ。南緒が現れた時も、二人の過去についても、どうにか自分を言い聞かせて受け入れようとしてきた。けれど――あの子は?あの小さな声で「パパ」と呼んだ存在を、もはや見なかったことにはできなかった。遼一が彼女の婚約指輪を投げ捨てたのも無理はない。彼はすでに、すべてを知っていたのだ。明日香は胸を押さえ、ふらつく足取りでその場を離れた。一歩ごとに惨めさが募り、心は無数の細い針で刺されるように痛んだ。父が目を覚ましたら、最後に一度だけ助けを請おう。その後は……もう二人の間に何の縁も残さない。明日香は道端の売店で缶ビールをいくつか買い込み、それを提げて川辺へ向かった。階段に腰を下ろすと、まだ散歩する人の姿はちらほらあったが、缶を抱えた彼女の姿はひどく場違いに映った。明日香は成彦に電話をかけた。ちょ
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第593章

春風が吹き抜け、少女の身体から漂う清らかな香りに、ほのかな酒の匂いが混じり合い、男の鼻腔をくすぐった。男は無造作に手を伸ばし、地面に蹲っていた明日香を力強く引き起こした。彼女は足元がふらつき、よろめいた瞬間、腰を支える大きな掌の温もりが薄布越しにじかに伝わってきた。遼一は彼女の手から缶を取り上げ、一瞥したのち、再びその顔へ視線を戻した。低い声には感情の欠片もなかった。「一缶でこんなに酔うのか。酒に弱いだけじゃなく、頭まで相変わらずだな」「余計なお世話よ!」明日香は酔いに任せて彼を押しのけ、声にはどこか甘えを含んでいた。「その缶が欲しいならあげる。でも、どうして罵るの?普通に話せないの?そんなに怒らなくてもいいでしょ」そう言って、手すりにすがりながら階段を上り、先ほどまで座っていた木製の椅子に腰を下ろした。足を組み、スカートの裾をそっと整えると、やがて顔を膝に埋め、黙り込んでしまう。明日香は昔から、何でも心に閉じ込める性格だった。酔っていても沈黙を守り、決して感情を表に出そうとしない。街灯に照らされた遼一は、濃色のカジュアルウェアに包まれ、その大きな体躯は彼女の小さな存在を圧するように覆い尽くしていた。「いつまでそこにいるつもりだ。帰る気はないのか」低く投げられた声に、しばらくの沈黙ののち、もぐもぐとした言葉が返ってきた。「私には帰る家なんてないの。どこに行けばいいかも分からない……お母さんが生きていてくれたら……きっと私を放っておかなかったのに」遼一は黙って隣に座った。それは彼にしては珍しく、穏やかなひとときだった。やがて明日香は残りのビールをすべて飲み干し、本当に意識が朦朧とするほどに酔い潰れてしまった。時刻は夜の十一時近く。湖畔の公園には、すでに人影はなかった。遼一は彼女を抱き上げ、車の助手席へ座らせる。明日香は酒癖が悪いわけではない。どれほど酔っても静かに目を閉じ、眠りに落ちるだけだった。かつてどれほど傲慢で横暴であっても、人に迷惑をかけたくないと心のどこかで思っていたのだろう。外で泥酔し、正体を失うのは――これが初めてだった。遼一が離れようとしたその時、袖をそっと掴まれた。振り向いた明日香の頬は赤く染まり、唇は艶を帯び、半分細めた瞳には酔いと必死の意識が入り混じっていた。「私の家、知って
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第594話

明日香は身をよじり、喉の奥からくぐもった嗚咽を漏らした。その瞬間、遼一は鎖を断ち切った獣と化し、もはや理性の箍は外れていた――彼はズボンのファスナーを引き下げると、片手で彼女のしなやかな脚を掴み上げ、身を屈めて狂おしくその唇を貪った。下半身を貫く異物感に、明日香の瞳に一瞬だけ正気が宿る。苦痛に、思わずその身を反らせた。遼一なの?なぜ、彼が?「んっ……」刺すような痛みはすぐに和らいだが、唇を塞がれ窒息しそうになり、呼吸すらままならない。とうにアルコールに侵された脳は思考を麻痺させ、意識はふわふわと浮遊し、まるで足が地についていないような覚束ない感覚に陥っていた。車内には粘質な水音が響き渡り、激しい揺さぶりに呼応するように、車体が微かに軋みをあげた。「や……めて……」何かにつかまろうと伸ばした手は、虚しく宙を掻くばかり。まるで冷たい水面に浮かぶように、浮きも沈みもできぬまま、混沌とした感覚の渦に溺れていく。最後の波が引くと同時に、明日香の意識は完全に闇へと沈んだ。再び目覚めたとき、そこは全く見覚えのない場所だった。目の前にあったのは、彫りの深い、整った男の横顔。視線を上げれば、自分がその腕の中に抱かれて眠っていたことに気づく。男の首には、生々しい爪痕が幾筋も刻まれ、自らの衣服は無惨に乱れていた。男は固く目を閉じ、眉間に皺を寄せ、その眠りは決して安らかなものではないようだった。ようやく状況を悟った明日香は、愕然として激しく彼を突き放し、震える声で呟いた。「私……」慌てて胸元に手を当て、下着のない素肌の感触に血の気が引く。呆然と目の前の男を数秒見つめた後、明日香は振り上げた手で、乾いた音を立てて遼一の頬を打ち据えた。「遼一……この人でなし!なんてことを……!どうして私にこんな真似ができたの!?私はあなたの妹なのよ!」遼一はゆっくりと服のボタンを留めながら、まるで何事もなかったかのような平坦な口調で言った。「昨夜、お前が誘ってきたんだろう。忘れたのか?」明日香は半狂乱で彼の襟首を掴み、目を充血させ、涙を止めどなく流した。この男を八つ裂きにしてやりたいほどの激情が、全身を駆け巡る。「ありえない!私が……そんなこと……!あなたが無理やり……!私が自分から望むわけがない……絶対に、ありえない……!」
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第595話

いつの間にか足元から靴は消え、鋭い石に切られた裏側からは血が滲んでいた。だが明日香はそれにすら気づかない。ただ、この場から、遼一のもとから、一刻も早く逃げ出したい。その思いだけに支配されていた。ここは南苑別荘郊外の丘。周囲を山々に囲まれ、木々と荒れ地のほかには、広く延びながらも滅多に車の通らぬ道が一本あるばかりだった。山頂の先は切り立った崖で、柵やガードレールといった防護は一切ない。その縁に、遼一の車は停められていた――ここから望む日の出は、絶景と人々が語る場所だった。朝日の光が明日香の体に降り注いでいたが、彼女はその温もりを少しも感じず、ただ全身が冷えきり、麻痺したように感覚を失っていた。足跡に残る鮮やかな血の線は、目にする者の胸を凍りつかせるほど生々しかった。「ここまで来たら、もう受け入れるしかない。後戻りの道はないんだ」背後から響く遼一の声は、低く重く空気を震わせた。「明日香、これで俺たちはずっと一緒にいられる」気づけば明日香も、彼と同じように一歩ずつ、深淵へ足を踏み入れていたのかもしれない。「違う!間違ってる!全部、間違ってる!」明日香は髪を掴み、崩れ落ちそうになりながら振り返った。真っ赤に充血した瞳は涙で濡れ、声は震えに震えていた。「私たち、こんなふうになるはずじゃなかった……あなたの周りにはもう女がたくさんいるじゃない!私は復讐計画の駒になんてなりたくない!必死に逃げてきたのに……前の人生ではあんなに愛したのに、あなたにとって私はどうでもいい存在だった。今世ではもうあなたを愛してなんかいない。ただ静かにこの人生を終わらせたいだけなのに、どうして……どうしてあなたはそんなことをするの?なぜなの!」狂気すら帯びた訴えを聞きながらも、遼一の表情は揺れず、ただその言葉の中に潜む「何か」に鋭く反応した。瞬時に瞳が陰を宿し、声は氷の刃のように冷たくなる。「……誰に何を吹き込まれた?」自分以外に、この絡み合いの全てを知る者はいない。誰かが耳元で囁かぬ限り、明日香が口にするはずのない言葉。だが、明日香の耳にはもう届いていなかった。強烈なめまいに襲われ、視界が闇に塗りつぶされる。次の瞬間、彼女は力なく崩れ落ち、その場で意識を失った。それから数日。明日香はうつらうつらと何度か目を覚ましたが、その
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第596話

「お願い、子供を返して……」明日香は目を閉じ、涙を流しながら夢の中でうわ言のように呟いていた。遼一は彼女をじっと見つめ、その瞳にかすかな殺気を走らせて低く問いかけた。「どんな子供だ?」「やめて!葵、お願い……遼一に子供を返させて!彼女は無事よ。私の子供が死ぬはずない……」葵――?遼一はその名を静かに胸に刻んだ。その後も遼一は新会社の業務をさばきながら、昏睡状態にある明日香の世話を続けていた。珠子が訪ねて来たとき、彼女は憔悴しきり、生気を失っていた。どう遼一に向き合えばいいのか分からず、ベッドに横たわる明日香を見つめるその眼差しには、冷たい色が宿っていた。「遼一さん、いつまで明日香の世話をするつもりなの?」遼一は手元の仕事に没頭したまま顔も上げず、声には不機嫌さが滲んでいた。「昨夜はどこに行っていた?中村の話では、アパートには戻らなかったそうだが」「遼一さんの心の中に、まだ私の居場所はあるの?私がどこに行こうと、生きようと死のうと、あなたは少しも気にしてくれない!」珠子の声は悔しさに震えていた。遼一の手が止まり、その眼光は鋭く冷えきった。「どうやらあの心理クリニックは、お前には効果がなかったようだな」ここ数日、珠子は外でアルバイトをしながら、残りの時間を心理クリニックでの治療に費やしていた。そこは一時間あたりのカウンセリング料が高額だったが、遼一は彼女のためにその費用を惜しんだことは一度もなかった。「あなたは私の病気が治るのを望んでいるくせに、一度だって病院に付き添ってくれたことなんてない!私がこうなったのは全部あなたのせいだって分かってるでしょう?私を救えるのはあなただけなのに!」「珠子、俺はできる限りのものをお前に与えてきた。生活に必要な物以外、俺には他に何も与えられない」遼一の口調には、諦念の影がにじんでいた。「私は何もいらない!明日香さえいなければ、遼一さんは前のように私に向き合ってくれるの?二人だけになれるの?」遼一は手を止め、ノートパソコンを閉じ、ソファから立ち上がった。「部屋に戻って休め。明日香は病気なんだ。世話が必要なんだよ」「家には使用人が大勢いるのに、なぜ遼一さんが自ら彼女の世話をしなきゃならないの?それに……遼一さん、病気なのは明日香だけじゃない、私も病気
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第597話

悪夢はいつまでも去ろうとしなかった。夢の中で明日香は前世の出来事をすべて繰り返し体験し、その苦痛に満ちた光景が幾度となく蘇っては彼女を苛んだ。全身は汗でびっしょり濡れ、パジャマも肌に張りついていた。遼一はアルコールで彼女の体を拭き、物理的に熱を下げようとしていた。取り替えたパジャマは、もはや数えきれないほどだ。ここまで手がかかり、気難しい性格の女は、帝都中を探しても二人といないだろう。遼一は、明日香がうわ言の中で「彼に強制的に堕ろされた子供」に言及するのを幾度も耳にした。その断片をつなぎ合わせれば、彼女が夢の中で自分との間に子を授かり、その子を必死に守ろうと涙ながらに懇願しているのだと、容易に推測できた。遼一は冷静に窓辺へ歩み寄り、窓を開けて煙草に火を点けた。だが心に垂れ込めた陰りは、容易には晴れなかった。明日香は、それほどまでに子供を望んでいるのか。しかし遼一ははっきりと理解していた。何度彼が彼女の体を奪おうとも、たとえその奥深くに自らの痕跡を刻みつけようとも、明日香がこの生で子を宿すことは決してない。仮に万が一、予期せぬことが起こったとしても、彼はその子を決して生かしはしない。なぜなら、それは許されぬことだからだ。自ら蒔いた種ならば、相応の報いを受けねばならない。その時、メールボックスに通知音が響いた。遼一が一瞥すると、それは明日香がうわ言で繰り返した「葵」に関する調査報告だった。続けて中村から電話が入り、彼は素早く受話器を取った。「現時点では具体的な情報は掴めておりません。全都で照会したところ、『葵』という名の人物は三万人以上。関連資料はすべて社長のメールボックスに送信しました。ただし、お探しの人物がその中に含まれているかどうかは、まだ断定できません」中村の報告を聞いた遼一は、しばし沈思してから口を開いた。「もういい。この件は急がない。新会社の準備はどうだ?」「ご指示どおり進んでおります。スカイブルーの古参社員の多くが復帰を望み、あなたが再び会社を掌握される日を待ち望んでいます」「ああ」遼一はさらにいくつか指示を与え、電話を切った。だが、まだメールボックスを確認する間もなく、今度は信介からの連絡が入った。珠子が交通事故に遭い、運転手は逃走。現在、病院で手当てを受けているという。遼一はその報せを聞く
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第598話

「たとえあなたが私を許してくれなくても、私はただ黙ってそばにいて、あなたがお嫁に行き、あなたを大切にしてくれる人を見つけるのを見届けたい。たとえいつか私がこの世を去る日が来ても、安心して目を閉じられるように……おかゆを温め直してくるわ。目を覚ましたら食べられるようにね」静まり返った部屋に、ドアの閉まる音だけが響いた。明日香はゆっくりと瞼を持ち上げた。実のところ、遼一が去って間もなく、すでに意識は戻っていたのだ。ただ、ただひたすらに虚ろな目で天井を見つめ続けていた。父の過去の過ちを他人の口から聞かされるのは、これが初めてだった。父が善人ではないことは、ずっと前から分かっていた。だが、どれほどの罪を積み重ねてきたのか、誰一人として教えてはくれなかった。たとえ自分に何の落ち度がなくとも、「月島」という姓を背負うかぎり、積もり積もった恨みと報復は容赦なく降りかかる。無実であっても、それを受け入れなければならない。ただ月島康生の娘として生まれただけで。他人を責める資格すら、彼女には与えられていなかった。それでも、だからといって、ウメの仕打ちを許し、なかったことのように振る舞えるわけではない。ウメがおかゆを温め終え、部屋に運ぼうとしたとき、灯りがついているのに気づいた。そっと戸口から中を覗き、すぐに踵を返すと、他の使用人におかゆを運ばせた。「お嬢様……一日中風邪でお休みでしたから、どうか少しでも召し上がってくださいませ」「私にちょうだい」明日香は碗を受け取り、静かに口をつけた。使用人が最後まで見届け、空になった碗を下げて去るのを見て、ようやくウメは満足げに自室へと戻っていった。その夜、明日香は寝返りを繰り返し、思考は絡まり合って何ひとつ整理できなかった。夜明けが近づく頃、こっそり荷をまとめ、まだ薄闇の残る静けさを縫って、父の入院する病院へと向かった。入口の警備員が彼女を見つけると、すぐに駆け寄った。「お嬢様、若様は昨日、あなたからの折り返しをずっとお待ちでした。大層ご心配されていましたよ」明日香は淡々と応え、そのまま病室へ足を運んだ。看護師に外へ出るよう告げ、一人きりになった病室で康生の傍らに腰を下ろす。康生はすでに意識は戻っていたが、言葉を発することはできず、日常の動作すら自力ではままならなか
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第599話

明日香はタクシーに乗り、藤崎家の屋敷へと向かった。空は厚い雲に覆われ、いつもより沈んだ空模様だった。こうも移ろいやすい天気のせいか、人の心も理由なく重苦しく、煩わしくなる。屋敷に着くと、細かな雨が降り始めていた。樹が傘を差し、快歩で駆け寄ると、明日香を中へと迎え入れてくれた。「寒くない?上着を持ってくる」玄関に立ったまま大広間に目をやると、ソファの下に散らばった子供用の積み木が鋭く視界に入り、胸の奥がきゅっと締めつけられた。思わず慌てて視線をそらす。すぐに樹が使用人に肩掛けを持たせ、優しく彼女の肩に掛けてくれた。「……ありがとう」明日香は小さく礼を言った。彼は昔から細やかな気配りができ、何事もきちんとこなす人だった。もし本当に結婚していたなら、きっと立派な夫になっていたに違いない。だが、残念ながら彼は決して自分のものではなかった。「明日香!」玄関口から蓉子の声が響き、後ろには田中執事の姿もあった。蓉子は彼女のそばに歩み寄り、腰を下ろすと、親しげにその手を握った。「戻ってくるなら、一言おばあさんに言ってくれればよかったのに。ちょうど樹に迎えに行かせて、食事でも一緒にしようと思っていたのよ。急に帰国したことは樹から聞いたわ。安心なさい。藤崎グループが最高の医師を探して、あなたのお父さんの病気は必ず治してみせるから」明日香は緊張のあまりスカートの裾を握りしめ、深く息を吸ってから静かに口を開いた。「おばあ様……今日こちらに伺ったのは、婚約を破棄するためです。何日も悩み抜きましたが、やはりそう決めました。本当に申し訳ありません」その声は落ち葉が舞い落ちるように柔らかだったが、一言一言に揺るぎない強さが込められていた。大広間に控えていた使用人たちも思わず耳をそばだて、息を呑んで聞き入った。田中はすでに明日香の意図を察しており、目配せで使用人たちをそっと退かせた。樹の瞳は一瞬にして翳り、冷えた声が漏れた。「同意できない」蓉子は慌てて樹に視線を送り、落ち着くよう促すと、穏やかな口調で諭した。「明日香、婚約破棄は遊びじゃないのよ。子供の気まぐれみたいに簡単に口にしていいものじゃない。世間の誰もが、あなたが将来の藤崎の奥様になると知っているのに。これを破棄すれば、両家の顔はどこに立つというの?」
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第600話

蓉子が慌てて口を開いた。「明日香、あの子は確かに樹の子だけど、おばあさまの話をちゃんと聞いてちょうだい。樹があの子を受け入れたのは、全部こっちの意向であって、彼自身の意思じゃないの……子どもを引き取ってほしいって、お願いしたのは私なの。おばあさまは、あなたが妊娠できないことを知って、樹が子どもの親権を得たら、その子にあなたのそばにいてもらえばいいって考えたのよ。そうすれば、母になれない寂しさを少しでも埋められるから。なにより、あの子は藤崎家の血を引いているの。おばあさまとして、外で苦労させるなんて絶対に許せない。明日香、あなたは優しい子だから、藤崎家の跡継ぎが途絶えるのを黙って見過ごせるでしょ?きっとおばあさまの気持ちをわかってくれるはずよね」その時、南緒がこっそりと隅に身を潜め、彼らの会話を漏れ聞いていた。さらに田中が横から口を添える。「明日香さん、このお子様の存在は、実際のところあなたと若様の関係に影響はございません。藤崎家の奥様という立場は、どんな女性でも憧れるものですし、容易に得られるものではありません。もしお怒りなら、なおさら他の女性に付け入る隙をお与えになるべきではない。どう選ぶのが最善か、明日香さんならおわかりでしょう。きっとご理解いただけるはずです」明日香は立ち上がると、蓉子に深々と頭を下げ、強い声音で言った。「申し訳ありません、おばあさま。やはり婚約解消を望んでおります。私の決断でご不快な思いをさせてしまったこと、心からお詫び申し上げます」そう言いながら、彼女はカバンから樹の直筆による婚約書と、以前彼から渡されたサブカードを一枚取り出し、そっとテーブルに置いた。「藤崎家から頂いた品々は、父の病気が快復し次第、順を追ってお返しします」そして、樹を真っすぐ見据えながら言った。「樹……私たちの関係は、これで終わりにしましょう」その瞬間、樹の周囲の空気が一気に冷え込んだ。彼は何かを失う恐怖に駆られるように、明日香の手を強く握りしめる。「婚約解消は認めないって言っただろう!もし気がかりなことがあるなら、もう一度ちゃんと話し合おう。婚約さえ解消しなければ、君の望みはどんなことでも叶える!あの子が嫌なら、今後藤崎家に顔を出させない。だから……どうか君だけは残ってくれ」傍らにいた蓉
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